ログイン***その数日後、私は急遽、九州へ行くことになった。クライアントからの依頼で、現地支社への同行が必要になったのだ。一泊二日。正人と、チームの後輩二人。本来なら私が行く予定ではなかった。でも、クリエイティブ面の説明が必要になり、直前で追加された。スケジュールはかなりタイトだった。朝の便で移動。午後に支社で打ち合わせ。夕方に追加確認。翌朝には現地で軽い視察をして、そのまま東京へ戻る。仕事の合間に、東京側の案件も確認しなければならない。移動中もPCを開き、返信を打つ。空港から車に乗っている間も、正人は別クライアントの調整をしていて、私も資料の修正をしていた。以前なら、こういう出張では正人と自然に動線が重なっていた。空港でコーヒーを買うタイミング。タクシーの席。打ち合わせ前の確認。会食前の小さな打ち合わせ。でも今回は、少し違った。担当範囲が微妙に分かれていたこともある。正人はメディアと進行全体。私はクリエイティブ説明。後輩二人は現地支社との調整と議事録。自然と、正人と話す時間は少なくなった。正人が距離を取っていることも、たぶん少しある。それは分かっていた。分かっているけれど。忙しい出張の中で、いつも隣にあった気配がないことが、思っていたより心細かった。夜。クライアントとの会食は、予定より重かった。支社長はよく笑う人だった。豪快で、声が大きく、場を盛り上げるのが好きなタイプ。最初は仕事の話だった。現地の市場。支社の課題。次の施策。でも、途中から酒のペースが上がった。「平原さん、飲めるでしょ」グラスを向けられる。断りづらい空気だった。私は笑って受ける。一杯。もう一杯。支社長が勧める。周りも笑う。場を壊したくない。ここで強く断ると、少し面倒になる。そう思ってしまう。いつもなら、正人がどこかで止めてくれていた。「平原さん、明日朝早いんで」とか。「それ以上飲ませたら、明日資料出ませんよ」とか。冗談にして、自然にグラスを遠ざけてくれた。でも今日は、席が離れていた。正人は別の役員に捕まっていて、こちらを見る余裕があまりない。私も、大丈夫な顔をした。笑っていた。仕事の顔で。解散するまでは、なんとか耐えた。店を出ると、夜の空気が思ったより冷たかった。歩道の明かりが、
翔太がニューヨークへ発ったのは、月曜の朝だった。出張の話を聞いた時は、ただ忙しそうだと思っただけだった。外資系の金融機関なら、そういうこともある。時差のある会議も、海外チームとの調整も、翔太の日常の一部なのだろう。それなのに。夜、帰宅してベランダ側の窓を見た時、隣が静かなことに気づいてしまった。もちろん、いつも音がしていたわけではない。毎日話していたわけでもない。でも、最近は少しだけ違った。帰りが遅い日に短いメッセージが来たり。ベランダで数分だけ話したり。ジム帰りに偶然会ったり。気づけば、生活の中に小さく翔太が混ざっていた。それが一週間ない。そう思うと、妙に部屋が広く感じた。火曜日の夜。仕事帰りに立ち寄ったドラッグストアで、歯磨き粉の棚を見ていた時だった。ふと、前に欲しいと思っていた海外の歯磨き粉を思い出した。日本でも買えなくはない。でも、少し高い。マンハッタンなら、普通にドラッグストアにあるかもしれない。そう思って、チャットを開いた。『もしドラッグストア寄ることあったら、歯磨き粉買ってきてもらってもいい?』送ってから、少しだけ笑ってしまった。何を頼んでいるんだろう。ニューヨーク出張中の人に。数分後、返信が来た。『どれですか』そのあまりにも普通の返事に、少し安心する。商品名を送ると、すぐに既読がついた。しばらくして、スマホが震えた。『今ドラッグストアいます』『種類ありすぎてわからない』『電話していい?』私は時計を見た。東京は夜十一時過ぎ。ニューヨークは朝。時差が、急に現実味を持つ。少し迷ったけれど、通話ボタンを押した。数コールで繋がる。「もしもし」翔太の声だった。少し遠い。店内の音が混ざっている。英語のアナウンス。誰かの笑い声。レジの電子音。それだけで、翔太が本当にマンハッタンにいるのだと分かった。「ごめん、出張中に」「大丈夫です。むしろ、今ここで決めないと一生分からない」真面目な声。思わず笑ってしまう。「写真送って」「送ります」少しして、画面に棚の写真が届いた。同じブランドのチューブが、色違いで何種類も並んでいる。「これ、右から二番目」「これ?」「違う、それホワイトニング強いやつ。隣」「歯磨き粉にそんな違いあります?」「あるでしょ」「全部同じ
