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あなたの罪まで愛してる
あなたの罪まで愛してる
Author: 九重有

1話【Y.COCO】

Author: 九重有
last update publish date: 2026-06-24 09:02:41

これは、白い手袋をした女が、薄紅色の男を見つけた日の話です。

その日からちょうど1年後、男は死にます。

女の手の中で。

けれど2025年6月17日、男はまだ生きていました。

ジュエリーショップ【Y.COCO】の硝子ケースの前で、薔薇の形をした小さなルビーのピアスを見下ろしていました。

それは、真紅の薔薇の女へ贈られるはずの赤でした。

けれど白い手袋の女は、まだそのことを知りません。

知らないまま、男の横顔を見つめていました。

誰かのために迷う顔を、愛だと思ってしまったのです。

雨は降っていませんでした。けれど駅前の空気は、濡れた布を胸に押し当てられているみたいに重く、歩道の端に咲く紫陽花は、青にも紫にもなりきれないまま湿った光の中で滲んでいました。

朝方まで降っていた雨の匂いが、アスファルトに残っていました。

濡れた土。青い葉。傘袋の古い水。人の服に移った冷房の匂い。

そういうものの中を、女は白い手袋をはめたまま歩いていました。

女の名は、御厨愛梨沙。

26歳。

衣食住には困らず、綺麗な部屋も、柔らかな服も、空腹にならないだけの金もありました。けれど、誰かに大事にされた記憶だけがありませんでした。

泣いても、誰も来ませんでした。

熱を出しても、誰も額に触れませんでした。

誕生日には、箱だけが届きました。

箱の中身はいつも高価で、綺麗で、冷たく、愛梨沙が本当に欲しかったものだけが入っていませんでした。

だから愛梨沙は、誰かが誰かのために迷っている姿に弱かったのです。

それが、たとえ不実な男の買い物だったとしても。

【Y.COCO】の店内には、白い光が落ちていました。

指輪。ネックレス。小さなピアス。

どれも硝子の中で、誰かに選ばれるのを静かに待っていました。

愛梨沙は店の外で足を止めました。

その時、男がいました。

濃紺のスーツを着た男でした。背が特別高いわけではありません。けれど人混みの中で、そこだけ少し光が薄くなるような立ち方をしていました。

袖口からのぞく手首は白く、指は長く、何かを乱暴に扱うことを知らないように見えました。

男は硝子ケースを覗き込み、店員の説明を聞いていました。

「こちらは小ぶりですが、薔薇の細工が入っておりますので、華やかに見えますよ」

店員の声が、冷房の効いた空気にやわらかく落ちました。

男は少しだけ首を傾げました。

「大きすぎないですか」

その声を聞いた瞬間、愛梨沙の足は床に縫い止められました。

低すぎず、甘すぎず、相手を急かさない声でした。人に何かを頼む時、ちゃんと相手の顔を見る人の声でした。

「赤が好きなんです。でも、あまり大きいものは苦手そうで」

男はそう言いました。

赤が好きで、大きいものは苦手な人。

その人の好みを、男は知っていました。

愛梨沙は硝子の外側から、男の横顔を見つめました。睫毛の影。少し伏せた目。唇の端に浮かぶ、困ったような笑み。

誰かのために迷っている顔。

愛梨沙は、その顔を自分に向けられたことがありませんでした。

何を選べば喜ぶだろう。これは似合うだろうか。大きすぎないだろうか。

そんなふうに考えてもらえる人間が、この世にはいるのだと、その時、愛梨沙は知りました。

男は、もう一度ピアスを見下ろしました。

薔薇の形をした小さなルビー。

赤い石が、店内の光を受けて濡れた柘榴の粒みたいに光っていました。甘くて、血液みたいな赤。綺麗なのに、少しだけぞくっとする赤。

男の指が、硝子の上に近づきます。

触れてはいません。

けれど、その指先が近づいただけで、ルビーの赤が息をしたように見えました。

(いいな。その顔、私にも向けてほしいなぁ…)

愛梨沙はそう思いました。

けれど、口には出しませんでした。

そんなことを言えば、恋が逃げてしまう気がしたからです。

店員がリボンの色をいくつか見せました。

淡いピンク。

黒。

白。

男は少し迷ってから、白を選びました。

「これでお願いします」

白。

愛梨沙の手袋と同じ色でした。

ただそれだけのことです。

男は愛梨沙を見たわけではありません。愛梨沙の手袋を知っていたわけでもありません。硝子の外に立つ女が、自分の選んだリボンの色ひとつで息を詰めていることなど、知るはずもありません。

