LOGIN北部都市群編、本格始動です。 そしてノリスは、少しずつ自分の気持ちと向き合い始めます。
北部都市群中央医療院は、静かな場所だった。 磨かれた石畳の廊下に簡素な木製のドアが並ぶ。 窓から差し込む淡い光。 そして、どこか潮の香りを含んだ風。 ノリスは治療室の前に立っていた。 扉の向こうから、慌ただしい声が聞こえる。「もう少し熱が下がらない?」「右肩の感染が進んでいる。 薬草の配合を変えろ!」 現場の声を聞くだけで胸が締まる。 ただ、扉を見ることしかできなかった。(……やっぱり、無理していたんだ) 目を閉じれば、地下牢の姿が浮かぶ。 切断された右肩。 閉じたままの右目。 血に染まった包帯。 それでも笑っていた。 痛いはずなのに。 自分を責めるより先に、ノリスを気遣っていた。(そんなの……間違ってる) 自分なら憎み続ける。 感情のままに壊す。 それが、復讐というものだ。「君か?」 低い声が響き、振り向く。 廊下の空気が、少し変わっていた。 自然と人が道を開いている。 深い外套を纏った大柄な男が、ゆっくり歩いてきた。 四十代半ばほど。 蓄えた髭に鋭い鳶色の目。 けれど軍人の威圧感とは違う。 人を値踏みする商人の目だった。「……誰?」 ノリスが警戒すると、男は小さく肩をすくめる。「北部都市群主席、ペトラだ」 名前を聞いて、ノリスの肩が強張る。 北部都市群。 八都市を連合した貿易拠点。 海運と交易を握る巨大勢力。 その頂点に立つ男。(……何故、ここに?) そう思った瞬間、視線が自然と逸れた。 また政治だ。 また価値を測られる。 アレクシスも、自分も。 そんな予感がした。 ペトラはノリスの反応を見て、小さく息を吐く。「怖がらせるつもりはない」 そう言いながら、治療室へ視線を向けた。「中にいるのは、アレクシス公子だな」「……はい」 港で騒ぎになった時点で、気付かれているのだろう。「なるほど」 ペトラは低く呟く。「ロンデル最後の正統。 やはり、生きていたわけだ」 ノリスの胸が冷える。 今の自分は無力だ。簡単に捕らわれてしまう。 そうなれば、サンドランドと同じだ。 アレクシスは、また駒にされる。 その表情を見たのだろう。 ペトラが静かに言った。「勘違いするな」 ノリスが顔を上げる。「価値があるか
異界の霧が、ゆっくりと剥がれていく。 濁った紫の空が消え、代わりに冷たい風が頬を打った。 ノリスの膝が石畳へ崩れ落ち、硬く冷たい感触が伝わる。 潮風と木材の匂い。 魚と香辛料の混ざる市場の空気。 異界には存在しない、生きた世界の匂いだった。 遠くでは怒鳴り合う商人の声が響き、 馬車の車輪が石畳を激しく叩いている。(……落ちた、けど異界獣からは逃れた) 小さく安堵しかけたが、腕の重みが現実を突きつける。「……アレクシス公子」 返事はない。 抱きかかえた身体は熱かった。 異常な熱だ。 呼吸は浅く、時折苦しそうに喉が震える。 右肩から先は失われ、止血された痕跡だけが残っている。 包帯は乾いた血で黒く変色し、右目は布に覆われたままだ。 地下牢では気を張っていた。 だから動けた。 けれど今、光の下で見る傷は、あまりにも重かった。 ノリスは唇を強く噛んだ。「……死なないで」 掠れた声が漏れる。 腕に力を込める。 けれど、立ち上がろうとすると視界が揺れ、足元が傾く。 異界を抜ける際、身体へ異界の残滓が入り込んだ。 胃の奥から吐き気が込み上げる。 足元も、もう覚束ない。 でも、倒れるわけにはいかない。 一歩。 また一歩。 石畳の上を、ふらつきながら進む。 人々がこちらを見る。 港町らしい喧騒の中で、 傷だらけの青年を抱えた少女は、あまりにも異質だった。「おい、誰か倒れてるぞ!」 怒鳴り声。 複数の足音が近づく。 反射的にノリスの肩が強張った。 ここにも追手。 サンドランド兵。 そう思った。 だが現れたのは、厚い外套を羽織った男たちだった。 腰に短剣。 頑丈な革鎧。 そして肩には、木と波を模した紋章。 北部都市群。 商隊護衛の印だった。「嬢ちゃん、大丈夫か?」 先頭の男が足を止める。 日に焼けた肌に低い声。 警戒心はあるが、敵意ではない。 ノリスは反射的に一歩下がった。 腕の中のアレクシスを守るように。 その動きを見て、男は少し眉を上げる。「……警戒する元気はあるか」 隣の護衛が、小さく息を呑んだ。「待て」 視線がノリスへ向く。「この顔……」 一瞬、空気が変わる。「ヒマリ女王に似てないか?」 心臓が跳ね、指先が冷える。 まずい。
