夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった のすべてのチャプター: チャプター 341 - チャプター 350

380 チャプター

第341話

美玲にしてみれば、莉乃は何の役にも立っていなかった。つい先ほども、美玲が紗和に一言ぶつけただけで、逆に言い返されて腹を立てる羽目になったというのに、莉乃は助け舟一つ出さなかった。そこで美玲は気づいた。莉乃には、紗和と真正面からやり合う度胸がない。征臣を恐れているからだ。美玲の態度からそれを察した莉乃も、これ以上遠回しに探るのはやめた。「美玲さん、もしかして征臣お兄さまのこと、好きなの?」あまりに直球で聞かれ、美玲は一瞬言葉に詰まった。実の兄たちになら、征臣を奪ってでも自分の夫にしたいと平然と言える。だが、他人の前で認めるとなると話は別だった。決して褒められた感情ではないことくらい、美玲自身にもわかっている。自尊心の強い美玲は、自分ほどの女なら男のほうから寄ってくるのが当然だと思っていた。一人の男をめぐって、ほかの女と争うような立場には見られたくない。だからこそ、征臣のほうから自分に夢中になり、紗和を捨てて追いかけてくる形にしたかった。それが美玲にとって、一番体面のいい結末だった。莉乃に本心を見透かされたことで、プライドを傷つけられたような気分になる。「何のことかわからないわ」征臣と紗和の間に割って入ろうとしているなど、どうしても認めたくなかった。だが莉乃は、にこにこと笑っている。「美玲さん、別に隠すことじゃないでしょう?好きなら好きでいいじゃない。征臣お兄さまほどの男なら、好きになる女が大勢いて当然よ」美玲は露骨に苛立った。「好きだなんて言ってないわ。あなたには関係ないでしょう」そこで莉乃は、美玲がなぜ認めたがらないのかを察した。すぐさま、機嫌を取るような口調に変える。「誤解しないで。隠す必要なんてないって言ったのは、美玲さんが二人の間に割り込んだわけじゃないからよ。忘れたの?あなたとお兄さまには、もともと正式な婚約があったでしょう」美玲は、莉乃が突然そんなことを言い出すとは思っていなかった。莉乃はそのまま畳みかける。「人の仲に割って入ったのは、紗和のほうよ。あの女、昔から人のものを横取りするのが好きなの。美玲さんが私のことをどう思ってても構わない。でも、これだけは信じて。私だって、あの女には散々な目に遭わされてきたの。私と怜央くんは幼なじみで、小さい
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第342話

莉乃にとって、紗和はどうしても許すことのできない相手だった。できることなら、この世から消えてほしい。そう思うほど憎んでいた。紗和が征臣に守られ、このまま子供まで産み、自分よりはるかに幸せな人生を送る。そんな未来を想像するだけで、胸の奥を掻きむしられるような苛立ちが込み上げた。美玲はわずかに顎を上げた。「あなたに、私と組めるだけの力があるの?」莉乃の目が輝いた。腹を撫でながら、勢い込んで答える。「私のこと、甘く見ないほうがいいわ。昨日は紗和に手を出せなかったけど、あの女が妊娠してたときは、大量出血するほど追い詰めたことだってある。それでも私は逮捕されなかった。前だって結局、何の罰も受けてないでしょう?」紗和に言い返されたばかりで、美玲の胸にはまだ苛立ちが残っていた。莉乃が過去に紗和を死にかけるほど追い詰めたことがあると聞き、ようやく少し溜飲が下がる。恭介からは、九条家の令嬢がいずれ多額の遺産を相続し、九条グループでも過半数に及ぶ株式を手にする可能性があると聞いていた。そうなれば、その立場は将来、美玲にも引けを取らないものになるかもしれない。美玲はひとまず、莉乃と手を組み、紗和に対抗することにした。莉乃は喜びを隠しきれなかった。美玲まで味方につけば、紗和を追い落とすのもそう難しくはない。一方、紗和は彩葉を屋敷へ招こうと考えていた。今の自分なら、親友にも何かきっかけを作ってあげられるかもしれない。彩葉は以前から雅人に憧れており、ちょうど彼もこの屋敷に滞在していた。だが彩葉は今、遠方で担当している離婚案件に追われ、こちらへ来られる状況ではなかった。夕方になると、ほかの者たちは乗馬やゴルフを楽しむことになった。どちらにも興味のない紗和は一人で部屋へ戻り、窓辺から夕日を眺めていた。空は息をのむほど美しく、遠くでは湖面と溶け合っているように見える。不意に扉が開いた。すらりと背の高い男が、部屋へ入ってくる。紗和はぱっと目を輝かせ、驚きと喜びを浮かべながら立ち上がった。「どうして戻ってきたの?」弾むような足取りで征臣のもとへ歩み寄り、きらきらとした瞳で見上げる。征臣は顔を寄せ、額にかかった柔らかな髪を指先でそっと耳にかけた。そして穏やかに笑う。「一人じゃ退屈だろ
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第343話

