蝉の声が、山の谷間にこだましていた。 真琴《まこと》は窓を少し開け、流れ込む熱気に顔をしかめる。八月の終わり、都会より涼しいはずの祖母の村も、昼間は容赦なく暑かった。 バスの車窓から見えるのは、緑に覆われた山と、その間にぽっかりと開けた貯水池だった。光を受けて鈍く光る水面は、どこか重苦しく、真琴の記憶にあるよりもずっと濃い色をしているように見えた。 ──池の中央には近づくな。 子どもの頃、祖母にそう言われたことがある。理由を尋ねても、「昔からそう決まってる」としか答えてくれなかった。 バスが停留所に着き、真琴は小さな集落の中に降り立った。木造の古い家々、道端の石灯籠、軒先に吊るされた風鈴の音。どこか懐かしい光景に包まれながらも、胸の奥にひやりとした違和感が残る。 祖母の家に着くと、縁側で涼んでいた祖母が迎えてくれた。白髪をきっちりまとめた姿は昔と変わらないが、その表情はどこか硬い。「よく来たねぇ。……まあ、今年は暑いから、池の近くには行かない方がいいよ」 挨拶もそこそこに、祖母はそう言った。 夕暮れ、幼なじみの俊《しゅん》と再会した。村に残って暮らしている彼は、麦わら帽子をかぶり、日焼けした笑顔を見せる。「今夜は花火大会だ。池のほとりでやるんだよ」 そう言う俊の声に、なぜか真琴は一瞬だけためらった。 夜、池の水面に映る花火を見上げながら、真琴は幼い頃の記憶を手繰り寄せていた。 そのとき、視線の端で何かが動いた。 暗い水面に、白く細いものが浮かんでいる。……それは、人の手だった。 小さな手が、こちらに向かってゆっくりと──招いていた。どん、と夜空に大輪の花が咲いた。赤や青の光が池の水面に揺らめき、観客たちの歓声があがる。 真琴はその歓声の中で、ただひとり硬直していた。 暗がりの水面に、確かにあったのだ。白く浮かぶ小さな手。 見間違いだろうかと瞬きをしても、次の瞬間にはもう消えていて、そこにはただ水面を照らす花火の光しかなかった。「どうした? 顔色悪いぞ」 隣で俊が心配そうに覗き込む。「……いま、池に……」 言いかけた言葉を、真琴は飲み込んだ。説明したところで信じてもらえない気がしたのだ。 その夜、花火が終わり、人々が帰路につく頃になっても真琴は胸のざわつきを抑えられなかった。 村の道を歩きながら、俊がぽつりと言った。
Terakhir Diperbarui : 2026-07-13 Baca selengkapnya