All Chapters of 結婚式当日、妹と寝た婚約者を退け、叔父の妻となる: Chapter 71 - Chapter 80

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71話「行ってみます」

 土曜日の午後、いつもの時間に灯が来た。 玄関で靴を脱ぎ、手を洗うと、書棚の前へ向かう。何冊か背表紙を眺めてから一冊を抜き出し、いつもの席に腰を下ろした。栞を抜いて本の間に挟み直すところまで、いつもと変わらない。 瑠衣は台所で湯を沸かしながら、その様子を横目で見ていた。先週までなら何も考えずに済んだはずなのに、今日は少しだけ視線がそちらへ向いてしまう。法事のことも、父が灯火書房へ来たことも、古い写真のことも、まだ頭の隅に残っていた。 灯はいつも通りだった。本を開く前に眼鏡を掛ける。テーブルの端へ手を置き、最初のページから静かに読み始める。瑠衣が何度か様子を見ても、こちらを気にする様子はない。「何か食べますか?」「お願いします」 返事も変わらない。瑠衣は小さく息を吐き、冷蔵庫から作っておいたものを取り出した。考えすぎていたのかもしれない。そう思いながら皿を並べると、灯が本から顔を上げた。「瑠衣さん」「はい?」「この本、続きが出ていたんですね」「この前買ったんです。まだ読んでなかったんですか?」「途中まで読んでいました」 その答えに瑠衣は少し笑った。いつもの灯だった。 昼食を終えたあとも、灯は本を読んでいた。瑠衣は向かいの席で資料を整理しながら、何気なく口を開く。法事の話をする気にはならなかった。古い写真についても、今日はまだ聞かなくていい気がした。その代わり、目の前にいる灯を見ていると別のことが気になった。「灯さんって、社長なんですよね」「はい」「なんだか、あまり社長っぽくないですよね」 灯が本から目を上げた。「そうですか?」「だって、この前も御厨さんに資料の場所を聞いてましたよね」「御厨さんの方が詳しいので」「社長なのに?」「社長でも知らないことはあります」 あまりにも普通の顔で返されて、瑠衣はまた笑った。「じゃあ、会社では皆さんに頼られてるんですね」「そうでしょうか」「そこは自分で分からないんですか?」「分かりません」 灯は本当
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72話「向いていない場所」

 会場は駅から少し歩いたところにあるホテルの宴会場だった。入口には同じ案内を持った人が何人もいて、受付の前には女性と男性がそれぞれ列を作っている。友人と並んで受付を済ませると、番号の書かれたカードとプロフィール用紙を渡された。係の女性が笑顔で説明をしてくれたが、瑠衣は聞き漏らさないように何度か頷いた。「大丈夫。今日は楽しもう」 隣で友人が笑った。瑠衣は小さく頷いて用紙を受け取る。会場へ入ると、すでに何人かの女性が席についていた。髪を整えたり、スマートフォンで誰かに連絡したりしている。服装もそれぞれだったが、明るい色のワンピースを着ている人が多かった。友人は周囲を見回してから、空いている席を指差した。 瑠衣はその席へ向かった。椅子に腰を下ろしてから、鞄を足元へ置く。隣では友人がプロフィール用紙を覗き込んでいた。「名前と年齢と仕事。あと、趣味か。瑠衣、何書く?」「普通に書けばいいんじゃない?」「それが一番難しいんだけど」 友人が笑う。瑠衣も少し口元を緩めた。 プロフィール用紙の年齢欄に数字を書く。 二十九。 ペン先が一度だけ止まった。 後ろの席から女性たちの声が聞こえた。「二十九はギリギリじゃない?」「でも二十代だから大丈夫でしょ。三十になる前なら」「そうそう。三十超えると、やっぱり見られ方変わるし」「私、絶対三十までには結婚したいんだよね」 笑い声が続いた。誰かに向けた言葉ではない。話している本人たちにとっては、ごく普通の会話なのだろう。 瑠衣は数字の横に小さく丸をつけた。「二十九って書くと、やっぱり反応いいよ」「分かる。まだ選べる感じあるもんね」「私は子ども欲しいから、相手も三十五くらいまでかな。そこから先だと、ちょっと考える」 瑠衣はペンを置いた。プロフィールカードを裏返して、趣味の欄へ目を移す。 何を書けばいいのか分からなくなった。 やがて簡単な説明が終わり、女性同士で話す時間になった。向かいに座った女性は、最初こそ笑顔で瑠衣のプロフィールを見ていた。「お仕事は何してるんで
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74話「一緒にいたい人」

