All Chapters of 御曹司の愛は、離婚後に始まった: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

天音はベッドに横になり、目を閉じて眠ろうとした。すると突然、誰かに布団をめくられ、ひやりとした空気が肌に触れた。目を開けると、瑛司が消炎鎮痛剤を手にして立っていた。天音は眉をひそめた。その薬の匂いが苦手だったからだ。瑛司が言った。「腕を揉んでおけ。そうしないと、明日もっと痛むぞ」天音の腕には、あの高城家の男に強くつかまれた跡が、何か所も紫がかった赤色になって残っていた。「自分でやる」天音が手を伸ばして受け取ろうとすると、瑛司の細長い指が彼女の手首をつかみ、そのまま引き寄せた。手のひらに薬を少し垂らすと、温かな手のひらが天音の細い腕をすっぽり包み込んだ。天音は眉間にしわを寄せた。最初はひんやりとした刺激と痛みがあったが、瑛司がゆっくり揉みほぐしていくうちに、その痛みはずいぶん和らいでいった。瑛司の力加減はちょうどよく、天音は思わず、彼を振り払うことも忘れていた。気づいたときには、もうほとんど揉み終わっていた。「反対側も」瑛司が手を差し出した。長く整った指は薬で濡れていて、妙にきれいに見える。天音は少し意地になって言った。「自分でやる」それでも瑛司は彼女を見つめたまま動かない。「君の力で足りるのか?」天音は気にする様子もなく、何気なく答えた。「薬を塗って揉むくらいなら十分」瑛司は天音の前にしゃがみ込み、視線を落としたまま淡々と言った。「そんなに俺を拒まなくてもいいだろ」「拒んでるんじゃない。あなたとはもう何の関係も持ちたくないだけ。それに、あなたに触れてほしくない。もうあなたに何かしてもらう必要もないから。できることなら、今すぐ離婚したい」天音は目を伏せ、瑛司の長いまつ毛を見つめた。まつ毛が、普段の深い眼差しを隠している。すっと通った鼻筋に、今は固く結ばれた唇。その輪郭がいつも以上にはっきりして見えた。薄い唇が動く。「俺がいつ君を粗末にした?芸術センターの仕事だって辞める必要なんかなかっただろ。あそこではみんなが君を大事にしてくれていたのに、それを捨ててわざわざ他人のダンスカンパニーに入って、外回りまでして。その結果、他の男に絡まれて、危うく逃げられなくなるところだった」天音は一言一言、はっきりと言った。「あなたがいなくても、私一人でちゃんとやり返せた」今となっては、あのとき自分一人でやり返
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第82話

「ずっと目隠しされていたから、何も見てない」瑛司は眉をひそめた。「じゃあ、どうやって出てきた?」「誰かが助けてくれたの。気がついたときには、もう外に出てた。誰なのかも分からないし、何の手がかりも残ってなかった」瑛司は目を伏せた。「俺が、君をさらった犯人を必ず見つける」「もういいよ」天音は笑って彼を見た。「今さら調べたって、遅すぎるんじゃない?相手はとっくに海外に逃げてるかもしれないし」天音はふっと息を吐いた。「もう、あなたに何かしてもらう必要もない。これからはお互い他人だと思って、静かにおばあちゃんの手術が終わるのを待って、離婚しよう」「離婚、またその話か……」瑛司は眉間を押さえた。「いったい何回言えば気が済むんだ。俺は離婚しないって、もう言っただろ」「あなたが離婚してくれないなら、私は裁判を起こす。何があっても離婚するから。藤川社長だって、こんな何の取り柄もない女のために離婚しないでいるなんて記事にされたくないでしょう」瑛司は彼女を見つめた。目つきがぞっとするほど険しくなり、それ以上何も言わなかった。しばらくして、彼は立ち上がって部屋を出ていった。天音は彼がどこへ行ったのか知らなかったし、気にも留めなかった。……翌朝、目を覚ますと、隣は昨夜のまま空いていた。瑛司は帰ってきていないらしい。リビングへ行くと、真恵子が天音を見て口を開いた。「瑛司は昨夜出ていったきり、何をしてるのか分からないのよ。