共有

第18話

作者: るるね
last update 公開日: 2026-08-11 22:59:10

 冷たい感触は、ほんの一瞬で離れていく。

 星奈はその温もりを追いかけるように手を伸ばそうとする。だが、身体は鉛のように重く、瞼を開くことも、指先ひとつ動かすこともできない。

 意識を完全に手放す、その直前。

 耳元で、誰かが小さく息を吐く音が聞こえた。

 ひどくかすかな、ため息だった。

 なぜかその響きには、胸まで締めつけられるような悲しさが滲んでいる。

 星奈はその音を最後に聞きながら、泣きたいと思うほどの苦しさを胸へ抱えたまま、深い闇の中へ沈んでいった。

 一晩中、星奈は苦しみ続けた。

 眠りに落ちても、身体が燃えているかのような熱に苛まれ、意識は深いところで何度も浮かんでは沈んだ。

 目を覚ましているようでもあり、気を失っているようでもある。

 夜の間に、何度か意識が戻ったような気はした。それでも、重い瞼を開けることはできない。

 星奈は暗闇と静寂の中、再び意識が途切れ、この苦しみから逃れられる瞬間をひたすら待ち続けた。

 浅い眠りから浮かび上がっては、また深い闇の底へ沈んでいく。

 それを幾度となく繰り返すうちに、星奈は身も心もすっかり疲れ果てていた。

 ようやくはっきりと
この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード
ロックされたチャプター

最新チャプター

  • 記憶を失ったら、復讐しに来た彼に執着されました   第69話

     女は星奈を見下ろし、無表情のまま彼女が起き上がるのを待っていた。その腕には、ひと揃いの衣服らしきものが抱えられている。 星奈がようやく目を開けたと分かると、女は手にしていた服を無造作に投げてよこした。 畳まれていた服は星奈の胸元へ落ち、そのまま膝の上で崩れる。 どうやら、これに着替えろということらしい。「もうお嬢様でもないくせに、いつまで寝ているつもり?」 女は冷ややかな声で言い放った。「早く起きなさい。今日から千堂家の使用人になるなら、使用人らしく振る舞ってもらわないと困るわ」 なぜか、その声には星奈に対する強い不満が滲んでいた。 以前から彼女のことを快く思っていなかったかのように、女の言葉には刺々しい響きがあった。 星奈は何が起きているのか理解できないまま、片手をマットレスについて、ゆっくりと身体を起こした。 頭にはまだ深い眠気が残り、全身にも昨日の疲労と痛みが重くまとわりついている。 星奈は胸元へ投げられた服と目の前の女を交互に見つめ、どうすればよいのか分からないまま、呆然としていた。 その鈍い反応が、女をさらに苛立たせたらしい。「何をぼうっとしているの」 女は声を荒らげると、星奈の背中を平手で強く叩いた。「……っ!」 乾いた音とともに鋭い痛みが走り、星奈の身体が大きく前へ揺れる。 まだ眠気の残る頭では、突然叩かれた理由さえすぐには理解できなかった。ただ反射的に肩を竦ませ、痛む背中を庇うように身体を小さくする。「早くしなさい。もう仕事を始める時間よ。着替えたらすぐに出てきて。あなたが今日から何をするのか、私が教えるから」 女は一方的にそう告げると、その場を離れようともせず、星奈を厳しい目で見下ろし続けた。 まるで、今すぐ着替え始めなければ、もう一度手を上げるとでもいうように。 女は星奈に自分のフルネームを名乗ろうとはせず、ただ「水留さんと呼びなさい」とだけ告げた。 水留は、千堂家に長く仕えている古参の使用人らしい。屋敷で働くメイドたちを取りまとめ、それぞれの仕事や掃除場所を割り振る役目を任されていた。 星奈へ与えられた時間は、着替えと身支度を合わせて、わずか十分だった。 その時間が過ぎても星奈が使用人用の洗面所から出てこないと、水留は遠慮なく扉を開けて中へ入り、まだ髪を整えていた星奈の腕を掴んで強引に引っ張り

