ANMELDEN『あの人が戻ってくることは考えなかったのですか?』 以前、千々石にそう言われたことがある。「考えなかった訳じゃねぇよ」 確かに四埜杜繭という女性が、再び現れる可能性を考えなかった訳では無い。ただ、何故彼女が忽然と姿を消したのかという理由を調べて得た情報と、国外で成功して順調であるという報告が届いて居たため、直接関わることがないと高を括っていたのだ。「気の緩みがあったんだろうな」 自らの選択で首が絞まっていく。一度捕まると逃げ出すことに苦労をする事など分かっていたはずなのに、あの頃とは状況が違うと信じたかったのかも知れない。「待っていてくれ、海亜……」 一階のロビーに着くと、不機嫌そうに受付の女性へと八つ当たりを繰り返す繭の姿が見え気が重くなる。「あっ! 昴!」 待ち望んでいた人物が現れたことで彼女の表情は一瞬にして喜びで満ちる。それを見て感じるのは非常に複雑な思いだった。「この人達ってば、最初から約束してるって言ってるのに、コチラでお待ち下さいって言って全然通してくれないんだよ! ヒドくない?」 素早く伸びる白い腕が昴の左腕に絡みつく。明らかにおかしい距離感に無意識に身体を離し距離を取ろうと動くが、それを許さないと言わんばかりに密着され、彼女の身に纏う香りに顔が歪んだ。「でもいいや。こうやって直ぐに降りてきてくれたしぃ。繭ってばほんっと昴に愛されてるんだね」 このポジティヴさは一体どこから出てくるものなのだろうか。何も答えず黙っていても、彼女は勝手に話し続け昴のことなど見ても居ない。「ほら〜、早く行こうよぉ〜」 そして極めつけの甘えるような猫撫で声。上目遣いでねだるようにアピールしてくる彼女をちらりと見たが、表情を変える事無く昴は直ぐに視線を別の場所へと移した。「買い物には付き合う約束はしていたが、こちらにも予定というものがあるんだ。スケジュールが押してるし、早く済ませてくれないか?」 契約上無碍には出来ない。だからこそ妥協出来る部分の付き合いは行う。しかし、それ以上に付き合いを一切するつもりはないと態度に出すと繭の表情が凍り付いた。「……へぇ。そんなこと言うんだぁ」 ほんの僅かな間に漂う不穏な空気。「まぁ、いいや」 しかし、そんなことは気にしないと言いたげに満面の笑みを浮かべると、繭は早く行こうと昴をせっつく。「時間無
「ねぇ……これって、本当に大丈夫なのかなぁ……?」 その言葉を放ったのは確かに女性の声だった。 慌てて周囲を確認してみても声の主を特定することは難しく、一体誰がその言葉を口にしたのかが分からない。ただ、その内容から考えるに、どうやら起こった事故は偶然などでは無いという可能性が浮上してくる。「そんな……まさか」 何となく思い当たる節はある。しかし、実際にそうだという確証は得られない。事故なのか事件なのか分からないまま数日が過ぎていく。 学生服では無い制服を見る度に焦燥感に駆られるのだが、子どもの力など出来る事に限界があるのも事実で。 結局、昴自身がこの事件について捜査できることは無く、いつの間にか事故という形で収束が付いてしまった騒動は、真実は有耶無耶になって終わってしまった。 あの日以来、明らかに変わったことがあるとすれば、あれほど仲が良かった後輩がいつの間にか学校から居なくなってしまったと言う事だろう。理由が分かっている分、何も言えないもどかしさだけが残るが、こればかりはどうしよもない問題だ。 守ってあげられなかったという現実は重く、昴の中に大きな痼りを残す。 この頃になると不機嫌だった繭の機嫌は直り、再び昴の周りをうろつき始めたのだが、後輩を突き落とした真犯人が彼女だという疑惑がある以上、あからさまな突き放しは次なる悲劇を引き起こす引き金になるかも知れない。その恐怖から表立って波風を立てることはせず、昴は繭に必要以上に関わらないようにすることで己を保ち日々を過ごす。 その間、後輩の事故のことは出来る範囲で調査を続けてはいたのだが、思ったような結果を出すことが出来ず完全に行き詰まってしまっていた。 一方、繭の方はと言うと、昴の傍から女子生徒の影が消えたことに上機嫌だった。自らが唯一の彼女であると吹聴し、家名を出して家柄の差を周囲に見せる。一条と釣り合うのは四埜杜だとでも言うように。 その努力の甲斐があってか、昴に必要以上に近づこうとする女生徒は現れず、必ず繭の同席が無い蹴れば会話をする事が出来ない。例外として女性教師はその条件に当てはまらないものの、それでも四埜杜とう名前に怯えたのだろうか。連絡事項や重要な報告以外は言葉を交わすこと無く、それ以外は男性教師を間に挟んで言葉を交わす始末。こうやって徹底的に女という存在を排除する事により、