秘書の話じゃ、会社にも行ってないみたいだけど、あなたにはどこへ行くって言ってた?」天音は首を横に振った。「何も聞いてません」真恵子はため息をついた。「予定も何も話さないなんて。夫婦の心がこんなに離れてるのに、子どもを作ろうなんて無理よ」朝早くから、真恵子は天音のために体にいいスープまで用意させていた。天音は一口も口にしなかった。真恵子は眉をひそめる。「どうして一口も飲まないの?体にいいのよ。それにね、妊娠しやすくなるようにって、漢方医に頼んで、体にいいものを特別に入れてもらったの」 天音は真恵子を見た。「おばあ様、何か勘違いしてませんか?私の体に問題があると思ってるんですか?」真恵子は目を伏せた。「そんなこと言ってないでしょ」天音は小さく笑った。「もし私たち二人のどちらかに問題がある
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第83話

天音は契約書に目を通し、「特に問題ないです」と言った。悠真も確認し、二人とも問題ないと判断したため、そのまま相手と契約を結んだ。理香は前回、怪我のせいでステージに立てなかった。今度こそチャンスを逃したくないと思い、彼女も契約書にサインした。外に出ると、悠真が天音に尋ねた。「理香がいることで、嫌な気分になったりしない?」天音は笑って答えた。「そんな、どんな仕事でも楽しくやらなきゃいけないわけじゃないでしょ。私は今の状況に十分満足してるよ」「そうか。君の気分に影響してないならよかった。俺たちもダンスをするときは、気持ちの状態をすごく大事にするから」天音は笑った。「大丈夫。何も影響してないから、安心して」それから天音は、リハーサル室と研究所を行ったり来たりする毎日を送った。練習時間は十分にあったうえ、天音はもともと基礎がしっかりしていた。ソロのパートは誰かに合わせる必要もなく、大人数での練習も必要なかったため、上達も早い。一日に二時間ほど時間を取れば十分だ。普段は夜にリハーサル室へ行っていた。その日の夜、天音はガラス窓の向こうをじっと見つめていた。ふと、あの日、藤川グループで瑛司が「ここから見える」と言っていたことを思い出した。向かい側も今は明かりが煌々と灯っている。天音がぼんやり眺めていると、瑛司のオフィスにも明かりがついているのが見えた。彼の姿も、おぼろげながら分かる。天音は振り返り、窓のカーテンを全部閉めた。二日後、天音のもとに叔母の真紀からメッセージが届いた。【天音!藤川家の人たちがおばあちゃんを警察に連れていこうとしてる。おばあちゃんがあなたを拉致したって言ってるの!】そのメッセージを目にした瞬間、天音の頭は真っ白になった。どうしてこんなことになったのか、理解できなかった。すぐに病院へ駆けつけると、外には数人の警察官がいて、厳しい表情で言った。「公務の妨げになりますので、邪魔をしないでください」真紀は目を真っ赤にして入口を塞ぎ、一歩も引かなかった。「今あなたたちが中に入ったら、おばあちゃんを追い詰めて死なせることになる。絶対に入れさせない。私を殺してからにして!」息を切らしながら駆けつけた天音は、警察官に尋ねた。「いったい何があったんですか?」警察官が答えた。「中にいる患者の西野和江
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第84話

天音は警察の腕をつかんだ。「分かりました。仮に今、祖母を疑っているとしても、被害を受けたのは私です。私は、この件を取り下げたいんです!」警察は瑛司に目を向けた。「この件はご主人が通報して、警察が捜査を始めたものです。取り下げるなら、ご主人にも協力してもらう必要があります」瑛司は冷たい声で言った。「最後まで追及する。妻を傷つけた人間を、俺は絶対に許さない」天音は視界がぐらりと揺れ、倒れそうになった。入口に立っていた真紀は、奥にいる母親を刺激しないよう声を抑えながら、それでも隠しきれない憎しみを滲ませて言った。「天音、私はずっと言ってきたでしょ。