  • 記憶を失ったら、復讐しに来た彼に執着されました   第68話

     遠田の仕事は早かった。 内線で二人の使用人を呼び出すと、物置として使われていた部屋をすぐに掃除させた。 片隅に積み上げられていた荷物を運び出し、床や窓を隅々まで丁寧に拭き上げたあと、新しいマットレスを運び込み、肌触りのよいシーツや掛け布団まで用意する。「星奈お嬢様……」 星奈を前にすると、遠田はどうしても以前の呼び方をしてしまうらしい。 口にしてから純生の言葉を思い出したのか、わずかに言葉を止めた。 何かを迷うようにしばらく沈黙したものの、結局は呼び方を訂正することなく、何事もなかったかのように話を続ける。「もう夜も遅いので、ベッドフレームは明日、業者を呼んで組み立ててもらう予定です。今夜は申し訳ありませんが、こちらのマットレスでお休みいただけますでしょうか」「あ……大丈夫です。そんなにしていただかなくても、私……どこでも眠れますから」 星奈は慌てて両手を振り、恐縮した様子で何度も遠田へ頭を下げた。「ありがとうございます。本当に……ありがとうございます」 遠田は、そんな星奈の姿を戸惑ったように見つめていた。 以前の星奈とは、性格も振る舞いもまるで違っている。 かつての彼女がどのような少女だったのか、遠田はよく知っていた。 幼い頃から何度となくこの屋敷を訪れ、純希や純生と一緒に過ごしていた星奈は、遠田にとっても長年成長を見守ってきた大切な存在だった。 それだけに、今こうして些細なことにまで遠慮し、自分が何かをしてもらうこと自体が申し訳ないとでもいうように、何度も礼を口にする星奈を前にすると、事情を聞かされていても、すぐには気持ちが追いつかなかった。 目の前にいるのは、間違いなく星奈お嬢様のはずなのに。 そのあまりにも変わり果てた様子に、遠田の胸には困惑とともに、痛ましさにも似た感情が込み上げてくる。 小さく息をついたあと、遠田は結局、昔と何一つ変わらない丁寧な態度で星奈へ告げた。「それでは星奈お嬢様、今夜はどうぞごゆっくりお休みください。私はこれで失礼いたします」「あ、ありがとうございます……遠田さん。お、おやすみなさい」「おやすみなさいませ」 遠田が退室し、扉が静かに閉じられた。 一人きりになった星奈は、しばらく扉の前で呆然と立ち尽くしていた。 やがて身体の重さに耐えきれなくなり、足を引きずるようにマットレスの傍ま

  • 記憶を失ったら、復讐しに来た彼に執着されました   第67話

     星奈には、かつて自分が使っていたという部屋の記憶がなかった。 そこでどのように過ごしていたのかも、純希がどんな思いでその部屋を用意してくれたのかも、何一つ覚えていない。当然、部屋に対する愛着もなければ、特別な感情が湧くこともなかった。 だからこそ、純生から今のお前にはあの部屋を使う資格などないとはっきり言われても、星奈はさほど傷つかなかった。 言い返すこともなく、ただ静かに俯いている。 ところが、その反応は純生の望んでいたものではなかったらしい。 昔の部屋を奪われたことに屈辱を覚え、悔しそうに顔を歪めたり、傷ついて涙を浮かべたりする姿を期待していたのだろう。 あまりにも反応の薄い星奈を見ているうちに、純生の顔には次第に不満の色が浮かび始めた。「やっぱり、使用人部屋だってこいつにはもったいないな」 純生はわざと星奈にも聞こえるように声を大きくし、遠田へ向き直った。「遠田さん、適当な物置を探して、そこに放り込んでおいてよ。それもなければ、犬小屋でいいだろ」「純生様……」 純生の口から飛び出す言葉は、次第に度を越したものになっていく。 遠田は明らかに困り果てた様子で眉を寄せ、何度も純希の顔色を窺った。純希が何か言ってくれることを期待しているのだろう。 けれど、純希は一向に口を挟まなかった。 主人の意向が分からない以上、遠田も純生の言葉を否定することも、承諾することもできない。どう返事をすればよいのか分からず、困惑したままその場に立ち尽くしていた。 純生は返事を急かすように、遠田へ問いかけた。「どうしたの、遠田さん。そんな部屋はない? だったら、この女は庭にでも置いておけばいいよ。それとも……」 そこで何かを思いついたらしく、純生の口元に意地の悪い笑みが浮かんだ。「裏庭のプール、まだ水は入ったままだよな?」 プールという言葉を耳にした瞬間、星奈の身体が反射的に強張った。 星奈はびくりと肩を震わせた。別荘のプールで味わった冷たさと苦しさが、一瞬にして蘇ったのだ。 水を吸って重くなった服も、冷たい水に浸かり続けて身体の感覚が失われていった恐怖も、意識を失う直前の苦しさも、まだ星奈の身体には生々しく残っている。 純生は、その小さな変化を見逃さなかった。 先ほどまで何を言っても平静だった星奈が、ようやく怯えた。求めていた反応を引き出

