LOGIN男が角を曲がったあとも、愛梨沙の目の奥には銀色の輪が残っていました。
細い指輪で大きな宝石も派手な模様もありません。ただそこにあるだけで、その男には帰る場所があるのだと知らせる輪でした。 白い手袋の女はしばらく角の手前で立ち止まりました。 追いかける足はあるのに、足の裏だけが湿った地面に貼りついたように動きません。黒い缶の冷たさが指先から手首へ上がってきます。それでも缶を捨てることはできませんでした。 男と同じものを、まだ手放したくなかったのです。 結婚している人 奥さんがいる人 誰かの家へ帰る人 その言葉は愛梨沙の中でひとつずつ沈みました。沈むたび、胸の奥が少し重くなります。 けれど沈んだものは底で消えませんでした。むしろ底の方で、白く光り始めたのです。 ここで帰ればいいだけでした。 知り合いでもない男 既婚者 たまたま見かけただけの人 そうやって自分に言い聞かせ、黒い缶を捨て、駅へ戻り、夜には別のことを考えればよかったのです。 けれど愛梨沙は、そうしませんでした。 (奥さんがいるんだね。じゃあ、あの白い箱は奥さんのものなのかな。白いリボンを選ぶ時、少し困ったみたいに笑ってた。……いいな。毎日名前を呼べる人が、あんな顔まで持っていくんだ) 愛梨沙は角の向こうを見ました。 男の背中はまだ見えました。 濃紺のスーツ 白い小箱 黒い缶 左手の銀色 それらが人混みの中で、小さな印のように動いています。 愛梨沙は歩き出しました。 さっきよりも少しだけ距離を置きます。近づきすぎると、自分の中の熱が男に気づかれてしまいそうでした。白い手袋の中では指が汗ばんで、缶を持つ布がわずかに湿っています。 男は大通り沿いを進みました。 駅前の店が途切れ、ガラス張りのビルが増えていきます。昼下がりの街は雨の前なのに妙に白く、車の窓もビルの壁も信号機も、全部が薄いベールをかぶっているようでした。 男は途中で一度立ち止まり、スマホを見ました。 画面を見た男の口元が、ほんの少し緩みます。 それは笑顔と呼ぶには短すぎるものでした。けれど愛梨沙には分かりました。彼は画面の向こうの誰かに、少しだけ気を許したのです。 その小さな緩みが、鋭く刺さりました。 自分には向けられていない顔 まだ名前も知らない女が、勝手に傷つくには早すぎるのに それでも愛梨沙は、ちゃんと傷つきました。 (誰?) 声にはしませんでした。 愛梨沙は口を閉じたまま、黒い缶を持つ指に力を入れました。 (奥さんなの?) 男はすぐにスマホをしまい、また歩き出しました。 その後ろ姿に愛梨沙はついていきました。何かを決めたわけではありません。ただ、ここで見失ったらもう二度と会えない気がしました。知らない男なのに、知らないままでいるにはもう遅すぎる気がしたのです。 交差点を渡り、少し奥まった通りへ入ると街の音が変わりました。 駅前のざわめきが遠ざかり、代わりにタクシーのドアが閉まる音やスーツケースの小さな車輪が石畳を擦る音が聞こえてきます。 道の先にホテルがありました。 大きな扉 磨かれた硝子 雨も降っていないのに傘を差し出す準備をしている黒い制服の人 男はそのホテルの入口へ向かって歩いていきます。 愛梨沙は足を止めました。 ホテル その言葉は愛梨沙の中でうまく形になりませんでした。泊まる場所であり、仕事の打ち合わせをする場所。誰かと食事をする場所。あるいは誰かと秘密を作る場所。 男の左手には結婚指輪がありました。 男の手には白い小箱がありました。 そして彼は今、ホテルへ入ろうとしていました。 愛梨沙の喉の奥に、さっきの黒い缶の苦味が戻ってきます。冷たいものを飲んだはずなのに、口の中だけが少し熱くなりました。 (お仕事だよね。きっとそうだよね。だってスーツだもん。ちゃんとしたホテルだもん。奥さんがいる人が白い箱を持って、こんな時間に誰かに会いに行くなんて) そこまで思って、愛梨沙は考えるのを止めました。 