Alle Kapitel von 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる: Kapitel 81 – Kapitel 90

196 Kapitel

第80話:本気で応援してる

嬉しそうというより、何かを受け取って、言葉を探しているような目。愛子の胸が、ほんの少しだけ揺れる。でも、それ以上考える前に、愛子は明るく続けた。「だから今日は来てくれてありがとう。ここで、いい出会い見つけてね」本気だった。「本気で応援してるから」私は、笑った。色々あったけれども、笑顔で翔太を応援できている自分に安心した。これからは、隣人としていい距離を保てる気がした。だけどその瞬間、翔太の表情が少しだけ変わった。ほんの一瞬だった。口元が止まる。目元から、さっきまでの柔らかさが消える。怒ったわけではない。でも、少し傷ついたように見えた。昔、愛子が突き放すようなことを言った時、翔太が一瞬だけ見せた顔に似ていた。愛子は「あれ」と思う。けれど、その表情はすぐに消えた。翔太はグラスを置き直す。それから、少し寂しそうに笑った。「……ありがとうございます」声は普通だった。でも、返事まで少しだけ時間があった。その笑顔が、妙に胸に残った。どうして今、寂しそうに見えたんだろう。愛子は一瞬、考えかける。けれど、その答えに触れる前に、背後から声がした。「愛子」正人だった。愛子は振り向く。正人は資料を片手に立っていた。仕事の顔だ。でも、愛子の顔を見た瞬間、ほんの少しだけ目を細めた。たぶん、表情に出ていたのだと思う。自分が少し動揺していること。それを隠しきれていないこと。正人には分かる。分かってしまう。「受付側、少し詰まりそう」正人は何も聞かなかった。「俺がこっち見るから、愛子はDJ側戻って」仕事の言葉だった。愛子が平常心を取り戻せる言葉。助かった。でも、その優しさが痛かった。「分かった」愛子は頷く。翔太へ軽く視線を戻す。「じゃ、楽しんで」翔太は少しだけ頷いた。「はい」短い返事。その目は、もうさっきの柔らかさではなかった。でも、冷たいわけでもない。ただ、何かをしまい込んだように静かだった。愛子はそれ以上見られなくて、正人の方へ歩いた。***イベントは、たぶん成功していた。参加者は笑っていた。音楽は会話の入口になっていた。プレイリストカードはちゃんと機能していて、初対面の人たちが少しずつ自分の話をし始めていた。愛子が作りたかった空気は、確かにそこにあった。途中、小さなトラ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-12
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第81話:近いのに遠い

土曜日。イベントの翌朝、私は目覚ましより先に目が覚めた。身体が重い。頭の奥も、まだ少し痛い。昨日の会場の音が、耳の奥に残っている気がした。DJの低い音。グラスが触れ合う音。人の笑い声。スタッフが誰かを呼ぶ声。プレイリストカードを手に、少し照れながら話し始める参加者たちの声。一ヶ月かけて作った夜が、まだ身体の中に残っている。スマホを見ると、社内チャットアプリの通知が溜まっていた。昨日かなり良かったです!参加者の滞在時間、想定より長かったですSNS反応も出始めてますDJ側からも好評でしたクライアントもかなり満足そうでしたイベントは成功だった。少なくとも、初回ローンチとしては十分すぎるくらいだったと思う。一ヶ月、本当に無茶なスケジュールだった。音楽マッチングアプリ。ローンチイベント。会場導線。DJタイムテーブル。プレイリストカード。参加者導線。PR設計。当日オペレーション。何度も、無理だと思った。何度も、終わらないと思った。それでも、何とか形にした。正人と深夜まで資料を直した。コンビニのご飯を食べながら導線を組み直した。眠すぎて笑うしかなくなった夜もあった。だから、本当ならもっと素直に喜べるはずだった。嬉しい。それは確かにある。でも、胸の奥が晴れない。昨日の会場で、翔太を見つけた瞬間のことを思い出す。来るかどうか分からないと思っていた。でも、本当に来た。人の間に立つ翔太は、やっぱり少し目立っていた。黒い服。少し乱れた髪。何もしていないようで、視線だけは静かにこちらを見ている感じ。見つけた瞬間、少しだけ嬉しかった。その感情が何なのか、私は深く考えなかった。ただ、忙しい一ヶ月の最後に、知っている顔がそこにあったことが、少しだけ救いみたいに感じた。でも、その余韻の隣に、ずっと正人がいた。イベント中、正人とは何度も目が合った。スタッフと話す正人。クライアントに説明する正人。参加者の流れを見ながら、少し離れた場所で全体を整えている正人。いつも通りだった。仕事ができて。周りをよく見て。誰かが困る前に、先に動く。その安心感は、変わっていない。変わっていないはずなのに。正人の視線がこちらに向いた時だけ、少し胸が痛んだ。あの日のワインバーから、何もかもが少しずつ違う。
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-13
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第82話:無理すんなよ