ロンデル医療棟。 最初に見えたのは白い天井だった。 何度も見上げた場所だ。 窓の外からは復興作業の音が聞こえてくる。 木材を運ぶ掛け声や職人たちの怒鳴り声。 その合間に、どこかで子供が笑う声も混じっていた。 世界は動いている。 傷つきながらも前へ進んでいる。 なのに、自分だけが取り残されたような気がした。 喉が渇いていた。 水差しへ手を伸ばし、一口だけ含む。 冷たい水が喉を落ちていく感覚だけが妙に鮮明だった。 ベッド脇の机には報告書が積まれている。 だが読む気力が湧かない。 指先には力が入らず、呼吸をするだけで肺が焼けるように痛んだ。 魔王城ブースト接続。 体の魔力回路が塞がったまま、 寝ずにロンデル復興を続けた後遺症。(アレクシス) 最後に見たアレクシスの背中が脳裏に浮かぶ。 届かなかった自分の手。 思い出すたびに胸の奥が静かに痛んだ。(……終わった) 助けられなかったのだと。 起き上がろうとして、腕に力が入らない。「まだ無理をするな」 低い声が響いた。 振り向くと、窓際にフェルマーが立っていた。 いつもの細面の眼鏡。 だが、ほんの少しだけ疲れて見えた。「フェルマー……」「二週間、眠っていた」「……二週間も?」「あれだけ無茶をして、すべて放り出して倒れるとは ――引継ぎ甲斐があったな」 皮肉だった。 だがその奥には確かな安堵も感じられた。 ヒマリは苦く笑う。「怒ってる?」「ええ、魔力過剰使用から忠告も聞かずロンデル単独侵入」 フェルマーが指を立てていく、間違いなく怒っている。「休息も取らず、復興支援。 挙句、二週間昏睡。――反省文では済まない案件だ」「……ごめんなさい」「謝罪ではなく改善を求めている」 そう言って、フェルマーは細長い箱を持ち上げた。 深い藍布に包まれている。「本来、戴冠式に合わせる予定だったものです」 布が外される。 現れたのは、一振りの錫杖だった。 白銀の杖身。 三重の銀輪の中央で、透明な聖水晶が静かに回転している。 装飾より実用性を優先した造りだ。 握り部分には、滑り止めの革が巻かれていた。「軽い……」「内部を空洞化している」 フェルマーが淡々と答える。「君は無理をする。 女王
地下牢に、静寂が落ちた。 水滴の音だけが、遠くで響いている。 ノリスは動けなかった。 心臓だけが、うるさい。(……今、なんて言ったの) 今ここにいるのはノリス。 その言葉が、頭の中で何度も反響する。 もう、呼ばれることはないと思っていた。 王都で敗れてから、ノリスは死んだのだから。 ここにいるのは、ヒマリの器。 アレクシスに必要なのはヒマリで、自分ではない。 だから。「……困る」 気づけば、声が漏れていた。 アレクシスが少し首を傾げる。「困る?」「だって……」 喉が詰まる。「許されると思ってないから」 視線が落ちる。「私は、ヒマリみたいに強くない。 嫉妬深くて、優しくもない。 だから、何回も間違えた」 言葉が続かない。 魔王だった頃のこと。 間違え続けた日々。 全部が、一度に押し寄せた。「……はっきり言うわ」 震えながら、それでも続ける。「魔王だった頃、こんな目に遭うことなんて 考えてもいなかった。だから……責めてほしかった」「責めても、腕は戻らないしね」 アレクシスは、小さく笑った。 冗談みたいな言い方。 だけど、その笑顔の奥に、確かな疲れが見えた。「痛いでしょ、惨めじゃないの?」 思わず出た声。 アレクシスは片目しかない青い瞳を閉じた。 そして、正直に言った。