自分の中の声なのに聞きたくないとおもったのです。 男はホテルの前で立ち止まりました。自動ドアの手前です。 左手で紙袋を持ち直し、右手でスマホを確認します。その仕草は少し落ち着きがなく、ジュエリーショップでリボンを選んでいた時の穏やかさとは違いました。 誰かを待っている。 愛梨沙はホテルの向かいにある植え込みの陰で足を止めました。低い植木の葉には朝の雨がまだ少しだけ残っていて、触れてもいないのに青い匂いがします。 男はこちらを見ません。 愛梨沙は息を小さくしました。 ホテルの硝子には男の背中が映っています。濃紺のスーツ、白い紙袋を持つ手、薄く光る左手。その全部が硝子の中で少し歪んで、まるで別の物語の登場人物みたいに見えました。 その時、男の顔が上がりました。 誰かを見つけた顔でした。 愛梨沙は男の視線の先を追いました。 ホテルの横の細い道から、女が歩いてきます。 最初に見えたのは手でした。 赤い爪 濡れた花びらのように艶のある真紅の爪でした。 その手が男に向かって小さく振られます。 男の肩から力が抜けました。 ほんの少しだけ笑いました。ジュエリーショップで見た、あの困ったような優しい顔に近い笑みでした。 愛梨沙の中で、何かが静かにひび割れました。 女は男のそばまで来ると、当たり前みたいに距離を詰めました。近い。店員より近い。通行人より近い。愛梨沙が今日一度も入れなかった場所に、その女は何のためらいもなく入りました。 赤い爪の手が男の袖口に触れます。 軽く。 でも慣れた触り方でした。 男はそれを嫌がりませんでした。 白い小箱が、男の手の中で小さく揺れます。 (その手、なに?) 愛梨沙は黒い缶を握りしめました。 白い手袋越しに、爪が手のひらに食い込みます。 赤い爪の女は男の顔を見上げて笑いました。 その唇が動きます。 距離があって声は聞こえません。 けれど愛梨沙には、その口の形だけがやけにはっきり見えました。 拓哉くん そう呼んだように見えました。 男の名前。 誰かが毎日呼べる名前。 電話越しに呼べる名前。 近い距離で、甘く崩して呼べる名前。 それを、赤い爪の女が先に持っていました。 拓哉くん 薄紅色の男は、そう呼ばれていました。 そして男は、赤い爪の女と一緒にホテルの中へ入っていきました。 白い小箱を持ったまま 薔薇のルビーを抱えたまま 結婚指輪をしたまま 愛梨沙はホテルの自動ドアが閉まるまで見ていました。 白い箱 赤い爪 結婚指輪 拓哉くん その全部が胸の奥で混ざっていきます。 口の中に残っていた苦味が、さっきよりずっと濃くなりました。 雨はまだ降りません。 けれど空は、さっきより低くなっていました。扉が大きく揺れました。 麻里亜の指がつまみにかかります。 回しました。 カチリ。 鍵が外れます。 聖が扉を押し開けました。 拓哉が一歩よろめきます。 聖はすぐに麻里亜の前へ入りました。 「大丈夫か」 麻里亜は頷きました。 「うん」 聖は麻里亜の手首を見ます。 赤くなっています。 「何した」 拓哉が息を吐きました。 「何もしてない」 「これで?」 「掴んだだけだ」 「痛いって言ってただろ」 「お前に説明する必要ない」 聖が拓哉へ近づきました。 麻里亜が服の袖を引きます。 「聖、いい」 「でも」 「帰りたい」 聖は拓哉を睨んだまま、ゆっくり下がりました。 「分かった」 麻里亜は床に落ちた赤いスカーフへ向かいます。 拓哉が言いました。 「それは持っていくな」 麻里亜の足が止まりました。 「私のだけど」 「俺の車にあった」 「だから返してもらう」 「置いてけ」 「嫌」 麻里亜はスカーフを手に取りました。 拓哉が一歩出ます。 聖が間へ入りました。 「もう触るな」 「どけ」 「帰らせろ」 「お前が決めることじゃない」 「麻里亜が帰るって言ってる」 二人が睨み合います。 その時、黒い鞄の中でスマホが震えました。 拓哉は動きませんでした。 振動は止まりません。 麻里亜が鞄を見ました。 「また奥さん?」 