All Chapters of 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話: この町には、長いんですか

ジャン・モローは、海辺の広場に立ったまま、エマを見ていた。 風に揺れる金髪も、相手の反応を待ちながら決して視線を外さないところも、八年前とほとんど変わっていない。 エマは、手にしていたチョークへ指を添えた。 驚いた顔をしてはいけない。 知っている人間を見る目を向けてもいけない。 ここにいるのは、朝倉エマ。 港町のカフェで働き、フェスティバルの地域企画を手伝っているだけの女だった。 ジャンの隣にいた事務局の男性が、申し訳なさそうに頭を下げた。 「朝倉さん、すみません。フェスティバルに出資くださる、こちらのモローさんが展示会場をご覧になる予定だったのですが、倉庫街が少し分かりにくくて」 ジャンがエマへ向き直った。 「失礼しました」 フランス語の響きを僅かに残した英語だった。 「こちらの方が、展示会場に詳しいと伺いました」 エマは、英語で静かに答えた。 「事務局の方の方が詳しいと思います」 「彼は、別の担当者を迎えに行かなければならないそうです」 ジャンは隣の男性へ視線を向ける。 男性は困ったように笑った。 「すぐ戻るつもりだったのですが、車が到着してしまって。朝倉さん、もしお時間があれば、メイン会場までご案内いただけませんか」 断りたい。 けれど、明確な理由がなかった。 フェスティバルへ協力すると決めた以上、現地で迷っている関係者を案内する程度のことを拒めば、かえって不自然に見える。 しかも相手は、後援を検討しているモロー財団の、エレナの旧友であるジャン・モローだった。 過剰に避けるな。 現地住民の一人として、自然に振る舞え。 保護担当者の言葉が蘇る。 エマは、手にしていたチョークをケースへ戻した。 「メイン会場まででしたら」 「助かります」 ジャンは柔らかく笑った。 昔から、望んだ答えを得た時に見せる顔だった。 相手を追い詰めたようには見せず、最初からこうなると分かっていたように笑う。 それを知っている自分が、ひどく落ち着かなかった。 *** 二人は広場を離れ、倉庫街へ続く道を歩き始めた。 海沿いの遊歩道には、フェスティバルの案内板が立ち始めている。古い煉瓦倉庫の壁には作業用の足場が組まれ、開いた扉の向こうでは、スタッフが照明機
last updateLast Updated : 2026-08-10
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第42話: 君は、エレナなのか?

「この町で、絵を教えているそうですね」 「子どもたちへ、月に何度か」 「ご自身も描く?」 「描きません」 答えは、考えるより早く出た。 ジャンの目が、僅かに細くなる。 「黒板は?」 「店の案内です」 「先ほどの大きな黒板は?」 「地域企画用のものです」 「どちらも、絵ではない?」 問い詰める口調ではない。 軽い会話のように続けている。 それでもエマには、逃げ道を少しずつ塞がれている感覚があった。 「絵と呼ぶかどうかは、見る方次第ではないでしょうか」 エマが答えると、ジャンの口元に僅かな笑みが浮かんだ。 「面白いことを言いますね」 「そうですか」 「ええ。昔、よく似たことを言う友人がいました」 胸の奥が冷えた。 けれど、表情は動かさなかった。 「その方は、画家ですか」 他人の話として尋ねる。 ジャンはすぐには答えなかった。 「画家でした」 過去形。 ジャンの声に、僅かな重さが混じる。 「とても才能のある人でした」 エマは前を向いたまま歩いた。 知らない人の話を聞く顔を作る。 「そうなんですね」 「作品を絵と呼ぶかどうかは、見る側が決めればいいと言っていた。本人は、描きたいものを描いているだけだから、と」 覚えていた。 エレナが二十二歳の頃。 小さな展示会のあとで、作品を前衛絵画と分類した評論家へ腹を立てた。 『勝手に名前をつければいい。私は描きたかったから描いただけ』 ジャンは、その言葉を面白がって何度も繰り返した。 玲は隣で。 