藤川瑛司(ふじかわ えいじ)と結婚して四年になる。唐沢天音(からさわ あまね)は燃えるように瑛司を愛していたが、彼はいつも淡々としていた。周囲では、唐沢家のお嬢様は一生、瑛司から離れられないだろうと囁かれている。天音自身も、そう信じていた。ある日、天音は、瑛司と二人で支援している少年を連れて食事に出かけた。そこで、瑛司の友人たちの会話が耳に入った。「瑛司、そういうことか。天音にあの子を支援させてたのも、水野晴加(みずの はるか)の息子だったからか。晴加って、昔お前を振って別の男と結婚して、子どもまで産んだ女だろ?よくそれで恨みもなく、一途だな、お前は」「何を恨むんだよ。あの女は瑛司にとって唯一の例外なんだよ」「あんな取り柄のない天音が瑛司に釣り合わないだろ。実母を亡くしたばかりだというのに、父親は妊娠中の女を後妻として迎えた。それからは、後妻とその子どもばかりを可愛がっていたんだ。瑛司がなんとかしてやらなきゃ、天音が今の暮らしを送れるわけないだろ?」「それでも、いざ離婚となったら天音は絶対に応じない。あれだけ瑛司に惚れてるんだ、死んでも別れないだろ」瑛司は上座に座り、指先に煙草を挟んでいた。ゆらめく煙の向こうには、周囲から一歩引いたような気だるさがにじんでいる。彼はぼんやりと窓の外を眺めており、その言葉を聞いても口元に薄い嘲笑を浮かべただけで、何も言わなかった。黒いスーツはシャープなシルエットに仕立てられ、肩幅の広さと引き締まった腰を際立たせている。シャツの襟元は少し緩み、堅苦しさが和らぐ一方で、どこか無造作な強さが漂っている。彫りの深い顔立ち、鋭い顎の線、薄い唇。そこに座っているだけで、権力者特有の距離感と、全てを支配しているかのような空気をまとっている。個室の外で、天音はドアノブを痛いほど握りしめ、隙間から中を覗き込んでいる。白い手の甲には青い筋が浮かんでいる。世界が突然崩れ落ちたようで、頭の中は真っ白になった。信じている愛が壊れると、こんなにも息苦しくなるのか。胸の奥を深くえぐられたようで、骨の髄まで痛みが走った。水野晴加。天音が連れてきた少年の母親。右脚は膝から下を失い、子どもを一人で育てながら働いている。一年前、天音と瑛司は晴加の息子・水野靖紀(みずの やすのり)を支援することにした。
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