All Chapters of さよならは、笑顔の後で: Chapter 91 - Chapter 99

99 Chapters

91

「大丈夫だって思い込んでた自分が悪いって事は、自分自身が一番良く分かってるんだよ……」 左手の薬指。そこに嵌まるリングを撫でながら昴は続ける。「でも、下手に動けない状況だったんだ。どうしたら良いのか……」 愛しい妻との関係を壊す、この緑色の紙を破ってしまいたい。しかし、それをしてしまえば、きっと良くないことが起こることだろう。「千々石」 名前を呼ばれた秘書が、すっと黒いファイルを手渡す。「これはお前に預けておく」「はい」「頼むから、絶対に奪われないでくれ」 それはもう、命令では無く願いに近かった。「承知いたしました」 預かる責任は実に重たいものではあったが、こうなってしまった責任は千々石にもある。それが分かっているからこそ、彼は素直にファイルを受け取り頭を下げた。「信じてるからな」「分かっています」「……はぁ」 手元に残された緑色の紙が目の前から消えたことで、心配事の一つは先送りとなった。完全に解決するためには未だに時間が足りないためもどかしさは感じるのだが、その前に立ち塞がる問題を解決する必要があるせいで中々上手くはいかない。「それで」 千々石が時計を見ながら尋ねる。「どうするつもりですか? 昴さん」「…………」 今、昴に必要なものは、決定的な証拠である。 四埜杜繭と再開してから起こる様々なトラブルは、決して偶然などでは無い。そのことについては始めから気が付いていた。 一度や二度なら疑いを持つこともしなかったかも知れない。しかし、余りにも頻繁に起こる不可解な現象が続くのだから、これはもう必然と断定してもおかしくはないだろう。そして、その全てに四埜杜繭という女性が絡んでいることは分かりきっている。それなのに、彼女が関与をしているという事実。それを示す証拠だけが未だに見つからない。「少なくとも、この前の事故……あの時の証拠さえ押さえられれば……」 あの忌々しい記憶は、消えること無く鮮明に思い出すことが出来る。 愛する妻が蒼白になって病室に駆け込んできたあの日。四埜杜繭を送迎する目的で、車を走らせているときに巻き込まれた交通事故。それがきっかけで、妻との距離はどうしようも無いほど離れてしまった。 事故があってからというもの、一気に世間に広まったものが、昴と四埜杜の関係を匂わせる報道である。どちらも知名度があるせいで、
last updateLast Updated : 2026-10-11
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 昴に一目惚れをしてからの繭は積極的で、彼の姿を見掛けると所構わずアプローチを繰り返すようになる。そうやって少しでも意識して貰おうと必死になっていく。その姿は彼女にしてはとても珍しい事で、今までの彼女からするとあり得ない事でもあった。 繭の場合、欲しいと言えば手に入る事が当たり前だった。 誰もが彼女を一目置き、彼女に好かれようと努力をする。繭自身が何かをしなくとも、好意が勝手に酔ってくる。これが、今までの彼女の当たり前だったのだが、どうも昴だけは勝手が違う。 どれだけアピールを繰り返しても、彼はいつだって一定の距離感を保つことで繭に接し、決して彼の方から距離を縮めてくることはしない。その事が彼女にとって酷く新鮮で、始めの頃はゲームを楽しんでいる感覚を味わえて楽しかった。 ただ、振り向かない相手を追い続けていると、その本質が変化していくこともあるのだろう。 いつしか好きだという告白は、強い執着へと変貌を遂げていく。どうにかしてこの人を振り向かせたい。そんな切なる想いは、何としてでも相手を支配したいという歪んだものへと変化し、やがて、この人は自分のものであるという歪んだ事実を吹聴して回るほど、感情が暴走を始めてしまったのだ。 こうなってくると昴の方も黙っていられなくなった。 元々、誰とも付き合うつもりの無かった昴からすると、繭の行動は迷惑行為以外の何も感じ無いもので。好かれていること自体は肯定的に受け入れる事が出来ても、それ以上を求められるのだとするとそれは話が変わってくる。 幾度となく迷惑だと伝えていたが、何故か彼女は理解してくれず、話は拗れどんどん間違った情報が拡散されていく。その結果、気が付けば昴と繭が付き合っているという間違った認識が当たり前のようにされてしまったのだ。 そして、その頃から繭の行動は益々大胆になっていく。 どこにでも現れる彼女は、さも当たり前のように昴の傍に寄り添い甘い声で寄りかかる。一応は最低限の常識はあるようだが、それでも彼女の言葉は絶大で、少しでも不快を示そうものなら昴の方が悪者にされてしまう。まるで集団で催眠に駆けられたかのように彼女の言うことばかりを信じる人達に感じるのは絶対的な支配で、次第に昴も口数を減らしていった。 このままでは良くない。それは分かっていても、昴にはどうすることも出来ない。 ヘタに刺激すると