「話し相手くらいなら」少し間。「来週いないけど」その言い方が、あまりにも普通で、笑ってしまった。「いないんじゃん」「タイミング悪いですね」「本当に」笑いながら、胸の奥が少しだけ寂しくなる。翔太が来週いない。それを残念だと思っている自分がいる。「でも確かに」無意識に言っていた。「翔太には気軽に話せちゃうかも」翔太がこちらを見る。私は気づかず続けた。「距離的には、正人とあった近さに少し似てるのかな。隣だし、変に気を遣いすぎなくていいし」その瞬間、翔太の表情がほんの少し変わった。痛み、というほど分かりやすくはない。でも、口元がわずかに止まって、視線だけが一瞬落ちた。何かを飲み込んだような顔だった。正人と近い。そう言われたことに、何を思ったのかは分からない。けれど次の瞬間、翔太は少しだけ口元を上げた。「でも俺、正人さんみたいに部屋に呼ばれたことないですけど」私は止まる。翔太は少し笑っていた。夜の照明のせいか、その笑みはいつもより少し色を持って見えた。冗談のようで。冗談だけではない。「そんな気軽に呼ばないでくださいね」低い声。「一応、元カレなんだし」胸が、跳ねた。なんで今、そんな顔をするの。言葉は軽いのに、目だけが少し甘い。静かで、少し悪い。昔の翔太にはなかった表情だった。一瞬だけ返事に困る。「……それ、自分で言う?」やっと出た言葉は、それだけだった。翔太はすぐに視線を逸らした。少しだけ照れたみたいに、グラスを持ち直す。「まあ、俺も実際は仕事して寝るくらいしかないんで」誤魔化した。分かりやすいくらいに。その感じが少し可笑しくて。でも、さっきの表情だけが妙に残った。***帰り道。夜の空気は少し冷たかった。二人で並んで歩く。駅前の小さな交差点。信号が赤に変わり、足を止めた。その時、歩道の端を自転車が少し速いスピードで抜けてきた。「危ない」翔太の声が近かった。次の瞬間、腕を引かれる。自然な動きだった。考えるより先に、身体が引き寄せられていた。翔太の手が、私の腕を掴んでいる。距離が近い。思っていたより近い。肩が触れそうで、息が少し詰まる。一瞬だけ、翔太の香りがした。洗剤みたいな、少し乾いた匂い。懐かしいようで、知らない匂い。信号待ちのざわめきが、少し遠
翌日の夜。仕事用のバッグをソファに置いたまま、私はしばらくスマホを見ていた。正人との衝突は、一応片づいた。昨日、翔太に言われた通り、一度感情を分けて考えてみたら、自分が何に苛立っていたのか少しだけ見えた。正人が冷たくなったのではなく、距離を引こうとしていること。その距離の中で、仕事まで前と同じように甘えようとしていたこと。そして、自分がそれに気づかないまま、勝手に寂しがっていたこと。正人に謝ったら、正人も言い方が悪かったと認めてくれた。完全に元通りではない。でも、仕事としての空気は少し戻った。そのことを、翔太に伝えたいと思った。お礼、というより、報告に近かった。気づけば、チャットを開いている。『昨日の件、ちゃんと話せた』『ありがとう』送ってから、少しだけ迷った。それだけで終わらせるつもりだった。なのに、指が勝手に続けていた。『ご飯まだだったら、近所に良さそうなカフェ見つけたから奢る』送信してから、スマホを伏せる。なんでそこまで送ったんだろう。昨日、助けてもらったから。それだけ。そう思おうとした。数分後、スマホが震えた。『まだです』『奢りなら行きます』その返事があまりにも翔太らしくて、少し笑ってしまう。続けて、もう一通。『ただ来週からニューヨーク出張なので、早めに帰ります』指が止まった。ニューヨーク。一週間。別に、珍しいことではないはずだった。翔太は外資の金融機関で働いているし、海外との調整が増えていると言っていた。出張くらいある。それなのに。来週はいないのか、と思った瞬間、胸の奥に小さな空白ができた。最近、なんとなく連絡を取っていた。ベランダで話したり、ジム帰りに会ったり、くだらないことを少しだけ送ったり。それが急に途切れる。たった一週間なのに。不思議と、少し寂しい。その感覚に戸惑いながら、短く返した。『了解』『じゃあ今日軽くで』***カフェは、マンションから少し歩いたところにあった。夜はワインも出す、小さな店。木目のテーブルに、柔らかい照明。窓際の席からは、駅へ向かう人たちの流れが見える。翔太は少し遅れて来た。白いシャツに黒いパンツ。仕事終わりのままらしく、袖だけ少し捲っている。少し疲れていた。でも、その疲れすら妙に大人っぽく見えるのが、少し腹立たしい。
