ホーム / 恋愛 / 結婚式の端っこで、君と乾杯を / チャプター 41 - チャプター 48

結婚式の端っこで、君と乾杯を のすべてのチャプター: チャプター 41 - チャプター 48

48 チャプター

41話「帰りたかった場所」

 土曜日の朝、スマホに連絡が来ていた。 後輩の橘さんからだった。入社四年目で、普段は真面目に仕事をする子だった。「先輩、急で申し訳ないんですが、今日婚活パーティーに申し込んでいて、一人で行くのが怖くて。もし時間があれば付き添ってもらえませんか」 断ろうとした。 でも橘さんは今まで一度も無理なことを頼んできたことがなかった。仕事でも、プライベートでも、誰かに頼ることが苦手な子だった。それが連絡してきたということは、本当に困っているのだと思った。「午前中だけなら」 返信した。 会場はホテルの宴会場だった。 受付を済ませると、スタッフに名札を渡された。参加者は二十人ほどいた。男女が半々くらいだった。 橘さんは瑠衣の隣にぴったり引っ付いていた。戸惑いの表情を浮かべている。「ほら。頑張ってみて。動かないと始まらないよ」「でも…… 緊張しすぎて」 瑠衣は優しい橘さんの背中をさすった。 すると一人の男性がやってきた。彼はまっすぐに橘さんのところにやってきた。好みみたいなのは迷いのない歩みで分かった。瑠衣はそっと距離を取った。「もし良かったらお話しませんか」「で、でもっ……」 橘さんはちらって瑠衣を見た。(頑張れ) サムズアップを橘さんに向ける。彼女は小さく瑠衣に頷いた。「はい、私で良ければ是非」 二人は輪の中に入っていった。 瑠衣は端のテーブルに立った。 ドリンクを手に取った。飲みながら会場を見渡した。知っている人は誰もいなかった。 しばらくして、年配の男性が近づいてきた。四十代くらいだった。笑顔だった。「一人ですか? こういう場は慣れてます?」「初めてです」「そうですか。お綺麗なんだから、もう少し若ければねえ」 笑いながら言った。 悪意がある声ではなかった。それが余計に言葉に詰まった。「今からなら子どもは急がないといけないですよ。頑張って」 また笑った。 笑顔で言っていた。本当に、本人は親切にしているつもりだった。だから言い返せなかった。言い返す言葉が見つからなかった。「そうですね」 それだけ返した。 男性は別の方向へ歩いていった。 ドリンクを飲んだ。 帰ることだけ考えた。橘さんが少し慣れたのを確認してから、声をかけて出た。「先輩、来てくれてありがとうございました」「大丈夫そうでしたね」「もう少しい
続きを読む

45話「動き始める企画」

 月曜日の朝、オフィスの空気がいつもと違った。 エレベーターを降りた瞬間から、廊下の話し声が普段より多い。「出版社案件らしいよ」「大型企画みたいだね」 誰もが噂だけを口にして、詳細を知る者はいない。瑠衣は自分のデスクに着き、いつも通りパソコンを立ち上げた。メールを開き、今日の予定を確認する。周囲のざわめきは気になったが、手を止める理由にはならなかった。 修正依頼の対応が二件入っていた。メーカーとのやり取りを終えて、社内確認を済ませる。普段通りの仕事だった。ただ廊下の話し声は昼になっても続いていた。「大型案件」「出版関係」という言葉が、断片的に耳に入ってくる。瑠衣はその都度、画面に視線を戻した。午前の仕事を終えた頃、部長から声がかかった。「今日の午後、案件説明の場を設ける。第一営業局は全員参加で」 昼休み。近くの定食屋に行くと、先に正木がカウンターで食事を取っていた。瑠衣の姿を見ると軽く手を上げた。隣の席が空いていた。 腰かけて日替わり定食を食べると正木が話しかけてきた。「大型案件の噂は本当だったんだ。瑠衣さん、灯火書房って知ってる?」「名前だけなら」 それだけだった。正木は定食の味噌汁を一口飲んでから、少し声を落とした。「出版社って、うちあんまり取引ないじゃないですか。だから余計に気になって」「ですよね。珍しい案件ではあると思います」「灯火書房って、電子書籍系の会社だよね。なんか変わった社長がいるって聞いたことある」 瑠衣はカウンターに出された定食の盆を軽く見て、箸を取ろうとした手が止まった。「そうですか」 それだけ答えた。二人とも、詳細はまだ知らなかった。 会議室に部長の声が響いた。「今日はみんなに、新しい案件の概要を話す」 スクリーンに一枚のスライドが映し出される。「クライアントは、灯火書房」 瑠衣はペンを持つ手を止めた。社名だけが、他の言葉より少し大きく耳に残った。 部長がスライドを進める。「AIによる読み上げシステムの共同開発案件だ。紙の本も電子書籍も両
続きを読む