last updateLast Updated : 2026-10-13
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 昴が異変に気付いたのは、生徒達が帰宅を始める下校時刻になって直ぐのことだった。 階下へと降りるために廊下を歩いていると、突然辺りに悲鳴が響き渡る。声の聞こえてきた方向にあるものは、現在向かっている階段だ。普段からこの時間になると賑やかな事が多いため、悲鳴のような音が聞こえることも珍しくは無い。しかし、この時ばかりは聞こえてきた音に強烈な違和感を感じ不安が過ぎる。 一体何があったのだろうか。 その疑問を確かめるべく駆け出すと、見えてきたものは複数の人の姿。野次馬として集まってきた彼等を掻き分けるようにして前へと進み出た瞬間、そこで見た光景に思わず言葉を失ってしまった。 どうして? 次に浮かんだ言葉はその一言である。 昴の目に飛び込んできたものは、踊り場に横たわる一人の女子生徒の姿だった。 一瞬、何が起こっているのかが分からず混乱したが、少しずつ状況が理解できはじめると、昴は慌てて彼女の元へと駆け寄る。 「だ、誰か!!」 冷静な時ならばどうすれば良いのかと瞬時に判断ができただろう。しかし、予想外の場面に直面すると、冷静であることなど簡単には出来やしない。教師を呼ぶことも、救急車を呼ぶことも。頭の何処かでは分かっているはずなのに、それでも身体が無意識に動き、知った顔である彼女の無事を確かめるべく横たわる彼女の身体を抱き起こす。 彼女の身体に触れた瞬間、手に伝わるのは嫌な感触だ。 よく見ると、床に薄らと広がる紅い色。どうやら怪我をしているらしい。その事が分かった瞬間、昴の顔から血の気が引いていく。「先生っっっ!!」 野次馬の中の一人が助けてくれる人を呼びに行ってくれたのだろう。廊下から聞こえてきた大人の声に、弾かれたように顔を上げると、昴は自らの居場所を示すように大きな声で教師を呼んだ。「先生! 助けてください!!」 周りの評価が幾ら高くても、 昴だって所詮、人の子である。普段完璧に近い評価を得ていたとして、それが常に在るというわけでは無い。寧ろこういう場面に直面すると、彼の人間らしい部分が見えてくるのかも知れない。どうしたらよいのかを指示しないといけない。そんな気持ちは有るはずなのに、力なく横たわる友人の姿を目の当たりにした瞬間、言葉は全て意味の無いものへと変化していく。ただひたすらに繰り返すのは助けて欲しいという一言だけで、口に出せる言
last updateLast Updated : 2026-10-15
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「ねぇ……これって、本当に大丈夫なのかなぁ……?」 その言葉を放ったのは確かに女性の声だった。 慌てて周囲を確認してみても声の主を特定することは難しく、一体誰がその言葉を口にしたのかが分からない。ただ、その内容から考えるに、どうやら起こった事故は偶然などでは無いという可能性が浮上してくる。「そんな……まさか」 何となく思い当たる節はある。しかし、実際にそうだという確証は得られない。事故なのか事件なのか分からないまま数日が過ぎていく。 学生服では無い制服を見る度に焦燥感に駆られるのだが、子どもの力など出来る事に限界があるのも事実で。 結局、昴自身がこの事件について捜査できることは無く、いつの間にか事故という形で収束が付いてしまった騒動は、真実は有耶無耶になって終わってしまった。 あの日以来、明らかに変わったことがあるとすれば、あれほど仲が良かった後輩がいつの間にか学校から居なくなってしまったと言う事だろう。理由が分かっている分、何も言えないもどかしさだけが残るが、こればかりはどうしよもない問題だ。 守ってあげられなかったという現実は重く、昴の中に大きな痼りを残す。 この頃になると不機嫌だった繭の機嫌は直り、再び昴の周りをうろつき始めたのだが、後輩を突き落とした真犯人が彼女だという疑惑がある以上、あからさまな突き放しは次なる悲劇を引き起こす引き金になるかも知れない。