All Chapters of 結婚式当日、妹と寝た婚約者を退け、叔父の妻となる: Chapter 51 - Chapter 60

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51話「少しだけ違いますね」

 土曜日、いつもの時間にインターホンが鳴った。玄関を開けると、灯が革靴を脱ぎ、いつもの位置に揃える。「こんにちは」「こんにちは」 灯は鞄を持ったまま、そのまま書庫へ向かった。階段を上る足音が、二階の奥へ消えていく。瑠衣はその足音を数えるように聞いてから、台所へ引き返した。 シンクの前に立ち、蛇口をひねる。水音が響く中、棚から急須を取り出した。棚には似たような缶が二つ並んでいる。ひとつは普段使っているもの、もうひとつは先週買い足したばかりのものだった。買い足したときは、まったく違う場所にしまうつもりだった。忙しさにまぎれて、結局隣同士に並べてしまっていた。 蓋を開け、茶葉をすくう。急須に入れ、湯を注ぐ。手順はいつもと変わらなかった。頭の中では、朝のメールのやり取りが繰り返し流れていた。返信の来ないチャットの画面。空欄のままだったスケジュール表。それらが順番に浮かんでは、また同じところに戻ってくる。窓の外で鳥の声がしたが、それすら遠く感じた。 湯気が立ちのぼる。瑠衣はふと、自分の手元に目を落とした。手にしている茶筒の柄が、いつも使っているものと違っていた。「あっ」 声が漏れたときには、もう湯を注ぎ終えていた。急須の中で、見慣れない色の茶葉が開き始めている。瑠衣は茶筒を持ち直し、蓋に書かれた文字を確かめた。棚の二つの缶を見比べる。よく似た形をしていて、朝の忙しさの中では取り違えても不思議はなかった。急須の蓋を開け、中を覗き込む。今さら茶葉を取り出すこともできず、瑠衣はそのまま蓋を戻した。茶葉の香りだけが、いつもと違う立ち方をしていた。 湯飲みに注ぐ。いつもより色が少し濃かった。盆に乗せ、書庫へ向かう階段を上る。一段ごとに、湯飲みの中で茶がわずかに揺れた。踊り場の窓から差す光に、湯気が一瞬白く光った。 書庫の扉を開けると、灯はいつもの椅子に座り、本を開いていた。棚に並んだ本の背表紙が、午後の光を受けて淡く並んでいる。湯飲みを机に置くと、灯はページから顔を上げ、口をつけた。 一口飲んで、動きが止まる。「今日は、少しだけ味が違いますね」 責める響きはなかった。ただ事実を確かめるだけの声だった。瑠衣は湯飲みを見つめ、頭を下げた。「すみません。別のものを入れてしまいました」「大丈夫です」 それだけだった。灯はもう一口飲んでから、本に視線を戻した。ペ
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52話「居場所ではなくなる日」

 月曜日、いつもより早く目が覚めた。カーテンの隙間から差す光がまだ弱く、部屋の輪郭がぼんやりしている。瑠衣はしばらく天井を見つめてから、体を起こした。 支度をして家を出る。駅までの道はいつもと同じだった。信号待ちの人の数も、コンビニの前に立てられた幟の色も、何ひとつ変わっていない。それなのに、電車に乗る足取りが、どこか重かった。 オフィスに着くと、朝のミーティングがすでに始まろうとしていた。席につくと、周囲の社員がそれぞれの前に資料を置いていく。瑠衣の前だけ、何も置かれなかった。 配布が一巡したところで、隣の席の社員が自分の手元を見て、はっとした顔をした。「あ、ごめん。瑠衣さんの分……」 立ち上がり、自分の資料を半分に折って差し出してくる。「余分がなくて。あとでコピーしてくるね」「大丈夫です。ありがとうございます」 瑠衣は受け取りながら、相手の顔を見た。申し訳なさそうな表情に、悪意らしいものは何もなかった。単純な数え間違いだろう。それだけのことだった。 だが、こういうことが最近続いている。会議の予定が直前で変わり、案内が来ないままだったこと。共有フォルダから自分だけ外れていたこと。チャットで送ったメッセージに、返事が来るまでの時間が、以前より少しずつ長くなっていること。ひとつひとつは些細で、指摘するほどのことでもない。誰かに聞かれれば、気のせいだと答えるしかないような小ささだった。 折られた紙を開き、皺を伸ばす。会議はもう始まっていた。 午後、企画の振り返り会議が招集された。会議室に集まった顔ぶれは、いつもと同じだった。上司が持ってきた資料をテーブルに置き、開かないままそこに手を乗せている。「今回の件は、チーム全体として情報共有に課題がありました」 静かな声だった。誰も反論しない。空調の音だけが、会議室に響いていた。 上司は資料の表紙を軽く指で叩いてから、続けた。「途中で違和感を持った人はいませんでしたか」 部屋の中をゆっくり見回す視線が、一人ずつの顔の上を通り過ぎていく。誰も口を開かない。瑠衣も黙ったままだった。喉の奥に何かが引っかかっているような感覚があったが、それを言葉にする方法がわからなかった。 沈黙が続く中、正木が小さく手を上げた。「違和感はありました」 全員の視線が正木に集まる。「ただ——」 そこで言葉が止まっ
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53話「私がいなくても」

