LOGIN第2話 同じ道
そして愛梨沙は、その男の後を追いました。 男は早足ではありませんが、立ち止まることもしませんでした。駅ビルの出口へ向かう人の流れの中で、濃紺の背中は何度か見えなくなり、また現れます。 白い小箱の入った紙袋が、男の手の中で小さく揺れていました。 愛梨沙は、その揺れを見ていました。 近づきすぎてはいけません。 声をかけてはいけません。 肩に触れてもいけません。 恋というものは、最初から触ってしまうと壊れるのだと、愛梨沙は思っていました。触れられたことのない女ほど、触れることを怖がるものです。けれど不思議なことに、見ることだけは怖がりません。見ることは、まだ罪ではない。 少なくとも、その時の愛梨沙はそう思っていました。 駅ビルの出口を抜けると、冷房で冷えた肌に六月の湿気が貼りつきました。空は低く、雨になる少し前の匂いがして、誰かの傘の先がまだ開かれないまま足元で揺れています。タクシー乗り場には水を含んだ風が流れ、車道の向こうの紫陽花は、さっきよりも青く見えました。 男は駅前の横断歩道を渡り、革靴が白い線を踏みました。愛梨沙は少し遅れて、同じ白線を踏みます。 ただの横断歩道で、誰のものでもない、誰でも踏める、汚れた白い線です。 それでも愛梨沙には、そこだけが男の残していった小さな道しるべのように見えました。 (同じところを歩いてる。偶然じゃないよね? だって、こんなに人がいるのに、私だけがちゃんとあなたの後ろを歩けてるんだもん。あなたが右へ行けば私も右へ行けるし、あなたが止まれば私も止まれる。ねえ、これって少しだけ、一緒に帰ってるみたいだね) 男は振り返りません。 それが、愛梨沙にはありがたいことでした。振り返られたら、きっと何もできません。目が合えば、息の仕方を忘れてしまいます。だから今は、背中だけでよかったのです。 知らない男の背中。まだ名前も知らない男。けれど、さっきまでより少し近い男。 男は駅前の小さな広場を抜け、ビルの脇にある自動販売機の前で足を止めました。 愛梨沙は街路樹のそばで止まります。 白い手袋の内側が、急に熱くなりました。 男は紙袋を片手に持ったまま財布を出し、硬貨を入れました。 ちゃり、と小さな音。 男が選んだのは、黒い缶でした。 銀色の文字で、BLACK COFFEEとだけ書かれています。甘くなさそうで、冷たそうで、少し寂しそうな缶でした。 がこん、と取り出し口に落ちる音がして、男は身を屈めました。その時、濃紺のスーツの背中が少し丸くなります。ジュエリーショップで誰かのために迷っていた男とは、ほんの少し違いました。 これは日常の中にいる男でした。 誰かに見せるためではない顔。誰かを喜ばせるためでもない仕草。喉が渇いたから飲む、それだけの、何でもない動き。 愛梨沙は、それすら欲しいと思いました。 男が缶を開けると、ぷしゅ、と小さく空気が抜けました。 その音は、なぜか愛梨沙の耳元で鳴ったように近く聞こえます。 男はひと口飲みました。喉が小さく動きます。白いシャツの襟元。喉仏の上下。缶の口に触れた唇。 見てはいけないものを見ている気がしました。 それでも目を逸らせませんでした。 (そんなの飲むんだ。甘くないものが好きなの? それとも、疲れてるから? 眠いの? 仕事で嫌なことがあったの? 誰かに優しくして、自分の分の優しさが足りなくなっちゃったのかな。だったら私があげるのに。甘いものでも、苦いものでも、あなたが選ぶなら私も好きになれるよ) 男が歩き出してから、愛梨沙は自動販売機の前に立ちました。 さっき男が押したボタンを探します。 黒い缶 BLACK COFFEE NO SUGAR 白い手袋の指先が、ボタンの上で少し迷いました。 同じものを買うだけです。 ただ、それだけです。 けれど愛梨沙には、男の影をひとつ盗むような気がしました。 ボタンを押すと、がこん、と缶が落ちました。