うちの家族から離れてって!あなたはおばあちゃんを死なせるだけじゃない。私たち全員を不幸にするのよ!」「違う……そんなことにはならない」天音は首を振った。鼻の奥がつんと痛む。「おばさん、私を信じて。私がこのことを何とかする。おばあちゃんを傷つけさせたりしない」真紀の目から涙がこぼれた。警察官に向かって訴える。「母はもともと体が弱いんです。手術だって、しばらくしっかり療養してからじゃないと受けられない。それなのに今、連れて行ったら、母を死なせるようなものです」警察官は少し考えてから言った。「事情を考慮して、病室に警察官を配置することはできます。ただ、母親には捜査に協力していただく必要があります」真紀は歯を食いしばった。「分かりました。先に私が中に入って、母にちゃんと話します。いきなり知らされたら、ショックを受けてしまうと思うので」天音は唇を噛み、口の中に血の味が広がった。爪が掌に食い込み、赤い跡が残る。全身に力を込めて感情を抑えながら、真紀の腕をつかんだ。「ダメ。おばあちゃんにこんなショックを与えちゃいけない」何よりも大切にしてきた孫娘を、自分が誘拐したと疑われている。そんな濡れ衣を、祖母が耐えられるはずがない。想像するだけで胸が張り裂けそうだった。怒りで全身が震え、天音は瑛司を睨みつけた。「本当に、私に残された一番大切な家族まで、こんな目に遭わせるつもりなの?」「天音」男の声が冷たくなる。「君にとって一番大切な家族は俺だ。藤川家こそ、君の家だ」天音は鼻で笑った。「もう、とっくに違うよ」そして警察を振り返った。「拉致事件として届け出たんですよね?分かりました。私
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第85話

誰も天音の言葉を信じようとはしなかった。彼らの目には、靖紀はただの六歳の、聞き分けのいい子どもにしか見えていない。天音の胸には、深い絶望だけが残っていた。警察署を出ると、天音は瑛司の腕をつかみ、弱々しい声を漏らした。「どうしたら、あなたはこの件を取り下げてくれるの?おばあちゃんが私を傷つけるなんて、そんなことするはずないでしょ」全身から力が抜けてしまったようだった。瑛司は目を伏せ、静かに彼女を見つめた。「そんなに、君の言う『家族』を信じてるのか」「瑛司だって分かってるでしょ。おばあちゃんが私を陥れるなんてありえない。どうしてそんなことをするの?昔、おばあちゃんとおじいちゃんが私を引き取って育ててくれたの。二人がいなかったら、私は今こうしてここに立っていられなかったんだよ?」「天音、人は変わるものだ」その声はあまりにも淡々としていて、ほとんど残酷なほど冷たかった。「そうだね。人は変わるものだよね」天音の声も、ゆっくりと冷めていった。「でも、変わったのは私のおばあちゃんじゃない。あなたよ、藤川瑛司」頬を伝う涙を拭い、もう瑛司のほうを見ようとはしなかった。桐ヶ丘レジデンスに戻ると、天音は真恵子を訪ね、力を貸してもらおうとした。真恵子は書斎で筆を走らせていた。表情は穏やかだった。天音が近づくと、紙の上には縦書きの毛筆による書が並んでいた。文字は上から下へ、右から左へと書かれ、濃い墨の筆跡が流れるようにつながっている。伸びやかな風格と、長年の鍛錬が感じられる見事な字だ。「おばあ様、和江おばあちゃんが私を陥れるなんて、絶対にありえません」真恵子は頷いた。どうやら、すでに事情は把握しているらしい。「瑛司に、どうしてこんなことをするのか聞いた?」天音は目を伏せた。「どうしてこんなことをするのかは分かりません。でも、証拠が晴加の手から出てきたことは分かってます」瑛司は、晴加が自分を陥れようとするのに手を貸しているのだ。真恵子の筆先が止まり、天音へ視線を向けた。「瑛司が、そんな子どもじみたことをするはずがないわ」「瑛司は晴加のためなら、何だってしますよ」真恵子は眉を寄せ、口を開いた。「もし瑛司がもう決心しているのなら、私が何を言っても考えを変えさせることはできないわ。あなた自身が、どうすれば彼を説得できるのか考えな