「何でもいい。お前のしたいことをしよう」征臣は紗和を見つめ、穏やかに笑った。ただ機嫌を取ろうとして言っているわけではない。紗和がどんな他愛のないことを望んでも、征臣は喜んで付き合うつもりなのだ。紗和は、ふと思った。征臣が誰もが恐れるほど冷徹な男になったのは、これまで何度も裏切られ、傷つけられ、過酷な目に遭ってきたからなのかもしれない。敵に回せば容赦のない男でも、本来の征臣は、とても優しい人なのだ。自分を利用しているわけではない――そんな思いも、日を追うごとに強くなっていた。征臣が紗和に向けるのは、いつだって彼女を最優先にする愛情だった。「じゃあ、一緒にプールに入りたい」紗和は素直に望みを口にした。壁一面の窓の向こうには、美しいプールが広がっている。まだ一度も入ったことがなく、もうすぐ日も暮れる。一人で行くには少し心細かった。何でも好きにしていいと言ってくれた今なら、素直に甘えられる気がした。征臣はすぐにうなずいた。そして軽く首を傾け、紗和の身体へゆっくりと視線を滑らせる。その目に浮かんだものに気づき、紗和は思わず身構えた。「それなら奥様、まずは水着に着替えないとな」「ここにあるの?」「もちろん」征臣は紗和の手を取り、ウォークインクローゼットへ向かった。取り出したのは、かなり大胆なビキニだった。身体が冷えないようにと、揃いの白いパレオまで渡してくれる。紗和は着替えを済ませ、パレオを羽織って外へ出た。征臣はしばらく何も言わなかった。ただ、紗和から目を離そうとしない。あまりにもじっと見つめられ、紗和は少し恥ずかしくなった。「……似合わない?」征臣は首を横に振り、口元をわずかに緩めた。「いや。似合いすぎてる。こんな格好で人の多いビーチになんて、絶対連れていけない」紗和は思わず笑った。そして今度は、自分から征臣の服に手をかける。征臣も、その変化には少し驚いた。以前もクルーザーや城で、ほとんど二人きりのような時間を過ごしていた。それでも紗和はいつも恥じらいが先に立ち、征臣に触れることにも慎重だった。それが昨夜を境に、少し変わった。二人の距離が、一気に近づいたように感じられる。征臣は知らなかった。もともと慎重な性格の紗和は、深い関
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第344話