前なら、こんな沈黙は気にしなかった。疲れていれば黙っていたし、くだらないことを言いたければ言っていた。相手が何を考えているかなんて、わざわざ気にしなくてもよかった。今は違う。正人が黙ると、何かを飲み込んでいるように見える。私が黙ると、正人がその沈黙を壊さないようにしているのが分かる。その気遣いの輪郭が、やけにはっきり見えてしまう。「無理すんなよ」ふいに正人が言った。私は顔を上げる。正人はPCを見たまま、続けた。「今日は早く帰って寝ろ」前なら、もっと雑だった。「疲れが顔に出てる」「飯食え」「倒れるぞ」そんな言い方だったと思う。今は、少し丁寧だ。少し遠い。優しいのに、遠い。私は曖昧に笑う。「正人もね」「俺は寝る」「本当に?」「たぶん」「それ、寝ないやつじゃん」「今日は寝る。さすがに」少しだけ笑い合う。でも、そこまでだった。以前なら、このあとコンビニに寄って、私の部屋で雑に反省会をしたかもしれない。昨日のミスを笑って。誰かのファインプレーを褒めて。疲れ切ってソファに沈んで。最後はどちらかが寝落ちしそうになって。それが、当たり前だった。でも今日は、そうならない。たぶん、正人は来ない。私も、誘えない。誘ったら、前と同じ意味にはならないから。「昨日」言いかけて、止まる。正人が顔を上げた。「何?」「いや」私は首を振る。「成功してよかったね」言える範囲の言葉だけを選ぶ。正人は少しだけ私を見る。何かを察したような目だった。でも、何も聞かない。「うん」短く頷く。「愛子、かなり頑張ってた」その言葉に、胸が詰まった。「正人もでしょ」「俺も頑張った」「自分で言う」「事実だから」ほんの少し、いつもの空気が戻る。そのことに安心しかけて、すぐに怖くなる。戻ったと思うたび、戻っていないことが分かるから。「じゃ、今日はここまでにするか」正人がPCを閉じた。「うん」私も資料をまとめる。会議室を出る。廊下で並ぶ。距離は近い。肩が触れるほどではないけれど、仕事帰りに何度も歩いた距離。でも、遠い。目に見える距離ではなくて、言葉の置き場所が遠い。エレベーター前で、正人が少しだけこちらを見る。「月曜、報告書仕上げよう」「うん」「普通に」その言葉に、胸が小さく鳴った
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-13
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第83話:隣人という口実

