All Chapters of 限界OL、女風のナンバーワン〝レイ〟を指名したら上司の特等席でした: Chapter 81 - Chapter 90

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81.苛立ちの意味

 七月第二週の月曜日。  この日、株式会社ウィルクエスの社内は、朝からどこか浮き足立った空気に包まれていた。夏のボーナスが支給されたからだ。 いつもなら、ボーナスの明細を見た瞬間に、りとはスマホを開いて〝メロウルーム〟の予約サイトにアクセスし、即座にレイの指名を入れているところだった。  けれど今日ばかりは、サイトを開くことすらできなかった。 最近あった色々な出来事が、りとの心を重く引き止めている。  依千との一線を超えてしまった罪悪感と混乱。そして何より、鷲尾との曖昧すぎる関係だ。 今日の鷲尾は、朝のミーティングからいつも通り冷徹な鬼上司として振る舞い、部下たちに容赦ない指示を飛ばしていた。  その隙のない横顔を盗み見ながら、りとは唇を噛む。(だって、恋人でもないのに、廊下の死角でキスしてきたり、オフィスでえっちだってしてくれたんだもん) 特定の相手は作らないという彼の方針はわかっている。  けれど、もしこのまま自分がレイの予約を入れず、一人の〝客〟としての繋がりを絶ってしまったら、課長はどう出るのだろうか。(これで私に何もしてこなくなったら……やっぱりあのキスもえっちも、私を繋ぎ止めるための〝営業〟だったということだよね) 試すような真似はしたくないけれど、今の曖昧な関係に白黒つけたいという思いが勝っていた。  そんな考え事にどっぷりと浸かりながら資料室へ向かう廊下を歩いていたせいか、りとは自分の足首に逆のつま先を引っ掛けてしまった。「あっ……!」 見事にバランスを崩し、前のめりに倒れそうになる。  しかし、床に顔を打ちつける直前、力強い腕がぐいとりとの身体を引き上げた。「そろそろだと思ったぞ」 頭上から降ってきた低い声に、りとはビクッと肩を跳ねさせた。  見上げると、呆れたようにため息をつく鷲尾の顔があった。「か、課長……」 「君は歩きながら別の世界に飛ぶ癖があるな。視界が三歩先までしか見えていない。平坦な廊下でつまずくなど、営業として周りの状況が見えていない証拠だ。怪我でもして業務に支障が出たらどうするつもりだ」 息もつかせぬいつもの冷たい小言に、りとは「すみません……」と小さく縮こまる。  しかし、引き寄せてくれた彼の手が腕に触れているだけで、またしても心臓がトクンと大きく跳ねてしまった。  こんなに冷たく
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82.絡み合う秘密の糸

 その日の夜。 華やかだった七夕イベントの熱狂も過ぎ去り、少しだけ落ち着きを取り戻したガールズバー〝ルージュ・ラパン〟へ、りとは出勤していた。 この日もティフィンはお休みで、ホールに出ているのはりととロゼ、そして数名のキャストだけだ。 開店して一番乗りで来店したのは、常連の八尾蓮真だった。「レンレン、いらっしゃい!」「こんばんは。ラムちゃん、今日も可愛ええな。ほれ、一杯飲み」「わぁ、ありがとうございます!」 蓮真は席につくなり、迷うことなくりとにキャストドリンクを入れた。 グラスを合わせて笑顔でお礼を言った直後、蓮真が意味ありげにちょいちょいと指を曲げ、耳打ちを促してきた。 りとは不思議そうに小首を傾げ、カウンター越しにそっと耳を近づける。「あのな……おたくの鷲尾くん。ティフィンちゃんとデートしとったで」 その言葉に、りとはカッッと目を見開いた。「…………ティフィン……さんと?」「せやねん。七夕の夜にな、俺が会食で使った隠れ家みたいな高級和食の店で。二人きりでえらいええ雰囲気やったわ。いやー、ホンマ世間は狭いなぁ」 あっけらかんと笑う蓮真の前で、りとは震えそうになる手を、カウンターの陰でもう片方の手でギュッと強く握り込んだ。(課長が、ティフィンさんと!?) 頭の奥が真っ白になりそうだったが、りとは必死に口角を引き上げ、なんとか営業用の笑顔を作った。「まさか、そんなことがあるんですね! びっくりです!」 蓮真が他の客との会話に移り、少しだけ一人になった隙に、りとは壁際でぐっと息を潜めて考えを巡らせる。 ティフィンと一緒にいたのは、あの出張セラピストの〝レイ〟としてなのか。それとも、〝鷲尾冴臣〟としてなのか。 以前、偶然プライベートで彼女と会って「彼氏はいるんですか?」と聞いた時、ティフィンはふんわりとはぐらかしていた。(でも、あの女子力が高くて隙のないティフィンさんが、わざわざ女風なんて使う……?) どうしても想像ができなかった。 普段からどこかミステリアスな空気を纏っている彼女の底が、全く測りかねる。 退店の時間。 バックルームで私服に着替えながら、りとは隣のロゼに声をかけた。「ロゼさん、このあと……少しだけ時間ありますか?」「えっ? なになに、アタシとデート?」 ロゼはパァッと顔を輝かせ、嬉しそうに飛びつい
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83.甘い妄想と苦いコーヒー

