Alle Kapitel von 兄の親友、禁断の一夜と秘密の子: Kapitel 21 – Kapitel 30

30 Kapitel

第21話

珠莉視点「ママ、ブランコやっていい?」「いいよ。私が見えるところにいてね」陽菜はもう駆け出していた。和也は、彼女が走っていくのを見つめていた。私たちのあいだには、クリニックの待合室にあったのと同じ空気が漂っていた。沈黙、あの独特な緊張感。激しい感情を必死に抑えている人特有の、ぎこちなさ。「……おはよう」「ああ」私が口を開くと、和也は素早く私を一瞥した。「こうしてくれて、ありがとう」「取り決めに書いてあったことよ」私は答えた。特に温かみのない言い方だったけれど、事実ではあった。「陽菜はあそこにいるわ」和也はうなずき、小さな遊び場のほうへ歩き出した。私もついていった。陽菜はすでにブランコの座面に腰かけ、足を揺らしていたけれど、思うような高さまで漕げずにいた。和也が近づいてくるのを見ると、彼女は動きを止めた。「押して」陽菜は宣言した。質問でも、お願いでもない。当然そうしてもらえると信じきった、揺るぎない口調だった。「わかった」彼は陽菜の後ろに立ち、背中を押した。ためらうことなく、落ち着いた動きで、絶妙なタイミングで彼女の体の動きに合わせ、往復するたびにブランコの揺れを少しずつ大きくしていく。陽菜が、小さく満足そうな歓声を上げた。「もっと高くー!」彼女が命令する。和也は、さらに揺れを大きくした。「もっともっと!」「雲に届きそうだぞ」彼が冗談めかして言った。「うん。それが狙いだから」陽菜は、揺るぎない真剣さで答えた。私は一番近いベンチに腰を下ろし、持ってきた本を膝の上で開いたものの、活字はまったく頭に入らず、ただあのふたりを目で追っていた。和也は20分間、陽菜のブランコを押し続けた。それから彼女は「もう十分」と宣言し、自分がとりわけ気に入っている、トンネル付きのジャングルジムを彼に見せに行った。彼はついていった。陽菜は、まるで自分がその遊具の設計者であるかのような自信をもって、細かな特徴を説明した。和也は真剣に耳を傾け、時折、陽菜が「いい質問」と認めるようなことを尋ねた。それから、彼女は競走をしようと言い出し、和也の手を引き、遊び場の端にある古い樫の木まで全力で走った。和也は、大げさなほどあっさりと負けた。わざと負けたのは
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第22話

和也視点彼女たちが去ったあと、俺はしばらく車の中に座ったまま動けなかった。車は通りに停めていた。公園の入り口から50メートルほどの位置だ。運転席からは門がよく見えた。ふたりがそこをくぐり、歩道を左へ曲がって歩いていく姿を、俺はずっと見つめていた。ふたりは一度も振り返らなかった。陽菜は跳ねるように歩いていた。幼い子どものぎこちない跳ね方ではなく、体をうまく使えるようになった子ども特有の、軽やかなスキップだった。その巻き毛が、一歩ごとに弾んでいる。珠莉は彼女の手を握り、何かを話しかけていた。陽菜も、いつものように一生懸命言葉を返しているようだった。やがて、ふたりは角を曲がり、姿が見えなくなった。俺はエンジンをかけることなく、ただ座ったまま、ハンドルを強く握りしめ、静まり返った車内で呼吸を整えようとしていた。別れ際の、あの「さようなら」が、胸に深く突き刺さっていた。それまでは、どうにか平静を保っていた。広場を駆け回る陽菜の姿も、俺がついてきているか確かめることさえせず、無邪気に信頼を寄せてくる様子も。ジャングルジムの仕組みを、まるで大切な研究成果でも発表するように得意げに説明してくれたことも、樫の木に一番乗りして、拳を突き上げて喜んでいたことも。その一つひとつに胸を揺さぶられながらも、俺は動揺を悟られまいと、必死に表情を取り繕っていた。けれど、帰る直前、彼女は遊び場じゅうに響き渡る声で、珠莉に尋ねた。「警察の特別機動隊の隊長って、何をする人なの?」珠莉が慎重に言葉を選んでいるのがわかった。「危ない事件が起きたときに、みんなを守るために駆けつける人たちをまとめるお仕事よ」珠莉は少し考えてから、さらに言葉を続けた。「一緒に働く人たちに指示を出して、全員が無事に帰れるようにするの」陽菜は子どもらしい真剣な顔で、その言葉を一つひとつ受け止めていた。首をかしげ、腕を組んでしばらく考え込んだあと、俺のほうへ向き直る。そして、ぴんと背筋を伸ばし、右手を額に上げて敬礼した。映画かアニメで見たのだろう。指先の位置は少しずれていたが、6歳児なりに精いっぱい真面目な敬礼だった。きっと陽菜の中では、それが今の話に対する、唯一正しい反応だったのだ。俺は息を呑み、その場に固まった。陽菜は俺と同じ色の瞳で、
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第23話