46話「思っていた形ではなく」

 土曜日の午後、玄関のチャイムが鳴った。  いつもの時間、いつもの顔だった。灯は軽く会釈をして靴を脱ぎ、廊下を進んでいく。書庫の扉を開ける手つきも、椅子を引く動作も、これまでと変わらない。 書庫に入った時から、鞄を置く動作が少し遅かった。本を選ぶのにいつもより時間がかかっている。心がここにないというのがぴったりくる動作だった。瑠衣は少し首を傾げて、台所でお茶を淹れた。  瑠衣がお茶を運んでいくと、灯はもう本を広げていた。  それから一時間近く、机の上の光景はほとんど動かなかった。  灯の指は本の右端に触れたまま止まっている。視線は確かに紙面の上にあるのに、文字を追っている速さではなかった。同じ行のあたりで目が止まり、しばらくしてまた戻る。ページをめくる音が、いつもより遠い間隔でしか聞こえてこない。  湯呑みも減っていない。運んできた時とほとんど同じ位置に、同じ高さの水面のまま置かれている。表面に浮いていた湯気は、とうに消えていた。  瑠衣は本棚の整理をするふりをして、その様子を少し見ていた。 声をかけるべきか、少し迷った。 書庫に入った時から、灯の様子は普段と違った。鞄を置く動作が少し遅かった。 本を選ぶのにいつもより時間がかかった。それでも何も言わなかったので、瑠衣も何も聞かなかった。お茶を淹れて持っていった。「ありがとうございます」という返事は、いつも通りだった。 灯が書庫へ来てから、もう一時間ほど経っていた。その間、ページをめくった回数を数えていたわけではないが、ほとんど動いていないことは分かった。お茶も最初の一口から変わっていない。カップの外側に水滴がついていた。 声をかけるべきか迷った。書庫に入った時から、鞄を置く動作が少し遅かった。本を選ぶのにいつもより時間がかかった。それでも何も言わなかったので、瑠衣も黙っていた。 以前にも、灯が茶に手をつけないまま夕方を迎えたことがある。あの時は本の中に入り込みすぎて、周りが見えなくなっていた。今は違う。本が灯を掴んでいるのではなく、灯の方が本の上で立ち止まっている。  指
続きを読む