 ロゼとの飲みを終え、りとは深夜のアパート――メゾン・ド・ルミエールの自室へと帰り着いた。「ちょっと、飲みすぎちゃった〜……。明日、仕事大丈夫かなぁ」 ストロベリーカクテルの甘いアルコールが、今になってじんわりと脳を揺らしている。  りとは着替えもせず、スーツのままベッドへとドサリと寝転がった。「あー、メイク落とさなきゃ……」 口ではそう呟くものの、体は鉛のように重くて動かない。  ぼんやりと天井の模様を眺めているうちに、りとの思考は、どうしても七夕の夜の出来事へと引きずり込まれていった。(ティフィンさん……七夕デートの後……きっとそのまま、レイさんとホテルに行ったんだよね) 夜職を掛け持ちし、身を削ってまで彼に会うためのお金を作っているというティフィン。  あんなにも綺麗で隙のない彼女が、レイの腕の中でどんな顔をするのか。考えないようにすればするほど、生々しい二人の様子が勝手に脳内で再生されてしまう。 ――ホテルの薄暗い間接照明の下。  レイはきっと、あの黒縁メガネを外し、持ち前のとろけるような甘い声で「月白様」と囁くのだろう。 少しだけ体温の上がったティフィンの透き通るような白い肌を、レイの長く美しい指先が、大事な宝物を扱うように滑っていく。  綺麗に整えられた彼女の首筋や鎖骨に、レイの薄い唇が何度もそっと落とされる。ちゅっ、ちゅ、と響く、甘くねっとりとした微かな水音。 ふわりと香るティフィンの上品な香水に包まれながら、レイの大きく男らしい手が彼女の華奢な腰を抱き寄せ、ティフィンからは、聞いたこともないような甘く切ない吐息がこぼれる――。「うわぁーっ!」 りとはたまらず叫び声を上げ、ベッドの上でバタバタと手足をジタバタさせた。「やっぱり、知ってる人同士だとリアルに想像できちゃうからいやだ〜!」 頭にこびりついた艶かしい映像を物理的に振り払うように、りとは勢いよく起き上がり、そのままお風呂場へと直行して熱めのシャワーを浴びた。  綺麗にメイクを落とし、寝支度を整えて、さっさと寝てしまおうと布団を被る。  しかし、目を閉じても、何度も何度もレイとティフィンの甘い夜の情景がフラッシュバックしてしまい、りとは朝方まで何度も寝返りを打つ羽目になった。 翌朝。  株式会社ウィルクエスの営業部フロアに、りとはまるでゾンビのような酷
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84.やりにくいな