月曜日。イベントが終わったのに、全然終わった気がしなかった。朝から報告資料に追われていた。参加率。滞在時間。SNS反応。参加者の導線ごとの離脱ポイント。次回に向けた改善案。クライアント向けの初回ローンチ総括。成功したら終わり、ではなかった。むしろ、成功したからこそ次が始まっている。「終わった後の方が忙しいの何……」PC画面を見ながら呟くと、向かいに座っていた正人が少しだけ笑った。「広告あるある」「詐欺じゃん」「終わったと思わせといて終わらない」その返しに、私も少しだけ笑う。空気は悪くない。悪くないのに、前と同じではなかった。正人は、優しい。驚くほど。イベント後の数字をまとめる時も、私が詰まりそうなところを先に拾ってくれる。報告書の骨子も、必要なグラフも、次回提案に入れるべき論点も、気づいた時には並んでいる。「ここ、俺やっとく」「愛子はSNS反応だけ見て」「そのあとは先帰っていいよ」言葉は全部、優しい。でも、少し遠い。前なら、もっと雑だった。「顔死んでる」「飯食った?」「今日もう終わり」「帰るぞ」そんなふうに、こちらの都合なんて半分無視して踏み込んできた。それが楽だった。雑なのに、近かった。今の正人は、私が困らないように、ちゃんと大人に引いている。あの日、告白されてから。ワインバーで好きだと言われてから。正人は、私に選択肢をくれるようになった。いや、前からそういう人だったのかもしれない。ただ、今はその気遣いが、やけに見えてしまう。「この辺、月曜午前のクライアント報告でいけると思う」正人がモニターをこちらに向ける。「うん。数字、かなり綺麗だね」「初回にしてはかなりいい」「正直、ちょっと安心した」「俺も」正人はそう言って、少しだけ表情を緩めた。その顔を見ると、胸が痛む。一ヶ月、一緒に走った。死ぬほど忙しかった。深夜まで資料を直して、コンビニのご飯を食べて、私の部屋で何度も導線を組み直した。あの時の距離は、今よりずっと近かった。でも、あの時は何も知らなかった。正人の気持ちを。自分がどれだけその近さに甘えていたのかを。「愛子」呼ばれて、顔を上げる。「ここまででいい。今日はもう帰れ」少しだけ、昔みたいな言い方だった。私は一瞬、安心しかける。でも、すぐに分
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-14
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第84話:あの子どうなの?

「飯、まだですよね」静かに言われて、私は止まった。「……何で分かったの?」「顔」短い返事。でも、口元には少しだけ笑みがあった。「あと、手ぶらなんで」言われて、自分の手を見る。確かに、コンビニ袋も何も持っていない。「冷蔵庫に何かあるタイプにも見えないし」「ひどい」「当たってますよね」「当たってる」悔しいけれど、否定できない。翔太はそこで、少しだけ視線を外した。エレベーターの階数表示を見る。それから、何でもないことみたいに言った。「俺もまだなんで」少し間があった。「行きます?」私は翔太を見る。言い方は軽かった。隣人が、たまたま同じタイミングで帰ってきて、たまたまご飯に誘った。そのくらいの温度。でも、たぶん違う。翔太は、私が疲れていることに気づいた。ご飯を食べていないことにも気づいた。それで、誘った。隣人という口実を使って。そう分かった瞬間、少しだけ胸が揺れた。「……ご飯?」「はい」「今から?」「近くです。重くないやつ」押しつけない。断れる余白をちゃんと残している。でも、少しだけ待っている。私は一瞬迷った。正人の顔が浮かぶ。何か買って帰れ。食べられそうなやつ。その言葉。そして、今日の正人の遠さ。優しいのに、少し距離がある感じ。部屋に戻って、一人でカップ麺を食べる自分を想像すると、急にしんどくなった。「……行く」そう言うと、翔太は小さく頷いた。「じゃあ、こっち」それだけ。でも、その短さがありがたかった。***連れて行かれたのは、マンションから少し歩いたところにある小さな和食屋だった。遅い時間でも定食が食べられる店。木の引き戸。薄い暖簾。カウンター席の奥に並ぶ湯呑み。焼き魚の匂い。味噌汁の湯気。派手さはない。でも、店に入った瞬間、身体の力が少しだけ抜けた。「こういう店、知ってるんだ」思わず言うと、翔太はメニューを開きながら答えた。「この辺、意外とあります」少し間。「遅くてもちゃんと食えるとこ、覚えました」その言い方が自然で、少しだけ驚く。昔の翔太は、居酒屋かラーメンだった気がする。勢いで動いて、勢いで食べて、勢いで笑う。予定なんてあってないようなもので、良くも悪くも、その場の空気で決める人だった。でも、今は違う。疲れた夜に入れる店を知っ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-14
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第85話:次は払うね