  • 記憶を失ったら、復讐しに来た彼に執着されました   第66話

     以来、遠田はまだ幼かった純希と、生まれたばかりの純生のすぐ傍に付き添い、二人が成長していく姿を見守ってきた。 当然、純希の婚約者だった星奈とも、数えきれないほど顔を合わせている。 柚木家と千堂家は隣り合って暮らし、家同士の付き合いも深かった。星奈は幼い頃から何度もこの屋敷を訪れ、純希や純生と一緒に過ごしていた。 遠田にとって星奈もまた、兄弟と同じように、幼い頃から成長を見守ってきた大切な子供の一人だった。 柚木家に起きたことは、もちろん遠田も聞かされている。 それでも純生の口から、星奈はもう令嬢ではないとはっきり告げられると、すぐには受け入れられないらしい。 昔とほとんど変わらない姿で目の前に立っている星奈を、これまでのように「お嬢様」と呼んではいけない。 頭では事情を理解していても、長年染みついたものをそう簡単に切り替えることはできず、遠田の顔には隠しきれない困惑が浮かんでいた。「こいつは今日から、千堂家の奴隷になるんだ」 純生は見せつけるように星奈の腕を引き寄せると、そのまま遠田の前へ突き出した。「間違っても主人みたいに扱わないでよ。面倒な仕事も汚い仕事も、これからは全部こいつにやらせればいいから」 突然前へ押し出された星奈は大きくよろめき、倒れないよう懸命に足を踏ん張った。 遠田は、そんな星奈を複雑そうな表情で見つめている。 かつてはこの屋敷を自由に出入りし、誰からも「お嬢様」と呼ばれていた少女が、今度は使用人としてここへ戻ってきた。 あれほど大切にされていた少女を、今さら使用人として扱えと言われても、遠田には簡単に割り切れることではなかった。 しばらく言葉を失っていた遠田だったが、やがて自分が千堂家へ仕える立場であることを思い出したように表情を整え、静かに頭を下げた。「……承知いたしました、純生様」 純生はその返事に満足したように口元を緩めた。 さらに何か言おうと口を開きかけたところで、二人より少し遅れて屋敷へ入ってきた純希の声が、背後から響いた。「もういい、純生。今日は戻ってきたばかりだ。仕事を割り振るのは、明日からでも遅くない」 純希は星奈へ目を向けることなく、淡々と続ける。「それに、まだ契約書へ署名もさせていない。遠田さん、父は最近こちらへ戻ったか?」 純希の姿を目にした遠田は、すぐに深く一礼した。先ほど