 ガールズバーのシフトが入っていない、休日の夜。  日中の業務の疲労がどっと押し寄せてきたりとは、帰宅するなり逃げ込むようにシャワーを浴び、早々にベッドへと潜り込んでいた。 部屋の明かりは小さな間接照明だけを残し、ぼんやりと天井を見つめる。  腕の中には、ベッドの半分を占領する大きなクマのぬいぐるみが抱き込まれていた。(……やっぱり、私、鷲尾課長のこと諦めきれないや) クマのふわふわとした頭に顔を埋めながら、りとは小さく息を吐いた。  昼間、冷たい缶コーヒーと一緒に不器用な優しさを向けられた時、はっきりと自覚してしまった。  お金を払って会うセラピストとしての彼ではなく、〝鷲尾冴臣〟自身に恋をしているのだと。(鷲尾課長と恋人になりたいって気持ち……もう、なかったことになんかできない) 胸の奥で燻っていた小さな火種は、もはや誤魔化しがきかないほどに大きく燃え上がっている。  問題は、課長が頑なに守っている〝特定の相手は作らない〟というルールだ。(どうしたら……課長のその気持ちを、曲げられるのかな?) ぬいぐるみの耳を無意識に指で弄りながら、りとはこれまでの彼の言動を一つ一つ頭の中で反芻した。  箱根での甘い夜。雨上がりの「好きだよ」という声。会社の廊下の死角での、不意打ちのキス。そして、依千と親しくしている時に見せる、あの隠しきれない不機嫌な視線。 正直、ここ最近の鷲尾の言動は、りとに対して明確な好意を持ってくれているとしか思えないものばかりだった。(最初は、レイさんとしての〝営業〟なのかなとも疑ったけど……) 少し冷静に考えれば、その線は薄い気がする。  ティフィンがパパ活をしてまで貢ぐような、凄腕の超人気セラピストであるレイ。彼なら、私のようなしがないOLにわざわざ営業をかけなくても、十分に稼げているはずだ。 それに、食堂でいっちゃんと仲良さげにしていると、わざわざ仕事を理由に引き離しにくるくせに、時折「他の男を見ろ」と言わんばかりに突き放して、背中を押すような素振りも見せる。(あれって……自分の本当の気持ちを、必死に押さえつけようとしてるからなんじゃないのかな?) 好きだからこそ近づきたい。けれど、特定の相手を作らないという自分の信条があるから、あえて突き放す。  そんな彼の葛藤の表れなのだとしたら。(……なんて。ち
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85.鷲尾冴臣が好きです

 七月の半ば。  梅雨が明け、街の空気が本格的な夏の熱を帯び始めた頃。(やっぱり、一度〝鷲尾冴臣〟とちゃんと話をしたい) 自分の気持ちに気づいたりとは、行動を起こす決意を固めていた。  スマホで出張セラピスト〝メロウルーム〟のサイトを開き、レイの出勤予定を確認する。彼が休みを入れている日と、自分のガールズバーのシフトが入っていない日を照らし合わせ、今日という日をピンポイントで狙っていた。 夕方。外回りから戻ってきた鷲尾が会社の駐車場に車を停めたタイミングを見計らい、りとは車の陰でこっそりと待ち伏せをしていた。  鷲尾が車から降り、キーをロックして歩き出そうとした瞬間。  りとは背後から忍び寄り、彼の手の届かない位置からひょいっと背伸びをして、両手でその目を塞いだ。「だーれだっ?」 ビクッと、鷲尾の大きな背中が硬直するのがわかった。  しかし、すぐに深く呆れたようなため息が落ちる。「……甘崎。周囲の目があるところでふざけるな。君の香水の匂いでバレバレだ」 「すぐ正解しないでくださいよぉ」 りとは手を離し、不満げに口を尖らせながら鷲尾の前に回り込んだ。  鷲尾は黒縁メガネの位置を直し、冷ややかな視線を下ろしてくる。「何用だ。業務の報告なら社内で聞く」 「業務じゃありませんよ。あの……課長、今夜お暇ですか?」 上目遣いで尋ねると、鷲尾は警戒するように目を細めた。「オムライスとプリン、作ろうかなって思うんですけど……課長も好きですよね? ね?」 以前、彼がオムライスと甘いものが好きだと知ったことを武器に、グイグイと誘ってみる。  しかし、鷲尾は乗ってくるどころか、ふっと視線を逸らして重い声で言った。「……君は、鳴海と付き合い始めたのではないのか?」 「えっ……? いっちゃんですか? 私たち、付き合ってなんかいませんよ」 驚いて即座に否定すると、鷲尾はぴたりと動きを止めた。  そして、周囲に他の社員がいないことを確認するように一度周りを見回すと、りとにぐっと顔を近づけ、声を潜めた。「……声を、聞いた」 「声?」 「…………」 「声って、なんのです?」 首を傾げるりとに、鷲尾は眉根を極限まで寄せ、ひどく苦々しい表情で吐き捨てるように言った。「していただろう……セックス」 「!!」 りとはカッッと目を見開いた。
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86.甘崎りとの答え