「いい子ですけど、何か違うんですよね」 「合う合わないって、感覚であるじゃないですか」その言い方は、軽いようでいて、妙に正直だった。私は少しだけ頷く。「そっか」それだけ返しながら、胸の奥に小さな違和感が残る。翔太が誰かを好きになることを、私は応援しているはずだった。イベントでも、本気でそう言った。いい出会い見つけてね、と。それなのに、今、何もないと聞いて少しだけ安心したような気がした。何でだろう。そう思って、私は味噌汁をもう一口飲んだ。考えない。今は疲れているだけ。温かいご飯を食べて、少し気が緩んでいるだけ。きっと、そう。***食べ終わる頃には、身体が少し戻っていた。空腹が満たされるだけで、人間はこんなに違うのかと思う。私は湯呑みに手を添えながら、小さく息を吐いた。「……生き返った」翔太が少し笑う。「よかったです」押しつけない。変に気を遣いすぎない。でも、ちゃんと見ている。その距離感が、妙に心地よかった。「ほんと変わったよね」私がまた言うと、翔太は少し呆れたように笑った。「またですか」「いや、昔はもっと雑だったじゃん」「失礼ですね」「否定しないんだ」「二十代前半なんて雑ですよ」その言い方が自然で、少し笑ってしまう。昔なら、少し拗ねたかもしれない。今は、ちゃんと笑って受け流す。「まあ、仕事始めてからです」翔太が水を飲みながら言う。「海外との会議増えると、ちゃんと食わないと普通に死ぬんで」「あー……それは分かる」「あと、金で解決できるところはした方が楽だって気づきました」さらっと言う。嫌味じゃない。見栄でもない。ただ事実みたいな言い方。昔の翔太なら、こういう話は少し意地を張ったと思う。奢ろうとして空回ったり。余裕がないのに余裕があるふりをしたり。でも今は違う。ちゃんと働いて。ちゃんと生活して。自分の余裕の使い方を知っている。知らない五年が、そこにあった。少しだけ、かっこよくなったなと思った。その感情に、自分でまた少し止まる。終わった相手なのに。***会計のために立ち上がる。私は財布を出した。「いくら?払うから教えて」その時には、翔太が先にカードを出していた。「いいです」「いや、払うよ」「今日、俺が誘ったんで」自然だった。恩着せがましくな
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-15
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第86話:傘の外

火曜日。イベント後の報告資料は、まだ終わっていなかった。参加率。滞在時間。SNS反応。次回改善案。クライアント向けの総括。ローンチ後の改善提案。イベントが終わった瞬間から、次の仕事が始まる。分かっていたことなのに、身体がついてこない。私はPC画面を見ながら、小さく息を吐いた。「終わらない」向かいで正人が資料を確認している。「終わるよ」「本当?」「たぶん」「信用できない」そう言うと、正人が少しだけ笑った。会議室の空気は、静かだった。キーボードを打つ音。空調の低い音。正人が資料をめくる音。前なら、この静けさは楽だった。何も話さなくても平気だった。沈黙が、近さの証拠みたいだった。でも今は違う。沈黙が、距離になっている。「昨日、ちゃんと食べた?」ふいに正人が聞いた。私はペンを回しながら頷く。「うん」少しだけ笑ってしまう。「久しぶりにちゃんとしたご飯、人と一緒に食べた」言ってから、しまった、と思った。昨日、翔太と行った和食屋のことが頭をよぎる。焼き魚。味噌汁。遅い時間の静かなカウンター。疲れていることに気づいて、隣人という口実で誘ってくれた翔太。正人の指が、ほんの少しだけ止まった気がした。気のせいかもしれない。でも、そう見えた。「ならよかった」正人はそれだけ言って、画面に視線を戻した。聞かなかった。誰と、とは。前なら、聞いただろうか。いや、前ならそもそも、正人が一緒にご飯を買ってくれていたかもしれない。昨日も、前のままだったら。コンビニ行く?何か食べる?部屋で続きやる?そうやって、当たり前みたいに私の生活に入ってきていたかもしれない。でも今は、違う。正人は、線を引いている。それが分かる。分かるから、胸が少し痛い。「ここ、俺やるよ」正人が資料の一部を指差した。「いいの?」「うん」「でも、正人も抱えてるでしょ」「大丈夫」その声は、いつも通りだった。仕事としての判断。同僚としてのフォロー。必要なところを、必要なだけ助ける声。優しい。でも、明確に仕事の距離だった。前なら、その「大丈夫」の中にもっと生活の近さが混ざっていた。帰り道。ご飯。部屋。体調。眠れているかどうか。そういうところまで、正人は自然に踏み込んできた。今は、踏み込まない
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-15
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第87話:なんでもない

