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(誰?)愛梨沙は、画面の下に出た小さな表示を見つめました。あなたにおすすめ白いニットを着た女のアイコン。そこに添えられた一文。「甘やかしてくれる人、どこですかぁ?」雨の音が、駅ビルの入口で少しだけ強く聞こえました。自動ドアが開くたび、外の湿った空気が入り込み、店じまいを始めた【Y.COCO】の硝子に細い曇りを残します。愛梨沙は、まだ動けませんでした。おすすめ。ただの表示です。画面の下に勝手に出てきただけの、知らない女です。愛梨沙が作ったばかりの鍵垢とは関係ありません。拓哉とも、瑠璃子とも、麻里亜とも関係があるとは限りません。それなのに、その一文だけが喉の奥に引っかかりました。甘やかしてくれる人。どこですかぁ?語尾の小さな伸び方まで、指先にまとわりつくようでした。(甘やかしてくれる人って、誰? 誰にそんな顔して探してるの? 私には関係ないはずなのに。知らない女の知らない言葉なのに、どうしてこんなに嫌なの?)愛梨沙は、白い手袋の指で画面に触れました。開いてしまってから少しだけ後悔しましたが、閉じることはできませんでした。白いニットの女のページに、鍵はかかっていませんでした。誰でも見られる場所に、柔らかそうな写真と言葉が置かれています。白いニットを着た女のそばに、薄いピンクのカップがありました。ミルクティーの横には小さな花が置かれ、少しぼやけた自撮りには顔の半分だけが写っていました。大きな目と淡い色の唇が、笑っているようにも、寂しそうにも見えます。名前の欄には、すず音、とありました。宵宮すず音。愛梨沙は、その文字をゆっくり読みました。宵宮。すず音。夜に鳴る鈴みたいな名前だと思いました。可愛い名前です。本人も、そう思われることを知っているような名前でした。(すず音さん。可愛い名前。呼ばれるために生まれてきたみたいな名前だね。誰かが少し甘く崩して呼ぶための名前。いいな。そういう名前の人は、寂しいって言ってもきっと怒られないんだ)心の中で呼んでみると、音が軽く跳ねました。麻里亜という名前は、赤くて少し重い。瑠璃子という名前は、青くて、声に出す前から静かでした。すず音という名前は、白いカップの縁に当たったスプーンみたいに、軽く鳴る名前でした。愛梨沙は投稿を下へ送ります。「今日はちょっとだけ声聞けたから、まだ頑張れる」
まるで誰かに、その言葉を読まれているような気がしたのです。愛梨沙は、しばらくスマホを握ったまま動けませんでした。鍵のかかったアカウントには、まだ誰もいません。フォロー中 0フォロワー 0投稿 1数字だけが画面に並んでいて、愛梨沙の胸だけが妙に熱を持っていました。この部屋の場所を知っている人はいません。名前も顔も出していません。アイコンに使った横断歩道だって、人影のない白い線だけです。それなのに、投稿したばかりの言葉が自分の手を離れて、どこかへ行ってしまったように思えました。今日はあなたと同じ道を歩いた短い文です。ただそれだけの文です。けれど愛梨沙には、その中に今日の午後が全部入っていました。ジュエリーショップの白い光、濃紺の背中、薔薇のルビー、黒いコーヒーの苦味、結婚指輪、赤い爪、青い紫陽花。どれも他人から見れば、何の関係もないものばかりです。でも、愛梨沙の中では、もうひとつの道になっていました。(見えてないよね? これは私だけの部屋だよね。拓哉さんのことを、私だけがしまっておく場所だよね)ラウンジの席で、愛梨沙はもう一度その言葉を開きました。いいねはついていません。返信もありません。フォローリクエストもありません。その部屋には、まだ愛梨沙しかいません。それでも何度も表示を更新しました。下へ引いて、戻す。少し待って、また開く。何も変わらないことを確かめたいのか、何かが変わるのを待っているのか、自分でもよく分かりませんでした。ただ、画面を閉じるのが怖かったのです。閉じてしまえば、あの部屋の中で、拓哉がひとりきりになる気がしました。愛梨沙は、もう一度だけ投稿画面を開きました。言葉を増やしたくなりました。部屋の中に、もう少しだけ置いておきたかったのです。道だけでは寂しい。白い線だけでは物足りない。今日の午後には、味も、音も、温度もありました。それらを置いていけば、いつか拓哉が迷い込んできた時、ここが自分の場所だと分かってくれるような気がしました。(大丈夫。まだ見てるだけ。触ってないよ。拓哉さんの邪魔はしてない。ただ、忘れないようにしてるだけ。あなたが忘れても、私がちゃんと覚えててあげるだけ)愛梨沙は、ゆっくり文字を打ちました。同じ味は、少し苦かった送信する前に、指が止まります。舌の奥に、あの味が戻ってきました。甘く