その恐怖から表立って波風を立てることはせず、昴は繭に必要以上に関わらないようにすることで己を保ち日々を過ごす。 その間、後輩の事故のことは出来る範囲で調査を続けてはいたのだが、思ったような結果を出すことが出来ず完全に行き詰まってしまっていた。  一方、繭の方はと言うと、昴の傍から女子生徒の影が消えたことに上機嫌だった。自らが唯一の彼女であると吹聴し、家名を出して家柄の差を周囲に見せる。一条と釣り合うのは四埜杜だとでも言うように。  その努力の甲斐があってか、昴に必要以上に近づこうとする女生徒は現れず、必ず繭の同席が無い蹴れば会話をする事が出来ない。例外として女性教師はその条件に当てはまらないものの、それでも四埜杜とう名前に怯えたのだろうか。連絡事項や重要な報告以外は言葉を交わすこと無く、それ以外は男性教師を間に挟んで言葉を交わす始末。こうやって徹底的に女という存在を排除する事により、
last updateLast Updated : 2026-10-19
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『あの人が戻ってくることは考えなかったのですか?』 以前、千々石にそう言われたことがある。「考えなかった訳じゃねぇよ」 確かに四埜杜繭という女性が、再び現れる可能性を考えなかった訳では無い。ただ、何故彼女が忽然と姿を消したのかという理由を調べて得た情報と、国外で成功して順調であるという報告が届いて居たため、直接関わることがないと高を括っていたのだ。「気の緩みがあったんだろうな」 自らの選択で首が絞まっていく。一度捕まると逃げ出すことに苦労をする事など分かっていたはずなのに、あの頃とは状況が違うと信じたかったのかも知れない。「待っていてくれ、海亜……」 一階のロビーに着くと、不機嫌そうに受付の女性へと八つ当たりを繰り返す繭の姿が見え気が重くなる。「あっ! 昴!」 待ち望んでいた人物が現れたことで彼女の表情は一瞬にして喜びで満ちる。それを見て感じるのは非常に複雑な思いだった。「この人達ってば、最初から約束してるって言ってるのに、コチラでお待ち下さいって言って全然通してくれないんだよ! ヒドくない?」 素早く伸びる白い腕が昴の左腕に絡みつく。明らかにおかしい距離感に無意識に身体を離し距離を取ろうと動くが、それを許さないと言わんばかりに密着され、彼女の身に纏う香りに顔が歪んだ。「でもいいや。こうやって直ぐに降りてきてくれたしぃ。繭ってばほんっと昴に愛されてるんだね」 このポジティヴさは一体どこから出てくるものなのだろうか。何も答えず黙っていても、彼女は勝手に話し続け昴のことなど見ても居ない。「ほら〜、早く行こうよぉ〜」 そして極めつけの甘えるような猫撫で声。上目遣いでねだるようにアピールしてくる彼女をちらりと見たが、表情を変える事無く昴は直ぐに視線を別の場所へと移した。「買い物には付き合う約束はしていたが、こちらにも予定というものがあるんだ。スケジュールが押してるし、早く済ませてくれないか?」 契約上無碍には出来ない。だからこそ妥協出来る部分の付き合いは行う。しかし、それ以上に付き合いを一切するつもりはないと態度に出すと繭の表情が凍り付いた。「……へぇ。そんなこと言うんだぁ」 ほんの僅かな間に漂う不穏な空気。「まぁ、いいや」 しかし、そんなことは気にしないと言いたげに満面の笑みを浮かべると、繭は早く行こうと昴をせっつく。「時間無
last updateLast Updated : 2026-10-21
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 特に何かを思っていったわけではなく、無意識に出た言葉。「そっ、それは、良いけど……」 ただ、こんな反応をされるのは予想外で海亜は戸惑ってしまう。「迷惑だったら無理をしなくても良いんだけど」 だからこそついこう言ってしまったのだろう。するとどうだろうか。先ほどまで俯き視線を合わせようとしなかった旭が、傷ついた表情を浮かべながら唇を噛んだ。「え?」 一体どういうことだろう。訳が分からず言葉を探していると、隣から上がる楽しそうな笑い声。「違うよ、お姉ちゃん」 陽菜の方へと視線を移すと、笑いが堪えられないとでも言うように口元を押さえながらも、眼を細めながらこう続ける。「旭はただ照れてるだけ。ホントは一緒に行きたいんだよ〜」「陽菜っっっ!!」 大きな音を立てて倒れる椅子。素早く伸びた腕が妹の手を掴もうと動く。「わーっっ! 暴力反対ー!」 慌てて席を立った陽菜がすんでの所でそれを交わす。