取り出し口に手を入れると、白い手袋越しでも缶は冷たく、その冷たさが布を通して指に染みます。 男も、これに触りました。 男も、この重さを持ちました。 男も、この飲み口に唇をつけました。 同じ黒 同じ冷たさ 同じ音 愛梨沙は缶を胸の高さまで持ち上げました。 プルタブに指をかけます。白い手袋では少し滑りました。指先に力を入れると、爪が布の内側を押します。 ぷしゅ。 音がしました。 男の缶と同じ音でした。 ひと口飲みます。 冷たい液体が舌に触れた瞬間、愛梨沙の眉が少し動きました。 苦い 甘くない まったく、可愛くない味 舌の上に残る苦味が、喉の奥へゆっくり落ちていきます。美味しいとは思いませんでした。少なくとも、愛梨沙が普段選ぶ味ではありません。 それでも、もう一度口をつけました。 (苦いや…。でも大丈夫。あなたが好きなら、私も好きになるよ。最初は少し苦くても、そのうち平気になるから。だって、お揃いだもん。誰にも分からないけど、今、私たち同じ味を知ってるんだよ) 男は少し先を歩いていました。 愛梨沙は黒い缶を両手で持ったまま、その背中を追いました。通り沿いの店から、昼食を終えた人たちが出てきます。笑い声。濡れた傘袋の擦れる音。信号待ちの車の低いエンジン音。街はいつも通りで、誰も白い手袋の女を気にしません。 誰も、男と女が同じ黒い缶を持っていることに気づきません。 それが、愛梨沙には嬉しかったのです。 誰にも知られないお揃い 誰にも見つからない秘密 まだ名前も知らない男と、勝手に分け合った小さな味 男は交差点の手前で立ち止まり、スマホを取り出しました。 愛梨沙は少し後ろ、店の看板の影で足を止めました。 男は片手に缶を持ち、もう片方の手で画面を見ています。眉間に、ほんの少しだけ皺が寄りました。 仕事の連絡でしょうか。 友人でしょうか。 それとも、あの白い箱を渡す相手でしょうか。 画面の中に、愛梨沙の知らない誰かがいました。 男の指が画面をなぞります。返信を打っているのか、ただ読んでいるだけなのかは分かりません。けれど、その指先が誰かへ向かっていることだけは分かりました。 白い小箱 薔薇のルビー 黒い缶 濃紺のスーツ そして、画面の向こうの誰か 男の周りには、愛梨沙の知らないものばかりがありました。 (ずるいな。あなたの今日を知っている人が、他にもいるんだね。あなたが何時に起きて、誰に会って、何を買って、今どこにいるのか。私より先に知っている人がいるんだね。でもいいよ。これから知ればいいから。遅れた分、ちゃんと追いつくから) 信号が青になりました。 男はスマホをしまい、また歩き出しました。 その時です。 男が缶を持ち替えました。白い小箱の紙袋を左手に移し、右手で黒い缶を持ちます。 一瞬だけ、左手が光りました。 愛梨沙は、その光を見ました。 最初は時計かと思いました。けれど違います。 男の左手の薬指に、細い銀色の輪がありました。 結婚指輪でした。 言葉になるより先に、愛梨沙の体がそれを理解しました。 足が止まります。 人の流れが、愛梨沙の横をすり抜けていきました。誰かの肩がぶつかりそうになり、愛梨沙は半歩だけ後ろへ下がります。 黒い缶の冷たさが、急に手袋の内側まで刺さりました。 男は歩いていきます。結婚指輪をしたまま、白い小箱を持ち、薔薇のルビーのピアスを誰かに贈る赤として、大事そうに抱えたまま。 愛梨沙はその場に立ち尽くし、男の左手だけを見ていました。 結婚している人 奥さんがいる人 帰る家がある人 玄関があって、食卓があって、男の名前を毎日呼べる人がいる人 普通なら、そこで終わるはずでした。 知らない男 既婚者 偶然見かけただけの人 ただ、それだけの話です。 けれど白い手袋の女の恋は、そこで終わりませんでした。むしろ胸の奥がゆっくり痛くなり、痛いのに、嫌ではありませんでした。 雨になる前の空みたいに、重くて、湿って、息苦しいのに、どこか甘かったのです。 (奥さんがいるんだね。それなのに…そんなに寂しそうだったの? ちゃんと帰る場所があるのに、可哀想。誰かが隣にいるのに、そんな顔で迷わなきゃいけないくらい、あなたは足りてないんだね) 愛梨沙は、もう一度缶に口をつけました。 苦味が舌に広がります。 さっきよりも、ずっと苦く感じました。 けれど、飲み込みました。 男の背中は遠くなっていきます。白い小箱が揺れています。 あの赤は、奥さんへのものなのでしょうか。 薔薇の形をした小さなルビーのピアス。小さくて、華やかで、血液のような深い赤 奥さんは、赤が好きなのでしょうか。それとも男は、奥さん以外の誰かのために、あんな顔をしていたのでしょうか。 その考えが胸の中に落ちた時、愛梨沙の指先が缶を強く握りました。 冷たく冷えた缶が、白い手袋の中の熱を奪っていきます。 けれど、手放せませんでした。 男が誰かのものかもしれないという事実は、愛梨沙の足を止めませんでした。むしろもっと強く、男を見させました。 誰のものなのか どんな家へ帰るのか 誰がその指輪を選んだのか 誰が男の名前を呼ぶのか その人は、男の疲れた顔にちゃんと気づいているのか 男が黒い缶コーヒーを飲むことを知っているのか 雨の前の湿った空気の中で、少しだけ肩を落として歩くことを、ちゃんと見ているのか 知らないなら。 気づいていないなら。 それは、きっと。 (私が見てあげなきゃ) 白い手袋の中で、指先が缶の冷たさを押し返しました。 男は角を曲がります。 愛梨沙は、少し遅れて歩き出しました。 同じ道を 同じ黒い缶を持って 同じ苦い味を、口の中に残したまま そして、男の左手の銀色だけが、雨の降らない午後に、いつまでも愛梨沙の目の奥で光っていました。横断歩道を渡りきる頃には、男の背中はもう人の波に紛れかけていました。愛梨沙は、白いボトルを握ったまま、ほんの少しだけ歩幅を早めました。青信号の音が、濡れた夜に薄く伸びています。人の波が動きました。傘の縁から落ちる雫、革靴が白線を踏む音、誰かの笑い声、濡れたビニール袋の擦れる音。駅前の横断歩道は、昼間より少しだけ汚れて見えました。白い線の上を、男の黒い靴が渡っていきます。愛梨沙も、その少し後ろを歩きました。同じ白線を踏みました。右足、左足。男の足跡なんて残っていません。雨がすぐ消してしまいます。けれど愛梨沙には、どこを踏めばいいのか分かる気がしました。濃紺の背中は、人の間に入ると見えたり消えたりしました。大きな傘の向こう、スーツ姿の男の肩の隙間、自転車を押す人の後ろ。濃紺が消えるたび、白いボトルを握る指に力が入りました。見つけ直すまで、息が少し浅くなります。(待って。違う、待ってじゃない。私が見てるから。あなたの背中が人の中に沈んでも、濡れた肩の色も、指の形も、ちゃんと拾えるから)白いボトルは、もうぬるくなっています。さっきまで甘かった匂いも、少しぼやけていました。飲み物というより、手の中に残された小さな証拠みたいでした。捨ててもいいはずでした。駅前にはごみ箱があります。コンビニにも戻れます。けれど愛梨沙は、捨てませんでした。そのボトルを持ったまま、男の後ろを歩きました。目の前の人混みが、少し詰まります。横断歩道の先で、誰かの傘が風に煽られたのです。黒い傘が大きく傾き、隣の人の肩にぶつかりました。「すみません」小さな声がして、人の流れが一瞬だけ乱れました。男も足を止めました。愛梨沙の足も止まりました。近い。思ったより、ずっと近いところにいました。濃紺の上着の肩が、雨の光を受けて少し湿っています。黒い傘を持つ左手には結婚指輪が見えました。街灯を受けて、小さく光ります。胸の奥が、きゅっと縮みました。嫌な光です。でも、嫌いにはなれませんでした。男は、肩越しに少しだけ顔を動かしました。後ろを振り返ったのです。理由は愛梨沙ではありません。ぶつかった傘のせいかもしれません。人の声がしたからかもしれません。ただ何となく、後ろの気配を見ただけかもしれません。それでも、その視線がこちらを通りました。ほんの一瞬でした。本当に、