『分類されるのが嫌なら、展示しなければいいのに』 と静かに言った。 『見せたいのと、勝手に決められたいのは違う』 そう言い返した。 記憶が、あまりにも鮮明に戻る。 エマは指先へ力を込めた。 「よくある考え方かもしれません」 「そうかもしれない」 ジャンは否定しなかった。 けれど、納得したようにも見えなかった。 倉庫街の中央へ入ると、海風が建物に遮られた。足音が石畳へ少し強く響く。 メイン会場は、古い倉庫を改装した大きな建物だった。入口にはまだ正式な看板がなく、仮設の案内表示だけが置かれている。 「ここです」 エマは立ち止まった。 「中へ入
last updateLast Updated : 2026-08-10
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第43話:私は、朝倉エマです

「君は、エレナなのか?」 ジャンの問いが、フランス語のまま静かに落ちた。 エマは、すぐには答えなかった。 古い倉庫のロビーでは、スタッフが照明機材を運んでいる。金属が触れ合う音。行き交う足音。開いた扉から入り込む海風。 周囲は慌ただしく動いているのに、自分とジャンの間だけが切り離されたように感じられた。 心臓が速く鳴っている。 それでも、呼吸は乱さない。 フランス語を話しただけ。 朝倉エマの経歴にも、ヨーロッパで暮らしていた時期はある。英語にもフランス語にも強い訛りがないのは、北欧系の母の影響として説明できる。 髪も。 声も。 纏う空気も違う。 変えられなかったのは、瞳だけだった。 エマは、ジャンから視線を逸らさなかった。 「ヨーロッパに長くいたので」 同じくフランス語で答える。 「お知り合いに似ていたのかもしれませんね。その方は、どなたですか?」 初めて聞いた名前を確かめるように、穏やかに尋ねる。 「私は、朝倉エマです」 ジャンは何も言わなかった。 黒髪。 頬へ散ったそばかす。 鼻筋。 唇。 そして、光を受けるたびに緑を含む瞳。 一つずつ、記憶と照らし合わせるように見つめている。 玲の視線とは違った。 玲はエマを見た瞬間、感情を隠せなかった。 呼吸を止め、グラスを落とし、考えるより先に手へ触れた。 ジャンは、疑うほど静かになる。 言葉よりも、答えるまでの間や視線の動きを拾う。 エレナだった頃から、この目が苦手だった。 作品へ向けられる時は嬉しかった。誰にも見つけられない意図を、ジャンだけが見抜くこともあった。 けれど、自分自身へ向けられると。 隠しているものを、薄い膜から一枚ずつ剥がされるような感覚がした。 「朝倉エマ」 ジャンが名前を繰り返す。 「はい」 「フランスには、どれくらい?」 「断続的に数年です」 「絵を学んでいた?」 「いいえ」 迷わず答える。 ジャンの視線が、エマの手元へ落ちた。 指先には、黒板に触れた時の白いチョークが薄く残っている。 「では、なぜフェスティバルの制作に?」 「町の子どもたちへ絵を教えているからです」 「絵を学んでいないのに?」 「専門的に学ばなくても、子どもたちと描くことはできます」 ジャンの口元へ、僅かな笑みが浮かんだ。 納
last updateLast Updated : 2026-08-10
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第44話:また話そう、エマ

「私は、作家ではありません」「それを決めるのは、肩書きではないよ」どこかで聞いたような言葉だった。玲も、つい先日言った。『それを決めるのは、僕です』二人とも。エマが引いた線を、簡単には受け入れない。早くこの場を離れたい。そう思った時だった。「ジャン」背後から、低い声がした。エマの身体が僅かに固まる。聞き間違えるはずがない。ジャンが振り返る。エマも、ゆっくり顔を向けた。ロビーの入口に玲が立っていた。濃紺のスーツ。その後ろには加瀬と、神崎財団の担当者がいる。玲の視線は、最初にジャンへ向いた。次に。エマの顔へ止まる。二人の距離。会話の空気。そして、フランス語で言葉を交わしていたこと。すべてを短い沈黙の中で確かめているようだった。