「違う」 「見てもないのに?」 拓哉の顔がこわばりました。 聖も鞄へ目を向けます。 拓哉は急いでスマホを取り出しました。 画面を伏せようとします。 その前に、麻里亜が名前を読みました。 「瑠璃子さん」 拓哉の指が止まります。 「出れば」 「帰れ」 「奥さんに知られたくないの?」 「帰れって言ってる」 麻里亜は拓哉を見ました。 さっきまでよりも、ずっと静かな顔でした。 「もう知ってるかもしれないよ」 「何を」 「全部」 拓哉が麻里亜へ近づきます。 聖がその前へ出ました。 「行くぞ」 麻里亜は頷きました。 スカーフを持ち、聖と一緒に廊下へ出ます。 愛梨沙は階段の陰へ身を寄せました。 麻里亜が先に通ります。 その後ろを聖が続きました。 聖は階段へ向かう途中、一度だけ愛梨沙を見ました。 「まだいたのか」 愛梨沙は答えません。 「さっき
「麻里亜!」 聖がすぐに答えました。 麻里亜は内側のつまみへ手を伸ばします。 拓哉が扉の前へ入りました。 「開けるな」 「どいて」 「まだ終わってない」 「終わった」 「麻里亜」 「終わったって言ってるの!」 麻里亜は拓哉の胸を押しました。 拓哉は動きません。 「今ここから出たら、全部終わるぞ」 「それでいい」 拓哉が黙りました。 麻里亜の目に涙がにじみます。 「もう、あなたのために黙らない」 「俺のため?」 「そうだよ」 麻里亜は一度、唇を噛みました。 「好きだったから黙ってた」 扉の外の聖も何も言いませんでした。 拓哉は麻里亜を見ています。 「でも、もう無理」 「……何が」 「怖い」 拓哉の眉が動きました。 「あなたが怖い」 麻里亜は足元の赤いスカーフへ目を向けました。 腰をかがめ、手に取ります。 拓哉が腕を伸ばしかけました。 麻里亜はその前に窓へ走りました。 細長い窓の下、透明になっている部分へ赤いスカーフを押し当てます。 「何してる」 拓哉が近づきます。 麻里亜はスカーフを左右へ振りました。 外階段にいた愛梨沙の目の前で、赤い布が揺れます。 「誰かに見せてる」 「誰に」 「誰でもいい」 拓哉が窓を見ました。 「聖か」 「違う」 麻里亜は窓の外を指しました。 「外に誰かいる」 拓哉の顔が窓へ向きます。 曇りガラスの向こうに、人の形がありました。 愛梨沙は反射的に一段下がります。 見つかる。 胸が速く鳴りました。 それでも、足は階段を下りません。 (見て 拓哉さん こっち見て) 拓哉が窓へ近づきました。 愛梨沙は壁へ身体を寄せます。 その時、スマホが震えました。 瑠璃子からの着信です。 愛梨沙はすぐに切りました。 室内で麻里亜が拓哉の横を抜けました。 今度こそ扉へ向かいます。 「麻里亜」 拓哉が振り返りました。 「触らないで」 麻里亜はつまみを回そうとします。 拓哉が腕を掴みました。 「やめて!」 その声を聞いた聖が、扉へ身体をぶつけました。 ドン、と廊下に響きます。 「麻里亜!」 「開けて!」 もう一度。 扉の枠が軋みました。 拓哉が麻里亜を扉から離そうとします。 麻里亜は必死につまみへ手を伸ばしました。 指先
階段を上がってくる足音に、聖が振り返りました。 このビルの外階段は、三階廊下の端へつながっていました。 踊り場の手前に、白い手袋の女が立っています。 愛梨沙でした。 彼女は一段下で足を止め、聖を見上げています。 「……あんた、誰だ」 聖の声に、部屋の中の麻里亜が反応しました。 「聖? 誰かいるの?」 聖はすぐには答えませんでした。 目の前の女に見覚えはありません。 けれど、偶然ここへ来た人間にしては、立ち止まり方が静かすぎました。 愛梨沙は口元だけで笑います。 「部屋を間違えました」 「なら下りろ」 「すぐに」 そう言いながら、愛梨沙は動きません。 廊下の奥から漏れる光が、白い手袋を薄く照らしています。 聖は一歩、愛梨沙へ近づこうとしました。 その時、室内で拓哉のスマホがまた震えました。 長く、細かく。 