「本当にそう思う?」からかうような声だった。次の瞬間、征臣の腕が紗和を引き寄せ、二人の影が水面で重なった。翌朝。目を覚ました紗和は、意外なほど身体が軽く、すっきりしていることに気づいた。時計を見ると、すっかり寝坊していた。征臣が起こさず、そのまま眠らせてくれたらしい。寝室を出た紗和は、屋敷の中を歩きながら征臣を捜した。やがて湖畔の東屋で、恭介と向かい合って座っている征臣を見つけた。どうやら仕事の話をしているらしい。葉山家の者たちがここへ来てから、恭介が征臣とゆっくり話す機会を探していたことには、紗和も気づいていた。邪魔をしないほうがいいと思い、そのまま一人で散歩を続ける。東屋の周囲には、屋敷全体の雰囲気に合わせて、落ち着いた趣の景観が整えられていた。湖畔に立つ古木の枝は大きく水面へ張り出し、静かな影を落としている。水鳥が湖面をかすめるたび、わずかな波紋だけがゆっくりと広がっていった。この屋敷の贅沢さは、派手さではなく、こうした細部に表れている。紗和はまだ、この辺りをゆっくり眺めたことがなかった。気の向くままに歩いていく。湖へ伸びる桟橋の先には、白い大型クルーザーが何隻も静かに停泊していた。チーク材のデッキはきれいに磨かれ、塵一つ見当たらない。その近くには水上バイクや小型の水上機まで並んでいたが、さすがに試してみようとは思えなかった。岸辺の水は、底の小石や、ときおり泳いでいく小魚まで見えるほど澄んでいる。紗和は水際に立ち、しばらく湖を眺めた。祖母の家の近くにも、小さな川があった。夏になると、椅子を持ち出して水辺に座り、祖母と一緒に小魚を釣ったものだ。持ち帰った魚はきれいに下処理し、祖母が甘辛く煮つけてくれた。二人で食卓を囲んだ記憶は、今も鮮明に残っている。湖を眺めているうちに、無性に祖母が恋しくなった。けれど、亡くなった人は戻らない。どれほど願っても、もう二度と会えないのだ。思い出に沈み、胸が締めつけられていたとき、背後から甘ったるい声が聞こえた。「本当に恥知らずよね。昔は私から怜央くんを奪って、私が御堂家に嫁ぐのを5年も遅らせた。それでも飽き足らず、今度は美玲さんの婚約者まで横取りするつもり?どうして人のものばかり欲しがるの?」声を聞いただ
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第345話

湖へ落ちてから、紗和は改めて足首を痛めていることに気づいた。泳ぎに慣れている人間でも、突然足がつったり怪我をしたりすれば、簡単に冷静さを失う。焦って水を飲み、自力で浮かび上がれなくなることだってある。泳げるからといって、溺れないわけではない。紗和はすぐに気持ちを落ち着かせ、水面へ浮かび上がって助けを呼ぼうとした。だが莉乃はそれを許さなかった。自分まで湖へ飛び込み、紗和が浮上しようとするたびに邪魔をしてくる。このまま一緒に沈められるわけにはいかない。紗和は莉乃の腕をつかみ、怪我をしていないほうの脚で思いきり蹴った。莉乃の身体が離れ、紗和はようやく少し息をつく。それでも莉乃はすぐに戻ってきた。今度は紗和の腰へしがみつき、離れようとしない。紗和は莉乃の肩を両手で押し下げ、その反動を利用して水面へ顔を出した。「助けて!誰か!征臣、助けて!」その声を、征臣と恭介はほぼ同時に聞いた。紗和の声だと気づいた瞬間、征臣の顔色が変わる。次の瞬間には、もう湖へ向かって駆け出していた。恭介も湖上の異変に気づいた。紗和と莉乃が二人とも水の中にいて、もみ合うように浮き沈みしている。征臣一人では二人を同時に助けられないかもしれない。だが、恭介自身は泳げなかった。商談の邪魔にならないよう、近くの使用人たちは征臣が下がらせている。恭介はすぐに近くの建物へ駆け込み、人を呼んだ。その頃、怜央も少し離れた場所にいた。「湖に誰か落ちたぞ!」玲司の声に、怜央と和樹も慌てて湖へ目を向ける。見ると、紗和と莉乃が水の中でもがいていた。玲司は驚いて、思わず怜央に言った。「怜央、紗和さんと莉乃さんが二人とも落ちてるぞ。どっちを助ける?」普通に考えれば、莉乃を先に助けるところだろう。怜央とは結婚式まで挙げ、腹には彼の子供がいると思われている。だが怜央は、一瞬たりとも迷わなかった。そのまま湖へ飛び込み、まっすぐ紗和のもとへ泳いでいく。紗和は泳ぎが得意だ。それなのに助けを呼んだということは、足がつったか、どこかを怪我したに違いない。怜央の頭には、紗和の身のことしかなかった。莉乃のことまで考える余裕はない。何の迷いもなく手を伸ばし、莉乃から紗和を引き離そうとする。だが少し離れた
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第346話