和也視点新たな沈黙が落ちた。6年間、俺の弁護士を務めてきた文勝は、俺が絶対に譲らない一線を見極める術を熟知している。「分かりました。明日、草案を送ります」彼は言った。電話を切ったあとも、俺はしばらく車の中に座っていた。信託口座のことは、調査員から最初の詳しい報告を受け取って以来、ずっと頭から離れなかった。陽菜は中古の靴を履いているのに、俺は1泊40万円のホテルに泊まっている。そして珠莉は、俺が滞在しているのと同じ建物で、身を粉にして働いている。教師とホテル清掃、二つの仕事を掛け持ちして。その残酷なほどの皮肉に、胸が押し潰されそうだった。現実を思い知ってからずっと、その重さが胸にのしかかっていた。過去には戻れない。最初の一歩も、初めての言葉も、学校へ通い始めた日も、すべて見逃してしまった。子ども時代を形作る、無数の小さな瞬間もすべて、失われている。それらは、俺の知らない場所で過ぎていった6年間に起きた出来事だ。どれほどの財力があっても、どれほど優秀な弁護士を雇っても。それらしく選んだ服を着て、公園での約束に時間どおり現れても、失った時間を取り戻すことは、決してできない。それでも、今の俺にできることはある。陽菜と珠莉が、もう生活に怯えなくて済む未来を用意すること。二度と立ち退き通知に怯えることのないようにすること、珠莉が二つの仕事を掛け持ちして、どうにか暮らしをつなぐ必要もないようにすること。そして陽菜には、金がないという理由で、将来の選択肢まで狭められることはないと知って育ってほしかった。もちろん、金で父親の代わりが務まるわけではない。そばにいて、時間を重ねることに代わるものなど、何一つない。それでも、これは今の俺にできる、具体的な行動だった。ホテルへ戻ると、ルームサービスを頼んだ。けれど、料理には一口も手をつけないまま、ノートパソコンを開いた。そして、検索欄に言葉を打ち込んだ。【赤ちゃんの成長 0歳から1歳】表示されたのは、明るい色使いの育児サイトだった。ページには、赤ちゃんの成長段階ごとの写真が数多く並んでいる。俺はゆっくりと画面をスクロールした。0か月から3か月、3か月から6か月、6か月から9か月、9か月から12か月。初めての笑顔が見られるのは、多くの場合、生後6
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第24話