伏せられた画面がテーブルの上で鳴っています。 麻里亜は拓哉を見ました。 「出ないの?」 拓哉は答えません。 「さっきから、ずっと同じ人?」 「関係ない」 「関係あるから出られないんでしょ」 拓哉の目が麻里亜へ向きました。 「黙れ」 「奥さん?」 その一言で、拓哉の喉が小さく動きました。 麻里亜はその反応を見逃しませんでした。 「瑠璃子さん?」 扉の外で、聖の身体が強張ります。 愛梨沙も、階段の途中で息を止めました。 拓哉はゆっくりテーブルへ戻りました。 スマホはまだ震えています。 画面へ手を伸ばし、通話を拒否しました。 「どうして、奥さんからの電話に出ないの」 麻里亜が聞きました。 「お前には関係ない」 「私と会ってるから?」 「違う」 「じゃあ出ればよかったじゃない」 拓哉はスマホを黒い鞄へ入れました。 「話を戻す」 「戻さない」 麻里亜は一歩、扉へ近づきます。 「もう帰る」 拓哉はその前へ出ました。 「まだだ」 「もう話すことない」 「ある」 「私はない」 扉の向こうから、聖が強く叩きました。 「麻里亜、開けろ」 麻里亜は扉へ手を伸ばします。 拓哉の指が、その手首へかかりました。 「やめろ」 「離して」 「開けるな」 「離してって言ってる!」 扉越しに、聖が息をのむ気配がありました。 「今、何した」 拓哉は扉へ向かって言いました。
三階の廊下から響いた音に、麻里亜の指が止まりました。 内側のつまみに触れたまま、扉の向こうへ耳を澄ませます。 拓哉もスマホを伏せたまま、動きません。 着信は切れました。 部屋の中に、換気扇の低い音だけが戻ってきます。 「……誰?」 麻里亜が小さく言いました。 拓哉は答えません。 視線だけが、扉の方へ動きます。 扉の向こうで、足音が止まりました。 一枚の板を挟んで、誰かが立っています。 「麻里亜」 聖の声でした。 麻里亜は息を吸い込みます。 「いるんだろ?」 拓哉の眉がわずかに動きました。 「開けるな」 麻里亜は拓哉を見ます。 「どうして?」 「話が終わってない」 「終わったよ」 「終わってない」 拓哉の手が黒い鞄へ伸びました。 麻里亜は反射的に一歩下がります。 鞄の中には鍵があります。 スマホもあります。 赤いスカーフは、まだテーブルの上です。 扉の外から、聖がもう一度呼びました。 「麻里亜、返事しろ」 「……大丈夫」 麻里亜は答えました。 けれど、その言葉は細く震えていました。 すぐに聖が返します。 「大丈夫な声じゃない」 拓哉が扉へ近づきました。 麻里亜との間に身体を入れるようにして、内側のつまみに手を伸ばします。 麻里亜はその腕を止めようとしました。 「開けて」 「黙ってろ」 「開けてって言ってるの」 「今、あいつを入れたら余計に面倒になる」 「面倒にしたのはあなたでしょ」 拓哉の目が細くなりました。 廊下で、また乾いた音がします。 麻里亜は肩を震わせました。 「何の音?」 拓哉は答えません。 扉の向こうで、聖が短く息を吐きました。 「廊下の案内板に当たっただけだ」 さっき落ちたのは、それだったのでしょう。 麻里亜は扉の下の隙間を見ました。 細い光が差し込んでいます。 けれど、そこに立つ聖の姿までは見えません。 外階段の下で、愛梨沙は顔を上げていました。 三階の廊下の方で、人の気配が重なっています。 窓からは、誰がどこにいるのか分かりません。 ただ、聖が上へ行ったことだけは分かりました。 さっきまで道路側にいた男の姿が、もうありません。
