All Chapters of 限界OL、女風のナンバーワン〝レイ〟を指名したら上司の特等席でした: Chapter 101 - Chapter 110

111 Chapters

101.逃げ場をすべて塞がれて

 給湯室で「自分がいるだけで迷惑をかけているのが辛い」と涙をこぼすりとを残し、鷲尾は重い足取りで執務室へと戻った。 なんとかして彼女の濡れ衣を晴らさなければならない。上層部に掛け合い、この理不尽な決定を覆す手段を探ろうと焦る鷲尾を待ち構えていたように、葛城部長が声をかけてきた。「鷲尾くん。……少し、いいかな」 再び、ブラインドが下ろされた第一会議室。先ほどりとが座っていた席に、今度は鷲尾が座らされた。「結論から言う。……鷲尾くん、君は甘崎さんの件から完全に手を引きなさい」「……どういうことでしょうか。彼女は私の直属の部下です。あのような不確かな理由で業務から外されるなど、到底納得ができません」 食い下がる鷲尾に、葛城部長は厳しい視線を向けた。「君が彼女を庇いすぎているという声が、すでに社内から上がっているんだよ。……そもそも、二人は私的な関係にあるのではないか、とな」「っ……」「いいか。彼女は今、副業禁止規定の違反と、競合への情報漏洩の疑いで調査対象になっている。これ以上、君が私情で彼女に接触すれば、君自身にも疑いが向く。君のプライベートまで会社が徹底的に調査することになれば……困るのは、君自身じゃないのか?」 痛いところを突かれ、鷲尾は息を呑んだ。 自分が女風セラピストとして裏で副業をしていることが明るみに出れば、共倒れになる。りとを守るための力が、今の鷲尾には完全に封じられてしまっていた。「……わかり、ました」 膝の上で、手のひらに爪が食い込むほど強く拳を握りしめ、鷲尾は屈辱に耐えるように深く頭を下げた。 何もできない。ただ彼女が理不尽な悪意に晒されるのを、黙って見ていることしか許されない。己のあまりの不甲斐なさに、鷲尾は血が滲むほど強く唇を噛み締めることしかできなかった。 一方、りとは自分のデスクで、ただ意味もなく真っ暗なパソコンの画面を見つめ続けていた。 周囲からは、心ないヒソヒソ話が絶え間なく聞こえてくる。「夜の店で働いてたって本当?」「ヤオノードの社長とも知り合いだったらしいよ」「情報とか、流してたんじゃないの……?」 針のむしろのような空間。隣の席の依千は心配そうにこちらを何度も見つめていたが、彼自身が〝適切な距離感を保つ〟と決めた手前、安易に声をかけることができずに苦しそうな顔をしている。 りとの心は少しず
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102.最後の居場所を手放して

 その日の午後、りとは逃げるように会社を後にした。 事の次第がはっきりするまで自宅待機。それは早退という名目の、事実上の追放だった。 夏の刺すような日差しが痛くて、りとは俯いたまま、ふらふらとした足取りでアパートへと帰り着いた。 カーテンを閉め切った、薄暗い部屋。 ベッドの端に座り込み、りとは震える指でスマートフォンを操作した。 宛先は、ガールズバー〝ルージュ・ラパン〟の剛堂店長だ。『剛堂店長、ごめんなさい。私、お店に迷惑をかけてしまうかもしれないので、今日で辞めさせてください。今まで本当にありがとうございました』 送信ボタンを押し、剛堂店長からの返信を待たずに、スマートフォンの電源を長押しして完全に落とした。 会社にも、彼にも、実家にも迷惑をかけた。この上、自分の大好きな居場所であるあの店にまで、面倒な騒動を持ち込むわけにはいかない。 社会的な繋がりを自ら断ち切り、りとは真っ暗な部屋の中で膝を抱えて、声を殺して泣き続けた。 数時間が経った頃。 ピンポーン、ピンポーン、と、静まり返った部屋に突如としてインターホンの呼出音が鳴り響いた。 りとはビクッと肩を震わせ、膝を抱えたまま壁際に身を潜めた。しかし、音は一向に鳴り止まない。それどころか、何度も連続して激しく呼び出しを繰り返している。 重い頭を上げて壁のモニターを覗き込むと、そこには一階のエントランスに設置されたインターホンの前に、息を切らせて必死な表情を浮かべた綾が立っていた。 スマートフォンの電源を切ってしまったため、剛堂店長から連絡を受けた綾が、直接このアパートまで生存確認にやってきたのだろう。 居留守を使おうと息を殺したが、モニター越しの綾は諦める様子もなく、画面に向かって大声を張り上げた。「りと! いるんでしょ!? 店長からメール見せてもらったよ! お願いだから一回開けて、アタシの顔を見て!」 綾の必死の訴えに、りとの胸がズキリと痛んだ。大好きな先輩に、これ以上心配をかけるわけにはいかない。 りとは震える指先で解錠ボタンを押し、エントランスの自動ドアを開いた。 それから一分も経たないうちに、今度は302号室の玄関ドアを、ドンドンと激しく叩く音が聞こえてくる。「りと! アタシだよ、開けて!」 りとはフラフラとした足取りで玄関へ向かい、ゆっくりと鍵を開けてドアを引いた
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103.りとを守るための共闘

