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2話 同じ道

Author: 九重有
last update publish date: 2026-06-24 09:15:50

第2話 同じ道

そして愛梨沙は、その男の後を追いました。

男は早足ではありませんが、立ち止まることもしませんでした。駅ビルの出口へ向かう人の流れの中で、濃紺の背中は何度か見えなくなり、また現れます。

白い小箱の入った紙袋が、男の手の中で小さく揺れていました。

愛梨沙は、その揺れを見ていました。

近づきすぎてはいけません。

声をかけてはいけません。

肩に触れてもいけません。

恋というものは、最初から触ってしまうと壊れるのだと、愛梨沙は思っていました。触れられたことのない女ほど、触れることを怖がるものです。けれど不思議なことに、見ることだけは怖がりません。見ることは、まだ罪ではない。

少なくとも、その時の愛梨沙はそう思っていました。

駅ビルの出口を抜けると、冷房で冷えた肌に六月の湿気が貼りつきました。空は低く、雨になる少し前の匂いがして、誰かの傘の先がまだ開かれないまま足元で揺れています。タクシー乗り場には水を含んだ風が流れ、車道の向こうの紫陽花は、さっきよりも青く見えました。

男は駅前の横断歩道を渡り、革靴が白い線を踏みました。愛梨沙は少し遅れて、同じ白線を踏みます。

ただの横断歩道で、誰のものでもない、誰でも踏める、汚れた白い線です。

それでも愛梨沙には、そこだけが男の残していった小さな道しるべのように見えました。

(同じところを歩いてる。偶然じゃないよね? だって、こんなに人がいるのに、私だけがちゃんとあなたの後ろを歩けてるんだもん。あなたが右へ行けば私も右へ行けるし、あなたが止まれば私も止まれる。ねえ、これって少しだけ、一緒に帰ってるみたいだね)

男は振り返りません。

それが、愛梨沙にはありがたいことでした。振り返られたら、きっと何もできません。目が合えば、息の仕方を忘れてしまいます。だから今は、背中だけでよかったのです。

知らない男の背中。まだ名前も知らない男。けれど、さっきまでより少し近い男。

男は駅前の小さな広場を抜け、ビルの脇にある自動販売機の前で足を止めました。

愛梨沙は街路樹のそばで止まります。

白い手袋の内側が、急に熱くなりました。

男は紙袋を片手に持ったまま財布を出し、硬貨を入れました。

ちゃり、と小さな音。

男が選んだのは、黒い缶でした。

銀色の文字で、BLACK COFFEEとだけ書かれています。甘くなさそうで、冷たそうで、少し寂しそうな缶でした。

がこん、と取り出し口に落ちる音がして、男は身を屈めました。その時、濃紺のスーツの背中が少し丸くなります。ジュエリーショップで誰かのために迷っていた男とは、ほんの少し違いました。

これは日常の中にいる男でした。

誰かに見せるためではない顔。誰かを喜ばせるためでもない仕草。喉が渇いたから飲む、それだけの、何でもない動き。

愛梨沙は、それすら欲しいと思いました。

男が缶を開けると、ぷしゅ、と小さく空気が抜けました。

その音は、なぜか愛梨沙の耳元で鳴ったように近く聞こえます。

男はひと口飲みました。喉が小さく動きます。白いシャツの襟元。喉仏の上下。缶の口に触れた唇。

見てはいけないものを見ている気がしました。

それでも目を逸らせませんでした。

(そんなの飲むんだ。甘くないものが好きなの? それとも、疲れてるから? 眠いの? 仕事で嫌なことがあったの? 誰かに優しくして、自分の分の優しさが足りなくなっちゃったのかな。だったら私があげるのに。甘いものでも、苦いものでも、あなたが選ぶなら私も好きになれるよ)

男が歩き出してから、愛梨沙は自動販売機の前に立ちました。

さっき男が押したボタンを探します。

黒い缶

BLACK COFFEE

NO SUGAR

白い手袋の指先が、ボタンの上で少し迷いました。

同じものを買うだけです。

ただ、それだけです。

けれど愛梨沙には、男の影をひとつ盗むような気がしました。

ボタンを押すと、がこん、と缶が落ちました。取り出し口に手を入れると、白い手袋越しでも缶は冷たく、その冷たさが布を通して指に染みます。

男も、これに触りました。

男も、この重さを持ちました。

男も、この飲み口に唇をつけました。

同じ黒

同じ冷たさ

同じ音

愛梨沙は缶を胸の高さまで持ち上げました。

プルタブに指をかけます。白い手袋では少し滑りました。指先に力を入れると、爪が布の内側を押します。

ぷしゅ。

音がしました。

男の缶と同じ音でした。

ひと口飲みます。

冷たい液体が舌に触れた瞬間、愛梨沙の眉が少し動きました。

苦い

甘くない

まったく、可愛くない味

舌の上に残る苦味が、喉の奥へゆっくり落ちていきます。美味しいとは思いませんでした。少なくとも、愛梨沙が普段選ぶ味ではありません。

それでも、もう一度口をつけました。

(苦いや…。でも大丈夫。あなたが好きなら、私も好きになるよ。最初は少し苦くても、そのうち平気になるから。だって、お揃いだもん。誰にも分からないけど、今、私たち同じ味を知ってるんだよ)