「昨日の時点で、私一人じゃどうにもできなくなってるから」 部屋の空気が止まりました。 拓哉は麻里亜を見つめたまま動きません。 「誰に話した?」 低い声が落ちます。 麻里亜は首を横へ振りました。 「それは言わない」 「聖か」 返事はありません。 「他にもいるのか」 「答えない」 拓哉はゆっくり息を吐きました。 赤いスカーフを握る指へ、少しだけ力が入ります。 「どこまで知られてる」 「知りたい?」 麻里亜は静かに見返しました。 「昨日までなら教えたかもしれない。でも、もう違う」 「俺を追い詰めたいのか?」 「追い詰めたのは自分でしょ?!」 拓哉は目を閉じました。 短い沈黙が流れます。 「……写真だけは消してくれ」 「嫌」 「頼む」 「昨日は命令した」 「今日は頼んでる」 「違う」 拓哉は顔を上げました。 「俺は頼んでる」 「私には同じ」 麻里亜は鞄を抱き締めます。 「あなたが欲しいのは謝ることじゃない」 拓哉は黙っています。 「安心したいだけ」 部屋へ換気扇の音だけが流れました。 「私は、その安心をあげる気はない」 窓の外では、車が一台通り過ぎました。 街灯の明かりが曇りガラスを細く流れていきます。 外階段の下で、愛梨沙は身じろぎひとつせず立っていました。 窓の下だけが、かすかに明るくなります。 人影が近づき、また離れる。 声は聞こえません。 けれど、二人の距離だけは伝わってきました。 (苦しいね 拓哉さん 謝る声も 隠す指も もう届かない 私なら その苦しい息まで 唇で受け止めるのに 帰る場所なんていらない 逃げる腕なんていらない あなたが崩れるところを 一番近くで見ていたい) 愛梨沙のスマホが震えました。 瑠璃子からです。 〈変化はありましたか?〉 〈まだ出てきません〉 送ると、既読がつきました。 それ以上、連絡はありません。 部屋では、拓哉がテーブルへ手をついていました。 「一つだけ聞く」 麻里亜は答えません。 「その証拠は、俺を終わらせるために使うのか」 「使うかどうかは、これからのあなた次第」 拓哉は苦く笑いました。 「俺を試してるのか」 「違う」 麻里亜はゆっくり首を振ります。 「もう信じられないだけ」 その一言が
倒れた椅子が床を滑り、鈍い音を立てました。拓哉も麻里亜も動きを止めます。部屋には、二人の荒い息だけが残りました。「……離せ」拓哉が低く言いました。「先に離して」「スマホだけ見せろ」「嫌」麻里亜は鞄を胸へ抱えたまま、壁際まで下がります。拓哉は視線を外しません。「昨日、お前は俺を脅した」「脅してない」「証拠を見せるって言った」「嘘を隠そうとしたのは、あなたでしょ」拓哉は何も返しませんでした。代わりに、床へ落ちた赤いスカーフへ目を向けます。ゆっくり拾い上げ、皺を伸ばしました。「こんな物まで残してる」麻里亜は眉を寄せます。「思い出だから?」「違う」「じゃあ何?」「返してもらうため」拓哉は小さく息を吐きました。「本当に、それだけか」麻里亜は答えません。拓哉は赤いスカーフを細く畳みます。その指先は昨日とは違い、静かでした。だからこそ、麻里亜は背筋が冷えます。「昨日は悪かった」拓哉が言いました。「……」「手首も」麻里亜は袖の上から右手首を押さえました。薄く残る痛みが、身体の奥でよみがえります。「本当に悪いと思ってるなら」「思ってる」「証拠を消してなんて言わないで」拓哉は目を伏せました。短い沈黙が流れます。「消してほしい」麻里亜は肩を震わせました。「結局、それなんだ」「違う」「違わない」「これ以上、大きくしたくない」「大きくしたのは、あなたでしょ」拓哉は唇を結びました。「全部、取り返しがつかなくなる」「だから私が黙れば済むって思ってる」「そうじゃない」「同じだよ」拓哉は言葉を探しました。けれど見つかりません。部屋の外では、階段を上り下りする足音が一度だけ聞こえ、すぐ遠ざかっていきます。二人とも耳を澄ませました。静けさが戻ります。「あいつは入ってこない」拓哉が小さく呟きました。「どうして分かるの」「お前が止めたから」麻里亜は苦く笑います。「私の言うことなんて、もう聞かないよ」その言葉に、拓哉の表情がわずかに揺れました。外階段の下では、愛梨沙が窓を見上げていました。曇りガラスの向こうで、人影が離れ、また近づきます。どちらなのかは分かりません。けれど、まだ終わっていないことだけは伝わってきました。〈動きはありません〉瑠璃子へ送ります。返事はありませ