赤い爪の女は、もういませんでした。さっきまで男の隣にいた女です。薔薇のルビーのピアスを受け取り、男の袖に触れ、ホテルの方へ一緒に消えていった女。その赤だけが、今はどこにもありません。雨に濡れた歩道の端を、濃紺の背中だけが横切っていきました。ひとりでした。黒い傘を持つ左手が、少し重そうに揺れています。愛梨沙は白いボトルを握ったまま立っていました。甘い飲み物はもう欲しくありません。喉の奥に残った匂いが、少しずつ重くなっていきます。甘いのに渇くような味でした。(拓哉さん…)名前を呼んだだけで、喉の奥が少し痛みました。声には出しません。出したら、雨の中に落ちてしまいそうでした。届かない名前を呼ぶのは、泣くのと少し似ています。届かなかったら、呼んだことまで恥ずかしくなるからです。男は駅の反対側へ歩いていきます。急いでいるようには見えないのに、足取りは軽くありません。人にぶつからないよう肩を避けながら、帰る場所を決め損ねたような顔で歩いていました。麻里亜はいません。妻もいません。白いニットの女も、ここにはいません。それなのに男の周りには、誰かの気配だけが薄く残っているようでした。赤い爪のあと、青い紫陽花の気配、白い袖の甘さ。そういうものを全部置いてきたような顔で、男はひとりで歩いています。愛梨沙は少し遅れて足を動かしました。違う。追っているわけではありません。ただ同じ方向へ歩いているだけです。駅前の道は誰でも通ります。雨の日の夜に、濃紺の背中を目で追うことくらい誰にでもあるはずです。そういうことにしました。けれど愛梨沙の足は、男が曲がると同じように曲がりました。男が人の流れから外れると、愛梨沙も少しだけ端へ寄りました。白いボトルを持つ手に湿った熱がこもります。甘い匂いが、手袋の内側まで入ってくるようでした。男は駅ビルの脇にある屋根の下で立ち止まりました。雨を避けるためではなさそうです。ただ、そこでいったん足が止まったのです。黒い傘を持ったまま、スマホを取り出します。画面の光が男の顔を下から薄く照らしました。昼間、ジュエリーショップの硝子越しに見た横顔より、ずっと疲れて見えました。目の下に影があります。口元は閉じているのに、何かを言い損ねたように少し硬い。男はしばらく画面を見ていました。誰かに電話をするのかもしれません。妻へでしょうか。
(それ、誰の?)愛梨沙は、画面の中の黒い缶を見つめたまま動けませんでした。薄いピンクのカップ白い袖その横に置かれた黒い缶コーヒー証拠ではありません。黒い缶なんて、どこにでも売っています。駅にもホテルにもコンビニにも、自動販売機にもあるものです。誰かが偶然買っただけかもしれないし、白いニットの女が自分で選んだだけかもしれません。そう思おうとしました。でも胸の奥は、言うことを聞きませんでした。(違うよね。ただの黒い缶だよね。拓哉さんのものじゃないよね。でも、どうしてそんなところに置くの? 甘いものの横に、どうして苦いものを置くの?)すず音の投稿文は短いものでした。「甘いの飲んでると、苦いの飲める人が大人に見える」それだけです。名前はありません。誰のこととも書いていません。でも、名前のない空白ほど嫌なものはありませんでした。愛梨沙は画面を閉じました。もう見ない。そう決めたはずなのに、閉じた画面の黒さの中に、薄いピンクのカップと白い袖がまだ残っている気がしました。甘いもの、白い服、少し伏せた目。寂しいと書かずに、寂しいと読ませる言葉。それらは愛梨沙の中に、いつまでも残りました。駅ビルの店は少しずつ灯りを落とし始めていました。【Y.COCO】の硝子ケースの中も昼間より暗く、宝石の光は眠る前の目みたいに細くなっています。愛梨沙は硝子に映った自分を見ました。白い手袋白い顔黒いスマホすず音の白とは違う白でした。