47話「方向が違う」

 火曜の午前、企画チームの打ち合わせが始まった。 配られた資料が、机の上を滑るように回ってくる。瑠衣は一枚目に目を落とした。 灯火書房とのタイアップ企画が正式に動き出す。表紙にはそう書かれている。ページをめくると、二枚目の上半分に大きく人名が印刷されていた。人気若手俳優、起用予定。名前の下には出演作の一覧が続いている。 その下、余白を挟んだ小さな活字で、読書支援システムの概要が三行だけ添えられていた。 瑠衣の視線が上下に往復する。読書機会の平等という言葉と、俳優の名前。同じ紙の上に並んでいるのに、文字の大きさがまるで違った。 資料の端を持つ指に、少し力が入る。 斜め向かいの席で、正木も黙ったまま同じページを見ていた。 会議室はいつも通りの空気だった。プロジェクターが立ち上がり、担当者が資料の説明を始める。視覚障害者の読書支援、電子書籍と紙の書籍の両対応、AI読み上げシステムの概要。その説明が続く間、梨香子はスマホを見ていた。資料ではなく、スマホを。 担当者の説明が終わった。梨香子がスマホを置いた。「じゃあ私から補足します」と立ち上がった。資料には目を向けなかった。 梨香子が立ち上がり、ホワイトボードの前に出た。「この俳優さん、私の知り合いなんです」 明るい声だった。手元の資料を見ずに話し始める。「事務所も乗り気で、SNSも回してもらえます。フォロワー、二百万超えてるんですよ」 誰かが感嘆の声を上げる。若手の男性社員が身を乗り出した。「それ、めちゃくちゃ強いですね」「でしょう? 絶対バズります」 梨香子は嬉しそうに頷いた。自分の企画を信じている顔だった。誰かを出し抜こうとしているのでも、手を抜こうとしているのでもない。これが一番良い形だと、本気で思っている。 男性社員たちの間で、拡散数の話が続く。ハッシュタグをどうするか、投稿のタイミングをいつにするか。 瑠衣は資料の三行を、もう一度読んだ。「本末転倒じゃないか」 斜め向かいから、小さな声がした。正木だった。誰にも届かないような音量だったが、瑠衣の耳には届いた。 顔を上げると、正木は資料を裏返して机に伏せていた。 梨香子の説明は続く。フォロワー数、拡散力、タイアップ実績。数字は並んでいたが、読書支援という言葉は一度も出てこなかった。男性社員の声が重なるたびに、梨香子の声は少
続きを読む

48話「崩れ始めた企画」

 午前十時、会議室のモニターに灯火書房の担当者が映し出された。  マイクの音量を確認し、簡単な挨拶が済むと、オルビット側の説明が始まる。梨香子が画面共有をしながら、資料を順に送っていった。  起用予定の俳優のプロフィール。SNSでの投稿計画。都内でのイベント案。インフルエンサーを三十名招く先行体験会。 「投稿は公開の一週間前から段階的に出していきます。ハッシュタグはこちらで統一して、トレンド入りを狙います」  スライドが切り替わるたびに、数字が並ぶ。想定リーチ数、拡散率、想定インプレッション。  モニターの中の担当者は、口を挟まずに最後まで聞いていた。目立った表情の変化もない。ただ、時折手元に視線を落として何かを書き留めている。  一通りの説明が終わり、梨香子が「以上になります」と締めくくった。  短い間の後、担当者が口を開いた。 「ありがとうございます。ひとつだけ、確認させてください」  穏やかな声だった。 「読書支援システムのご説明は、どちらで行われる予定でしょうか」  会議室の空気が、少し止まった。  梨香子は気づいていないようだった。資料の次のページを開こうとしていた。瑠衣は手元のメモを見たまま、視線を上げられなかった。担当者の質問は責めていなかった。ただ確認していた。その静けさの方が、怒声より重かった。  梨香子が次のスライドに移った。俳優のプロフィール写真が映し出された。担当者は画面を見た。何も言わなかった。その沈黙が何を意味するのか、梨香子には届いていなかった。  誰かの椅子が小さく軋む音がした。梨香子はすぐには答えず、資料を戻すようにマウスを動かした。  それから、明るい声で切り出した。 「そちらは、後半のフェーズで考えています。まず俳優さんに興味を持ってもらって、その流れで自然にシステムを紹介すれば十分かと」  自信のある口ぶりだった。良い順序を組み立てたと信じている声だった。 「認知が広がってからの方が、届く人数も増えますので」  担当者は少し頷き、それからゆっくりと言葉を選んだ。 「なるほ
続きを読む
前へ
12345
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status