珠莉視点それは、アパートのドアの下に差し込まれていた。午後2時過ぎ、ホテルの仕事を終えて帰宅したばかりの私は、制服姿でカバンを持ったまま、くたくたに疲れ果てていた。午前中は学校でずっと動き回り、そのあと4時間の清掃仕事をこなしたばかりだった。両足が痛み、腰にはじんじんと痺れが走っている。木曜に残ったスープを温めて昼食にしようか。それとも、新しく何か作ろうか。正直、後者を選ぶ気力など、少しも残っていなかった。もう少しで、その封筒に気づかず通り過ぎるところだった。差出人は、管理会社だった。あの正式な封筒に、私の名前が印字されている。私は封筒を拾い上げ、廊下で足を止めて開封した。そして頭の中では、いろいろな可能性がよぎっていた。修理の通知?それとも部屋の点検?それとも、年明けから直すと約束しておきながら、結局2か月前から完全に壊れたままになっている、エレベーターのことだろうか。中に入っていたのは、家賃の明細書だった。一度読んだけれど、意味が理解できなかった。だから、もう一度読んだ。明細には、家賃が全額支払い済みと記されていた。6か月分、合計48万円。3日前に一括で振り込まれ、今後の家賃に順次充当されるという。振込人の名義は、星野ホールディングス株式会社。私は廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。「大丈夫?」須藤がドアの隙間から顔を覗かせている。「大丈夫です。ちょっと、書類を確認していただけで」彼女は何か言いたげに私を見つめたが、結局、黙ってドアを閉めた。私は部屋に入り、キッチンのテーブルでもう一度明細を確認する。やはり、6か月分だった。月8万円で、48万円。私が頼んだわけでもないのに、和也は会社名義で勝手に家賃を払ったのだ。私は電話を手に取った。手は震えていなかった。そのことを、少しだけ誇らしく思った。和也は最初の呼び出し音で出た。「こんなこと、していいわけないでしょう」「もう払った」彼の声は穏やかだった。身構えたときのような、警戒をにじませた静けさではない。ただ、静かだった。「私たちは合意を交わしたのよ。私の同意もなく、勝手に生活へ踏み込んでいいなんて、どこにも書いてない」「そのとおりだ」「じゃあ、どうして?」「お前のところに家賃の督
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第25話

珠莉視点そのとき私は、怒り狂っていた。キッチンのテーブルに座り、家賃が全額支払われたことを示す明細を握りしめながら、自分の中に湧き上がる感覚に戸惑っていた。あまりにも長く背負い続けてきたせいで、自分でも気づかないうちに全身にのしかかっていた重荷が、ふっと軽くなるような感覚。48万円。6か月分。これから半年間は、月末の支払いに頭を悩ませずに済む。陽菜のお弁当の食材を買う前に、いちいち口座の残高を確認しなくていい。歯医者代と日用品代のどちらを優先するか、いちいち悩まなくていい。その明細を、部屋の向こうへ叩きつけてやりたかった。でも、私は動かずに座っていた。「……これで、私たちの関係が変わるわけじゃないから」私はあえて落ち着いた声で言った。冷たく突き放すのではなく、ただはっきりと。「わかってる」「あなたが家賃を払ったからって、過去のことについての私の考えが変わるわけじゃない」「理解してる」「はっきり言っておくわね。これは何かの始まりじゃない。私を金で手なずけようとしても無駄よ」「最初に言ったときから聞こえてる」反論も、言い訳もなかった。ただ、私の冷たい言葉をすべて黙って受け止める和也が、電話の向こうにいた。「見返りを期待してるわけじゃない。そういう取引じゃないんだ」私は、テーブルの上の明細を見つめた。【支払い済み】。その文字は黒く、はっきりと、疑いようもなく印字されていた。3週間前のことを思い出した。ATMの前で立ち尽くし、画面に表示された数字をじっと見つめていた、あの日。頭の中で何度計算し直しても、今月もまた足りないという事実は変わらなかった。帰り道のことを思い出した。陽菜のために夕食を作り、宿題を見て、そのすべてを悟られないように貼りつけていた作り笑いのこと。彼女はまだ6歳で、こんな重荷を背負うべきじゃないから。ある夜、彼女が「ママ、夜、寂しくない?」と尋ねてきたことも思い出した。そして、彼女が描いたあの絵。漆黒の目をした背の高い男の人がいて、彼女はそれを「私の家族」と呼んだけれど、その人の名前すら知らなかった。「あの子、あの公園が大好きなの」私はようやく口を開いた。短い沈黙。電話の向こうで、彼がかすかに身じろぎする音がした。まるで、壊れ物をずっと慎重に抱え
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第26話