「鷲尾課長。……少し、お時間よろしいですか」 不意に静寂を破って背後から声をかけられ、鷲尾はハッとして振り返った。 そこに立っていたのは、りとの隣の席に座る幼馴染、依千だった。 普段は温厚で、誰に対しても一歩引いた穏やかな態度を崩さないはずの彼の瞳には、今は明確な敵意と、ふつふつと燃え上がるような静かな怒りが宿っていた。「……構わないが。ここで話すような内容ではないな」 鷲尾が静かに立ち上がり、二人は社内の人気のない非常階段の踊り場へと移動した。 重い鉄の扉が閉まり、完全に二人きりの空間になると同時、依千は鋭い声で口を開いた。「甘崎さん、今日……泣きそうな顔をして早退しました」 コンクリートの壁に反響したその声は、押し殺したような低さでありながら、刃のような鋭さを帯びていた。普段の業務で見せる、人当たりの良い営業スマイルなど微塵もない。そこにあるのは、大切なものを理不尽に傷つけられた一人の男の、剥き出しの感情だった。「あの後、僕が何度メッセージを送っても既読すらつきません。電話にも出ない。……今日のフロアの空気、まさか気づいていないとは言わせませんよ。彼女が、あることないこと噂されて、どれほど孤立していたか。昼休みも給湯室の隅で、一人で震えていたことを」 依千の言葉に、鷲尾は黒縁メガネの奥の目を細め、おそろしく深い皺を眉間に刻んだ。 鷲尾とて、自身のチーム内で起きている異変に気づいていないわけがない。今朝から突如として湧いて出た、競合他社への未公開データ漏洩の疑い。その首謀者として、甘崎の名前がまことしやかに囁かれていること。彼女のアカウントから不審なアクセスログが見つかったという噂は、またたく間にフロア中に広まり、彼女を透明な檻の中に閉じ込めてしまった。「課長は、彼女を見捨てるつもりですか」 一切の濁りがない、真っ直ぐな糾弾。 上司に対する言葉としてはあまりにも無礼で、完全に一線を越えた発言だった。しかし、今の依千にとって、社内のヒエラルキーや人事評価など、紙屑ほどの価値もなかった。目の前に立つ男が、自分の愛する女性を無情にも切り捨てようとしている冷徹な組織の歯車にしか見えなかったのだ。「……そんなつもりは、毛頭ない」 鷲尾は、感情を一切交えない、地を這うような低い声で即座に否定した。「俺が彼女を見捨てるなど、あり得るはずがない
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104.三人の反撃