昴が異変に気付いたのは、生徒達が帰宅を始める下校時刻になって直ぐのことだった。 階下へと降りるために廊下を歩いていると、突然辺りに悲鳴が響き渡る。声の聞こえてきた方向にあるものは、現在向かっている階段だ。普段からこの時間になると賑やかな事が多いため、悲鳴のような音が聞こえることも珍しくは無い。しかし、この時ばかりは聞こえてきた音に強烈な違和感を感じ不安が過ぎる。 一体何があったのだろうか。 その疑問を確かめるべく駆け出すと、見えてきたものは複数の人の姿。野次馬として集まってきた彼等を掻き分けるようにして前へと進み出た瞬間、そこで見た光景に思わず言葉を失ってしまった。 どうして? 次に浮かんだ言葉はその一言である。 昴の目に飛び込んできたものは、踊り場に横たわる一人の女子生徒の姿だった。 一瞬、何が起こっているのかが分からず混乱したが、少しずつ状況が理解できはじめると、昴は慌てて彼女の元へと駆け寄る。 「だ、誰か!!」 冷静な時ならばどうすれば良いのかと瞬時に判断ができただろう。しかし、予想外の場面に直面すると、冷静であることなど簡単には出来やしない。教師を呼ぶことも、救急車を呼ぶことも。頭の何処かでは分かっているはずなのに、それでも身体が無意識に動き、知った顔である彼女の無事を確かめるべく横たわる彼女の身体を抱き起こす。 彼女の身体に触れた瞬間、手に伝わるのは嫌な感触だ。 よく見ると、床に薄らと広がる紅い色。どうやら怪我をしているらしい。その事が分かった瞬間、昴の顔から血の気が引いていく。「先生っっっ!!」 野次馬の中の一人が助けてくれる人を呼びに行ってくれたのだろう。廊下から聞こえてきた大人の声に、弾かれたように顔を上げると、昴は自らの居場所を示すように大きな声で教師を呼んだ。「先生! 助けてください!!」 周りの評価が幾ら高くても、 昴だって所詮、人の子である。普段完璧に近い評価を得ていたとして、それが常に在るというわけでは無い。寧ろこういう場面に直面すると、彼の人間らしい部分が見えてくるのかも知れない。どうしたらよいのかを指示しないといけない。そんな気持ちは有るはずなのに、力なく横たわる友人の姿を目の当たりにした瞬間、言葉は全て意味の無いものへと変化していく。ただひたすらに繰り返すのは助けて欲しいという一言だけで、口に出せる言
昴に一目惚れをしてからの繭は積極的で、彼の姿を見掛けると所構わずアプローチを繰り返すようになる。そうやって少しでも意識して貰おうと必死になっていく。その姿は彼女にしてはとても珍しい事で、今までの彼女からするとあり得ない事でもあった。 繭の場合、欲しいと言えば手に入る事が当たり前だった。 誰もが彼女を一目置き、彼女に好かれようと努力をする。繭自身が何かをしなくとも、好意が勝手に酔ってくる。これが、今までの彼女の当たり前だったのだが、どうも昴だけは勝手が違う。 どれだけアピールを繰り返しても、彼はいつだって一定の距離感を保つことで繭に接し、決して彼の方から距離を縮めてくることはしない。その事が彼女にとって酷く新鮮で、始めの頃はゲームを楽しんでいる感覚を味わえて楽しかった。 ただ、振り向かない相手を追い続けていると、その本質が変化していくこともあるのだろう。 いつしか好きだという告白は、強い執着へと変貌を遂げていく。どうにかしてこの人を振り向かせたい。そんな切なる想いは、何としてでも相手を支配したいという歪んだものへと変化し、やがて、この人は自分のものであるという歪んだ事実を吹聴して回るほど、感情が暴走を始めてしまったのだ。 こうなってくると昴の方も黙っていられなくなった。 元々、誰とも付き合うつもりの無かった昴からすると、繭の行動は迷惑行為以外の何も感じ無いもので。好かれていること自体は肯定的に受け入れる事が出来ても、それ以上を求められるのだとするとそれは話が変わってくる。 幾度となく迷惑だと伝えていたが、何故か彼女は理解してくれず、話は拗れどんどん間違った情報が拡散されていく。その結果、気が付けば昴と繭が付き合っているという間違った認識が当たり前のようにされてしまったのだ。 そして、その頃から繭の行動は益々大胆になっていく。 どこにでも現れる彼女は、さも当たり前のように昴の傍に寄り添い甘い声で寄りかかる。一応は最低限の常識はあるようだが、それでも彼女の言葉は絶大で、少しでも不快を示そうものなら昴の方が悪者にされてしまう。まるで集団で催眠に駆けられたかのように彼女の言うことばかりを信じる人達に感じるのは絶対的な支配で、次第に昴も口数を減らしていった。 このままでは良くない。それは分かっていても、昴にはどうすることも出来ない。 ヘタに刺激すると