 土曜の夜に受け取った本は、日曜のうちには読み終わらなかった。月曜の朝、出勤前の数分に一ページ、二ページと読み進める。トーストを咥えながらページをめくり、時計を見て慌てて鞄にしまうことが何度かあった。電車を待つホームでも、鞄から取り出して開いた。周囲の喧騒が、ページの中の静けさとは対照的だった。乗り換えのアナウンスに顔を上げるのが、いつもより一拍遅れる日もあった。改札を抜けたあとも、しばらく本のことを考えながら歩いていた。  昼休み、休憩室の隅で続きを開く。藤堂や御厨たちが雑談する声を遠くに聞きながら、ページをめくる指だけが本の世界に入り込んでいた。氷川が紙の話を始めても、今日ばかりは半分上の空で聞き流していた。藤堂が「お昼、ちゃんと食べてます?」と声をかけてきたときも、返事が一テンポ遅れた。弁当箱の蓋を開けたまま、しばらく箸をつけずにページを繰っていることもあった。夜、帰宅してからも、寝る前の短い時間に少しずつ進めた。灯りを落とす前、栞を挟む位置が、日ごとに後ろへずれていった。  物語は、結婚を控えた女性が、婚約者との日々の中で小さな違和感を積み重ねていく話だった。派手な事件は起きない。婚約者の何気ない一言、食卓での沈黙、二人で選んだ食器の色。そうした細部が積み重なり、女性の視線がゆっくりと変わっていく様子だけが描かれていた。読み進めるほど、瑠衣は自分がどの場面に立ち止まっているのか、自分でもよく分からなくなっていった。ページの端を折らないよう、しおりを挟む手つきだけが、いつも同じ丁寧さを保っていた。読み終えたページ数を、何気なく数えてしまう夜もあった。  ある夜、瑠衣は同じページを三度読んだ。  文章そのものが難しいわけではない。ただ、主人公が食卓で黙ったまま相手の皿を見ている場面から、どうしても先へ進めなかった。婚約者は何も悪いことをしていない。約束を破ったわけでも、怒鳴ったわけでもない。それでも主人公は、以前なら気にしなかったことに目を留めるようになっていた。  瑠衣は一度本を閉じた。机の横に置いた水へ手を伸ばす。飲み終えてから、また表紙を開いた。  今度は先へ進めた。  けれど、読み終わったあとも、その場面だけが妙に残った。何か大きな出来事があったわけではない。だからこそ、瑠
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75話「好きだった人」

 昼休みになると、御厨が紙袋を提げて休憩室へ入ってきた。いつもの席に袋を置くと、中から箱を取り出す。「皆さんでどうぞ」「またそんなもの持ってきて。うちを菓子処にするつもり?」 そう言いながら、藤堂は誰より先に箱の蓋へ手を伸ばした。包装紙をきれいに畳んで横へ置き、中身を覗き込む。「藤堂さん、食べるんですね」「捨てるわけにもいかないでしょう」 口元が少し緩んでいる。御厨が苦笑しながら一つ取ると、氷川も続いた。瑠衣も勧められた箱から一つ選ぶ。小さな焼き菓子を口に入れると、バターの香りが広がった。「これ、おいしいですね」「でしょう?」 御厨が満足そうに頷く。その横で藤堂はもう一つ手を伸ばしていた。「藤堂さん、二個目です」「一個だけだと味が分からないのよ」「一個目で分かると思いますけど」「江品さん。そういうところだけ妙に冷静ね」 瑠衣は思わず笑った。昼休みの短い時間に、こんな話をするのも悪くないと思った。 しばらく菓子をつまみながら雑談をしていると、瑠衣はふと周囲を見渡した。藤堂も御厨も氷川も、独身だ。仕事の話をしているときには気にしたことがなかったので、改めて気づくと少し不思議だった。「そういえば、皆さん結婚されてないんですね」「いきなり何の話?」 藤堂が眉を上げる。「すみません」「まあ、してないけど」 藤堂は焼き菓子を齧りながら肩をすくめた。御厨も特に否定せず頷き、氷川は手元の袋を折りたたんでいる。「結婚って、したいと思ったことあります?」 聞いてから、少し唐突だったかもしれないと瑠衣は思った。それでも三人とも嫌そうな顔はしなかった。 藤堂は菓子を一口食べてから、机の上の紙袋を見た。「若い頃はね。普通に結婚して、普通に家庭を持つものだと思ってた」「今は?」「一緒にいて疲れない人なら、いいんじゃない?」 瑠衣は手にした菓子を止めた。「疲れない人、ですか」「うん。ずっと一緒にいるなら、そのくらいがいいでしょう」
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76話「それ、私がやります」