すず音の白は、誰かに触れられるための色に見えました。柔らかくて、汚したら悪いと思わせる色です。愛梨沙の白は、触らせないためのものでした。白い手袋の中にある指先は、誰にも見えません。(白なら同じなのにね。どうして、あの人の白は甘く見えるんだろう。どうして私の白は、隠してるみたいに見えるんだろう)愛梨沙は駅ビルを出ました。雨はまだ細く残っていました。傘を差すほどではありませんが、髪の表面にはすぐ小さな粒がつきます。歩道の先に、コンビニの明かりがありました。白く明るすぎる光です。そこへ吸い寄せられるように、愛梨沙は足を向けました。自動ドアが開くと、ぬるい空気と揚げ物の匂いが混ざって頬に触れました。店内には濡れた傘をビニール袋に入れる音と、レジ袋の擦れる音がありました。愛梨沙は飲み物の棚の前に立ちました。黒
(誰?)愛梨沙は、画面の下に出た小さな表示を見つめました。あなたにおすすめ白いニットを着た女のアイコン。そこに添えられた一文。「甘やかしてくれる人、どこですかぁ?」雨の音が、駅ビルの入口で少しだけ強く聞こえました。自動ドアが開くたび、外の湿った空気が入り込み、店じまいを始めた【Y.COCO】の硝子に細い曇りを残します。愛梨沙は、まだ動けませんでした。おすすめ。ただの表示です。画面の下に勝手に出てきただけの、知らない女です。愛梨沙が作ったばかりの鍵垢とは関係ありません。拓哉とも、瑠璃子とも、麻里亜とも関係があるとは限りません。それなのに、その一文だけが喉の奥に引っかかりました。甘やかしてくれる人。どこですかぁ?語尾の小さな伸び方まで、指先にまとわりつくようでした。(甘やかしてくれる人って、誰? 誰にそんな顔して探してるの? 私には関係ないはずなのに。知らない女の知らない言葉なのに、どうしてこんなに嫌なの?)愛梨沙は、白い手袋の指で画面に触れました。開いてしまってから少しだけ後悔しましたが、閉じることはできませんでした。白いニットの女のページに、鍵はかかっていませんでした。誰でも見られる場所に、柔らかそうな写真と言葉が置かれています。白いニットを着た女のそばに、薄いピンクのカップがありました。ミルクティーの横には小さな花が置かれ、少しぼやけた自撮りには顔の半分だけが写っていました。大きな目と淡い色の唇が、笑っているようにも、寂しそうにも見えます。名前の欄には、すず音、とありました。宵宮すず音。愛梨沙は、その文字をゆっくり読みました。宵宮。すず音。夜に鳴る鈴みたいな名前だと思いました。可愛い名前です。本人も、そう思われることを知っているような名前でした。(すず音さん。可愛い名前。呼ばれるために生まれてきたみたいな名前だね。誰かが少し甘く崩して呼ぶための名前。いいな。そういう名前の人は、寂しいって言ってもきっと怒られないんだ)心の中で呼んでみると、音が軽く跳ねました。麻里亜という名前は、赤くて少し重い。瑠璃子という名前は、青くて、声に出す前から静かでした。すず音という名前は、白いカップの縁に当たったスプーンみたいに、軽く鳴る名前でした。愛梨沙は投稿を下へ送ります。「今日はちょっとだけ声聞けたから、まだ頑張れる」
まるで誰かに、その言葉を読まれているような気がしたのです。愛梨沙は、しばらくスマホを握ったまま動けませんでした。鍵のかかったアカウントには、まだ誰もいません。フォロー中 0フォロワー 0投稿 1数字だけが画面に並んでいて、愛梨沙の胸だけが妙に熱を持っていました。この部屋の場所を知っている人はいません。名前も顔も出していません。アイコンに使った横断歩道だって、人影のない白い線だけです。それなのに、投稿したばかりの言葉が自分の手を離れて、どこかへ行ってしまったように思えました。今日はあなたと同じ道を歩いた短い文です。ただそれだけの文です。けれど愛梨沙には、その中に今日の午後が全部入っていました。