資料を閉じる頃には、二十二時前になっていた。正人が椅子にもたれ、軽く目元を押さえる。「今日はここまででいいと思う」「うん」私もPCを閉じた。その時、正人がふと口を開いた。「でも」「うん?」「珍しくない?」私は顔を上げる。「何が?」正人は少しだけ目元を緩めた。「折れるの早かった」「折れるって」「前なら二、三日引きずってた」言い方は少しだけからかうようだった。私は一瞬止まる。たしかに、そうかもしれない。普段の私なら、自分の中で何度も考えて、相手の言い方の悪さにも腹を立てて、二、三日は引きずったと思う。今回も、たぶん一人だったらそうしていた。だから、何も考えずにぽろっと言ってしまった。「あー……」少し笑う。「翔太に言われた」空気が、ほんの少し止まった。正人の手が、一瞬だけ止まる。本当に一瞬。でも、私は見逃さなかった。「……翔太?」静かな声だった。私はその時、まだ深く考えていなかった。昨夜のことを、そのまま話すくらいの感覚だった。「昨日ちょっと話して」軽い温度で言う。「正人の言ってることも分かるって言われて」正人は何も言わなかった。私は続ける。「めっちゃ冷静に整理された」少しだけ笑う。「愛子、結構甘えるじゃんって」言ったあとで、ふと正人の表情を見た。正人は目元を大きく変えなかった。口元も、ほとんど動かない。でも、視線が少しだけ落ちていた。手元のマウスに添えた指が、わずかに止まっている。その沈黙で、ようやく気づく。しまった。そう思った時には、もう言葉は出ていた。翔太。元彼。隣人。正人から告白された後の、この微妙な距離の中で。私はその人に、正人のことを話した。しかも、翔太の言葉で整理して、今日謝った。私にとっては、ただ少し話を聞いてもらっただけだった。でも、正人にとっては違うのかもしれない。「……ごめん」思わず言った。正人が顔を上げる。「いや」短い返事。「別に、謝ることじゃない」声は落ち着いていた。でも、少しだけ温度が低くなった気がした。私は言葉を探す。「変な意味じゃなくて」「分かってる」正人はすぐに言った。「相談しただけでしょ」その言い方に、胸が少し痛んだ。責められているわけではない。むしろ、責めないようにしている。それが分かるから
翌朝。通勤中の電車で、私はぼんやりスマホを見ていた。画面には、開きっぱなしの資料。でも、文字はほとんど頭に入ってこなかった。昨夜のベランダ。夜風。翔太の声。それから、正人の言葉。頭の中で、何度も同じ場面をなぞってしまう。愛子、結構甘えるじゃん。あの言い方は、責めるものではなかった。むしろ、ただ事実を置かれた感じだった。だからこそ、少し刺さった。思い返してみれば、正人は今までかなり歩み寄ってくれていた。私が詰まりそうになれば、先に気づいてくれた。言葉にする前に拾ってくれた。少し感情的になっても、最後は正人が受け止めてくれた。私は、それを当たり前みたいに受け取っていたのかもしれない。正人だから。分かってくれるから。いつも隣にいる人だから。そんなふうに。でも、今の正人は違う。告白をして。私がすぐに答えられなくて。それでも仕事はちゃんとやろうとしている。前と同じ距離でいる方が、たぶん正人にとってはずっと苦しい。そう思った瞬間、昨日の言葉が少し違って聞こえた。今までは、近すぎたんじゃない。あれは、私を責めるためだけの言葉ではなかったのかもしれない。仕事を守ろうとしていた。そして、たぶん。自分の気持ちも、どうにか守ろうとしていた。胸の奥が少し重くなる。私、子どもだったかも。電車の窓に映る自分の顔が、少し疲れて見えた。私は小さく息を吐く。今日は、ちゃんと話そう。逃げないで。***その日の夜。会議室に残ったのは、また二人だけだった。二十一時を回っている。モニターの光だけが、少し白く机の上を照らしていた。前日より、空気は少しぎこちない。けれど、昨日ほど張りつめてはいなかった。正人は淡々と資料を見ている。黒いシャツの袖を少しまくって、画面の端を指で示す。「ここ、数字の根拠だけ補足入れた方がいい」「うん」「この順番だと、先方の反応がたぶん悪い。先に課題を置いてから施策に入った方がいい」「分かった」いつもの仕事の会話。でも、私たちの間には、まだ言葉にしていないものが残っている。それが分かるから、キーボードを打つ音まで少し大きく聞こえた。私は何度か口を開きかけて、やめた。今言うべきか。もう少し後にするべきか。でも、後にしたらまた言えなくなる気がした。私は画面から目を離して、