珠莉視点面会は、ほかの習慣と同じように、私たちの毎週の暮らしに溶け込んでいった。毎週水曜の午後。毎週土曜の午前。冷蔵庫に貼ったカレンダーに、それらは記されていた。陽菜の歯医者の予約や、クラス写真の日、図書館の返却日を記すのと同じ、青いペンで。最初の数回は、公園だった。やがてある土曜日、和也が子ども博物館へ行かないかと提案してきて、私はうなずいた。陽菜が2か月前から、ずっとそこへ行きたいとねだっていたからだ。私が先延ばしにしていたのは、入場料のせいだった。ひとり2千円。2千円は、やはり大事だったから。私たちは、そこへ行った。陽菜は科学コーナーで45分間、水とパイプを使った実験をして遊んだ。出てきたときには少し濡れていたけれど、満足そうだった。和也は入場料を払い、博物館のカフェで昼食も買った。それ以上、何も言わずに。私も、彼に任せることにした。あの家賃の一件のあと、争うために費やす労力に見合わないこともあると、思うようになっていた。少なくとも、そう自分に言い聞かせ続けていた。子ども博物館は、恒例の行き先になった。公園も同じだった。それから、海辺の長い散歩も。最初、陽菜はただ歩くだけの散歩に何の意味があるのかと疑っていたが、船が港へ出入りするのを眺められる場所を見つけると、あっという間に夢中になった。今では、彼女は船について、かなりはっきりとした意見を持っている。しかも、極めて明確な意見を。私は、そのすべてを見ていた。ほとんどの場合、面会中の私の役割は、取り決めどおり、信頼できる立会人として同席することだった。私はそこにいて、様子を見守り、3時間が終われば陽菜を連れて帰る。書類上は、そう決められていた。でも実際には、私はベンチや低い塀、その場で見つけた片隅に座って、ふたりを観察していた。何も感じないように努めながら。それでも、いくつかのことには気づいてしまった。和也は、陽菜が話したことを、すべて覚えている。表面的に覚えているだけではない。子どもの話を聞いているふりをするために、言葉をオウム返しにする大人とは違う。心から、本気で覚えているのだ。2回目の面会のとき、陽菜はクリニックの水槽にいたオレンジ色の小さな魚を見て、「この子、きんたろうって名前かもしれない」と言っていた。顔がきんたろう
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第27話

珠莉視点「これ、大きい箱のやつ、買ってもいい?」陽菜が尋ねた。24色の水彩絵の具のセットを手にしている。「欲しいものは何でもいいぞ」和也が言った。陽菜はその絵の具セットを、彼が持っている小さなかごに入れ、次の棚へ向かった。私はそのとき、丸筆が並ぶ棚を眺めていた。買うつもりはなかったけれど、彼女の質問が耳に入ってきた。その声は、はっきりとして率直だった。彼女が、たいていの疑問を口にするときの、いつもの調子で。「ねえ……」彼女は言った。「私のパパになってくれる?」私の周りだけ、時間がぴたりと止まった。周囲の物音は続いていた。レジのカチャカチャという音、入り口近くの小さなスピーカーから流れる音楽、店内のざわめき。それでも、私のすぐ近くだけ、すべてが凍りついたようだった。私は振り返らなかった。展示棚の前で動けないまま、6号の丸筆を指に挟み、ただじっと待った。和也が小さく息を呑む気配がした。ため息ではない。ゆっくりと深く、息を吸う音だった。それから服がこすれる音がして、彼がしゃがみ込んだのがわかった。声の響き方がわずかに変わり、今度は低い位置から聞こえてきた。そこでようやく、私は振り返った。彼は画材店の通路の真ん中で、片膝をついていた。陽菜は彼の前にまっすぐ立ち、水彩絵の具の箱を胸に抱きしめながら、彼をじっと見つめていた。しゃがみ込む直前、彼は私のほうをちらりと見た。その視線には、無言の問いが込められていた。彼を簡単に安心させるつもりはなかった。けれど、冷たい表情を作るより先に、私はほんのわずかにうなずいていた。「俺は、ずっと前から陽菜のパパだったんだ」彼の声は落ち着いていて、まっすぐで、一切の飾り気がなかった。「ただ、俺自身が知らなかっただけだ。でも、今は知ってる」陽菜は彼を見つめた。「どうして知らなかったの?」一瞬の沈黙。けれど、それはすぐに過ぎ去った。「少し複雑な事情があったんだ。でも、一番大事なのは、今の俺がちゃんと知ってるってことだ」陽菜は、その答えをじっくり考えた。腕を組み、首をかしげる。「じゃあ、ずっといてくれる?」「もうどこにも行かないよ」彼は答えた。彼女はもう少しのあいだ、彼を見つめていた。何かを決める前に見せる、あの真剣な表情で。それから、彼女の
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第28話