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第86話

真紀の声が冷たくなった。「私の仕事のことまで、あなたに報告する必要はないでしょ。それより天音、私のお母さんのことなんだけど」そう言った真紀の目が赤くなる。「あなた、瑛司に何を言ったの?今日、仕事の話を口実に瑛司に会って、お母さんのことで頼もうと思ってたのに、会ってくれなかった」天音もこのことに強い罪悪感を抱いていた。うつむいて、「ごめんなさい、おばさん。大丈夫だから。この件は私がなんとかする。絶対におばあちゃんに何かあったりしないようにするから」と言った。真紀は一人でコーヒーを十数杯買い、それを抱えて上へ持っていった。「あなた、言ったからにはちゃんと約束を守ってよ」ここまでの状況を考えれば、真紀の態度は天音に対してかなり穏やかなものだ。真紀からすれば、西野家が今こんなことになったのは、すべて天音のせいだ。天音は目を伏せ、落ち込んだ様子でソファに戻ると、スマホを手にして瑛司へメッセージを送り続けた。【下で待ってる】【瑛司、取引しよう】【あなたが最近取りたがってる、あのプロジェクトのこと】【私、零奈と知り合いなの】同じようなメッセージを何十通も送った。それでも、相手からは一通も返事がなかった。天音は夜になるまでずっと下で待ち続けた。見逃すのが怖くて、食事すら取れなかった。受付でもらった一杯のお茶を、夜まで少しずつ飲んでいた。そのうち、だんだん頭がくらくらしてきた。どうやらまた低血糖を起こしたようだった。藤川グループのビルの入口で、回転ドアが動いた。天音がふと目を向けると、文也が子ども用のリュックを持ち、もう片方の手で靖紀の手を引きながら入ってくるのが見えた。天音は一瞬ためらったが、すぐに二人のもとへ駆け寄った。二人はそのまま自然にエレベーターへ向かった。天音も後を追おうとしたが、受付に止められた。「申し訳ありませんが、中にはお通しできません」文也は天音がここにいるのを見て、少し驚いた。靖紀の手を握る力も、わずかに強くなった。「文也さん、お願い。上まで連れていって」文也は眉を寄せた。「申し訳ありませんが、それはできません」「あなたたちが零奈との提携を取りたいことは知ってる。私なら力になれる」文也は意外そうな顔をした。「零奈と知り合いなんですか?どうやって力になるんです?」この業
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第87話

天音はようやくほっと息をついた。少なくとも、ひとつチャンスは掴めた。ここまで来た甲斐はあった。藤川グループ本社を出ると、真紀にメッセージを送り、もう三日だけ待ってほしいと伝えた。真紀からは返事がなかった。天音は病院へ向かったが、今は警察が見張っているため、和江には会えなかった。仕方なく、美奈が作ってくれたスープを警察に渡し、代わりに和江へ届けてもらうことにした。和江のことがまだ落ち着かない中、天音は自分の気持ちに構っている余裕もなく、研究所へ向かった。研究に没頭し、いつも以上に口数も少なくなった。ふと手を止めると、すぐに和江のことが気になった。昼休み、食堂で食事をしていると、明人が隣に座った。「おばあさんのこと、聞いた。俺から瑛司にも話したけど、今回はかなり強硬みたいだ……本当に、おばあさんはお前に危害を加えたのか?」天音は箸を置き、真剣な顔で明人を見た。「明人、この件には関わらなくていい。ただ、おばあちゃんを疑うのだけはやめて。おばあちゃんが私を傷つけるなんて、絶対にありえないから」明人は一瞬言葉を失い、俯いた。「……ごめん。余計なことを言った」天音はもう食事をする気にもなれず、トレーを持ってその場を離れた。そのまま夜まで研究室で作業を続け、いつものように病院へ和江の食事を届けてから、今度はリハーサル室へ向かった。悠真は天音のことを何かと気にかけてくれていた。わざわざ彼女専用のリハーサル室まで用意し、誰にも邪魔されずに踊れるようにしてくれていた。