男は少し先を歩いていました。

愛梨沙は黒い缶を両手で持ったまま、その背中を追いました。通り沿いの店から、昼食を終えた人たちが出てきます。笑い声。濡れた傘袋の擦れる音。信号待ちの車の低いエンジン音。街はいつも通りで、誰も白い手袋の女を気にしません。

誰も、男と女が同じ黒い缶を持っていることに気づきません。

それが、愛梨沙には嬉しかったのです。

誰にも知られないお揃い

誰にも見つからない秘密

まだ名前も知らない男と、勝手に分け合った小さな味

男は交差点の手前で立ち止まり、スマホを取り出しました。

愛梨沙は少し後ろ、店の看板の影で足を止めました。

男は片手に缶を持ち、もう片方の手で画面を見ています。眉間に、ほんの少しだけ皺が寄りました。

仕事の連絡でしょうか。

友人でしょうか。

それとも、あの白い箱を渡す相手でしょうか。

画面の中に、愛梨沙の知らない誰かがいました。

男の指が画面をなぞります。返信を打っているのか、ただ読んでいるだけなのかは分かりません。けれど、その指先が誰かへ向かっていることだけは分かりました。

白い小箱

薔薇のルビー

黒い缶

濃紺のスーツ

そして、画面の向こうの誰か

男の周りには、愛梨沙の知らないものばかりがありました。

(ずるいな。あなたの今日を知っている人が、他にもいるんだね。あなたが何時に起きて、誰に会って、何を買って、今どこにいるのか。私より先に知っている人がいるんだね。でもいいよ。これから知ればいいから。遅れた分、ちゃんと追いつくから)

信号が青になりました。

男はスマホをしまい、また歩き出しました。

その時です。

男が缶を持ち替えました。白い小箱の紙袋を左手に移し、右手で黒い缶を持ちます。

一瞬だけ、左手が光りました。

愛梨沙は、その光を見ました。

最初は時計かと思いました。けれど違います。

男の左手の薬指に、細い銀色の輪がありました。

結婚指輪でした。

言葉になるより先に、愛梨沙の体がそれを理解しました。

足が止まります。

人の流れが、愛梨沙の横をすり抜けていきました。誰かの肩がぶつかりそうになり、愛梨沙は半歩だけ後ろへ下がります。

黒い缶の冷たさが、急に手袋の内側まで刺さりました。

男は歩いていきます。結婚指輪をしたまま、白い小箱を持ち、薔薇のルビーのピアスを誰かに贈る赤として、大事そうに抱えたまま。

愛梨沙はその場に立ち尽くし、男の左手だけを見ていました。

結婚している人

奥さんがいる人

帰る家がある人

玄関があって、食卓があって、男の名前を毎日呼べる人がいる人

普通なら、そこで終わるはずでした。

知らない男

既婚者

偶然見かけただけの人

ただ、それだけの話です。

けれど白い手袋の女の恋は、そこで終わりませんでした。むしろ胸の奥がゆっくり痛くなり、痛いのに、嫌ではありませんでした。

雨になる前の空みたいに、重くて、湿って、息苦しいのに、どこか甘かったのです。

(奥さんがいるんだね。それなのに…そんなに寂しそうだったの? ちゃんと帰る場所があるのに、可哀想。誰かが隣にいるのに、そんな顔で迷わなきゃいけないくらい、あなたは足りてないんだね)

愛梨沙は、もう一度缶に口をつけました。

苦味が舌に広がります。

さっきよりも、ずっと苦く感じました。

けれど、飲み込みました。

男の背中は遠くなっていきます。白い小箱が揺れています。

あの赤は、奥さんへのものなのでしょうか。

薔薇の形をした小さなルビーのピアス。小さくて、華やかで、血液のような深い赤

奥さんは、赤が好きなのでしょうか。それとも男は、奥さん以外の誰かのために、あんな顔をしていたのでしょうか。

その考えが胸の中に落ちた時、愛梨沙の指先が缶を強く握りました。

冷たく冷えた缶が、白い手袋の中の熱を奪っていきます。

けれど、手放せませんでした。

男が誰かのものかもしれないという事実は、愛梨沙の足を止めませんでした。むしろもっと強く、男を見させました。

誰のものなのか

どんな家へ帰るのか

誰がその指輪を選んだのか

誰が男の名前を呼ぶのか

その人は、男の疲れた顔にちゃんと気づいているのか

男が黒い缶コーヒーを飲むことを知っているのか

雨の前の湿った空気の中で、少しだけ肩を落として歩くことを、ちゃんと見ているのか

知らないなら。

気づいていないなら。

それは、きっと。

(私が見てあげなきゃ)

白い手袋の中で、指先が缶の冷たさを押し返しました。

男は角を曲がります。

愛梨沙は、少し遅れて歩き出しました。

同じ道を

同じ黒い缶を持って

同じ苦い味を、口の中に残したまま

そして、男の左手の銀色だけが、雨の降らない午後に、いつまでも愛梨沙の目の奥で光っていました。

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