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75話「好きだった人」

Author: 団紡るう
last update publish date: 2026-08-29 07:00:46

 昼休みになると、御厨が紙袋を提げて休憩室へ入ってきた。いつもの席に袋を置くと、中から箱を取り出す。

「皆さんでどうぞ」

「またそんなもの持ってきて。うちを菓子処にするつもり?」

 そう言いながら、藤堂は誰より先に箱の蓋へ手を伸ばした。包装紙をきれいに畳んで横へ置き、中身を覗き込む。

「藤堂さん、食べるんですね」

「捨てるわけにもいかないでしょう」

 口元が少し緩んでいる。御厨が苦笑しながら一つ取ると、氷川も続いた。瑠衣も勧められた箱から一つ選ぶ。小さな焼き菓子を口に入れると、バターの香りが広がった。

「これ、おいしいですね」

「でしょう?」

 御厨が満足そうに頷く。その横で藤堂はもう一つ手を伸ばしていた。

「藤堂さん、二個目です」

「一個だけだと味が分からないのよ」

「一個目で分かると思いますけど」

「江品さん。そういうところだけ妙に冷静ね」

 瑠衣は思わず笑った。昼休みの短い時間に、こんな話をするのも悪くないと思った。

 しばら
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     土曜日の朝は、平日より少し遅く目を覚ました。カーテンを開けると、薄い日差しが床に伸びている。瑠衣は時計を見てから台所へ向かい、パンを焼いて湯を沸かした。マグカップを二つ出しかけて、片方を棚へ戻す。そこで手が止まったが、理由を考える前に蛇口をひねった。  トーストを皿にのせ、卵を焼く。いつもの朝と変わらない。テレビから流れる天気予報を聞きながら朝食を済ませ、食器を洗う。洗い終えた皿を水切りかごへ置いたあとも、瑠衣はしばらく台所に立っていた。もうすることはない。布巾を畳み直してから、窓の外へ目を向ける。向かいの家のベランダに洗濯物が揺れていた。  時計を見る。まだ午前九時を少し過ぎたところだった。瑠衣は掃除機を出そうとして、やめた。先にお茶を飲もうと思い、湯を沸かす。ケトルが音を立てる前にスイッチを切った。静かになった台所で、瑠衣は首を傾げた。  しばらくして、カレンダーを見た。土曜日。いつもなら昼前から誰かが来ることを、そこで思い出した。 「……今日は来ないんだった」  声に出してから、瑠衣はカレンダーの土曜日の数字を指先でなぞった。来る約束をしていたわけではない。来ると聞いていたわけでもない。それでも、土曜日になると自然に予定の中へ入っていた時間があった。今日はそこだけが空いている。  瑠衣はカレンダーから手を離し、掃除機をかけ始めた。床を一通り掃除して、棚の埃を払う。いつもなら途中で時計を見ることもないのに、今日は何度も壁の時計へ目が向いた。昼になっても、玄関のチャイムは鳴らなかった。宅配便の音すらない。静かな家の中で、掃除機の音だけがやけに大きく聞こえた。  昼食のあと、本棚から一冊取り出した。椅子に座ってページを開く。二、三ページ読んだところで、視線が同じ行に戻った。栞を挟むほどでもないのに本を閉じて、机の端へ置く。  代わりに洗濯物を取り込んだ。畳んでしまう。床に落ちていた小さな糸くずを拾う。引き出しの中まで整理し始めると、そこはすぐに片付いた。やることがなくなると、瑠衣はまた時計を見た。  午後になって買い物へ出た。スーパーでは夕食の材料を選び、必要なものだけを籠へ入れる。レジを終えて家へ戻るころには、空が少しずつ夕方の色に変わっていた。玄関を開ける。靴を脱ぐ

  • 結婚式の端っこで、君と乾杯を   79話「社長の机」

     資料をまとめ終えた午後、瑠衣はファイルを一冊抱えて廊下を歩いていた。届け先は社長室だった。これまで何度か前を通ったことはある。けれど中へ入ったことはない。ガラス越しに見える机と本棚を横目に通り過ぎるだけだった。 社長室の前で足を止める。腕の中のファイルを持ち直してから、扉を二度叩いた。「どうぞ」 聞き慣れた声が返ってくる。瑠衣は一度だけ息を整え、ドアノブに手をかけた。扉を開けると、廊下から見ていたよりも広く感じた。けれど、整然としていると思っていた部屋の中央には、いくつもの本が積まれていた。「失礼します」 中へ入って扉を閉める。灯は机に向かっていた。パソコンの画面を確認していたが、瑠衣に気づくと顔を上げる。「資料をお持ちしました」「ありがとうございます。そこへお願いします」 指された机の端へファイルを置く。そこで瑠衣は、初めて机全体を見た。 社長室に置かれているものとして想像していた立派な机とは少し違った。机そのものは大きい。けれど天板の上には本が三冊重なり、その横に別の本が二冊開いたまま置かれている。ページの端には細い付箋が何本も並び、色の違うものが本から小さく飛び出していた。 飲みかけのお茶もある。湯呑みの隣には読みかけの原稿が束になっていて、その上に眼鏡が置かれている。眼鏡のつるが紙の端に引っかかっていた。ペンも一本だけではない。黒と青と赤が、原稿の隙間にそれぞれ違う向きで転がっている。 瑠衣は視線を一周させた。「……散らかってますね」「そうですか?」 灯は机の上を見た。けれど片付けようとはしない。「御厨さんよりはましです」「それなら大丈夫ですね」 真顔のまま返されて、瑠衣は思わず口元を緩めた。灯はその反応を確認することもなく、眼鏡を手に取って原稿へ視線を戻す。「御厨さん、昨日も何かやってましたか?」「昨日の資料整理ですか?」「はい」 瑠衣は少し考えてから答えた。「別部署から来た資料を整理してました。最初は御厨さんが分類してたんですけど、途中から藤堂さんが手伝ってく