「辛いよ」 地下牢の空気が、少しだけ変わる。「母上を救えなかった」 一拍。「理由を付けて、自分だけ逃げ出した」 ノリスの呼吸が止まる。 初めてだった。 この人が、弱音を見せたのは。「結局瓦礫に押しつぶされ――目が覚めた時」 アレクシスは静かに続ける。「右が見えなくて」 失った肩へ、左手を置く。「腕もなくなってて」 少しだけ笑った。 泣きそうなくらい、弱い笑いだった。「最初に思ったんだ」 静かな声。「――ああ、もうロンデル公子アレクシスは終わったな、って」 胸が締めつけられる。 この人も、怖かったのだ。 壊れない人なんて、いなかった。「でも」 片方だけの瞳が開き、真っ直ぐノリスを見る。「君が来てくれた。 それ、すごく嬉しかった」 ノリスは言葉を失う。「ヒマリじゃなくても」 少し笑う。「かつて国を攻めて来た魔王でも」 また、胸が痛ん
地下牢は静まり返っていた。 湿った石壁と錆びた鉄格子。 血と薬草が混ざった重たい匂いが空気に残り、 遠くで水滴の落ちる音だけが響いている。 「誰だ……?」 鉄格子の奥、暗闇の中に人影が見えた。 壁にもたれ、浅く呼吸を繰り返している。 ノリスの足が止まる。 そして次の瞬間、息が詰まった。 右腕がなかった。 肩口から先が失われ、乱暴に止血された痕だけが残っている。 包帯は乾いた血で赤黒く染まり、 どれだけ長く苦しんできたかを物語っていた。 右目も布で覆われている。 以前の穏やかな公子の面影は、傷の下へ隠れていた。 それでも分かった。 アレクシスだった。 本当に生きていた。 その事実だけで胸が締めつけられる。 だが同時に、視線を逸らしたくなるほど苦しかった。 サンドランドで交わした密約。 王都ブリュードで崩れていく街。 そして、ロンデルの崩壊。 全部、自分から始まった。 ヒマリを傷つけ、この人も傷つけた。 今、自分はその結果を見ている。 指先が小さく震えた。「……牢番ではないな」 掠れた声だった。 アレクシスがゆっくり顔を上げる。 残った左目が暗闇を探し、やがてノリスの方へ向けられた。「……ヒマリ?」 その呼びかけは祈りのように弱かった。 ノリスの胸が痛む。 違う。 そう言わなければならない。 だが今ここで否定すれば、 この人から最後の支えまで奪ってしまう気がした。「……助けに来た」 気づけばヒマリの声を使っていた。 アレクシスの肩から少しだけ力が抜け、 安心したように小さく笑った。「……やっぱり」 弱々しい声だった。「来てくれると思ってた」 その笑顔を見た瞬間、ノリスは視線を逸らした。 こんな顔にしたのは自分だ。 そう思うだけで胸が苦しくなる。 外は砂漠のはずなのに、湿った石畳が恐ろしく冷たい。 少し迷って、アレクシスの前で膝をついた。「……痛い?」 震える声で尋ねると、アレクシスは少しだけ笑った。「すごく」 冗談みたいな言い方だった。 ――だが笑えるはずもない。「ありがとう、君が来たから少し楽になった」 限界だった。 罪悪感と後悔が胸を押し潰す。「……ごめんなさい」 声が崩れた。「全部……私のせい」
指輪が静かに脈打った。 黒い光が指先を覆い、その輝きが視界を飲み込んだ瞬間、 世界は音もなく反転した。 ◆ 空には雲がなかった。 なのに紫色の空そのものが脈打つように揺れている。 地面は黒い霧に覆われ、遠くで巨大な何かが蠢く音が響いた。 ノリスはゆっくり息を吐く。「……異界」 かつて何度も歩いた場所。 魔王だった頃の自分にとって、ここは恐れる場所ではなかった。 異界獣は道を開け、霧は足元に従う。 庭を散歩するようなものだった。 胸の奥がざわつき、足先には力が入らない。 周囲に広がる闇の気配が、ただ純粋に恐ろしかった。(……私、怖がってる) そんな感情を自覚したのは初めてだった。 魔王だった自分には必要のなかった感覚。 けれどヒマリは、ずっとこんな世界を歩いていたのだろう。 弱くて、傷ついて、それでも前へ進み続けていた。(……これが、ヒマリの見ていた世界) 今さら知る。 