愛梨沙は、瑠璃子の画面を少しずつ遡りました。ホテルのラウンジは、まだ静かでした。窓の外では雨が細かく降り続いていて、傘を差した人たちが顔を伏せて歩いています。テーブルの上のアイスティーは薄くなり、グラスの底で小さくなった氷が、ほとんど音も立てずに溶けていました。それでも愛梨沙は席を立ちませんでした。スマホの中には、鴻上瑠璃子という女の暮らしがありました。朝食だけではありません。花瓶の水を替えた朝、洗い立てのシャツを畳んだ午後、夫の帰りを待つ夜の灯り。どれも静かで、きちんとしていて、乱れたものなどひとつもないように見えました。けれど、一度気づいてしまうと、隙のないものほど怪しく残りました。6月16日。その日付で、愛梨沙の指が止まりました。画面に出てきたのは、白いシャツでした。男物のシャツです。袖は左右ぴったりに重ねられ、襟元には皺ひとつありません。横には青い紫陽花の小さな花びらが、偶然そこに落ちたふりをするように置かれていました。文章は短く添えられていました。「明日は少し大事な日だそうです。白いシャツを選びました」明日。つまり、今日です。男が薔薇のルビーのピアスを選び、麻里亜に渡した日。妻が選んだ白いシャツを着て、男は別の女に会いに行ったのです。白い箱を持って、赤い爪の女の前で、困ったように笑っていました。(それ、奥さんが選んだんだ。麻里亜に会う日のシャツを。何も知らないで、襟を触って、袖を伸ばして、拓哉さんの体に触れる布を選んだんだ)胸の奥が、ゆっくり熱くなりました。麻里亜に向ける嫉妬とは違います。赤い爪の女は、分かりやすく男へ触れていました。袖口に指を置き、顔を近づけ、拓哉くんと甘く呼びました。けれど瑠璃子は、もっと静かでした。触っていないような顔で、服に触れている。食卓に触れている。玄関に触れている。男が帰る場所の空気ごと、最初から持っている。愛梨沙は、その白いシャツを保存しました。【保存】画面の中で、妻が選んだ布が、白い手袋の内側へ落ちてきます。次に開いた日には、透明なグラスがふたつ並んでいました。水が入っているだけの、何でもないグラスです。奥には青い紫陽花がぼやけ、部屋の照明は少し落とされていました。「久しぶりに夫とゆっくり話せました。言葉は少なくても、こういう時間があると安心します」愛梨沙は、その一文をしばらく
瑠璃子という女は、朝を綺麗に並べる人でした。愛梨沙のスマホには、いくつもの写真が静かに流れていきます。味噌汁の入った白い器、焼き魚をのせた皿、畳まれた布巾、湯気で少しだけ曇った窓辺。どれも特別なものではないのに、そこに写る暮らしは妙に本物でした。愛梨沙は、ある写真をタップしました。箸が、ほんの少しだけ右へ寄せられています。乱れているわけではありません。ただ、誰かがそこへ座り、自然に手を伸ばせるような位置に置かれているだけです。その数センチの隙間が、愛梨沙にはひどく遠く見えました。投稿には、短い文章が添えられていました。「今日は少し早く帰れそうだと言っていたので」たったそれだけで、誰を待っているのか分かりました。名前は書かれていません。顔も写っていません。それでも、その食卓には帰ってくる人の場所がありました。(ここに座るんだ。拓哉さんがここに腰を下ろして、テーブルの下に足を入れて、箸に手を伸ばすんだ。奥さんは、それを毎朝見てるんだね。眠そうな顔も、少しだけ低い声も、朝の光の中にある拓哉さんを、当たり前みたいに見てるんだ)愛梨沙は次の写真をタップしました。青い紫陽花が、硝子の花瓶に挿されていました。窓の外には雨雲があり、花瓶の水はその空を薄く映しています。派手な花ではありません。けれど、その青は部屋の空気を静かに冷やしてしまうような色でした。ホテルで見た赤とは、まるで違いました。赤い爪の女の色は、触れれば熱を持ちそうでした。柔らかくて、濡れていて、近づいた男の袖に跡を残してしまいそうな色です。けれど瑠璃子の青は、男を外から家の中へ戻してしまう色に見えました。声を荒げなくても、腕に触れなくても、朝の光の中で待っているだけで帰らせてしまう色でした。(麻里亜は、拓哉さんを汚すみたいに触ってた。でも奥さんは触らないんだね。触らなくても、帰ってくる場所を作れるんだ。ずるい。そんなの、ずるいよ。私なんて、見てるだけなのに)愛梨沙は指を滑らせました。冷やした葡萄の写真が出てきます。透明な器の底には水滴が集まり、小さな粒が寄り添っていました。その横には、短くこう書かれています。「夫が好きなので」愛梨沙は、その言葉を何度も読みました。夫が好きだから、葡萄を冷やす。帰る時間を考えて、器を選ぶ。水滴がついたら拭くのかもしれません。冷えすぎないように、出す時