「逃げるな!」 突然始まる追いかけっこ。取り残された海亜はその光景をぼんやりと眺めていたが、次第に面白くなり声を出して笑ってしまう。「あははっ」 海亜の笑い声を聞いた二人の動きがピタリと止まる。「二人とも、喧嘩をしちゃ駄目じゃない」 一通り笑ったところで涙を拭うと、海亜は改めて二人に向き合いこう提案を出した。「今週末、二人とも私に付き合いなさい」「え?」「陽菜はその時に靴を買うの。旭はそうね……本でも買おうか?」 数日前に千明から聞いていた旭の欲しいものを思い出し、どうかなと問いかける。「そ、そりゃあ、欲しいけど」 欲しいものを買おうかという提案に旭の心が揺らぐ。それを見逃すことはせず、海亜は一気に畳み掛ける。「それじゃあ、それを買いに行こう! そして、昼ご飯はみんなで外で食べる。良い?」 そう言われて陽菜は分かりやすく賛成の声を上げる。旭の方も悩むそぶりは見せたものの、最終的には分かったと頷き頭を掻いた。「あっ。旭、本当は嬉しいんだ〜」「うるさいっ!」 陽菜の言葉通り不機嫌そうに見えるのは表だけで、口元だけは満更でもないように緩んでいるのだからなんだか可愛く思えて仕方が無い。「じゃあ、決まりね! 二人とも、よろしく」◆ これで何度目の呼び出しになるのだろうか。「…………はぁ」 朝から続く頭痛と倦怠感。隣に陣取るのは扱いに
last updateLast Updated : 2026-10-23
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「昴義兄……さん……?」 聞き覚えのある声に無意識に肩が跳ねてしまう。「何で、ここに」 ゆっくりと振り返ると、背後には見知った一人の青年が立っていた。「久しぶりだね、旭くん」「あ、どうも」 小さく頭を下げたのは社交辞令みたいなものだろうか。数ヶ月ぶりに会う義兄と義弟。お互い突然の再会に驚きはしたものの、昴の直ぐ傍にる女性の存在に気が付くと、旭は嫌そうに表情を歪めて見せた。「ここで、何をしてるんですか?」 露骨に見せられた嫌悪感から感じるのは拙いという危機感で。咄嗟に繭を引き離し「何も無い」と訴えるのだが、そんなことは逆効果にしかならない。何も出来ずただ黙っていると、相手は呆れたような口調でこう告げる。「まさか、不倫?」 それは明らかな勘違いだ。 ただ、この状況において、そのように見えてしまうことは否定が出来なかった。「最低ですね」 彼が何を言いたいのかは痛い程よく分かっている。「姉さんとまだ離婚していないはずでは?」「…………っ」 そう言われ思わず逸らす視線。こうなると益々誤解が深まることは分かっていたが、どうしてこうなっているのかを説明をするタイミングは、少なくとも四埜杜繭が隣に居る今では無いことも分かっている。 早急に問題を片付け誤解を解かなければ、取り返しの付かない事になってしまう。そんな焦りから口を開こうとした瞬間、旭が真っ直ぐ睨み付けながらこう呟いた。「あなたのことは尊敬していました」 軽蔑を含んだ視線。それがとても痛い。「何があったのかは姉さんから聞いていましたが、正直、信じられませんでした。だって、あなたは姉さんのことをとても大切にしていたから」 今でも大切にしている。そう訴えたいのに、彼は此方に話す機会を与えてはくれず、更に言葉を続けていく。「あなただったら姉さんを幸せにしてくれると思っていた。俺達が出来なかった事を、あなたならできるはずだって思っていたのに、何でそんな風に姉さんを裏切ることが出来たんですか?」 一度だって不幸にしたいと思ったことは無い。ただ、それは、昴の一方的な主張でしかなく、その気持ちが海亜に伝わることは無かったのだから、言い訳にしか聞こえないことだろう。「姉さんの幸せを思うなら、早く彼女を自由にしてあげてください」 まるで恋人を守る騎士のように凛とした態度で、年下の青年からそう
last updateLast Updated : 2026-10-26