 非常階段で依千と静かな誓いを交わした後、鷲尾は誰もいない執務室には戻らず、そのまま人気のないビル裏の路地へと出た。 ネクタイを緩め、スマートフォンを取り出す。そして、数回のコールの後、出張セラピスト〝メロウルーム〟の運営スタッフへと電話を繋いだ。「――レイです。急で本当に申し訳ないが、今日から当面の間、出勤を見合わせたい」 電話口のスタッフが、驚愕の声を上げる。無理もない。レイは今や店で一番予約が取れない人気セラピストであり、今夜も当然のように指名の予約がびっしりと埋まっていた。『急にどうしたんですか!? 体調不良ですか?』「……本業の都合で、これ以上続けるのが難しくなった。すでにご予約いただいているお客様には、店舗の方から順次キャンセルのご連絡をお願いしたい。もちろん、キャンセル料は一切いただかない。ポイントや前払い分はすべて全額返金か、他のセラピストへの振替で丁寧に対応してくれ」 疑似恋愛を提供し、高額な対価を得る仕事だ。雑に予約を飛ばせば、店にも客にも甚大な迷惑がかかることは重々承知している。しかし、今は一分一秒でも早く、自分自身が完全にクリーンな状態にならなければならない。 店側は必死に引き止めてきたが、鷲尾の決意が揺らぐことはなかった。 最終的に〝体調不良および本業の事情による当面の活動休止〟ということで、サイトの新規予約受付を即座に停止させる手はずを整えた。 通話を終え、鷲尾は深く息を吐き出して夜空を見上げた。 このまま事態が大きくなれば、会社の監査は厳しさを増し、いずれ自分が彼女を庇ってウィルクエスという会社そのものを辞めることになるかもしれない。 だが、そんなことはもうどうでもよかった。 キャリアも、地位も、すべてを投げ打ってでも構わない。彼女がいない世界になど、自分にとっては何の価値もないのだから。 その頃、株式会社ヤオノードの社長室。 ティフィンは、最高級の革張りソファに寝転がるようにして寛いでいた。 彼女はここ数日、パパ活で手に入れた大金を惜しげもなく使い、連日のようにレイを長時間予約していた。今夜も彼がホテルにやってくるのを、極上のワインを傾けながら楽しみに待っていたのだ。 しかし、スマートフォンの画面にメロウルームからの通知が光った。『担当セラピストのレイですが、体調不良により本日のご予約をご案内できな
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105.大切な人です

 翌朝。 メゾン・ド・ルミエールの302号室には、白々と夏の朝日が差し込んでいた。 りとは腫れ上がった重い瞼をこじ開け、のそりとベッドから身を起こした。隣には、昨夜からずっと泊まり込んでくれている綾が、疲れた顔で眠っている。「……会社……行かなきゃ」 フラフラと立ち上がり、クローゼットへ向かおうとしたりと腕を、起きてきた綾がガシッと掴んだ。「ダメ。自宅待機って言われたんでしょ」「でも……私……」 焦点の合わない瞳で虚ろに呟くりとを、綾は無理に励ますことはせず、ただ優しくベッドに座り直させた。「今日はアタシがいる。一人で悪い方向に考えるのは禁止。……スマホも、会社の連絡も、見る時は一緒に見よ」 綾に促され、りとは昨夜から電源を切っていたスマートフォンのことを思い出した。 電源を入れる前に、ふと、綾がサイドテーブルに置いていたタブレットの画面が目に入った。それは偶然開いたままになっていた、メロウルームのサイトだった。 一番上にあるレイのプロフィールページには、昨日まではなかった〝当面の活動休止〟という文字が赤く表示されている。「……レイ、さん……?」 血の気が引いた。自分のせいで、鷲尾がセラピストとしての仕事まで失ってしまったのだ。「どうしよう、私のせいで……っ」「違うでしょ」 青ざめて震えるりとに対し、綾は少しだけ強めの口調で言い放った。「りとのせいじゃない。りとを守るために、そいつが自分で選んだ道なんだよ。……少しは彼氏の覚悟を信じてやりなよ」 綾の力強い言葉に、りとはギュッと胸の奥を掴まれたように、ぽろぽろと涙をこぼした。 同じ頃、株式会社ウィルクエスの第一会議室。 朝一番、鷲尾は自ら葛城部長と監査委員会のメンバーに面談を申し入れていた。「……昨日、君には甘崎さんの件から完全に手を引けと言ったはずだが」 葛城部長が眉根を寄せて渋い顔をする。しかし、鷲尾は決して視線を逸らさなかった。「手は引けません。私が彼女を庇う理由は、直属の部下だからではありません。……甘崎りとは、私にとって大切な人です」 会議室の空気が、一瞬にして凍りついた。 鷲尾は監査委員会の前で、自分とりとが私的な関係にあることを堂々と認めたのだ。「私情があるからこそ、この場に来ました。保身のために上司面をして彼女を見捨てる方が、よほど不誠実だと判断し
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106.君の足で立つために