鴻上拓哉検索窓に並んだその名前を、愛梨沙はしばらく見ていました。画面に映っているのは、ただの名前です。けれど愛梨沙には、その4文字が男の輪郭そのもののように見えました。濃紺のスーツを着て、白い小箱を持ち、結婚指輪をしたまま赤い爪の女の隣で困ったように笑っていた男。拓哉くん麻里亜はそう呼んでいました。けれど、画面の中では鴻上拓哉でした。漢字になると、急に遠い人になる気がしました。声に出せば甘く崩せる名前なのに、文字にすると冷たく整って、手の届かない場所へ置かれたみたいでした。それでも、その字を知っていたのは偶然ではありません。愛梨沙はラウンジへ入る時、入口の小さな台を見ていました。黒い革のバインダー白い予約表細い罫線そこに、いくつかの名前が並んでいました。スタッフが案内のためにページを開いた、ほんの一瞬です。見るつもりなんてありませんでした。けれど、見えてしまった文字は目の奥に残りました。15時00分鴻上拓哉様2名窓側席その文字は、すぐにスタッフの手で隠れました。けれど遅かったのです。鴻上拓哉拓哉くんではなく、鴻上拓哉。男の名前は、ちゃんと漢字を持っていました。名字があって、予約があって、誰かに「様」をつけて呼ばれる人でした。愛梨沙は検索ボタンに触れました。画面が白く切り替わります。ほんの少しの待ち時間でした。それだけなのに、胸の奥が小さく詰まります。知ってはいけないものへ手を伸ばしている気がしました。けれどもう遅く、白い手袋の指先はすでに画面へ触れていました。検索結果が並びました。最初に出てきたのは、同じ名前の別人らしいページでした。どこかの大会記録、古い告知、読み方も違うかもしれない人。愛梨沙は、すぐに指で送りました。次に、会社名らしい文字が出てきました。株式会社営業部社内報愛梨沙は息を小さくしました。男は本当に、昼の世界にいる人でした。会社があって、部署があって、名刺があって、誰かに「鴻上さん」と呼ばれる人でした。ラウンジで甘く名前を呼ばれるだけの人ではありませんでした。鴻上さん拓哉くん鴻上拓哉同じ男なのに、呼び方が変わるたび少しずつ別の顔になります。愛梨沙は検索結果をひとつ開きました。会社のイベント写真がありました。画質はよくありません。人が何人も並んでいて、どの顔も小さく
ホテルの自動ドアが閉まったあとも、愛梨沙は入口の前に立っていました。硝子の向こうに、濃紺の背中はもう見えません。赤い爪の女も、白い小箱も、結婚指輪の細い光も、全部ホテルの中へ吸い込まれてしまいました。外に残されたのは、白い手袋の女だけでした。湿った風が頬に触れます。愛梨沙は手の中の黒い缶を見下ろしました。もう中身はほとんど残っていません。ぬるくなった缶は、さっきまで男と同じものだったはずなのに、今はただ重いだけでした。捨てる場所を探しました。けれど、捨てられませんでした。男と同じものを手放したら、今日の午後まで手の中から消えてしまう気がしたのです。ホテルの自動ドアが開きました。中から年配の夫婦が出てきて、冷たい空気と花の匂いが少しだけ外へ流れます。外の湿気とは違う、よく冷えた空気でした。愛梨沙は、その空気に誘われるように一歩踏み出しました。入ってはいけない場所のように見えました。けれど男は入っていきました。赤い爪の女も入りました。勿論、自分も外で待つ気はありません。ロビーは静かでした。床には厚い絨毯が敷かれ、靴音はほとんど吸い込まれます。花の匂い、磨かれた木の匂い、誰かの香水。雨の前の街の匂いは、ここでは少し遠くなっていました。愛梨沙は黒い缶をバッグへしまいました。その缶だけがこの場所に似合っていなかったからです。男と赤い爪の女は、ロビー奥のラウンジへ向かっていました。黒い制服のスタッフがふたりに軽く頭を下げます。「鴻上様、お連れ様がお揃いですね」男が小さく頷きました。鴻上様その名前が、愛梨沙の耳に残りました。鴻上。男には名字がありました。当たり前のことなのに、愛梨沙の胸は少し高鳴りました。名前のない背中だったものが、急に意味を持ったように思えました。赤い爪の女は、男の隣で笑っていました。声は高すぎず、けれど甘さを作るのが上手でした。笑うたびに唇の端が少しだけ濡れたように光ります。愛梨沙は少し遅れて、ラウンジの入口へ向かいました。スタッフが声をかけてきます。「おひとり様ですか」愛梨沙は一瞬だけ息を止めました。「はい」声は思ったより普通に出ました。「お好きなお席へどうぞ」愛梨沙は、男たちから離れた観葉植物の陰に近い席へ座りました。そこからなら男の横顔が見えます。赤い爪の女の手も、テーブルの上の白い小箱も