 月曜日、出社してすぐに社内システムを開いた。読書支援システム企画のページ。担当者一覧を確認する。 自分の名前がなかった。 スクロールを戻す。もう一度、担当者欄に目を通す。別の社員の名前が、瑠衣がいたはずの位置に入っていた。日付を見ると、金曜日の夕方に更新されている。時刻は十七時五十八分。終業時刻の直前だった。 周囲を見渡す。誰もこちらを見ていない。いつも通りキーボードを打つ音、電話の応答、コピー機の作動音が重なっている。誰かが説明に来るのを、少しの間待った。誰も来なかった。 瑠衣は画面を閉じ、自分のメールボックスを開いた。担当変更の通知は届いていなかった。もう一度確認する。送信済みトレイも、迷惑メールフォルダも見た。何度確認しても、結果は同じだった。カーソルを画面の上で行ったり来たりさせてから、瑠衣はマウスから手を離した。 椅子に座り直し、今日の予定を確認する。空いている時間に、別の資料整理の依頼が入っていた。それを開き、作業を始めた。パソコンの画面に表示された作業内容は、いつも自分が任されていたものとは、少しだけ性質の違う仕事だった。ファイルの並び順を整えるだけの作業に、いつもより時間がかかった。 午前の間、瑠衣は与えられた作業を淡々とこなした。誰かに話しかけられれば返事をし、頼まれれば手を止めて対応する。表面上は、いつもの月曜日と変わらなかった。ただ、企画の話題が近くで交わされるたびに、自分の耳がそちらへ向くのを感じた。会話に加われるわけではないとわかっていても、体は勝手に反応した。 午後になると、瑠衣の仕事は雑務中心に変わっていた。会議資料のコピー、ファイルの整理、議事録の清書。読書支援システムの企画会議には、招集がかからなかった。廊下の向こうで会議室のドアが閉まる音を、自分の席から聞いた。ドアの磨りガラス越しに、動く人影がいくつか見えた。コピー機の前に立ち、紙が排出される音を数えながら、瑠衣はその人影の輪郭を見るともなく見ていた。 正木が近づいてきて、瑠衣のデスクの脇に立った。「悪い」 瑠衣は手を止めた。「俺じゃ、戻せなかった」 瑠衣は顔を上げ、口の端を少しだけ持ち上げた。「大丈夫です」 それだけ言うと、また手元の資料に視線を落とした。正木はしばらくその場に立っていたが、やがて何も言わずに自分の席へ戻っていった。椅子に座る音が
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54話「最後の確認」

  朝、いつもの時間に出社する。パソコンを立ち上げ、メールを確認する。新着はほとんどなかった。企画関連のフォルダを開いてみたが、更新は何もない。最終更新日の欄には、先週の日付がそのまま残っていた。  今日も、企画会議への招集はなかった。カレンダーには空白が続いている。瑠衣は自分のデスクの周りを見渡した。資料の山は昨日よりも減っていた。片付けるべきものが、もうあまり残っていない。引き出しの中を確認しても、急ぎで対応するべきものは見当たらなかった。フォルダのアイコンを一つずつクリックして、開いては閉じる作業を、しばらく繰り返した。デスクの端に置いたマグカップの底に、飲み残しの茶が薄く沈んでいた。  午前中は、後輩への引き継ぎ作業に充てられた。使っていたフォルダの整理方法、取引先とのやり取りのテンプレート、過去の資料の保管場所。ひとつずつ説明していく。後輩はメモを取りながら頷いていたが、途中から質問が減っていった。教えることがなくなっていくのが、自分でもわかった。最後に残っていたファイルの共有設定を変更し終えると、後輩は軽く頭を下げて自分の席へ戻っていった。  昼前、コピー機の前に立つ。頼まれた枚数を打ち込み、開始ボタンを押す。紙が排出される音を聞きながら、瑠衣は画面に映る自分の順番待ちの表示を見ていた。順番が来るまで、他にすることがなかった。排出トレイに積み重なっていく紙の枚数を、なんとなく目で数えていた。  自分の席に戻り、パソコンの画面を開く。カーソルが点滅するだけの、空白のドキュメントが表示されていた。キーボードに指を乗せたが、何も打たなかった。しばらくして、画面を閉じた。窓の外に目をやると、ビルの谷間を横切る雲が、ゆっくり形を変えていた。  昼休み、給湯室でお茶を淹れていると、背後から声がした。 「先輩」  振り返ると、梨香子が立っていた。手にマグカップを持ち、いつもより明るい表情をしている。 「はい?」 「今回のことで思ったんですけど」  梨香子は少し笑って
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55話「退職」

