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3話 指輪

Author: 九重有
last update Petsa ng paglalathala: 2026-06-24 20:20:12

男が角を曲がったあとも、愛梨沙の目の奥には銀色の輪が残っていました。

細い指輪で大きな宝石も派手な模様もありません。ただそこにあるだけで、その男には帰る場所があるのだと知らせる輪でした。

白い手袋の女はしばらく角の手前で立ち止まりました。

追いかける足はあるのに、足の裏だけが湿った地面に貼りついたように動きません。黒い缶の冷たさが指先から手首へ上がってきます。それでも缶を捨てることはできませんでした。

男と同じものを、まだ手放したくなかったのです。

結婚している人

奥さんがいる人

誰かの家へ帰る人

その言葉は愛梨沙の中でひとつずつ沈みました。沈むたび、胸の奥が少し重くなります。

けれど沈んだものは底で消えませんでした。むしろ底の方で、白く光り始めたのです。

ここで帰ればいいだけでした。

知り合いでもない男

既婚者

たまたま見かけただけの人

そうやって自分に言い聞かせ、黒い缶を捨て、駅へ戻り、夜には別のことを考えればよかったのです。

けれど愛梨沙は、そうしませんでした。

(奥さんがいるんだね。じゃあ、あの白い箱は奥さんのものなのかな。白いリボンを選ぶ時、少し困ったみたいに笑ってた。……いいな。毎日名前を呼べる人が、あんな顔まで持っていくんだ)

愛梨沙は角の向こうを見ました。

男の背中はまだ見えました。

濃紺のスーツ

白い小箱

黒い缶

左手の銀色

それらが人混みの中で、小さな印のように動いています。

愛梨沙は歩き出しました。

さっきよりも少しだけ距離を置きます。近づきすぎると、自分の中の熱が男に気づかれてしまいそうでした。白い手袋の中では指が汗ばんで、缶を持つ布がわずかに湿っています。

男は大通り沿いを進みました。

駅前の店が途切れ、ガラス張りのビルが増えていきます。昼下がりの街は雨の前なのに妙に白く、車の窓もビルの壁も信号機も、全部が薄いベールをかぶっているようでした。

男は途中で一度立ち止まり、スマホを見ました。

画面を見た男の口元が、ほんの少し緩みます。

それは笑顔と呼ぶには短すぎるものでした。けれど愛梨沙には分かりました。彼は画面の向こうの誰かに、少しだけ気を許したのです。

その小さな緩みが、鋭く刺さりました。

自分には向けられていない顔

まだ名前も知らない女が、勝手に傷つくには早すぎるのに

それでも愛梨沙は、ちゃんと傷つきました。

(誰?)

声にはしませんでした。

愛梨沙は口を閉じたまま、黒い缶を持つ指に力を入れました。

(奥さんなの?)

男はすぐにスマホをしまい、また歩き出しました。

その後ろ姿に愛梨沙はついていきました。何かを決めたわけではありません。ただ、ここで見失ったらもう二度と会えない気がしました。知らない男なのに、知らないままでいるにはもう遅すぎる気がしたのです。

交差点を渡り、少し奥まった通りへ入ると街の音が変わりました。

駅前のざわめきが遠ざかり、代わりにタクシーのドアが閉まる音やスーツケースの小さな車輪が石畳を擦る音が聞こえてきます。

道の先にホテルがありました。

大きな扉

磨かれた硝子

雨も降っていないのに傘を差し出す準備をしている黒い制服の人

男はそのホテルの入口へ向かって歩いていきます。

愛梨沙は足を止めました。

ホテル

その言葉は愛梨沙の中でうまく形になりませんでした。泊まる場所であり、仕事の打ち合わせをする場所。誰かと食事をする場所。あるいは誰かと秘密を作る場所。

男の左手には結婚指輪がありました。

男の手には白い小箱がありました。

そして彼は今、ホテルへ入ろうとしていました。

愛梨沙の喉の奥に、さっきの黒い缶の苦味が戻ってきます。冷たいものを飲んだはずなのに、口の中だけが少し熱くなりました。

(お仕事だよね。きっとそうだよね。だってスーツだもん。ちゃんとしたホテルだもん。奥さんがいる人が白い箱を持って、こんな時間に誰かに会いに行くなんて)

そこまで思って、愛梨沙は考えるのを止めました。

自分の中の声なのに聞きたくないとおもったのです。

男はホテルの前で立ち止まりました。自動ドアの手前です。

左手で紙袋を持ち直し、右手でスマホを確認します。その仕草は少し落ち着きがなく、ジュエリーショップでリボンを選んでいた時の穏やかさとは違いました。

誰かを待っている。

愛梨沙はホテルの向かいにある植え込みの陰で足を止めました。低い植木の葉には朝の雨がまだ少しだけ残っていて、触れてもいないのに青い匂いがします。

男はこちらを見ません。

愛梨沙は息を小さくしました。

ホテルの硝子には男の背中が映っています。濃紺のスーツ、白い紙袋を持つ手、薄く光る左手。その全部が硝子の中で少し歪んで、まるで別の物語の登場人物みたいに見えました。

その時、男の顔が上がりました。

誰かを見つけた顔でした。

愛梨沙は男の視線の先を追いました。

ホテルの横の細い道から、女が歩いてきます。

最初に見えたのは手でした。

赤い爪

濡れた花びらのように艶のある真紅の爪でした。

その手が男に向かって小さく振られます。

男の肩から力が抜けました。

ほんの少しだけ笑いました。ジュエリーショップで見た、あの困ったような優しい顔に近い笑みでした。

愛梨沙の中で、何かが静かにひび割れました。

女は男のそばまで来ると、当たり前みたいに距離を詰めました。近い。店員より近い。通行人より近い。愛梨沙が今日一度も入れなかった場所に、その女は何のためらいもなく入りました。

赤い爪の手が男の袖口に触れます。

軽く。

でも慣れた触り方でした。

男はそれを嫌がりませんでした。

白い小箱が、男の手の中で小さく揺れます。

(その手、なに?)

愛梨沙は黒い缶を握りしめました。

白い手袋越しに、爪が手のひらに食い込みます。

赤い爪の女は男の顔を見上げて笑いました。

その唇が動きます。

距離があって声は聞こえません。

けれど愛梨沙には、その口の形だけがやけにはっきり見えました。

拓哉くん

そう呼んだように見えました。

男の名前。

誰かが毎日呼べる名前。

電話越しに呼べる名前。

近い距離で、甘く崩して呼べる名前。

それを、赤い爪の女が先に持っていました。

拓哉くん

薄紅色の男は、そう呼ばれていました。

そして男は、赤い爪の女と一緒にホテルの中へ入っていきました。

白い小箱を持ったまま

薔薇のルビーを抱えたまま

結婚指輪をしたまま

愛梨沙はホテルの自動ドアが閉まるまで見ていました。

白い箱

赤い爪

結婚指輪

拓哉くん

その全部が胸の奥で混ざっていきます。

口の中に残っていた苦味が、さっきよりずっと濃くなりました。

雨はまだ降りません。

けれど空は、さっきより低くなっていました。

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