紗和は全身ずぶ濡れで、寒さに震えていた。濡れた髪からは絶えず水が滴り、続けざまに二度くしゃみをする。莉乃に何度も水中へ引きずり込まれたせいで、湖の水もかなり飲んでしまった。胃の奥がむかつき、今にも吐きそうだった。征臣は紗和の背中をゆっくりさすり、咳き込みながら水を吐き出すのを見守った。ようやく呼吸が落ち着くと、そのまま身体を抱き上げてその場を離れる。足早に、バスルームのある空いているゲストルームへ向かい、使用人には清潔な着替えを用意するよう命じた。身体が冷え切らないよう、まず暖房を入れる。天井の吹き出し口からすぐに温風が流れ始め、震えていた紗和の身体も少しずつ温まっていった。紗和はまだ恐怖から抜け出せず、征臣の腕の中で小さく身体を縮めていた。湖の中で、莉乃は何度振り払ってもまとわりつき、水底へ引きずり込もうとしてきた。泳げるはずなのに、足の痛みで思うように身体が動かない。あの恐怖と無力感が、まだ頭から離れなかった。征臣が靴を脱がせたところで、足首がひどく腫れていることに気づいた。「どうした。こんなに腫れてるじゃないか」征臣は眉を寄せ、腫れた足首に冷たいタオルをそっと当てた。紗和が泳げるにもかかわらず助けを求めたのは、この怪我のせいだったのだ。もしあのとき紗和が恐怖で取り乱し、むやみにもがいていたら――そこまで考えただけで、征臣の胸が締めつけられた。泳ぎに慣れている人間でも、突然怪我をしたり足がつったりすれば、パニックになって水を飲み、そのまま沈んでしまうことがある。幸い、紗和は足が使えないとわかっても、完全には冷静さを失わなかった。莉乃にまとわりつかれながらも、相手を押し下げた反動でどうにか水面へ顔を出し、助けを呼んだ。湖水を飲んではいるものの、今のところ呼吸に大きな異常はなさそうだった。それでも征臣は、考えれば考えるほど恐ろしくなる。身体を冷やさないよう厚手のタオルで包み、腫れた足首には新しい冷却用のタオルを当て直した。「まだ寒いか?」紗和は首を横に振った。「もう大丈夫」顔を上げた瞬間、征臣の目尻に光るものが見えた。涙だった。心配のあまり、この男が泣いている。紗和は思いもしなかった。征臣はいつだって、何があっても揺るがない人だと思っていた
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第347話

紗和は恥ずかしさをこらえ、小さな声で言った。「……お兄ちゃん、ありがとう」その言い方があまりにも可愛らしくて、征臣はつい、もう少しからかいたくなった。「でも今日は、兄として世話したわけじゃない」征臣は顔を上げ、紗和を見つめる。「今のお前のそばにいる俺は、何だ?」紗和はすぐに意図を悟った。耳まで赤くなりながら、少しだけ視線を逸らす。「……夫」「じゃあ、ちゃんと夫に礼を言え」紗和はますます恥ずかしくなった。それでも最後には観念したように征臣を見つめる。「ありがとう、私の旦那様」征臣はようやく満足そうに笑った。紗和を慎重に抱き上げ、身体についた水気を丁寧に拭き取る。そして扉の外へ届けられていた、清潔で着心地のいい服に着替えさせた。着替えが済むと、すぐに医師を呼ぶよう手配する。さらにボディガードへ、紗和のそばを決して離れないよう命じると、征臣は表情を消したまま部屋を出ていった。その頃、湖畔では――怜央が助けようとしなかったため、莉乃は結局、自力で岸へ上がっていた。泳ぎが得意というほどではないが、自分の身を守るくらいには泳げる。岸へ上がるとすぐに服を着替え、恭介と美玲のもとへ戻った。ちょうどそのとき、征臣がこちらへ歩いてくる。顔には一切の表情がなかった。それがかえって、恐ろしい。莉乃は思わず身体を震わせながら、美玲のそばへ寄った。それでも、自分には切り札がある。征臣も証拠もなく自分に手を出すことはできない――そう自分に言い聞かせた。征臣が目の前まで来ると、莉乃はすぐに涙を浮かべた。「お兄さま、紗和さんは前のことをまだ恨んでいて、本当は私を許してなかったの。さっき急に私を湖へ突き落とそうとして……とっさに腕をつかんだから、二人とも落ちたのよ。私はこんなにお腹が大きいのに、水の中で何度も沈められて……本当に死ぬかと思った……」先回りして被害者を装う莉乃を見て、征臣の眉間に深いしわが刻まれた。「紗和がどういう人間かは、俺が一番よく知ってる。お前がどういう人間かも、昨日の宴で十分見せてもらった。紗和がお前を突き落としたと言われるより、お前が紗和を突き落としたと言われたほうが、よほど納得できる」その一言で、その場にいた者たちは昨日の出来事を思い出した。自分
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第348話