「風邪ひく」「正人は?」「俺は平気」「傘あるし?」「うん」それだけ。一緒に入る、とは言わない。言わないようにしているのが、分かった。胸の奥が、少しだけ痛む。タクシーが来るまで、二人でビルの軒下に立った。雨の音が、静かに落ちている。車道にライトが滲んでいる。濡れたアスファルトの匂いがして、夜の空気が少し冷たい。正人は私の隣にいる。近い。でも、遠い。今までで一番、そう感じた。私は横を見る。正人は前を見ていた。少し疲れた横顔。街灯の光が頬に薄く当たって、目元に影が落ちている。この人は、ずっとこうやって我慢していたのかもしれない。近くにいるのに。近づきすぎないように。親友の顔をして。仕事の相棒の顔をして。私が何も知らない間に。「正人」名前を呼ぶ。正人がこちらを向いた。「何?」言葉を探す。ごめん。ありがとう。普通にしてくれてるの、分かってる。でも、少し寂しい。どれも違う気がした。いや、違わないのかもしれない。でも、今ここで言うには、どれもあまりにも中途半端だった。私は結局、首を振る。「……何でもない」正人は少しだけ笑った。「そっか」その笑い方が優しくて、余計に苦しかった。タクシーが来る。正人が一歩前へ出て、ドアを開けた。「乗って」「うん」私は乗り込む前に、もう一度正人を見る。「ありがとう」正人は頷いた。「ちゃんと寝ろよ」昔と同じ言葉だった。でも、距離が違った。ドアが閉まる。タクシーが走り出す。窓の外で、正人が小さく手を上げた。黒い傘はまだ閉じたままだった。私を乗せるまで、差さずに待っていたのだと、少し遅れて気づく。そのことが、胸に刺さった。前なら、隣にいた。今日は、外にいる。その違いが、思ったより痛かった。雨で滲む窓越しに、正人の姿が小さくなっていく。それでも、私はしばらく目を逸らせなかった。***タクシーの中は静かだった。運転手さんのラジオの音が、小さく流れている。窓に雨粒が滑っていく。私はバッグを膝に置いたまま、ぼんやり外を見ていた。正人は優しい。今日も、ずっと優しかった。仕事では完璧に支えてくれた。私が困らないようにしてくれた。疲れているのを見て、タクシーを呼んでくれた。傘に入る距離を作らないようにしてくれた。全部、私
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-16
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第88話:正人が遠い