 夏の夕暮れが夜の闇へと溶け込んでいく頃。 メゾン・ド・ルミエールの302号室、インターホンが静かに鳴った。 りとはビクッと肩を震わせたが、隣にいた綾が「アタシが出る」と立ち上がった。モニターを覗き込んだ綾は、少しだけ目を丸くして、それからふっと小さく笑った。「……ほら、お迎えだよ」 綾に促され、りとはおぼつかない足取りで玄関へと向かった。 ゆっくりとドアを開けると、そこにはネクタイを緩め、少しだけ息を切らしたスーツ姿の鷲尾が立っていた。「冴臣さん……」「……社内での接触は禁止されているが、すでに退社したのだから、ここは社外だろう」 少しだけ言い訳めいたことを真面目に口にする鷲尾を見て、後ろに立っていた綾が、どこか安堵したような声で笑った。「……やっとお迎えが来たんだ。彼氏さんが来てくれたなら、もう安心だね!」 綾は手早く自分の荷物をまとめると、りとの頭をポンと撫でた。「じゃ、アタシはお邪魔虫だから帰るわ。りと、ちゃんと話すんだよ」「綾さん……本当に、ありがとうございました。ずっと、一緒にいてくれて……」「いいのいいの。アタシたちは友達でしょ」 綾はひらひらと手を振り、鷲尾とすれ違いざまに、彼にだけ聞こえるほどの小さな声で「……絶対、泣かせんなよ」と鋭く告げた。 鷲尾は深く頷き、綾の背中を見送った。 エレベーターホールへと向かう綾の胸の奥には、ちくりとした失恋の痛みが残っていた。けれど、ドアの向こうでやっと息を吹き返した親友の顔を見れば、これでよかったのだと心から思えた。 ガチャリ、と。玄関のドアが閉まり、部屋に二人きりになる。 静寂が落ちた瞬間、鷲尾は大きな歩幅でりとに近づき、その細い身体を腕の中に強く、きつく閉じ込めた。「……っ、冴臣さん……」「……よく、一人で耐えてくれた。すまなかった。もっと早く、君のところへ来るべきだった」 耳元で聞こえる、低くて震える声。彼特有の、清潔なウッディの香りに包まれた途端、りとの目からせき止められていた涙が一気に溢れ出した。 シャツの胸元をギュッと掴み、りとは彼の胸に顔を埋めて声を上げて泣いた。鷲尾は何も言わず、大きな手で彼女の背中を、何度も何度も愛おしむように撫で続けた。 やがて、少しだけ落ち着きを取り戻したりとは、鷲尾に促されてソファに並んで座った。「……情報漏洩の
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107.さよなら、ウィルクエス

 数日後。 ウィルクエスの第一会議室には、重苦しい空気が漂っていた。 長机を挟んで、葛城部長、監査委員会の面々、そして鷲尾と依千が並んで座っている。りとは案内された席に腰を下ろし、膝の上でギュッと手を握りしめていた。 ヤオノード側への正式な調査照会、そして依千が提出したアクセスログの解析結果が出揃ったのだ。結論から言えば、りとの情報漏洩疑惑は完全に払拭された。 りとのアカウントは外部から不正利用された可能性が極めて高く、アクセス元はヤオノード側の検証環境だったこと。不審なアクセス時刻と、りとの社内での入退室ログが一致しないこと。さらにはヤオノードのサブサーバーに、漏洩を偽装するためのダミーファイルが事前に用意されていたこと。 最終的には八尾蓮真自身も証言に立ち、「甘崎さんは一切関係ない」と明確に認めたことで、事態は収束を迎えた。「甘崎さん」 葛城部長が、いつもの温厚な顔つきに戻り、深く頭を下げた。「情報漏洩疑惑について、君に重大な非は認められなかった。……会社として、君を守り切れなかったことを、心から謝罪するよ。本当に申し訳なかった」「……っ」 その言葉を聞いた瞬間、りとの目からボロボロと安堵の涙がこぼれ落ちた。自分が会社を裏切った犯罪者ではないと、ようやく公式に認められたのだ。 しかし、泣きながらも、完全に晴れやかな笑顔にはなれなかった。疑いが晴れたからといって、あの日のフロアで浴びた冷たい視線や、事実無根の噂話の恐怖が、綺麗になかったことにはならないからだ。「だがね……」 葛城部長は少しだけ表情を引き締め、言葉を続けた。「ガールズバーで副業をしていた事実は、就業規則上、どうしても処分対象になってしまうんだ」 情報漏洩は濡れ衣でも、副業規定違反は紛れもない事実だ。りとは涙を拭い、静かに、けれどしっかりと頷いた。「はい。……それは、私が悪いです。会社のルールを破っていたことは、言い逃れできません」 ここで言い訳をして逃げるような真似はしたくない。自分の非を真っ直ぐに認めるりとの誠実な態度に、葛城はふっと目を細めた。「懲戒解雇にするつもりはないよ。会社としても、君が経済的な事情を抱えていたことや、今回の件で理不尽な被害を受けたことを考慮する。処分はけん責、または一定期間の減給に留める。……希望するなら、別部署への配置転換で再スター
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108.幸せな未来を切り裂く刃