 朝、いつもより早くオフィスに着いた。エレベーターホールには、まだ数人しかいなかった。瑠衣は鞄の内ポケットから白い封筒を取り出し、もう一度指先で角を確かめてから、人事部へ向かった。 廊下を歩く足音が、いつもより大きく聞こえた。窓の外はまだ薄曇りで、ガラス越しの光が床にぼんやりとした線を描いていた。すれ違う社員に会釈をしながら、瑠衣は自分の歩調が普段より少し速いことに気づいた。 人事部のドアをノックする。中から返事があり、瑠衣は入室した。担当者はデスクの向こうで書類を整理していたが、顔を上げると笑顔で椅子を勧めた。 封筒を差し出す。担当者は中身を取り出し、目を通していく。ページをめくる指の動きが、途中で一瞬止まった。「そうですか……お疲れ様でした」 それ以上は聞かれなかった。担当者は表情をあまり変えないまま、手元のファイルを開いた。「最終出勤日は本日で、有給は残っている分すべて消化という形でよろしいですか」「はい」「社会保険の手続きについては、後日書類をお送りします。離職票の発送先は、今のご自宅で間違いありませんか」「はい、それで大丈夫です」 担当者はパソコンの画面に何かを入力しながら、次々と項目を確認していった。退職金の概算、貸与物の返却、最終給与の振込日。瑠衣はひとつずつ相槌を打ちながら、その声を聞いていた。窓の外で、誰かの話し声が遠く聞こえた。 説明が一通り終わると、担当者は手を差し出した。「社員証をお預かりします」 瑠衣は首から下げていた社員証のストラップに手をかけた。留め具を外す間、指先が少しだけ震えた。ケースから取り出し、担当者に手渡す。 担当者はそれを小さなトレイに置いた。カードの表面に印刷された自分の顔写真が、蛍光灯の光を反射している。入社したばかりの頃に撮った写真だった。今の自分より、少し硬い表情をしている。「では、これで手続きは以上です。長い間、お疲れ様でした」 瑠衣は椅子を
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56話「途中ですから」

 瑠衣は靴を脱ぎ、廊下を歩いた。廊下の照明は控えめな明るさで灯り、壁に映る自分の影が、いつもよりゆっくり動いているように見えた。今朝、同じ廊下を出勤のために通ったときとは、足の運び方がまるで違っていた。リビングのドアを開けると、灯がソファの端に座り、本を読んでいた。顔は上げなかった。ページをめくる音だけが、部屋の中に静かに響いている。「ただいま帰りました」 「お帰りなさい」  灯はそう答えたが、視線は本から離れなかった。瑠衣は鞄を床に置き、灯の向かいに腰を下ろした。革張りのソファが、体の重みでわずかに沈む感触があった。照明の明かりが、灯の横顔に薄い陰影を作っている。窓の外はすでに暗く、庭の木々の輪郭がガラスに滲んでいた。 瑠衣はしばらく、ソファの背に体を預けたまま動かなかった。何かを話そうとして、言葉が出てこなかった。喉の奥に、言葉になる前の何かが止まっているような感覚があった。灯も何も聞かなかった。ページをめくる指の動きだけが、規則的に続いている。時計の音と、紙の擦れる音だけが部屋を満たしていた。壁時計の秒針が、静かな部屋の中でひときわ大きく聞こえた。棚に並んだ本の背表紙が、間接照明の光をわずかに反射していた。  テーブルの上でスマートフォンが震えた。画面を見ると、真衣からのメッセージだった。開くと、スクリーンショットが一枚添付されている。梨香子のSNS投稿だった。  「今日、先輩が辞めました〜 お疲れさまでした!」という文字の下に、花束の絵文字がいくつも並んでいる。コメント欄には「お疲れさまです」「新しい道、応援してます」という言葉が続いていた。投稿には、いつもの梨香子らしい明るいスタンプも添えられていた。  瑠衣はその画面をしばらく見ていた。特に表情は変わらなかった。指先で画面をスクロールし、いくつかのコメントを目で追ってから、また最初の投稿に戻った。誰かが「次のステージも応援してます!」と書き込んでいるのが目に入ったが、それ以上読み進める気にはならなかった。画面の明るさだけが、薄暗いリビングの中でやけにはっきりして見えた。 スマートフォンを、テーブルの上に伏せて置いた。  置いた直後、今度は着信音が鳴った。父からだった。出
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57話「自分で探す」