 昼前、他部署から資料整理の依頼が届いた。担当者が置いていった段ボールには、年度の違う資料や確認前の書類が混ざっている。御厨が蓋を開けると、すぐに何枚かを取り出した。「これは内容ごとに分けた方がいいですね」  御厨は机を三つに分けるように資料を並べ始めた。ところが途中で別の分類を思いついたらしく、さっき置いた書類をまた動かす。藤堂が横から覗き込んだ。 「ちょっと。さっきと場所が変わってない?」 「今の方が効率がいいので」 「私には余計に分からなくなったけど」  氷川は積まれた資料を一枚持ち上げて、紙の端を指で撫でている。 「これ、前の資料と紙が違いますね」 「そこ?」  藤堂が呆れた顔をしながらも、散らかった書類を拾い始めた。御厨は別の山を作り、氷川は紙の厚さを比べている。瑠衣は三人を順番に見た。机の上だけが、どんどん狭くなっていく。  瑠衣は一番近くにあった資料を手に取った。表紙を揃え、日付を確認する。何枚かを並べ直してから、口を開いた。 「私がやります」  三人の手が止まった。 「江品さんが?」 「はい」 「でも、結構ありますよ」 「大丈夫です」  瑠衣は段ボールを自分の方へ引いた。御厨が何か言いかけたが、藤堂が手を上げて止める。 「じゃあ、お願いしようか。私も少し手伝う」 「藤堂さんまで?」 「ここまで散らかした責任があるでしょう」 「僕は散らかしてないです」 「そういうところよ」  藤堂が資料を一束持っていく。御厨も自分の分類をいったん諦め、日付順に並べ始めた。氷川だけはまだ紙を眺めていたが、瑠衣が笑うと、ようやく手を動かした。  資料整理を始めたばかりの頃は、どこから手をつけるべきか迷うほどだった。古い書類には折れた角があり、同じ案件の資料でも保存されている場所が違っていた。瑠衣は一枚ずつ日付を確かめ、同じ案件を一つの束にまとめていく。ファイルへ収める前に枚数を確認し、足りないものがあれば別の束を探した。 「江品さん、これ去
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77話「それは、どういう意味ですか」

 午後の仕事が始まってしばらくした頃だった。瑠衣が届いた資料を仕分けていると、隣の机から藤堂が顔を上げた。手元の書類を一枚めくり、何かを思い出したように瑠衣を見る。「婚活、また行くの?」  瑠衣の指が紙の端で止まった。少しだけ考えてから、手元の資料を揃える。 「……もう少し考えてからにします」 「そう」  藤堂はそれ以上聞かなかった。興味がないわけでもなさそうだったが、必要以上に踏み込む気もないらしい。机の上に残っていた付箋を一枚剥がし、資料の端に貼り直している。その向こうでは御厨がファイルを抱えたまま何かを探していた。氷川は少し離れた机で原稿用紙を眺めている。 「江品さん、こっちの資料、昨日の分ですよね」 「はい。確認しておきます」  瑠衣は渡された書類を受け取った。そこへ藤堂がもう一枚の紙を重ねる。 「これも一緒にお願い」 「分かりました」  いつもの仕事のやり取りに戻っていく。けれど、その会話の途中で瑠衣が顔を上げると、部屋の奥に灯がいた。書類を手にしている。こちらを見ているようにも見えたが、目が合う前に瑠衣は資料へ視線を戻した。紙を揃える音が妙に大きく聞こえた。  昼前になると、藤堂たちは別の打ち合わせに呼ばれて部屋を出ていった。御厨もその後を追い、氷川は印刷した原稿を抱えて廊下へ向かった。気づけば部屋に残っているのは瑠衣と灯だけになっていた。  空調の音が妙に大きく聞こえる。瑠衣はパソコンの画面を確認し、入力した数字に間違いがないことを確かめた。隣では紙をめくる音が続いている。窓の外では車のクラクションが一度だけ鳴った。  灯が資料を重ねる音がする。瑠衣もキーボードを叩く。二人とも仕事をしているだけなのに、部屋の広さがいつもよりはっきり分かった。  瑠衣は画面の端に表示された時刻を見た。もうすぐ昼だった。 「婚活は、もう行かれないんですか」
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78話「休みの日」