ジュエリーショップの白い光、濃紺の背中、薔薇のルビー、黒いコーヒーの苦味、結婚指輪、赤い爪、青い紫陽花。どれも他人から見れば、何の関係もないものばかりです。でも、愛梨沙の中では、もうひとつの道になっていました。(見えてないよね? これは私だけの部屋だよね。拓哉さんのことを、私だけがしまっておく場所だよね)ラウンジの席で、愛梨沙はもう一度その言葉を開きました。いいねはついていません。返信もありません。フォローリクエストもありません。その部屋には、まだ愛梨沙しかいません。それでも何度も表示を更新しました。下へ引いて、戻す。少し待って、また開く。何も変わらないことを確かめたいのか、何かが変わるのを待っているのか、自分でもよく分かりませんでした。ただ、画面を閉じるのが怖かったのです。閉じてしまえば、あの部屋の中で、拓哉がひとりきりになる気がしました。愛梨沙は、もう一度だけ投稿画面を開きました。言葉を増やしたくなりました。部屋の中に、もう少しだけ置いておきたかったのです。道だけでは寂しい。白い線だけでは物足りない。今日の午後には、味も、音も、温度もありました。それらを置いていけば、いつか拓哉が迷い込んできた時、ここが自分の場所だと分かってくれるような気がしました。(大丈夫。まだ見てるだけ。触ってないよ。拓哉さんの邪魔はしてない。ただ、忘れないようにしてるだけ。あなたが忘れても、私がちゃんと覚えててあげるだけ)愛梨沙は、ゆっくり文字を打ちました。同じ味は、少し苦かった送信する前に、指が止まります。舌の奥に、あの味が戻ってきました。甘く
愛梨沙は、瑠璃子の画面を少しずつ遡りました。ホテルのラウンジは、まだ静かでした。窓の外では雨が細かく降り続いていて、傘を差した人たちが顔を伏せて歩いています。テーブルの上のアイスティーは薄くなり、グラスの底で小さくなった氷が、ほとんど音も立てずに溶けていました。それでも愛梨沙は席を立ちませんでした。スマホの中には、鴻上瑠璃子という女の暮らしがありました。朝食だけではありません。花瓶の水を替えた朝、洗い立てのシャツを畳んだ午後、夫の帰りを待つ夜の灯り。どれも静かで、きちんとしていて、乱れたものなどひとつもないように見えました。けれど、一度気づいてしまうと、隙のないものほど怪しく残りました。6月16日。その日付で、愛梨沙の指が止まりました。画面に出てきたのは、白いシャツでした。男物のシャツです。袖は左右ぴったりに重ねられ、襟元には皺ひとつありません。横には青い紫陽花の小さな花びらが、偶然そこに落ちたふりをするように置かれていました。文章は短く添えられていました。「明日は少し大事な日だそうです。白いシャツを選びました」明日。つまり、今日です。男が薔薇のルビーのピアスを選び、麻里亜に渡した日。妻が選んだ白いシャツを着て、男は別の女に会いに行ったのです。白い箱を持って、赤い爪の女の前で、困ったように笑っていました。(それ、奥さんが選んだんだ。麻里亜に会う日のシャツを。何も知らないで、襟を触って、袖を伸ばして、拓哉さんの体に触れる布を選んだんだ)胸の奥が、ゆっくり熱くなりました。麻里亜に向ける嫉妬とは違います。赤い爪の女は、分かりやすく男へ触れていました。袖口に指を置き、顔を近づけ、拓哉くんと甘く呼びました。けれど瑠璃子は、もっと静かでした。触っていないような顔で、服に触れている。食卓に触れている。玄関に触れている。男が帰る場所の空気ごと、最初から持っている。愛梨沙は、その白いシャツを保存しました。【保存】画面の中で、妻が選んだ布が、白い手袋の内側へ落ちてきます。次に開いた日には、透明なグラスがふたつ並んでいました。水が入っているだけの、何でもないグラスです。奥には青い紫陽花がぼやけ、部屋の照明は少し落とされていました。「久しぶりに夫とゆっくり話せました。言葉は少なくても、こういう時間があると安心します」愛梨沙は、その一文をしばらく