 至近距離で見つめ合う沈黙の中、鷲尾は小さく息を吐き、りとの額からゆっくりと自分の額を離した。 そのまま少しだけ距離を取り、テーブルの上の冷めた麦茶へと視線を落とす。「俺にとって、家族や愛という言葉は……君が想像するような、綺麗で温かいものではないんだ」 ぽつり、ぽつりと静かに語られたのは、彼の幼少期の記憶だった。 外では家族思いの良い父親を演じながら、裏では金にだらしなく、事業に失敗して多額の借金を作って消えた父。 そして、最初は被害者だったはずの、母。 母は借金取りに怯え、泣いてばかりいたが、次第にその弱さを幼い冴臣にぶつけるようになったという。『あなたは男の子なんだから、お母さんを助けてくれるでしょう?』『誰のために苦労してると思ってるの?』『あなたまで、お父さんみたいに私を置いていくの?』「俺の母は弱い人だった。だが、その弱さを免罪符にして、俺を縛り、搾取し続けた。……俺の努力も、稼いだ金も、すべては母を救うための道具でしかなかった」 鷲尾の低い声には、怒りよりも深い諦めと、消えない傷が滲んでいた。「俺の中で、家族は逃げられない関係だ。愛しているという言葉は、相手を縛り、いずれ自分の人生を差し出せと要求するための呪いだ。……愛情は、いつか必ず重い請求に変わる」 だから、彼は恋愛から降りたのだ。 セラピストの〝レイ〟としてなら、どれだけ甘く優しく接することもできる。そこには時間と料金という明確な境界線があり、始まりと終わりが約束されているから。 けれど、恋愛や結婚は違う。相手の寂しさも、怒りも、生活も、将来も、すべてが濁流のように自分へ流れ込んでくる。それが怖くて、何よりも嫌悪していた。 痛いほどの沈黙が落ちる。 りとは泣きそうになるのを必死に堪えながら、テーブルの上で彼の大きな手を両手でそっと包み込んだ。 同情して可哀想なんて言ってはいけない気がした。ただ、ここにいると伝えるように、ぎゅっと指先を握る。 鷲尾は伏せていた目を上げ、りとを真っ直ぐに見つめた。「君のその、感情がすべて顔に出るところや、馬鹿みたいに前向きで単細胞なところに……俺は、ずっと救われていた」 思いがけない言葉に、りとは目を見開いた。「会社でも夜の仕事でも、俺は完璧な役割を求められる。だが、君の部屋でオムライスを食べている時だけは、俺はただの男
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87.冴臣さんの一番そばに

 不器用な優しさを含んだ手で頭を撫でられ、りとの胸に熱いものがこみ上げてきた。  そのままゆっくりと両腕を伸ばし、目の前に座る大きな身体を、そっと抱きしめる。 普段なら「離れろ」と冷たくあしらわれそうなものだが、今の鷲尾はまったく抵抗しなかった。それどころか、少しだけためらった後、ゆっくりとりとの華奢な肩に顔を埋め、その重い体重を預けてきたのだ。 会社で見せる隙のない鬼上司でも、夜の完璧なセラピストでもない。ただの一人の不器用な男としての、無防備な姿だった。  りとは彼の広い背中に腕を回し、少し硬い髪を、子どもをあやすように優しく撫でた。「……お母さんとは、その後、どうなったんですか?」 ぽつりと問いかけると、肩口からくぐもった低い声が返ってきた。「父が残した借金をすべて返し終えた日に、弁護士を入れて完全に縁を切った。もう何年も会っていないし、今どこで何をしているのかも知らない」 鷲尾は自嘲するように短く息を吐く。「家族もいない。自ら遠ざけたのだから当然だが、恋人も作らない。ただただ、余計な感情を抱え込まないように……仕事にだけ打ち込んできた」 彼がどれほど孤独で、張り詰めた糸の上を一人で歩くような日々を送ってきたのか。その見えない重圧が、触れ合う体温越しにひしひしと伝わってくる。  りとは慈しむように、一定のリズムで彼の背中を撫で続けた。「……寂しかったんですね」 その言葉に、鷲尾の肩がビクッと大きく跳ねた。  彼はゆっくりと顔を上げ、信じられないものを見るように、りとを大きく見開いた目で見つめる。彼自身すら気づかないふりをして、心の奥底にずっと鍵をかけていた感情だった。 重荷から解放された安堵の裏に張り付いていた、どうしようもない孤独と寂しさ。りとは、それをあっさりと掬い上げてみせたのだ。「恋人、という肩書きが課長を縛って苦しめるなら、私はいりません」 りとは彼の揺れる瞳を真っ直ぐに見つめ返し、はっきりと言い切った。「でも……〝冴臣〟さんの一番そばに、いさせてもらいたいです」 初めて口にした、彼の下の名前。  鷲尾は一瞬、息を呑むように言葉を失い、やがてふっと、憑き物が落ちたような微かな微笑みを浮かべた。「……俺の夜の仕事は、疑似恋愛を提供することだ。万が一、俺のプライベートのそばに女がいるとバレたら……君は、熱狂的な
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88.営業じゃない、本心だ