天音は鏡に映る自分を見つめたまま、何も言わず、身体に染みついた動きに身を任せた。腕を動かし、跳び、何度も繰り返すうちに、じわじわと汗が肌に滲み、服もすっかり濡れていった。そして、もう限界まで疲れ果てると、その場に倒れ込み、身体を丸めた。もう二度と目を覚ましたくない。「天音」入口から声がした。天音は重たいまぶたを持ち上げ、そちらを見る。悠真が焼き芋をひとつ手にして入ってきた。「ほら。帰り道にスーパーに寄ったら、焼き芋が売ってたんだ。二つ買うと一つおまけしてくれたんだ。俺はひとつ食べたけど、もう食べられなくて。こんなに長く踊ってたんだから、少しエネルギー補給しなよ」焼き芋はまだ温かく、ほんのり熱いくらいだった。天音には手を動かす力もなく、悠真はその
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第88話

天音は布団をめくり、瑛司に背を向けた。明かりを消すと、二人ともそれ以上何も話さなかった。翌朝、目を覚ました天音は、ベッドのそばに立つ男の背中を見ながら言った。「今日が最後の日よ。もし零奈がまだあなたの話を受けてないなら、私にチャンスをくれるって言ったよね」瑛司は俯いたまま、白いシャツのボタンを留めていた。起きたばかりのせいか、声には気だるさが残り、少し掠れている。「そんなに焦るなよ」天音は何も言わず、ベッドから降りた。研究所に着くと、天音はエド教授に呼び出された。「どうしたんですか?」意外そうに尋ねると、エド教授は少し困ったような顔をした。「この前の、高城家の幹部のことを覚えているか?」天音は少し間を置いて、「覚えています」と答えた。「今日、あの男が研究所に視察に来るらしい。もしまた君と鉢合わせしたら、厄介なことになる」天音の足が止まった。「また視察ですか?」明らかに、天音を狙ってのことだった。「君がいなければ、あいつはわざと難癖をつけてくるだろう。だから俺も頭を抱えているんだ。どうしたものかと思ってね。おそらく君が目的なんだろう。そうでなければ、こんなに何度も視察に来るはずがない」けれど今の天音にとっては、高城家の男のことより、祖母のことのほうがずっと気がかりだ。天音は休憩室へ戻ると、青谷グループに連絡を入れ、昼に提携について話し合いたいと伝えた。瑛司に少しでも危機感を持たせるためだった。それとは別に、教授が話していた高城家の男をどうやって避けるかも考えなければならない。すると突然、休憩室のドアが開き、明人が入ってきた。「さっき教授から聞いた。どうするつもりなんだ?」天音は目を伏せて答えた。「なんとかして避けるつもり」「この前はどうやって切り抜けた?」「瑛司がなんとかしてくれた」「じゃあ、瑛司に正体を知られたんじゃないのか?」「知られてない」あの日、高城家の男はずっと意識を失っていたため、瑛司と話をすることもなかった。「だったら、お前の身元を明かしたらどうだ?あの男に藤川家の人間だと分かれば、さすがに手を出してこないだろ」天音は首を横に振った。「今は藤川家に私のことを知られたくないの。知られたら、いろいろ面倒なことになるから」明人も、それはその通りだと思った
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第89話

夜、天音が桐ヶ丘レジデンスに戻ると、瑛司は気だるそうにソファにもたれ、目を閉じて休んでいた。ソファに座っているときはいつも、自分を待っているのだと彼女には分かっていた。天音は彼のもとへ歩み寄った。「私にもチャンスがあるんだよね」瑛司はソファに深くもたれ、首を少し反らしていた。喉仏がかすかに動き、ゆっくり目を開けて天音を見る。声は淡々としていた。「どうやって?」瑛司がそう聞いてくることは、天音にとって意外ではなかった。彼らからすれば、自分が零奈のような人物とつながっているなんて考えられないのだ。「零奈とは知り合いなの。たまたま、私にひとつ借りがあるだけ」瑛司は、そんな簡単な説明で納得するような男ではない。「いつ知り合った?」