 土曜日の朝は、平日より少し遅く目を覚ました。カーテンを開けると、薄い日差しが床に伸びている。瑠衣は時計を見てから台所へ向かい、パンを焼いて湯を沸かした。マグカップを二つ出しかけて、片方を棚へ戻す。そこで手が止まったが、理由を考える前に蛇口をひねった。  トーストを皿にのせ、卵を焼く。いつもの朝と変わらない。テレビから流れる天気予報を聞きながら朝食を済ませ、食器を洗う。洗い終えた皿を水切りかごへ置いたあとも、瑠衣はしばらく台所に立っていた。もうすることはない。布巾を畳み直してから、窓の外へ目を向ける。向かいの家のベランダに洗濯物が揺れていた。  時計を見る。まだ午前九時を少し過ぎたところだった。瑠衣は掃除機を出そうとして、やめた。先にお茶を飲もうと思い、湯を沸かす。ケトルが音を立てる前にスイッチを切った。静かになった台所で、瑠衣は首を傾げた。  しばらくして、カレンダーを見た。土曜日。いつもなら昼前から誰かが来ることを、そこで思い出した。 「……今日は来ないんだった」  声に出してから、瑠衣はカレンダーの土曜日の数字を指先でなぞった。来る約束をしていたわけではない。来ると聞いていたわけでもない。それでも、土曜日になると自然に予定の中へ入っていた時間があった。今日はそこだけが空いている。  瑠衣はカレンダーから手を離し、掃除機をかけ始めた。床を一通り掃除して、棚の埃を払う。いつもなら途中で時計を見ることもないのに、今日は何度も壁の時計へ目が向いた。昼になっても、玄関のチャイムは鳴らなかった。宅配便の音すらない。静かな家の中で、掃除機の音だけがやけに大きく聞こえた。  昼食のあと、本棚から一冊取り出した。椅子に座ってページを開く。二、三ページ読んだところで、視線が同じ行に戻った。栞を挟むほどでもないのに本を閉じて、机の端へ置く。  代わりに洗濯物を取り込んだ。畳んでしまう。床に落ちていた小さな糸くずを拾う。引き出しの中まで整理し始めると、そこはすぐに片付いた。やることがなくなると、瑠衣はまた時計を見た。  午後になって買い物へ出た。スーパーでは夕食の材料を選び、必要なものだけを籠へ入れる。レジを終えて家へ戻るころには、空が少しずつ夕方の色に変わっていた。玄関を開ける。靴を脱ぐ。いつものように声をかける相手はいない。  夕食を作る。米を炊いて、味噌汁を
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79話「社長の机」