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 もっと器用に生きることが出来る人間だと思っていた。 しかし、それ自体が自らの驕りであることを嫌と言うほど思い知らされる。 自分なら大丈夫。自らの行動が自分自身を窮地に立たせていく。そんな考えは早く捨てるべきだったのだと後悔したところでもう遅い。 あの後、久しぶりにあった海亜と言葉を交わす事が出来た。内容なんて明るいものは一切無く、見せられる拒絶に心が抉られてしまう。それは誤解なんだと幾度となく訴えようとしたが、一度拗れたものを訂正することは難しく、旭や陽菜の事もあり、結局誤解は解けないまま解散となってしまった。 海亜から突きつけられたのは離婚についての話し合いについて。日時を設定するから、その時に改めて話合いましょうと切り捨てられた。 勿論、昴の方から彼女に離婚を切り出すつもりも、それに頷くつもりも無い。ただ、妻の表情を見る限り、縋ることで関係が改善出来る見込みは限りなく薄い事に気付いては居る。「覚悟……決めた顔してた」 女性は決断すると早い。その言葉を言っていたのは、一体誰だったのだろう。 女性の忍耐には限界がある、と。酒の席でその人はこう語っていたように思う。『女ってのはな、我慢出来るやつと我慢しないやつが居てな』 普段は滅多に見せない相手の一面。随分と酒に酔ってしまっていたのだろう。その人が語るのは、彼が実際に体験した出来事のようで、その言葉から滲み出ているのは明らかな後悔だった。『我慢しないやつはまだ良い。ぶつかり合えば修復が出来る可能性もあるからな。でもな、一条さん。我慢をしちまうやつはどうしようもない』 そう言って傾けたグラスの中で、氷がぶつかり小さな音を立てる。『我慢してる間は分かんないんだよ。我慢してるってことを隠すから。でも、それが一度でも爆発しちまうと、そういう女は簡単に覚悟を決めちまうんだ。そして決断するんだよ。自分に取って最善が一体なんなのかってことをな』 残っていた中身を一気に煽ると、その人は寂しそうな顔で自らの薬指を撫でる。『絆なんてもんはなぁ……案外脆いものなんだ。自分は大丈夫って思っていても、それは単なる思い上がりでしかなく、相手の取っちゃあ都合の良い言い訳にしか見えねぇらしい』 そこに残るのは確かに、婚姻を示す一つのリング。『こんな分かりやすい形で示しても、それがずっと効果があるって訳じゃ無い。
last updateLast Updated : 2026-11-02
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「そこは難しい問題じゃない?」 先程まで裏切りだ! 離婚だ! と盛り上がっていたはずの上司は、急に真剣な口調でこう続けた。「どうするかを決断するのはその人自身だけど、一時の感情で決めるのか、状況を確認した上で冷静に判断するのかで結果は変わるでしょう?」 小さく音を立てて転がるグラスの中の氷。それをストローで弄びながら、上司はそっと表情を和らげ小さく溜息を吐く。「何がその人にとって最善なのか。それを知るための方法は探せば出て来たりするじゃない?」 そう言われて海亜は思わず固まってしまう。「そ……う……です…かね?」 明らかに震えてしまう声。本音を悟られないように適当に笑って誤魔化すと、上司は少し黙った後ですっと視線を逸らしながらこう続けた。「もしその人が、まだ旦那さんのことを信じたいって思っているのなら、感情的になって終わらせる前に足掻いてみる事も大事なのかもしれないよね」 そこで訪れる休憩時間の終わり。これ以上はこの話題を話すことなく、職場に戻ると作業に取りかかる。手を動かしながら考えるのは先ほど言われたばかりの言葉で、そのことが妙に気になって仕方が無い。 もしかしたら、彼女は気付いていたのかも知れない。 この話が海亜自身の事を語っているのだと言うことに。 だからこそ、敢えて「考えてみなさい」と言葉を残したのだろう。「今までは、色んな事を誤解してた……のよね……」 この数ヶ月の間に、海亜を取り巻く環境は著しく変化を続けている。それは周りの動きが想定外の動きをしているという部分もあるが、何よりも海亜自身の心が変化してきているという部分が大きい。 幼少期の出来事により内側に閉じこもり、何も見ず、何も聞こうとしなかったせいで大きくなっていく蟠り。それは彼女自身の間違った認識と思い込みがそうさせていたもので、もっと広い視野で見れば全く異なる面を見せていたことに気付けたということはかなり大きい。「もしかしたら、昴さんの件も……」 何か誤解していることがあるのかも知れない。 離婚という言葉を伝えた後から感じる変化。今まで、海亜の世界は昴を中心に回っていたのだが、それ以外の部分に目が向き始めたことで彼との距離が遠くなる。少しばかりの開放感と、彼に対しての未練で揺れる心は、実のところ未だ答えが出せないまま放置されている状態だ。 ただ、許せない
last updateLast Updated : 2026-11-06
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