 柔らかなマットレスに二人の身体が深く沈み込む。間接照明だけの薄暗い部屋の中、重なり合う二つの影が、真っ白なシーツの上に濃く落ちていた。 先ほどまで彼を縛り付けていた、悲惨な過去の記憶。その冷たい鎖を少しでも溶かして洗い流したくて、りとは鷲尾の首筋に腕を回し、自分からそっと唇を寄せた。 まずは、お互いの輪郭と体温を確かめ合うような、ひどく優しくて丁寧なキスだった。普段の会社で見せる隙のない鬼上司としての顔は、今の彼にはどこにもない。 触れ合うだけの甘いキスを何度も繰り返すうち、やがて少しずつ熱を帯び、鷲尾の薄い唇がわずかに開かれる。そこへりとは自分から舌を滑り込ませ、彼の熱い舌と絡み合うような、深く息が詰まるほどの口づけへと変わっていった。「んっ……ふ、ぁ……っ、冴臣、さん……っ」 キスの合間、甘く痺れる頭で荒い呼吸を繰り返しながら、りとは潤んだ瞳で至近距離にある彼の瞳を見つめた。「……冴臣さんは……私のこと、好きですか?」 息も絶え絶えに紡いだその言葉に、鷲尾はほんの少しだけ動きを止めた。「……惹かれていると、先ほど伝えただろう」 はぐらかすような、どこか不器用な答え。それに対し、りとは「ダメです」と首を横に振る。 そのまま鷲尾の首筋に甘えるように頬を擦り寄せた。彼から漂う、清潔な大人の男の香りと、体温が上がったことによる微かな汗の匂いが、りとの鼻腔をくすぐって胸をひどく高鳴らせる。「惹かれている、じゃなくて……ちゃんと目を見てしっかりと気持ちを伝えてほしいです」 懇願するように言うと、二人の間に若干の空白の時間が落ちた。 鷲尾はそっと、りとの華奢な肩を大きな両手で掴むと、密着していた身体を少しだけ離した。 薄暗い部屋の中、至近距離で二人の視線が真っ直ぐに絡み合う。黒縁メガネの奥の瞳が、どう言葉を紡ぐべきか葛藤するように、僅かに揺れているのがわかった。「…………」「…………」 痛いほどの沈黙。りとは逃げずに、彼が言葉を探してくれるのをじっと待つ。 やがて鷲尾は、照れ隠しのように気まずそうに、ふいと視線を逸らした。「……今更、言いづらいな」「えー! なんでですか! 言ってくださいよぉ!」 りとは不満げにジタバタと身をよじり、真っ白なシーツを蹴飛ばして抗議する。その子供っぽい仕草に、鷲尾は観念したようにふぅ、と一つ長いため息
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89.恋人みたいな一日