 ネオンの光が夜の街を彩り始める頃、ガールズバー〝ルージュ・ラパン〟の店内には、開店前の静かな時間が流れていた。 カウンター席に腰を下ろした綾は、手元のスマートフォンを見つめ、ふぅと深く安堵の息を吐き出した。画面には、りとから届いた退職の報告と、少しだけ前を向けたような明るい文面が並んでいる。「……ラム、少しずつ立ち直ってきてるみたい」「そう。結局お店を辞めることになっちゃったのは残念だけど……あの様子なら、もう一人でも大丈夫そうね」 グラスを磨きながら、剛堂店長もホッと胸を撫で下ろした。しかし、二人の表情はすぐさま険しいものへと変わる。 この数日間、綾と店長は夜の街のネットワークを駆使し、りとの実家に入った悪質な匿名通報の出所を探っていた。そしてついに、一本の線が繋がったのだ。 通報に使われたのは、金で雇われた悪質な代行業者だった。そして、その業者に依頼を出したパトロンの背後にいるのは、間違いなくティフィンだ。「ラムをここまで追い詰めたこと、絶対に許さないんだから……っ」 綾は怒りに任せて、ティフィンの連絡先へと発信ボタンを押した。りとのご両親への誤解を解かせるためにも、本人を問い詰める必要がある。 だが、無機質な機械音が返ってくるだけで、一向に通じる気配がない。着信拒否されているか、すでに番号を変えられた後らしかった。「……出ない。完全に切られてる」「姿も見せないし、連絡もつかないなんて……妙ね。嫌な予感がするわ」 店長が眉をひそめて呟く。二人は顔を見合わせ、得体の知れない不穏な空気を感じ取っていた。 同じ頃。株式会社ヤオノードの社長室で、八尾蓮真は頭を抱えていた。 ウィルクエスとの共同プロジェクトは、情報漏洩騒動の余波で完全に凍結。それどころか、パートナー企業を陥れようとしたという最悪の事実が業界内に漏れ出し、ヤオノードへの信用は地に墜ちていた。 役員会からの激しい突き上げと、取引先からの契約打ち切りの電話が鳴り止まない。会社を救うために悪魔の手を借りた結果、蓮真はすべてを失おうとしていた。「……ティフィンちゃん……」 虚ろな目で呟くが、彼女はもう三日も蓮真のもとへは姿を見せていない。 あの日、「全部壊せばいいじゃない」と夜叉のように笑った彼女の異常な瞳を思い出すと、今でも背筋が凍る。彼女の執着の矛先は、もはや蓮真の理解を
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109.血に染まる門出