「大丈夫だって思い込んでた自分が悪いって事は、自分自身が一番良く分かってるんだよ……」 左手の薬指。そこに嵌まるリングを撫でながら昴は続ける。「でも、下手に動けない状況だったんだ。どうしたら良いのか……」 愛しい妻との関係を壊す、この緑色の紙を破ってしまいたい。しかし、それをしてしまえば、きっと良くないことが起こることだろう。「千々石」 名前を呼ばれた秘書が、すっと黒いファイルを手渡す。「これはお前に預けておく」「はい」「頼むから、絶対に奪われないでくれ」 それはもう、命令では無く願いに近かった。「承知いたしました」 預かる責任は実に重たいものではあったが、こうなってしまった責任は千々石にもある。それが分かっているからこそ、彼は素直にファイルを受け取り頭を下げた。「信じてるからな」「分かっています」「……はぁ」 手元に残された緑色の紙が目の前から消えたことで、心配事の一つは先送りとなった。完全に解決するためには未だに時間が足りないためもどかしさは感じるのだが、その前に立ち塞がる問題を解決する必要があるせいで中々上手くはいかない。「それで」 千々石が時計を見ながら尋ねる。「どうするつもりですか? 昴さん」「…………」 今、昴に必要なものは、決定的な証拠である。 四埜杜繭と再開してから起こる様々なトラブルは、決して偶然などでは無い。そのことについては始めから気が付いていた。 一度や二度なら疑いを持つこともしなかったかも知れない。しかし、余りにも頻繁に起こる不可解な現象が続くのだから、これはもう必然と断定してもおかしくはないだろう。そして、その全てに四埜杜繭という女性が絡んでいることは分かりきっている。それなのに、彼女が関与をしているという事実。それを示す証拠だけが未だに見つからない。「少なくとも、この前の事故……あの時の証拠さえ押さえられれば……」 あの忌々しい記憶は、消えること無く鮮明に思い出すことが出来る。 愛する妻が蒼白になって病室に駆け込んできたあの日。四埜杜繭を送迎する目的で、車を走らせているときに巻き込まれた交通事故。それがきっかけで、妻との距離はどうしようも無いほど離れてしまった。 事故があってからというもの、一気に世間に広まったものが、昴と四埜杜の関係を匂わせる報道である。どちらも知名度があるせいで、
店内は落ち着いた雰囲気だが、思ったよりも明るい。ウッド調を基調に観葉植物の緑が映え、ブラックをベースにした照明器具がそれらを邪魔しないようにバランス良く配置されている。「此方へどうぞ」案内されたのはテーブル席で、焼き色を入れた木目のある天板をアイアンフレームで固定したテーブルは店内の雰囲気に良く似合っていた。それと対になるように置かれた椅子は、無骨な見た目ながらもクッション部分は柔らかく、以外と座り心地が良い。「お決まりになりましたら、そちらのベルでお呼び下さい」必要なことだけ伝えると、ホールスタッフの女性は他の客の対応へと向かってしまった。とは言え、必要以上に干渉されない距離感は心地好いと感じ、この雰囲気は嫌いでは無いと海亜は思う。「ねぇ、これなんてどうかな?」上司はと言うと、目を輝かせながらメニューを見て声を弾ませている。開かれたページにあるのはランチタイム限定の日替わりセットで、内容に対して値段がリーズナブルなのが丁度よく、メインが三種類のパスタから選べるのも嬉しいと感じる。「良いですね」上司の提案に二つ返事で同意を示すと、それぞれメインのパスタを決めて注文を伝える。料理が運ばれてくるまでの間に話す話題は仕事についてが殆どで、作業の進展状況と今後のスケジュールについて相談に乗って貰っているところでセットのサラダが運ばれてきた。「わぁ……美味しそう……」喜びが大きくなると、派手なリアクションは中々出てこなくなるのだろうか。まるで儀式を行うかのように両手を合わせ呟いた言葉は「いただきます」で、その言葉を合図に早速、目の前の料理に口を付ける。「あ。美味しい」 なるほど。と思うのは、想像していたよりも随分と好みの味が合うからなのだろうか。思わず打つ舌鼓に自然と顔が笑顔に変わる。 そうやって食事の時間を楽しんでいると、不意にどこからかこんな言葉が聞こえてきた。「ねぇねぇ、知ってる? MAYUって居るじゃん? やっぱり、付き合ってるらしいよ。ミリセック・カーゴの社長と」 楽しかった時間が一瞬にして冷えていく。無意識に止まった手は中途半端に宙に浮いたまま。フォークに絡めた細い麺が、重力に逆らえず皿の上に落ちる。「あ、やっぱり? なんかそんな感じはしてたよねぇ」 噂話をしている人達に悪意なんて有るはずが無い。彼女達は純粋に、ゴシップとして上