「どうして彼女とここに?」穏やかな声だった。けれど、普段より低い。ジャンは驚く様子もなく笑った。「道に迷っていたら、案内してくれたんだ」二人の会話もフランス語だった。エマの胸へ、後ろめたさが残る。玲に見られた。朝倉エマが、フランス語を母語のように話しているところを。どこから聞かれていたのかは分からない。ジャンがエレナの名を出したところからか。自分が否定した部分からか。玲の表情からは読み取れなかった。「久しぶりだね、玲」「日本へいらっしゃるなら、連絡をいただければよかったのですが」二人の間には、再会を喜ぶ温度がなかった。互いの目的を探る、静かな緊張だけがある。ジャンの視線が、玲の後ろにいる財団担当者へ移った。「神崎財団が、メインスポンサーになったと聞いたよ」僅かに眉を上げる。「へえ。少し前まで、支援者のリストに君の財団はなかったのに。どういう事情?」玲の表情は変わらなかった。「あなたこそ、ヨーロッパを離れて、日本のこんな小さな港町まで来るなんて。どうされたんですか」「面白いものが見つかるかもしれないと思ってね」ジャンの答えに、最後の一枚の気配が滲む。玲もそれを感じ取ったらしい。二人の視線が、短く交わった。「ジャンさんは、まだ出資を決めていないでしょう」玲が静かに続ける。「我々が主要な支援を行います。モロー財団には、無理にご参加いただかなくてもよいのでは?」柔らかな口調だった。それでも、明らかな牽制だった。この町へ入る必要はない。そう告
last updateLast Updated : 2026-08-10
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第45話:見せたくない

玲は、展示会場へ入った時から、ジャンとエマの姿に気づいていた。 古い倉庫を改装したロビーの奥。 高い窓から差し込む午後の光が、二人の足元へ細長く落ちている。周囲ではスタッフが照明機材を運び、金属の触れ合う音が途切れず響いていた。 それでも、二人の周りだけが妙に静かに見えた。 エマはジャンと向かい合っていた。 距離が近いわけではない。 けれど、エマの表情には、玲と話す時とは異なる緊張があった。 肩に僅かに力が入り、視線を逸らさないようにしている。 ジャンは反対に、ほとんど表情を動かしていない。 相手の言葉ではなく、その前後に生まれる僅かな間まで見ている顔だった。 玲の歩みが、無意識に遅くなった。 「神崎さん?」 隣を歩く加瀬に呼ばれたが、返事をしなかった。 二人の会話が聞こえたからだった。 フランス語。 エマの口から、淀みのないフランス語が流れている。 発音に迷いがない。 単語を探す間もない。 ジャンの問いへ、長く考え込むこともなく返していた。 玲の胸の奥へ、静かな動揺が落ちた。 エマがヨーロッパで暮らしていたことは知らなかった。 彼女について何かを知るたび、その向こうにまた知らない部分が現れる。 海の色を見分けること。 子どもたちへ絵を教えること。 描くことを避けながら、ひとたび手を動かせば、誰も息を挟めないほど速く画面を作ること。 そして。 フランス語を、ジャンと自然に交わせること。 自分の知らないエマを、ジャンが先に見ている。 その事実が、ひどく不快だった。 玲は二人へ近づきながら、会話の断片へ耳を澄ませた。 『私は、あなたが探している方ではありません』 エマの声が聞こえた。 ジャンが誰を重ねているのかは、考えるまでもない。 エレナ。 胸の内側が、鋭くざらついた。 自分も最初にエマを見た時、同じことをした。 死んだ恋人の名前を呼び、考えるより先に手へ触れた。 それでも今は。 ジャンがエマへ同じ視線を向けていることが、耐え難かった。 エレナに似ているという理由で。 エマの顔や言葉を、過去の記憶と照らし合わせる。 それは、自分がすでに犯した過ちと同じだった。 だからこそ。 ジャンには、同じことをさせたくなかった。 「ジャン」 呼びかけると、二人が同時に振り返った。 エマの瞳
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第46話:彼女の絵を見たの?