和也視点ある火曜の朝、徳弘から電話がかかってきたとき、俺は賃貸契約書に署名しているところだった。俺は、スマホを鳴らしっぱなしにしておいた。池町通りにあるビルの3階、新居へ最初の段ボール箱を運び込んでいる最中にも、着信音は鳴り響いていた。それでも俺は、スマホを無視し続けた。搬入業者がベッドフレームとひとまず使えそうなソファ、とりあえず使えそうなダイニングテーブルなど、すべての荷物を運び終えた頃には、4件の不在着信と、こんなメッセージが残されていた。【まだあの街にいるのは知ってる。もう6週間だぞ。防災関連事業の契約会議は11日後だ。2社の顧客が、お前がどこにいるのか聞いてきてる。折り返せ。さもないと、そっちに飛んでいく】俺はようやく徳弘に折り返した。彼とは、4年前から共同経営者としてやってきた。俺が投資事業を本格的に組織化しようとしていた矢先に出会ったのだ。彼には俺に欠けている実務的な頭脳があり、俺には彼が必要としていた防災・危機管理分野の人脈があった。ふたりの関係はずっと良好だった。握手を交わし、有能な弁護士を雇うだけで十分だった。それ以上、関係を必要以上に形式張ったものにする必要など、一度も感じなかった。41歳になる徳弘は几帳面な男で、ある種の有能なビジネスマン特有の資質を備えていた。あらゆる角度から検討し尽くさなければ、絶対に決断を下さないタイプだ。彼は俺の決断の早さを「驚異的に効率的だが、同時に心底恐ろしい」と評していた。彼にとってそれは俺の最大の長所であり、同時に絶えず神経をすり減らす最大の要因でもあるらしかった。「そっちに6週間もいるだろう」電話に出るなり、彼は言った。「ああ、知ってる」「契約会議は11日後だ」「それも知ってる。事前準備は全部お前に任せる。書類を送ってくれ。今夜目を通して、週末までに意見を送る」沈黙があった。「和也。いったい何があったんだ」俺は部屋を見渡した。家具は揃っているものの、生活感がなく、まだ誰も暮らしていない空間特有の冷たさが漂っていた。真っ白なキャビネットが並ぶキッチン、夕暮れには美しい残照を映すであろう西向きの窓。そして、もう一つの寝室。そこはいずれ6歳の娘の部屋になると、俺はすでに心の中で決めていた。「ここに、家族がいるんだ」
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第29話