 退職して数日が経った。瑠衣はハローワークの窓口で、渡された求人票に目を通していた。蛍光灯の下、順番待ちの番号札を握ったまま、掲示板に貼られた案内をひとつずつ確認していく。壁際の椅子には、同じように番号札を持った人が何人も座っていた。誰かの子どもが、母親の膝の上で退屈そうに靴を鳴らしている。 窓口に呼ばれ、担当者の前に座る。持参した職務経歴書を差し出すと、担当者はページをめくりながら、ところどころで小さく頷いた。マウスを操作し、画面に条件を打ち込んでいく手つきは慣れたものだった。「経験はありますね」 担当者はそう言いながら、別の紙をめくった。求人票の束の中から、条件に近いものをいくつか選び出していく。「ただ、希望条件が……」「もう少し若ければ、というところもあって」 瑠衣は求人票の給与欄と勤務地の欄に、順番に目を通した。どれも、これまでの経験とはどこかずれがあった。担当者はパソコンの画面をもう一度確認し、別の業種の求人をいくつか印刷して手渡してくれた。紙の温かさが、まだ機械から出たばかりであることを教えていた。「こちらも一度、見てみてください」 瑠衣は頷き、頭を下げた。「ありがとうございました」 窓口を出て、外の光の中に戻る。手にした求人票の束を鞄にしまい、そのまま次の面接会場へ向かった。何件か面接を受けたが、返事はどれも似たような形だった。担当者の視線が履歴書の生年月日の欄で少し止まる、という同じ動作を何度か見た。面接室を出るたびに、瑠衣はエレベーターの中で自分の姿を鏡に映し、スーツの襟を軽く整え直した。落ち込むより先に、当面の生活をどうするかを考える必要があった。 スマートフォンでフードデリバリーのアプリをダウンロードし、必要な情報を登録した。自転車の後ろに配達バッグを取り付け、街へ出る。最
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58話「灯のいる場所」

 午前、ハローワークの求人検索コーナーには、蛍光灯の白い光が均一に落ちていた。 壁際に据えられた棚には、透明なファイルに入った求人票がずらりと並んでいる。空調の音が低く響き、時折、順番を呼ぶアナウンスがそこに重なった。掲示板の隅には、季節外れのポスターが少し色あせたまま貼られている。床のタイルは、朝の混雑の名残でわずかに靴跡が残っていた。長椅子に座る人々の中には、スーツ姿の若者もいれば、瑠衣と同じくらいの年頃の人もいた。 瑠衣はファイルを一枚ずつ手に取り、めくっていった。紙の表面はどれも少し湿り気を帯びていて、指先に薄く貼りつくような感触がある。広告代理店での経験を活かせる仕事。事務職。広報補助。資料整理。見出しの文字を目で追い、給与、勤務時間、勤務地の欄を確認しては、次のファイルへ手を伸ばす。棚の前を数歩ずつ移動しながら、同じ動作を繰り返した。フォントの大きさも、紙の質も、それぞれ少しずつ違っている。会社によって、求人票の作り方にも差があるのだと、瑠衣はぼんやり思った。 なかなか、条件に合うものが見つからなかった。近くの窓口で相談していた別の求職者の声が、途切れ途切れに耳に入る。子どもを連れた女性が、隣のブースで担当者と何か話し込んでいた。瑠衣は担当者のいる窓口へ向かい、腰を下ろした。「前職の経験を活かしたいんですけど、なかなか難しくて」「これまでの経験は十分ありますよ」 担当者はそう言いながら、画面に表示された求人をいくつか印刷してくれた。プリンターの排出音が、静かなフロアに小さく響く。瑠衣はそれを受け取り、また棚の前へ戻った。求人票を一枚ずつ手に取りながら、ゆっくりと歩を進めていく。窓の外では、駐輪場に自転車を停める人
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59話「仕事として」