玲は感情を表へ出さないよう、声を整えた。 「似ている部分はあります」 「部分?」 「顔立ちと、瞳です」 「それだけ?」 「それ以外は、別人でしょう」 言い切る。 「話し方も、振る舞いも違います。エレナは、あれほど人との距離を慎重に測る人ではなかった」 ジャンは、黙って玲を見た。 玲がエマへの興味を深めさせないよう、あえて違いだけを並べている。 その意図に気づいたのかもしれない。 けれど、ジャンは言葉にはしなかった。 僅かに目を細め、何かを考えるようにロビーの奥へ視線を流す。 沈黙の中で。 玲は、むしろ自分が不用意に答えすぎたのではないかと感じた。 エマを守ろうとするほど。 自分が彼女を細かく見ていることが、ジャンへ伝わってしまう。 「僕自身が思っていたより」 ジャンが、ふいに口を開いた。 「エレナへの執着は強かったみたいだ」 玲の指が僅かに動いた。 ジャンは、軽く肩をすくめる。 「八年も経っているのにね」 冗談に近い口調だった。 けれど、目は笑っていない。 「ただ、あれほど面影のある人に会ったのは初めてだったから。少し、確かめたくなっただけだよ」 玲の胸の内側へ、不快なざらつきが広がった。 少し。 それだけ。 ジャンはそう見せようとしている。 本当に一時的な感傷なのか。 それとも、玲がどう反応するかを確かめるために口にしているのか。 判断できなかった。 少なくとも。 今の段階でジャンがエマへ執着しているわけではない。 ただ。 玲がエマを守ろうとしていることに、興味を持ち始めている。 だから、あえてエレナへの執着を口にした。 玲の感情を測るために。 「彼女は、エレナではありません」 玲は静かに伝えた。 「本人もそう答えています」 「分かっているよ」 ジャンはあっさり頷いた。 「似ている人を、本人だと決めつけるつもりはない」 その言葉とは反対に。 エマへ向けた疑いが、完全に消えたようには見えなかった。 「彼女を過去の画家と重ねて、追い詰めるのはやめてください」 玲の声は穏やかだった。 牽制が強くなりすぎないように。 ジャンへ新たな理由を与えないように。 「彼女は、この町で普通に暮らしている人です」 ジャンは返事をしなかった。 ただ、玲をじっと見ている。 玲がエマ
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第47話: 何も聞かずに、そばにいる人

翌朝。 港町は、昨日までの慌ただしさが嘘のように静かだった。 漁船がゆっくり沖へ向かい、海鳥が低く旋回している。 店の窓を開けると、潮の香りが店内へ流れ込んだ。 「おはようございます。」 「おはよう、エマ。」 奏はいつも通りカウンターで豆を挽いていた。 昨日のことには触れない。 誰と会ったのかも。 展示会場で何があったのかも。 何も聞かない。 それが、この三年間ずっと変わらない奏だった。 開店準備を終えた頃、フェスティバル事務局の担当者が店へやって来た。 「朝倉さん、おはようございます。」 「おはようございます。」 担当者は嬉しそうに資料を広げる。 「昨日でかなり話が進みました。神崎財団だけじゃなく、モロー財団も正式に前向きです。この町では過去最大規模になるかもしれません。」 エマは静かに微笑んだ。 「そうなんですね。」 「朝倉さんの企画も注目されそうですよ。」 その瞬間だけ、笑顔が固くなる。 お願いだから。 話を大きくしないでほしい。 「私の企画というほどではありません。」 穏やかに首を振る。 「子どもたちのお手伝いをするだけですので。私は、本当にサポートです。」 「でも昨日の試し描きは——」 「偶然です。」 柔らかく笑う。 「皆さんが期待されるようなものではありません。」 担当者はなおも話そうとした。 その時だった。 「失礼します。」 奏が自然に会話へ加わる。 「エマは今回、町の皆さんを支える立場です。」 穏やかな声だった。 けれど、一歩だけ前へ出た姿勢には静かな意思がある。 「本人が前へ出る形は、最初のお約束とも違いますので。」 担当者は「あ」と小さく声を漏らした。 「もちろん、そのつもりでは……。」 「分かっています。」 奏は笑う。 「だからこそ、今のうちに線だけ引かせてください。」 少しだけ空気が和らぐ。 「今後、エマ個人についてのお話は、一度私へ通していただけますか。」 「もちろんです。」 担当者は頷き、店をあとにした。 店内が静かになる。 エマは少しだけ息を吐いた。 「……助かりました。」 「そう?」 奏はカップを棚へ戻しながら笑う。 「説明が長くなりそうだったから。」 エマは苦笑する。 「私、自分で何とかできましたよ。」 「知ってる。」