和也視点俺はグランビューホテルに6週間滞在していた。1泊40万円。今の俺にとっては取るに足らない額だが、同時に重苦しい象徴でもあった。なにしろ、プレジデンシャルスイートに住む必要など、俺にはなかったのだ。俺は、湿気で天井に染みが浮いたような、2部屋しかないぼろアパートで育ったのだ。親父はいつも、毎月1日を迎える前に、家賃まで酒代に使い果たしてしまうような男だった。今の俺に金があるのは、それを血の滲むような努力で稼いだからだ。金のない苦しさを味わい尽くした人間だけが持つ、あの泥臭い執念とともに。だが俺は、快適さと人生の豊かさを、これまで一度も取り違えたことはなかった。池町通りのその物件は、珠莉の住まいから車で20分の距離にあった。3LDKで、機能的なキッチンがあり、建物のエレベーターはきちんと動いていた。この点だけは絶対に譲れなかった。珠莉のアパートのエレベーターは俺が来る前からずっと壊れたままで、彼女は毎日買い物袋を提げ、6歳の子どもを連れて4階まで階段を上り下りしていたのだから。俺は、すぐには彼女にこの住まいのことを伝えなかった。彼女は弁護士を通じて住所を知っていて、俺の現地の連絡先も把握していたけれど、俺自身から直接話すことはしなかった。珠莉はすでに、抱えきれないほど多くのことに直面している。だから、急激な変化を押しつけるのではなく、少しずつ時間をかけて日常に溶け込ませていきたかった。……俺はそう、自分に言い訳をしていた。結果的に、その役目を果たしてくれたのは陽菜だった。それが明らかになったのは、水曜のいつもの公園での面会のときだった。前の週、陽菜は俺の家にベッドがあるのか、毎晩ホテルに泊まっているのかと尋ねてきた。今は自分のアパートがあるのだと説明すると、彼女はいつもの賢さでその情報を素早く頭に入れた。その翌日、彼女はまったく別の長いおしゃべりの途中で、いかにも些細なことのように珠莉にそのことを漏らしたらしい。「パパにはアパートがあるんだって」陽菜は、おそらくそんなふうに言ったのだろう。「ゲストルームがあって、私の部屋になるかもしれないって言ってた」その部屋のことは、俺が何気なく口にしただけだった。珠莉がこんなに早く反応してくるとは、思ってもいなかった。その夜、彼女は俺に電話をかけてき
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第30話

珠莉視点その番号は、ある木曜の夜、知らない番号として表示された。もう少しで、鳴りっぱなしにするところだった。7年間、身を隠してきたせいで染みついた警戒心もあったし、見知らぬ着信などたいていは間違い電話か勧誘で、付き合う気力もなかったからだ。4回目の呼び出し音で、私は電話に出た。何かが、そうさせた。何なのかは、自分でもわからない。理屈では説明できない直感だった。「……珠莉」世界が揺らいだ。私は膝の力が抜け、思わずキッチンの椅子にへたり込んだ。電話を耳に押し当てたまま、名づけようのない感情で全身ががたがたと震え出した。間違いなく兄、遼の声だった。実に7年ぶりだった。この7年間、直接その声を聞いたことは一度もなかった。思い出してみれば、一度だけ電話をかけたことがある。ごく短く、私が家を出てから18か月ほど後のことで、あのときも公衆電話からだった。沈黙があまりにも耐えがたかったからだ。電話をかけた相手は父だけで、兄にはかけなかった。兄は父よりずっと感情的になりやすい人だったから、私は、自分がどこにいるかを伝えなかった。事態が悪化する前に、電話を切った。それが、6年前のことだった。兄の声は変わっていなかった。年を取ったのか、少しかすれていた。でも、それはやはり遼だった。父の職場の駐車場で自転車の乗り方を教えてくれた兄。私の皿から野菜をこっそり取ってくれた兄。怖がっているときはいつも、思っているほど悪くないよと慰めてくれた兄。「……兄さんっ」私は言った。両手が震えていた。空いているほうの手をキッチンのテーブルに強く押しつけ、どうにか震えを止めようとする。「お前の居場所は知ってる」彼は言った。声は抑えられていた。電話をかける前に、意識的に落ち着かせたような口調だった。「陽菜のことも聞いた」震えがさらに激しくなった。「……和也が話したのね」私は答えた。それは疑問文ではなかった。ほかに考えられなかったのだ。遼が私を見つける方法などない。この7年間、私はずっと慎重にしてきた。私の防御を突破できたのは、和也と彼が雇った調査員だけだった。そして今、和也はその情報を使って、こんなことをしたのだ。私の同意も、相談もなしに。別の種類の怒りが、こみ上げてきた。7年前の彼の行いに対
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