  • 記憶を失ったら、復讐しに来た彼に執着されました   第65話

     外から眺めただけでも、千堂家の屋敷がどれほど壮麗な造りをしているのかは、十分に伝わってきた。 けれど、純生に手首を掴まれたまま車から引きずり下ろされ、正門をくぐった星奈は、その内側に広がる光景を目にして、改めて言葉を失った。 門の先には、まるで外の街並みから切り離されたような別世界が広がっている。 前庭だけでも驚くほどの広さがあり、辺り一面に広がる芝生は隅々まで美しく刈り揃えられていた。 植えられた木々や草花も、すべて庭園全体の調和を考えて配置されているらしい。どこへ目を向けても上品に整えられ、一本の枝、一枚の葉に至るまで、丁寧に手入れされているように見えた。 正門から母屋へ続く長い道の途中には、ライトアップされた美しい噴水がいくつも設けられている。その周囲を飾るように、芸術品らしい彫像まで点々と並べられていた。 ただ、今の星奈には、その豪華な庭園をゆっくり眺めている余裕などなかった。「痛っ……」 純生に強く掴まれた手首が、ずきずきと痛んでいる。 それでも純生は、星奈の苦しそうな声など気にも留めず、足早に母屋へ向かっていた。 少しでも歩みを緩めれば、星奈が途中で逃げ出すとでも思っているのだろう。立ち止まる隙はおろか、周囲へゆっくり目を向ける時間さえ与えようとしない。 星奈は何度も足をもつれさせながら、引かれるまま必死に純生のあとをついていくしかなかった。 やがて二人がたどり着いた母屋は、夜だというのに眩しいほどの明かりに包まれていた。 純生が重厚な扉を勢いよく押し開け、そのまま星奈を連れて中へ入っていく。 広々とした玄関ホールの先には、天井の高い豪華な大広間が広がっていた。磨き上げられた床も、頭上から光を落とす大きな照明も、そこかしこに並べられた調度品も、どれを取っても、今の星奈には気軽に触れてよいものとは思えない。 これから自分が暮らすことになる場所だと聞かされていても、まるで他人の屋敷へ勝手に足を踏み入れてしまったような居心地の悪さしか感じられなかった。 先ほどまで人の姿は見当たらず、これほど広大な屋敷とは不釣り合いなほど、辺りは静まり返っていた。 ところが、純生が大きな音を立てて屋敷へ入ってきた途端、どこから現れたのか、きっちりとスーツを着こなした年配の男が二人の前へ歩み出た。「純生様、お帰りなさいませ」 深く頭を下げ

  • 記憶を失ったら、復讐しに来た彼に執着されました   第64話

     東京へ到着した頃には、すでに夜になっていた。 丸一日に及ぶ移動は、やはり身体に堪えたらしい。 道中のほとんどを眠って過ごしていた純生の顔にも、隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。 予定を早めて病院を退院したばかりの星奈も同じで、身体の芯にまで重い倦怠感が残っていた。 一日中、会社の資料へ目を通していた純希だけは、普段とまるで変わらないように見える。いつもどおり冷たい表情を崩さず、疲れを表に出そうとしないせいかもしれない。 その横顔には、話しかけることすら拒むような近寄りがたい空気があり、星奈は怖くて何度もそちらを見ることができなかった。 千堂家の本邸へ到着する前、純希は車内で何度か電話をかけていた。 断片的に聞こえてくる会話の内容からすると、星奈をもう一度診察させるため、千堂家のかかりつけ医へ往診を頼んでいるらしい。 空港まで迎えに来た車へ乗り換えてからも、星奈の座る場所は変わらなかった。 後部座席の中央へ座らされ、左右を純希と純生に挟まれている。 星奈は行き場のない視線を正面へ向け、フロントガラスの先に広がる東京の景色を茫然と眺めていた。 繁華街には眩しいほどの明かりが溢れ、色鮮やかなネオンが夜の街を照らしている。道 路には絶え間なく車が行き交い、歩道も大勢の人で賑わっていた。 それほど華やかな景色の中を走っているというのに、車内では誰一人として口を開かない。 窓の外に広がる賑やかな東京の夜と、息苦しいほど静まり返った車内とでは、まるで別の世界にいるようだった。 やがて車は華やかな市街地を離れ、豊かな緑に囲まれた閑静な高級住宅街へ入っていった。 先ほどまでの喧騒は次第に遠ざかり、車窓の向こうに見えるのも、高い塀や生垣に囲まれた大きな邸宅ばかりになる。 幾つもの道を曲がり、静かな街並みのさらに奥へと進んでいく。 ひときわ豪華な邸宅の前へ差しかかったところで、それまで黙っていた純希が不意に口を開いた。「星奈、ここが以前のお前の家だ」 純希の言葉が終わるのとほぼ同時に、運転手も車の速度をゆっくりと落とした。 星奈がその邸宅の姿を少しでも長く、はっきりと見られるよう、わざと速度を落としているかのようだった。 車窓の向こうに建つ屋敷は、外から眺めるだけでも十分すぎるほど豪華だった。 重厚な門構えの向こうには広大な敷地が続き、夜

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status