その週の、木曜日になった。仕事は、少し落ち着いた。イベントの振り返りもひと段落したし、数字も悪くなかった。クライアントの反応も良かった。次回に向けた改善案も、ある程度形になっている。本来なら、少し安心していい頃だった。一ヶ月近く、ずっと張り詰めていた。イベント当日まで走って、終わったあとも報告資料に追われて。ようやく、少し息をしていいタイミングのはずだった。なのに。私は、何となく落ち着かなかった。理由は分かっている。分かっているけれど、認めたくない。「平原さん、この導線修正どう思います?」会議室で後輩に声をかけられて、私は画面を覗き込んだ。「あー……ここは、入口の説明を少し削った方がいいかも。導線自体は悪くないけど、最初に読ませすぎると重い」「なるほど」「あと、こっちは“参加する理由”より“話しかけるきっかけ”を前に出した方がいい。イベントの反応見る限り、そこが効いてたから」口はちゃんと動く。仕事の頭も、それなりに戻ってきている。後輩が頷いて、メモを取り、私は次の資料へ視線を移す。普通に仕事は回る。ちゃんと会話もできる。なのに、視界の端に正人がいるだけで、少しだけ意識が引っ張られる。正人はいつも通りだった。本当に、驚くほど普通。朝は「おはよう」と言う。仕事の確認もする。資料も見る。必要なところはフォローしてくれる。でも、少しだけ遠い。前みたいに、「昼食った?」はない。「今日顔死んでる」もない。会議終わりに、どうでもいい雑談を振ってくることもない。前なら、自然に隣へ来た。PCを覗き込んで、「ここ違くない?」とか、「今日帰れよ」とか、少し雑に言いながら、いつの間にか近い距離にいた。肩が触れそうでも、何も思わなかった。私も、それを当然のように受け取っていた。でも今は、向かい側から資料を送ってくる。必要なことだけ、丁寧に言う。私が困らないように、ちゃんと余白を残す。正人は優しい。だから、余計に苦しい。私はPC画面を見ながら、小さく息を吐いた。変。何か、変。いや、変にしたのは私だ。正人に告白されて、戸惑って、少し距離を取った。正人はそれに気づいて、私が困らないように、ちゃんと線を引いてくれている。それなのに。いざその線を引かれると、寂しいと思ってしまう。あまりにも勝手すぎる
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-16
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第89話:近くにいすぎた

湯気の立つ味噌汁が、少し揺れている。「正人、ようやく距離取れてるんだと思う」さやかは静かに言った。「愛子のこと好きなまま、近くにいすぎたんだよ」好きなまま。近くにいすぎた。その言葉が、胸の奥に落ちる。私は何も言えなかった。ご飯を食べながら。笑いながら。仕事をして。深夜まで一緒にいて。コンビニ飯を食べて。部屋で資料を直して。家族みたい、と言って。その全部を、正人は好きなままやっていた。私はそれを知らなかった。いや、知らないふりをしていたのかもしれない。正人が近くにいることを、あまりにも自然に受け取っていた。「普通にすごいと思うよ」さやかが言う。「私なら無理」少し笑う。「絶対病む」その軽さに、逆に救われる。でも、胸は痛かった。「私、ひどいよね」ぽつりと言うと、さやかは眉を上げた。「何が」「だって、自分で困って距離取ったくせに、正人が遠くなったら寂しいって思ってる」言葉にした瞬間、胸の奥にあった嫌なものが少しだけ形を持った。「勝手すぎる」さやかはすぐには何も言わなかった。私は箸を置く。食欲がなくなったわけではない。でも、喉のあたりが少し詰まる。「正人が普通にしてくれてるのも分かるの。私が気まずくならないようにしてくれてるのも分かる」「うん」「でも、前みたいに踏み込んでこないのが寂しい」言ってしまってから、自己嫌悪が胸の中に広がる。何を言っているんだろう。正人は私のために引いてくれている。私が困らないように、ちゃんと距離を取ってくれている。それなのに私は、前みたいに近くにいてほしいと思っている。でも、同じ温度で返せるかは分からない。それは、あまりにもずるい。「ほんと最低だなって思う」小さく言うと、さやかは少しだけ息を吐いた。「最低ってほどじゃないよ」「でも」「愛子が勝手なのはそう」「そこは否定してよ」「しない」さやかはあっさり言った。「でも、人の気持ちってだいたい勝手でしょ」私は黙る。「正人を失いたくないんでしょ」その言葉に、視線が落ちた。「……うん」認めるしかなかった。失いたくない。恋愛なのかは、まだ分からない。でも、正人が遠くなるのは嫌だった。今まで通り話せなくなるのも嫌だし、部屋に来なくなるのも嫌だし。どうでもいいメッセージが来なくなるのも
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-17
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