last updateLast Updated : 2026-08-12
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第48話: 亡くなった人の面影

テラス席へ近づいてきたジャンは、エマの前で足を止めた。 「座ってもいいかな。」 流れるようなフランス語。 返事を待つ口調だった。 けれど、不思議と断られることを想定していない。 そういう人だった。 昔から。 誰かとの距離を縮めることに、ためらいがない。 自分が受け入れられることを、ごく自然なこととして受け止めている人。 エマは一瞬だけ息を止めた。 「……どうぞ。」 ジャンは穏やかに微笑み、向かいへ腰を下ろした。 海風が二人の間を抜けていく。 「何か御用ですか。」 日本語で尋ねる。 ジャンは変わらずフランス語で返した。 「今日、この町を発つんだ。」 ゆっくり海へ視線を向ける。 「その前に、もう一度君へ会いたくてね。」 エマは小さく眉を寄せた。 「私は、そのようにわざわざ時間を作っていただく価値のある人ではないと思いますが。」 自然とフランス語で返してしまう。 ジャンは口元だけで笑った。 「それを決めるのは、君じゃない。」 玲にも。 同じようなことを言われた。 『それを決めるのは、僕です。』 二人とも違う人なのに。 興味を持った相手には、同じような言葉を口にする。 少しだけ胸がざらつく。 ジャンは静かに海を眺めていた。 「昨日は、失礼なことを聞いた。」 エマは視線を上げる。 「君はエレナか、と。」 「……。」 「すまなかった。」 その言葉に、エマはわずかに目を見開いた。 ジャン・モローが謝る。 珍しい。 昔からそうだった。 間違ったと思えば謝る人ではある。 けれど、自分の感覚へ絶対的な自信を持つ人でもあった。 だからこそ、自分から頭を下げる姿を見た記憶は、ほとんどない。 「亡くなった、大切な人がいた。」 ジャンは静かに続けた。 「君と話していると、その人と過ごした時間を、どうしても思い出してしまう。」 エマは海へ視線を戻した。 風が髪を揺らす。 「……そうですか。」 それ以上、返す言葉はなかった。 ジャンも無理に話を続けない。 少しの沈黙を楽しむように、波音へ耳を澄ませている。 やがてエマが口を開いた。 「ご注文はございますか。」 ジャンは笑う。 「君のおすすめにするよ。」 時計へ目を落とした。 「飛行機までは、あと三十分くらいある。」 相変わらずだ。
last updateLast Updated : 2026-08-12
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第49話: ……彼という人は

***午前中、玲はまだ港町に残っていた。 神崎財団として正式に協賛を決めた以上、現地での最終調整には自分も出席しておく必要がある。 会場となる倉庫群の使用計画。 海外作品の搬入経路。 保険と警備。 展示期間中の人員配置。 それだけなら、予定どおり昼前には終わるはずだった。 けれど、会議室へ入った玲を待っていたのは、当初聞いていたよりもはるかに多くの関係者だった。 海外財団の責任者。 欧州の著名なキュレーター。 修復機関の担当者。 国際展示の運営に詳しいアドバイザー。 小さな港町のフェスティバルへ集まるには、不自然なほど充実した顔ぶれだった。 「こちらの皆様からも、今朝になって正式に協力のご連絡をいただきまして」 主催者が嬉しそうに説明する。 玲は配布された資料へ視線を落とした。 団体の規模だけが大きいわけではない。 