あの少女が、どれほど強かったのか。 足元の黒霧が、ゆっくり足首へ絡みついた。 冷たい、まるで沈み込ませるような感触だった。 ノリスは反射的に足を引く。 その時、頭上を巨大な影が横切った。 反射的に呼吸が止まる。 アストラルナーガ。 建物ほどの巨体を持つ異界獣だった。 黒い触手が空間を裂くように揺れ、無数の眼が虚空を彷徨っている。(……っ) 逃げなければ。 そう思った瞬間、触手がゆっくり伸びてきた。 ノリスの肩へ。 指先ほどの距離。 熱い涎が首元に滴り、心臓が凍る。 だが、異界獣は止まった。 何もない場所を見るように首を傾げる。 そして、そのまま霧の向こうへ消えていった。 しばらく動けなかった。 全身から嫌な汗が流れている。(本当に……見えてない) フェルマーの言葉が蘇る。 ――お前は餌ですらない。 それでも、怖くないわけじゃない。 死なない保証などない。 ここは、異界だ。 ほんの少しの迷いで、人の形さえ失う場所。 歩き出そうとした時だった。 違和感が走る。「……え?」 自分の手が透けていた。 指先から輪郭がぼやけ、存在そのものが霧へ溶け出している。 慌てて握り締めようとしても感覚が曖昧だった。(うそ……) 胸が冷える。 フェルマーの忠告が蘇る。 ――迷えば、輪郭
王都ブリュード、王城最上階。 重厚な扉の向こう、執務室には静かな緊張が満ちていた。 机いっぱいに広げられた地図。 その前に座る男は、 まるで大理石から削り出された彫像のようだった。 長い睫毛の影が白い頬に落ち、 整いすぎた輪郭は感情を拒む刃のように鋭い。 淡い銀の髪が光を受け、静かに揺れる。「……遅いな」 ぽつりと漏れた声には、苛立ちが滲んでいる。 本来なら、とっくに報告が届いているはずだった。 ゴミ捨て場――処分したはずの異世界人の痕跡について。「フェルマーめ……」 蒼い瞳がゆるやかに細まる。 あの男は有能だ。 天才で、合理的で、感情に左右されない。
通路は、思っていた以上に広かった。 崩れた石壁の向こうへと続く回廊は、 かつての城の名残を感じさせる造りで、 ところどころに装飾の欠片が残っている。「ここが……魔王城……」 ヒマリは、足元を確かめながら歩いた。 湿った石床。 天井の高い空間には、かつての威厳が微かに残っている。「昔は、もっと栄えておりました」 先導するゴブリンが、静かに言った。「魔王クルス様が在りし頃は、 この城一帯が闇の都と呼ばれておりました」「……今は?」「主を失い、統制を失い ……強き魔物が弱き者を喰らう場所になりました」 淡々とした口調だった。 だが、その奥には、わずかな苦さ
ゴブリンが突然動きを止めた。 その理由を、ヒマリはすぐに理解したわけではない。 ただ、闇の奥で何かが目を覚ました気配だけが、肌を刺した。 ガサリ。 複数の足音。 赤い光が、闇に点る。 一つ、二つ……十を超える。 腐った息。 低い唸り声。(……来ないで……) 後ずさった背中が瓦礫にぶつかり、逃げ場が消える。 闇から現れたのは、歪な影たちだった。 骨だけの骸骨。 粘液の塊。 腐臭を放つ死体のような魔物。 魔王城の最下層に巣食う、最底辺の存在。「来るなっ!」 反射的に手を突き出した瞬間―― 白い光が、ふわりと指先から溢れた。 眩しくはない。
眩しい光に包まれ、思わず腕で顔を覆った。(……え?) さっきまで、狭いワンルームのベッドにいたはずだ。 スマホを握ったまま寝落ちし、通知の来ない画面をぼんやり見つめていた。 それなのに、鼻を刺す空気の匂いが違う。 古い石の冷たさ。ざわめく人の気配。「成功だ……!」 誰かの興奮した声が響く。 恐る恐る目を開いた瞬間、心臓が止まりそうになった。 見知らぬ大広間だった。 高い天井。壁一面に刻まれた巨大な魔法陣。 床には淡い光が流れ、豪奢な衣装をまとった人々が並んでいる。 まるでゲームか映画の世界。 けれど――違和感があった。 誰も、私を見ていない。 視線の先は、少