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     昼休みになると、御厨が紙袋を提げて休憩室へ入ってきた。いつもの席に袋を置くと、中から箱を取り出す。「皆さんでどうぞ」「またそんなもの持ってきて。うちを菓子処にするつもり?」 そう言いながら、藤堂は誰より先に箱の蓋へ手を伸ばした。包装紙をきれいに畳んで横へ置き、中身を覗き込む。「藤堂さん、食べるんですね」「捨てるわけにもいかないでしょう」 口元が少し緩んでいる。御厨が苦笑しながら一つ取ると、氷川も続いた。瑠衣も勧められた箱から一つ選ぶ。小さな焼き菓子を口に入れると、バターの香りが広がった。「これ、おいしいですね」「でしょう?」 御厨が満足そうに頷く。その横で藤堂はもう一つ手を伸ばしていた。「藤堂さん、二個目です」「一個だけだと味が分からないのよ」「一個目で分かると思いますけど」「江品さん。そういうところだけ妙に冷静ね」 瑠衣は思わず笑った。昼休みの短い時間に、こんな話をするのも悪くないと思った。 しばらく菓子をつまみながら雑談をしていると、瑠衣はふと周囲を見渡した。藤堂も御厨も氷川も、独身だ。仕事の話をしているときには気にしたことがなかったので、改めて気づくと少し不思議だった。「そういえば、皆さん結婚されてないんですね」「いきなり何の話?」 藤堂が眉を上げる。「すみません」「まあ、してないけど」 藤堂は焼き菓子を齧りながら肩をすくめた。御厨も特に否定せず頷き、氷川は手元の袋を折りたたんでいる。「結婚って、したいと思ったことあります?」 聞いてから、少し唐突だったかもしれないと瑠衣は思った。それでも三人とも嫌そうな顔はしなかった。 藤堂は菓子を一口食べてから、机の上の紙袋を見た。「若い頃はね。普通に結婚して、普通に家庭を持つものだと思ってた」「今は?」「一緒にいて疲れない人なら、いいんじゃない?」 瑠衣は手にした菓子を止めた。「疲れない人、ですか」「うん。ずっと一緒にいるなら、そのくらいがいいでしょう」

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     土曜の夜に受け取った本は、日曜のうちには読み終わらなかった。月曜の朝、出勤前の数分に一ページ、二ページと読み進める。トーストを咥えながらページをめくり、時計を見て慌てて鞄にしまうことが何度かあった。電車を待つホームでも、鞄から取り出して開いた。周囲の喧騒が、ページの中の静けさとは対照的だった。乗り換えのアナウンスに顔を上げるのが、いつもより一拍遅れる日もあった。改札を抜けたあとも、しばらく本のことを考えながら歩いていた。  昼休み、休憩室の隅で続きを開く。藤堂や御厨たちが雑談する声を遠くに聞きながら、ページをめくる指だけが本の世界に入り込んでいた。氷川が紙の話を始めても、今日ばかりは半分上の空で聞き流していた。藤堂が「お昼、ちゃんと食べてます?」と声をかけてきたときも、返事が一テンポ遅れた。弁当箱の蓋を開けたまま、しばらく箸をつけずにページを繰っていることもあった。夜、帰宅してからも、寝る前の短い時間に少しずつ進めた。灯りを落とす前、栞を挟む位置が、日ごとに後ろへずれていった。  物語は、結婚を控えた女性が、婚約者との日々の中で小さな違和感を積み重ねていく話だった。派手な事件は起きない。婚約者の何気ない一言、食卓での沈黙、二人で選んだ食器の色。そうした細部が積み重なり、女性の視線がゆっくりと変わっていく様子だけが描かれていた。読み進めるほど、瑠衣は自分がどの場面に立ち止まっているのか、自分でもよく分からなくなっていった。ページの端を折らないよう、しおりを挟む手つきだけが、いつも同じ丁寧さを保っていた。読み終えたページ数を、何気なく数えてしまう夜もあった。  ある夜、瑠衣は同じページを三度読んだ。  文章そのものが難しいわけではない。ただ、主人公が食卓で黙ったまま相手の皿を見ている場面から、どうしても先へ進めなかった。婚約者は何も悪いことをしていない。約束を破ったわけでも、怒鳴ったわけでもない。それでも主人公は、以前なら気にしなかったことに目を留めるようになっていた。  瑠衣は一度本を閉じた。机の横に置いた水へ手を伸ばす。飲み終えてから、また表紙を開いた。  今度は先へ進めた。  けれど、読み終わったあとも、その場面だけが妙に残った。何か大きな出来事があったわけではない。だからこそ、瑠

  • 結婚式の端っこで、君と乾杯を   1話「婚約破棄の夜」

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  • 結婚式の端っこで、君と乾杯を   3話「鍵」

    「ブーケトスのお時間です!」 司会の声が会場に響いた。テーブルから立ち上がる女性たちの気配。瑠衣も立ちかけた。「お客様はご着席でお待ちください」 スタッフが笑顔で近づいてきた。丁寧な声だった。意味は一秒で理解できた。「……わかりました」 ブーケが空中を飛んだ。歓声が上がった。拍手が起きた。瑠衣の円卓だけが、切り取られたように静かだった。 しばらくして、真衣側の友人席から男が一人やってきた。グラスを持ったまま、ふらついた足取りで。酔っていた。「ねえ、君いくつ?」 瑠衣を見て、気さくに話しかけてきた。「二十九です」 男は数秒、止まった。「え」「二十九歳です」「おばさんじ

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