天音は隣に腰を下ろし、彼の口調を真似るように淡々と言った。「どうやって知り合ったかまで、あなたに報告する必要はないでしょ。今、私だけがあなたを助けられるってことだけ分かってればいい。でも、私が助ける前に、まずおばあちゃんの件を取り下げて」瑛司は目を伏せ、低い声で言った。「もし、君にできなかったら?今すぐ零奈に電話しろ。俺が直接話す」天音はすでにそのつもりで用意していた。あらかじめ美奈に連絡し、この嘘に付き合ってもらうよう頼んでいたのだ。天音はうなずいた。「いいよ」すぐに美奈へ電話をかけた。連絡先にも、「零奈」として登録してある。電話がつながると、美奈が言った。「天音、どうしたの?」天音は口を開いた。「協力する相手、もう決めた?」「あなたはどこを勧める?」天音は瑛司を見た。「まだ決めてないなら、藤川グループがいいと思う」向こうで少し考える気配があった。「うん、藤川グループは確かにいい。でも、規模が大きすぎるから。こういう大企業って、何か問題が起きたときに私じゃ対処できないんじゃないかって心配で」天音は答えた。「大丈夫。何も起きないから」「じゃあ、あなたの言うとおりにする。向こうに連絡して、協力の話を進めるね」天音はあらかじめ美奈の家のパソコンから零奈のメールにログインしておき、美奈がそのメールアドレスから藤川グループの担当者に協力する意思を伝えられるようにしていた。瑛司がプロジェクトの担当者に連絡すると、ちょうど先ほど零奈から協力の意向を伝えるメールが届いたところだと
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第90話

真紀は相変わらず天音に冷たい態度を取っていた。真紀にしてみれば、天音がいなければ今回のようなことは起きなかった。すべては天音が招いたことなのだ。だから、天音がこの問題を解決したとしても、それは当然のことだった。和江はかすれた声で天音の手を握った。「天音、いったい何があったの?あなた、拉致までされたの?どうして今までおばあちゃんに何も言わなかったの。こんな大変なことを、一人で抱え込んでたの?今回のことがなかったら、私、何も知らなかったわ」天音は大きく息を吸い込んだ。途端に目の奥が熱くなった。心配してくれるのは、和江だけだった。あの夜に感じた悔しさが、一気に込み上げてきた。夜中に拉致されたときのことを何度思い出しても、泣くことはなかった。それなのに、和江の前では涙が止まらなかった。天音は涙声で言った。「おばあちゃん、ごめんなさい。心配させたくなくて言えなかったの。でも、ちゃんと無事に帰ってきたから」和江は天音の頬を伝う涙を拭った。「誰かが助けてくれて、本当によかったわ。その人はいったい誰なの?ちゃんとお礼を言わなくちゃね」天音は首を横に振った。「私も分からないの」もし分かっていたら、和江に言われるまでもなく、自分でお礼を伝えに行っていた。けれど、あのとき助けてくれた人については、何も覚えていない。おそらく、自分が意識を失ってから、その人が自分を連れ出してくれたのだろう。しかも、何の痕跡も残っていなかった。天音はときどき、もしかしたら神様が自分を助けてくれたのではないかと思うことがあった。あんな人里離れた場所にまで、助けてくれる人を現してくれたのだから。和江はため息をついた。「残念ね。でも、その人がずっと幸せに暮らせますように」天音は頷いた。ところが、隣にいた真紀が冷たく言った。「天音、おばあちゃんにも会ったでしょ。もう帰りなさい」「真紀、そんな言い方しないで」和江は目を赤くして、真紀の手を取った。天音は和江の手をぎゅっと握った。本当は、もう少し一緒に話していたかった。けれど、真紀の視線を感じて、天音は立ち上がった。「おばあちゃん、じゃあまた来るね」真紀は冷たく言った。「まだ来るつもりなの?もう来ないで」天音はうつむいた。「ごめんなさい。今回のことは、確かに私が原因だから」病院を出たあと、
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