 求人票を見返す日が、何度か続いた。机の引き出しから取り出し、蛍光灯の下で文字をなぞり、また戻す。何度目かの夜、瑠衣は求人票の端がすでに柔らかくなっていることに気づいた。折り目の部分が、指の圧で白く筋になっている。手にするたび、同じ場所に視線が落ちる。その繰り返しの中で、瑠衣はある夜、パソコンを開いた。  応募フォームの画面には、いくつもの入力欄が並んでいた。氏名、経歴、志望動機。カーソルが点滅する志望動機の欄で、指の動きが止まった。エアコンの音だけが、静かな部屋の中で低く続いている。窓の外を、遠くの電車の音が一度だけ横切っていった。  しばらく考えてから、文字を打ち込んでいく。書いては消し、また書き直す。何度目かの文面で、ようやく手が止まった。 「広告代理店に勤務していた際、資料整理や企画業務に携わっていたため、貴社の業務に活かせると考えました」  打ち終えた文章を、もう一度読み返す。灯の名前は、どこにも書かなかった。個人的な関係を示す言葉は、一文字も入れなかった。文面を三度読み直し、誤字がないことを確かめてから、画面を見つめたまま、瑠衣はしばらく動かなかった。それから、送信ボタンにカーソルを合わせ、押した。画面が切り替わり、受付完了の表示が出る。それだけのことに、思ったより長く目を落としていた。パソコンを閉じたあとも、しばらく机の前に座ったままだった。 数日後、スマートフォンに着信が入った。灯火書房の採用担当者からだった。面接の日程を告げる声を、瑠衣はメモを取りながら聞いていた。通話を切った後、カレンダーアプリにその日付を入力する。予定の欄が、久しぶりに文字で埋まった。  面接当日、瑠衣は指定された住所へ向かった。ビルの入口に掲げられた社名を確認し、自動ドアをくぐる。ロビーはガラス張りで、朝の光が床のタイルに反射していた。受付で名前を告げると、案内の社員が奥へと導いてくれた。案内の社員は歩きながら、簡単にフロアの説明をしてくれたが、瑠衣の意識は半分、周囲の景色に向いていた。  廊下の両側には、ガラス張りの資料室がいくつも並んでいた。棚には古い書物と、電子端末が並列に置かれている。紙の匂いと、機械の静かな稼働音が混じり合っていた。ラベルの貼られた資料の背に、几帳面な文字で
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60話「新しい場所」

 朝、灯火書房の前に立った。大きな看板もなく、三階建ての古いビルの一角だけが事務所になっている。ガラス扉の向こうに受付があった。 外から見るより中は明るかった。入口脇には新刊の見本が数冊並び、奥からコピー機の作動する音が聞こえる。人の気配はあるのに、どこか静かな会社だった。「本日から資料整理・事務補助として勤務する和久井瑠衣です」 名乗った声が少し硬い。瑠衣は一度だけ指先を握り直した。「藤堂さんがお待ちです」 案内された廊下を、背筋を伸ばして歩いた。 奥から、きびきびした足音が近づいてきた。五十代半ばほどの女性が立ち止まり、瑠衣を上から下まで一度だけ確認する。「藤堂です。今日からよろしくお願いします」「よろしくお願いします」「新人だからって、甘やかすつもりはありませんからね」 瑠衣の背筋がさらに伸びた。「……とはいっても、初日だから無理はしないでくださいね」「はい」「分からないことがあったら聞いてください。忙しそうに見えても大丈夫ですから」「はい」「あと、お昼はちゃんと食べてくださいね」 藤堂は真顔だった。眉一つ動かさない。「新人教育って、最初が大事ですから」 瑠衣は一瞬、返事をするのを忘れた。「……ありがとうございます」「いえ。仕事ですから」 そう言って朱音は資料の束を抱え直した。表紙が少しずれている。「それと、分からないまま進めるのが一番困ります。遠慮しないでください。聞かれたほうが私も助かります」「分かりました」「それから、冷房が寒かったら言ってくださいね」 そこまで聞いて、瑠衣の肩がようやく下がった。「はい」「では、資料室へ行きましょう」 案内された部屋の扉を開けた瞬間、紙の匂いがした。
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