事情を知らない者なら、確かに莉乃の話を信じてもおかしくなかった。玲司は黙ったまま立っていた。彼が実際に目にしたのは、水の中で、身動きの鈍い莉乃を紗和が押し返し、さらには蹴り離すような場面だった。途中だけを見れば、紗和が莉乃を沈めようとしているようにも見える。だが玲司にとって、それ以上に気まずかったのは別のことだった。怜央が、今の相手である莉乃ではなく、真っ先に元妻の紗和を助けようとしたことだ。しかも、その場面を征臣に見られ、抱き寄せようとした紗和を目の前で奪われた。見ていた玲司のほうが居たたまれなくなるほどの修羅場だった。幸い、怜央は紗和を取り戻そうと征臣と争うような真似まではしなかった。正確には、征臣が怜央に割って入る隙すら与えなかっただけなのだが。離れた場所にいた者たちは、そこまで細かなやり取りを知らない。恭介も泳げず、人を呼びに走っていたため、その場面は見ていなかった。だからこそ、妹の説明と、自分が途中から見た状況をつなぎ合わせ、莉乃の話にも筋が通っていると思ったのだ。何より、母親なら腹の子まで危険にさらすような真似はしないだろう――そう考えていた。二人とも命に別状はない。ならば、これ以上大ごとにする必要もない。そう思った恭介は、場を収めようとした。「何か行き違いがあったんだろ。美玲の話も、今はあまり深く考えないほうがいい。二人とも無事だったんだし、この件は――」「無事だった?」征臣の声が遮った。その顔から、完全に温度が消える。「紗和は突き落とされた拍子に足首を痛めた。誰にも押されてないなら、どうしてあんな怪我をする?あと少し遅ければ、本当に溺れてた。それでも大したことじゃないって言うのか?」怜央は顔色を変えた。「紗和、足を怪我したんですか?」その反応を、美玲は見逃さなかった。すぐに口を挟む。「御堂社長、征臣さんの婚約者をずいぶん心配するんですね。それとも……まだお互いに気持ちが残ってるんですか?」紗和がその場にいないのをいいことに、美玲は次々と言葉を重ねた。征臣ほど誇りの高い男なら、婚約者の心が別の男に残っていると知れば、黙ってはいられない。美玲と莉乃は、そう踏んでいた。だからこそ、二人でこの筋書きを作ったのだ。周囲に監視カメラがないこ
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第349話