それぞれが役割を明確に持ち、展示の質を一段引き上げられる人間ばかりだった。 急ごしらえの名前貸しではない。 この町のフェスティバルへ、実務として関与するつもりで集められている。 玲の胸へ、小さなざらつきが落ちた。 誰が動かしたのかは、考えるまでもなかった。 資料の端に、モロー財団の名前がある。 ジャンは昨日の段階では、まだ出資を決めに来たと言っていた。 それが一晩で、これだけの人間を動かしている。 決断が速いことは知っていた。 ヨーロッパの美術界で、ジャン・モローの依頼を簡単に断れる人間が少ないことも。 それでも玲は、今のところは何も言わなかった。 会議そのものには意味がある。 紹介された人々も、今後のアート事業を考えれば関係を悪くできない相手ばかりだった。 一人ずつ挨拶を交わし。 質問へ答え。 追加支援の条件を確認する。 予定は、隙間なく埋められていった。 「神崎さん、次はこちらの方と、海外作品の保険について」 加瀬が資料を差し出す。 玲は腕時計を見た。 午前十一時を過ぎている。 午後には東京へ戻り、欧州チームとの会議へ接続しなければならない。 港町で自由に使える時間は、もうほとんど残っていなかった。 それでも、仕事として不自然な予定ではない。 むしろ、協賛を決めた玲が出席しない方が不自然だった。 玲は表情を変えず、次の席へ移った。 *** 最後の打ち合わせが終
last updateLast Updated : 2026-08-13
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第50話: 一歩手遅れ

『それと、モロー財団からの出資も、ほぼ決まったよ』 玲の視線が止まる。 『彼女が参加する子どもたちの企画について、もう少し詳しく教えてくれない?』 その瞬間。 午前中の会議が、すべて一つに繋がった。 海外財団。 著名なキュレーター。 断ることのできない関係者たち。 なぜ、今日の午前中へ集中していたのか。 誰が、これほど早く手を回したのか。 玲は、ゆっくり目を閉じた。 「……そういうことですか」 苦笑が漏れる。 ジャンは初めから。 自分が午前中、身動きを取れないように組んでいた。 仕事としては完璧だった。 神崎財団にとっても利益がある。 今後の美術事業を考えれば、会っておくべき人間ばかり。 玲が断る理由はない。 だからこそ、疑わなかった。 その間にジャンは、帰国前の時間を使い、エマへ一人で会いに行った。 昔から、そういうことがあった。 エレナと三人で展覧会へ出向いた時。 ジャンは玲へ、画商や投資家の相手を頼んだ。 『君が話した方が、彼らも安心するから』 もっともらしい理由だった。 確かに、玲が相手をする方が早く話がまとまる。 だから玲は引き受けた。 その間に、ジャンはエレナと二人で展示を回る。 新しい作家の話をし。 作品を見ながら、長い時間を過ごす。 玲は、その意図に気づいていた。 ジャンが、エレナと二人になる時間を意識的に作っていたことも。 けれど、エレナは気づいていなかった。 玲が戻れば、いつも当たり前のように隣へ来た。 『話、終わった?』 そう尋ねながら、玲の腕へ触れる。 帰りの車では、自分から玲の肩へ頭を預けた。 最後には必ず。 エレナは玲のもとへ戻ってきた。 だから、構わないと思っていた。 ジャンがどれだけ時間を作っても。 エレナが気づかないのなら。 そして、自分の隣へ戻るのなら。 余裕を失う理由はなかった。 けれど。 今回は違う。 朝倉エマは、玲の恋人ではない。 自分のもとへ戻ってくる人ではない。 連絡先すら知らない。 店で会わなければ、次にいつ話せるのかも分からない。 ジャンが会いに行ったところで。 エマの企画へ興味を持ったところで。 本来なら、玲が何かを感じる理由などなかった。 それなのに。 『彼女が参加する子どもたちの企画について、もう少し
last updateLast Updated : 2026-08-13
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