 「朝まで寝かせるつもりはない」という前回の鷲尾の言葉は、決して比喩ではなかった。 カーテンの隙間から白々と朝日が差し込んでいる。何度目かの激しい絶頂を迎えて、さすがに疲労が勝ったのか、鷲尾は静かな寝息を立てて眠ってしまっていた。(まつ毛、ながっ……) 普段は黒縁メガネの奥に隠れてわかりにくいが、目を閉じていると、彼のまつ毛が羨ましいほどに長く美しいことがよくわかる。 りとはすっかり目が冴えてしまっていた。(そ、それにしても……声、思わずたくさんだしちゃったな) 前回は依千との最中の声を鷲尾に聞かれてしまったが、今回は逆に、壁の向こうにいる依千に丸聞こえだったはずだ。あの彼が、どんな顔で隣の部屋の音を聞いていたのかと想像すると、心底申し訳なくなる。(ご、ごめん……いっちゃん) 心の中でそっと懺悔し、二度寝はできそうにないからと、りとはそっとベッドを抜け出してシャワーを浴びに向かった。「……っ!?」 脱衣所の鏡を見て、りとはギョッとして目を剥いた。 洋服から見えない部分に数え切れないほどの赤いキスマークが点々と咲き乱れていたのだ。(キスマーク、こんなにつける〜!?) クールな顔をして、意外と独占欲が強い。そんな彼の不器用な情熱が嬉しくて、りとは一人で頬を緩ませた。 シャワーを終え、りとはキッチンで手早く朝食の準備に取り掛かった。 鷲尾のことだから、絶対に栄養バランスの良い和食を喜ぶはずだ。冷蔵庫にあった食材を使い、雑穀ごはん、鮭の塩焼き、厚焼き玉子、ほうれん草の胡麻和え、かぼちゃの煮物、そしてねぎと豆腐の味噌汁を手際よく並べていく。 出汁のいい匂いが部屋に漂い始めた頃、ベッドの上の大きな身体がモゾリと動いた。「……朝食を作ってくれたのか?」 寝起きの低い声。のっそりと起き上がり、ベッドサイドに置かれた黒縁メガネをかける鷲尾の姿が、どうしようもなく愛おしい。 向かい合って座り、「いただきます」と手を合わせて食事を始める。 鷲尾は一口食べて小言を探すような顔をしたが、味も栄養バランスも文句のつけようがなかったらしい。 「……美味いな」と、悔しそうに素直に褒めてくれた。「せっかくの休日なのに、今日は槍でも降るんでしょうか?」「……失礼だな」 窓の外を見上げながら大げさに眉を下げるりとに、鷲尾は呆れたように言いながらも、満足そ
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90.冴臣さんと呼ぶ女

 分厚い遮光カーテンが引かれた、都内のシティホテルの一室。  薄暗い間接照明の下で、不規則な水音がねっとりと響いている。 小太りで少し髪の薄い、銀縁メガネをかけた中年男の腰の動きに合わせ、彼女の艶やかなグレージュの長い髪が、シーツの上でふわり、ふわりと揺れていた。「んっ、んんっ……」 男の熱を帯びたものを口に含み、懸命に奉仕を続ける。  しかし、不意に息継ぎのタイミングが合わず――ガリッ。「痛っ! ちょっとリオちゃ〜ん、なんか今日怒ってる?」 うっかり歯を立ててしまい、男が顔をしかめた。「あっ、ごめんなさい〜。わざとじゃないんですよぉ」 彼女――〝リオ〟という偽名を使っている女は、上目遣いで甘ったるく微笑んだ。そのふわふわとした庇護欲をそそる空気に当てられ、男はぱっとだらしない笑顔を浮かべて表情を和らげる。「うふふ〜。やっぱりリオちゃんは可愛いな〜。おじさん、許しちゃう」 男の脂ぎった手が伸びてきて、豊かに膨らんだ胸をいやらしく揉みしだく。「やんっ♡」 甘い嬌声を上げると、男はさらに機嫌を良くした。「今日は特別に、お小遣い弾んじゃおうかな〜?」 「やったぁ。嬉しいですぅ。そしたら、私も……もっとサービスしちゃいますね」 吐息が混じり合うほどの至近距離で、完璧な愛想笑いを浮かべる。  しかし、彼女の頭の中はひどく冷めきっていた。(早く……早く、終わって……!) 顔には一切出さないが、腹の底には吐き気にも似たうんざりする感情が渦巻いている。(私は……私は、自分の身を削って、ここまでしないと彼に会えないのに……!) 脳裏にフラッシュバックするのは、休日の駅のホームで見かけた、信じられない光景。  大好きな彼が、愛おしそうに、他の女の額にキスを落としていた。『さ、冴臣さん……っ!?』 あの子は、そう呼んでいた。(冴臣さん、って……。あの子は、〝レイ〟くんではない、彼の本当の顔を知っている……!) ギリッと奥歯を強く噛み締める。  ドス黒い嫉妬心が、胸の内側をドロドロに焼き尽くし、今にも押し潰してしまいそうだった。「リオちゃん、そろそろ……いいかな?」 「はいっ……優しく、してくださいね」 やがて、上にのしかかってきた男の重みと、乱暴な挿入の痛みが下半身を貫く。  彼女は嫉妬と惨めさで泣き叫びそうになるのを必死に
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