「この屋敷も、妻のために造ったものだ。何が危険を招いたのかわからないなら、その可能性があるものを全部、妻から遠ざければいい。俺がこの屋敷を造ったのは、紗和を傷つける人間も、危険なものも、すべて外に置くためだ。御堂社長、花宮。これ以上、二人をここに泊めるつもりはない。今後、招くこともない」莉乃の顔が強張った。次の瞬間には取り乱し、声を上げる。「お兄さま、私はあなたの妹でしょう?他人の言葉を信じて、どうして私にそんなことができるの?私が悪かったなら謝るわ。紗和さんに土下座だってする。だから、追い出さないで……」莉乃は腹を押さえ、苦しそうに膝をつこうとした。そばにいた恭介が慌てて身体を支え、代わりに口を開く。「征臣、いくら何でも冷たすぎないか。長年一緒に育った妹だろ。ここまで関係をこじらせる必要はない」玲司も、莉乃たちが追い出されること自体には多少気の毒さを感じていた。だが怜央は、自分の相手である莉乃を差し置いて紗和を助けに行き、しかも征臣の目の前で、その妻に手を伸ばした。あれを見せられて平然としていられる男など、そうはいないだろう。屋敷から追い出されるのは屈辱だろうが、征臣の判断も理解できなくはなかった。玲司はすでに怜央と連絡先を交換している。また外で飲みに誘えばいい。怜央が港都へ戻ったところで、会えなくなるほど遠いわけでもない。わざわざここで助け舟を出す理由はなかった。まして莉乃に対しては、玲司自身もいい印象を持っていない。紗和が突き落とされた拍子に足首を痛めたと聞けば、何が起きたのかもおおよそ想像できた。身軽で反応も速い紗和が、本気で妊婦を湖へ突き落とそうとしただけなら、自分まで足をひねるほど体勢を崩すとは考えにくい。やはり、先に背後から不意を突かれたのは紗和のほうなのだろう。そう考えれば、そのあと美玲が関係のない話まで持ち出し、莉乃に都合のいい証言を重ねたことも不自然に思えてくる。昨日の宴を境に、玲司の美玲に対する印象もすっかり変わっていた。大勢の前で縁談を断られたとはいえ、感情のままに声を荒らげ、屋敷の主人にワインまで浴びせた。甘やかされて育ち、感情を抑えることを知らない令嬢――今の玲司には、その程度にしか見えなかった。そんな美玲が今、莉乃とこれほど親しげにしている。
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第350話

御堂家が東都へ移ってきた頃、九条家はすでに海外へ拠点を移す準備を進めており、両家の付き合いはほとんどなかったからだ。そのため怜央も宗一郎も、長く存在を伏せられていた九条家の令嬢について、父親が誰なのかまでは詳しく知らなかった。だが玲司が見せた1枚の写真は、薫子からこれまで聞かされてきた話が、根本から嘘だった可能性をはっきり示していた。すべてが最初から仕組まれていたのだ。征臣に屋敷を追い出されたことなど、今の怜央にはもうどうでもよかった。一人になり、これまでの出来事を一つずつ整理する必要がある。怜央は資料へ目を落とした。そこには邦彦の出生地からこれまでの経歴まで、調べられる限り詳しくまとめられていた。以前、邦彦が口にした方言の意味を調べるため、瀬川はその土地の出身者を探したことがある。今回も同郷の者をたどり、謝礼を払って昔の話を聞き出したらしい。そこに書かれていた内容は、怜央の想像をはるかに超えていた。邦彦は、九条家の令嬢の父親などではない。かつて九条家に仕えていた、ただの運転手だった。そして莉乃が邦彦の実の娘であることも、地元ではよく知られていたという。邦彦は娘を裕福な家の跡取りと結婚させるため、自宅まで売り払い、莉乃を名門校へ通わせた。そしてある日、九条家の車から降りてきた莉乃を見た怜央が、勝手に彼女を九条家の令嬢だと思い込んだ。すべての始まりは、そこだった。さらに、莉乃が幼い頃に事故に遭ったという話も嘘だった。母親は事故で亡くなったわけではない。ギャンブルにのめり込む邦彦に愛想を尽かし、家を出ていっただけだった。怜央の脳裏に、先ほど湖で泳いでいた莉乃の姿が浮かんだ。得意というほどではない。それでも、まったく泳げないわけではなかった。一方、紗和が泳ぎに慣れていることは怜央も知っている。今日溺れかけたのは、足を怪我していたからだ。そして、その怪我を負わせたのも、湖へ突き落としたのも莉乃に違いない。紗和が、妊娠中の莉乃を自分から湖へ突き落とすなど考えられなかった。莉乃は泳ぎがそれほど得意ではない。九条家の令嬢でもない。そこまで考えた瞬間、怜央の中ですべてがつながった。莉乃は、かつて自分を助けてくれた少女にまで成り済ましていたのだ。この十数年。
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