それでも、愛梨沙の胸の奥はゆっくり熱くなりました。

誰にも知られないお揃いは、誰かに見せるお揃いより、ずっと綺麗に思えました。

白い小箱が、男の手元に渡されます。

その中には赤い薔薇が眠っています。

男が誰かのために選んだ赤。

男が誰かに渡す白。

その両方を、愛梨沙は硝子の外から見ていました。

(見つけた。私が先に、本当のあなたを見つけたんだよ)

男は白い小箱の入った紙袋を受け取り、店員に軽く頭を下げました。

その動作まで丁寧でした。

店員に乱暴にしない人。

物を受け取る時、指先を雑にしない人。

誰かに贈り物を選ぶ時、ちゃんと迷える人。

それだけで、愛梨沙は男のことを少し知った気になりました。

男が店を出ます。

自動ドアが開き、駅ビルのざわめきが店内に流れ込みました。靴音。人の声。遠くで鳴る改札の音。男の背中は、人混みの中に紛れていきます。

愛梨沙はその場に残されました。

硝子ケースの中には、男が選ばなかった小さなジュエリーたちがまだ並んでいました。どれも、少し寂しそうに見えました。

男が立っていた場所に近づきたいと思いました。

男が見ていた硝子を、同じ角度で見たいと思いました。

男の視線が触れた場所に、自分の目も触れさせたかったのです。

愛梨沙は店に入りました。

冷房の空気が、湿った頬を撫でました。

「いらっしゃいませ」

店員が微笑みます。

さっき男と話していた人でした。

愛梨沙の胸の奥が、小さく鳴ります。

この人は、男の声を近くで聞いた人。

男にリボンを見せた人。

男の指先をすぐそばで見た人。

羨ましい、と思いました。

「何かお探しですか」

「小さいものを」

愛梨沙の声は、思ったより落ち着いていました。

「記念に、できるようなものを」

店員は少し嬉しそうに頷き、硝子ケースの中から華奢なリングをいくつか見せました。

愛梨沙はその中から、何でもない小さな指輪を選びました。

高すぎない。

目立たない。

誰かに見せるためのものではない。

ただ、今日という日をしまっておくためのもの。

「ご自宅用でよろしいですか」

「はい」

「リボンはお付けしますか」

一瞬、男が白を選んだ時の横顔が浮かびました。

「白でお願いします」

店員は、何も知らずに白いリボンをかけてくれました。

その細い白が、愛梨沙の手袋の上で眠ります。

男が選んだ白。

愛梨沙が選んだ白。

誰にも知られない、最初のお揃いでした。

店を出ると、駅ビルの空気はさっきより少し湿っていました。外はまだ雨になっていません。けれど、降りそうな匂いだけが先に来ていました。

愛梨沙は紙袋を胸元に寄せました。

人混みの先に、男の背中が見えます。

濃紺のスーツ。

白い小箱の入った紙袋。

まっすぐ歩いているようで、どこか疲れて見える肩。

男は、こちらを振り返りません。

愛梨沙を知りません。

名前も、顔も、今日ここにいたことも、何も知りません。

それなのに、愛梨沙だけが男を見つけてしまいました。

横断歩道の信号が青に変わります。

男が歩き出しました。

白い線を、革靴が踏みます。

愛梨沙は少し遅れて、同じ白い線を踏みました。

ただの横断歩道です。

そこには名前も、約束も、運命もありません。

けれど愛梨沙には、男が一瞬だけ置いていった体温の跡のように思えました。

(ねえ、これって少しだけ、一緒に帰ってるみたいだね)

男は振り返りませんでした。

それが、愛梨沙には都合がよかったのです。

振り返られたら、きっと何もできません。

目が合ったら、息の仕方を忘れてしまいます。

だから今は、背中だけでよかった。

その時の愛梨沙は、まだ男の名前を知りません。

知らないのに、男には名前があると分かっていました。誰かが毎日呼べる名前。電話越しに呼べる名前。近い距離で、甘く崩して呼ぶかもしれない名前。

その全部を、いつか知りたいと思いました。

男の歩幅は愛梨沙より少し広く、距離を保つのは難しくありませんでした。

近づきすぎない。

離れすぎない。

男の背中が人混みに消えない場所を、白い手袋の内側で数えながら歩きます。

(まだ見てるだけだよ。少しだけ、同じ道を歩くだけ。あなたの邪魔はしないから。あなたがどこへ行くのか、誰にその白い箱を渡すのか、少しだけ知りたいだけなの。だって、見つけちゃったんだもん)

白い手袋の女の目が、薄紅色の男を捕まえました。

そして愛梨沙は、その男の後を追いました。

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