 肩にのしかかる、想像以上に重い身体。 生ぬるい液体の感触が、服越しにりとの肌へとじわじわと伝わってくる。「……冴臣、さん……?」 震える声で呼びかけながら、りとはずるずると崩れ落ちそうになる彼の身体を、必死に両腕で抱きとめた。 夕陽に照らされた彼の白いシャツが、みるみるうちに赤黒く染まっていく。鉄の錆びたような血の匂いが、夏のぬるい空気に生々しく混じり合った。 カラン、と。 血に濡れたサバイバルナイフが、乾いたアスファルトの上に転がり落ちる。「わ、私……」 自分の真っ赤に染まった手と、血を流して倒れ込む鷲尾の姿を交互に見つめ、ティフィンは大きく目を見開いた。彼女の瞳から先程までの夜叉のような狂気は完全に消え失せ、代わりに強烈なパニックと恐怖が顔に張り付いている。「そんな……つもりじゃ……っ」 ガタガタと震えながら、ティフィンはフラフラと後ずさった。 鷲尾は、刺された右の腹部を片手で強く庇いながら、荒い息を吐き出してティフィンを睨みつけた。「……月白……依織……」 ひどく掠れた、かすかな声。彼が紡いだのは、ティフィンの本名だった。 その名に過剰に反応し、ティフィンは両手で耳を塞ぐようにして首を激しく振った。「そもそも……冴臣くんが……私を選んで、くれないから……っ!」 それは、身勝手で子供じみた、ひどく哀れな言い訳だった。 鷲尾は腹部の激痛に顔を歪めながらも、冷静さを保とうと必死に言葉を絞り出す。「……最近、客でしかないはずなのに、突然俺の本名を呼ぶようになって、驚いていたが……。まさか、甘崎と繋がりがあったとはな……」「……っ」「君が俺に執着していることには、気づいていた……。だが、まさか……俺たちの後をつけられているとは……」 その言葉を最後に、プツリと、鷲尾を支えていた糸が切れた。 彼は血に染まった手をつき、そのまま力なくアスファルトに膝を折った。「冴臣さん……っ! もう、喋らないで……!」 りとは半狂乱になりながら、彼の上着を脱がせ、出血を抑えようと傷口に布を強く押し当てた。温かくて粘り気のある血が、りとの指の隙間からとめどなく溢れてくる。 いくら押さえても、血が止まらない。彼の体温が、指先から少しずつ奪われていくのがわかる。「だ、誰か……っ! 誰か、救急車を……っ!!」 りとの悲痛な叫び声が、夕暮れの
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110.私、今、すごく幸せだよ

 ――あの日から、数年の年月が過ぎ去った。 しとしとと、静かな雨音が古民家の瓦屋根を叩いている。 りとが店主を務める古民家カフェ〝ひだまり〟の厨房で、大きな小麦粉の袋を持ち上げようとした彼を見て、りとは慌てて声を上げた。「あ、だめだよ冴臣! 雨の日はただでさえ傷跡が疼くのに、そんな重いもの持ったら……っ」「大丈夫だ。もうだいぶ良くなってきている」 苦笑いしながら振り返った鷲尾冴臣の表情は、東京で張り詰めていた頃よりもずっと柔らかく、穏やかだった。 あの日、路地裏で大量の血を流して倒れた冴臣は、三ツ谷の医師としての完璧な応急処置と、その後の緊急手術によって、奇跡的に一命を取り留めた。 彼を刺した月白依織――ティフィンは、そのまま警察に逮捕された。パパ活で得た資金や、他人の人生を狂わせた悪質なストーカー行為もすべて明るみに出た彼女は、今も重い懲役刑に服しているはずだ。 一方、八尾蓮真は、一連の騒動の責任を問われヤオノードの社長を辞任。会社から事実上追放され、業界内での信用も完全に失った。刑事事件でも事情聴取を受け、依織の罪を裏付ける証言台に立ったと聞いている。 後日、りと宛てに八尾から分厚い謝罪の手紙が届いたが、りとは一度だけそれに目を通し、返事を書くことはなかった。 そして、りとの実家に入った悪質な匿名通報の件も、無事に誤解を解くことができた。 真相を暴いてくれたのは、綾と剛堂店長だった。夜の街のネットワークを駆使して調べ上げた結果、実家に電話を入れたのは依織本人ではなく、金で雇われた代行業者だったことが判明したのだ。 すべてを把握した後、りとは震える手で実家の母親へと電話をかけた。「……お母さん、ちゃんと話したいことがあるの」 りとは、隠し立てせず、事実と嘘をしっかりと分けて説明した。「夜のお店で働いていたのは本当。会社の規則を破ったのも本当だよ。それは、私が悪かった」『……っ、そんな……じゃあ、あなたずっと東京で夜の仕事を……?』「ごめんなさい。でも、男関係で会社に迷惑をかけたとか、情報漏洩の犯罪に関わったとかいうのは、全部嘘なの。私を追い詰めるために、誰かが業者を使って家に電話したの……」 電話の向こうで、母親が言葉を失っているのがわかった。「お母さんたちに、軽蔑されると思って……言うのが、すごく怖かった」 りとの絞り出
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