 資料をまとめ終えた午後、瑠衣はファイルを一冊抱えて廊下を歩いていた。届け先は社長室だった。これまで何度か前を通ったことはある。けれど中へ入ったことはない。ガラス越しに見える机と本棚を横目に通り過ぎるだけだった。  社長室の前で足を止める。腕の中のファイルを持ち直してから、扉を二度叩いた。 「どうぞ」  聞き慣れた声が返ってくる。瑠衣は一度だけ息を整え、ドアノブに手をかけた。扉を開けると、廊下から見ていたよりも広く感じた。けれど、整然としていると思っていた部屋の中央には、いくつもの本が積まれていた。 「失礼します」  中へ入って扉を閉める。灯は机に向かっていた。パソコンの画面を確認していたが、瑠衣に気づくと顔を上げる。 「資料をお持ちしました」 「ありがとうございます。そこへお願いします」  指された机の端へファイルを置く。そこで瑠衣は、初めて机全体を見た。  社長室に置かれているものとして想像していた立派な机とは少し違った。机そのものは大きい。けれど天板の上には本が三冊重なり、その横に別の本が二冊開いたまま置かれている。ページの端には細い付箋が何本も並び、色の違うものが本から小さく飛び出していた。  飲みかけのお茶もある。湯呑みの隣には読みかけの原稿が束になっていて、その上に眼鏡が置かれている。眼鏡のつるが紙の端に引っかかっていた。ペンも一本だけではない。黒と青と赤が、原稿の隙間にそれぞれ違う向きで転がっている。  瑠衣は視線を一周させた。 「……散らかってますね」 「そうですか?」  灯は机の上を見た。けれど片付けようとはしない。 「御厨さんよりはましです」 「それなら大丈夫ですね」  真顔のまま返されて、瑠衣は思わず口元を緩めた。灯はその反応を確認することもなく、眼鏡を手に取って原稿へ視線を戻す。 「御厨さん、昨日も何かやってましたか?」 「昨日の資料整理ですか?」 「はい」  瑠衣は少し考えてから答えた。 「別部署から来た資料を整理してました。最初は御厨さんが分類してたんですけど、途中から藤堂さんが手伝ってくれて」 「御厨さんが混乱させたやつですね」  瑠衣の手が止まった。 「……知ってたんですか」 「はい」 「でも、そこに来てませんでしたよね」 「来なくても分かります」  灯は原稿をめくった。何でも
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80話「土曜日の約束」

 夕方、仕事が一段落すると、瑠衣は机の上を片付け始めた。使い終えた資料をファイルへ戻し、ペンを筆箱へ入れる。パソコンの画面を閉じてから、机の端に残っていた付箋を一枚ずつ剥がした。今日はいつもより少しだけ片付けるのに時間がかかった。鞄へ資料をしまっていると、廊下から足音が近づいてきた。 「江品さん、今日の確認分はこれで全部ですか」 「はい。先ほどの分まで確認しました」 「分かりました」  灯は瑠衣の机の横に立ち、手元の資料を一度確認した。瑠衣も同じように画面を見直す。 「明日の分は、こちらに置いておきます」 「お願いします」  灯は資料を受け取った。ほんの短いやり取りだった。いつもの仕事の確認と変わらない。灯は資料を抱え直すと、廊下へ戻ろうとして一歩進んだ。瑠衣はその背中を見たまま、なぜか声をかけるタイミングを逃した。呼び止めるほどの用事はない。そう思って視線を机へ戻しかけた。  仕事を終えたあとの部屋には、まだ昼間のざわめきが少し残っていた。隣の机では誰かが椅子を引き、廊下ではコピー機の動く音がする。瑠衣はその音を聞きながら、最後の確認欄へ印をつけた。灯が近くを通る気配がして、顔を上げる。目が合うと、灯は軽く会釈した。それだけで、瑠衣も小さく頭を下げた。 「……来週も来ますか?」  口に出してから、瑠衣自身が止まった。  灯が振り返る。瑠衣は自分の言葉を聞き直すように、鞄の持ち手を握ったまま立っていた。何を聞いているのだろうと思う。土曜日に来ることを、わざわざ確認する必要などない。毎週そうしているのだから、来週も来るかどうかくらい分かっている。  灯はすぐには答えなかった。手にしていた資料へ一度目を落とし、それから瑠衣を見る。その間はほんの少しだった。 「はい。土曜日に」 「そうですか」 「はい」  短い返事だった。灯はそれ以上何も付け足さず、廊下へ戻っていく。足音が遠ざかる。角を曲がったところで、その音も聞こえなくなった。  瑠衣はしばらくその場に立っていた。机の上には片付ける途中のペンが一本残っている。手を伸ばして筆箱へ入れる。それだけのことなのに、さっきの自分の声が耳に残っていた。
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