جميع فصول : الفصل -الفصل 30

57 فصول

第20話 先に振り返った澄花

 東棟の階段から響いた重い音は、十三度目で止まった。 どん、と最後の一音が校舎の底へ沈み、そのあとには非常ベルだけが残った。 赤い警告灯が明滅するたび、割れた鏡の破片が床の上で光る。つい先ほどまで、その一枚には透の姿が映っていた。 階段へ行くな。 死んだ透の唇は、確かにそう動いていた。「行かない」 澪が言った。 自分でも驚くほど強い声だった。 悠斗が東棟へ続く扉を見た。「でも、今の音を確認しないと――」「透が行くなって言った」「鏡に映ったものを信用するのか?」「今は、何も確認できてないまま近づく方が危ない」 美月も澪の隣へ立った。「賛成。さっきのは人が階段から落ちた音にも聞こえた。でも、本当に人なら声くらい出てもおかしくない。先にここで分かることを調べる」 奈々香は返事もしなかった。左耳に当てたガーゼを押さえ、割れた鏡を見ないよう俯いている。 朔だけは非常ベルの周期を数えていた。 やがて胸元へ固定した小型カメラを外す。「舞踊室の映像を見る」 悠斗が苛立ったように振り返った。「今?」「今だからだ。俺たちが見たものと、記録されたものが一致してるか確認する」 その言葉に、澪の胸元で手帳が重くなった。 中には、澄花の字で書かれた楽譜が挟まれている。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 その一文を、澪はまだ誰にも見せていない。 朔は床へ膝をつき、カメラの液晶を開いた。 五人が横一列に並ぶところから映像を戻す。 一往復目。 五人。 二往復目。 五人。 澪たちの記憶では、鏡の中の悠斗だけが半歩遅れた。 だが保存映像では、悠斗もほかの四人と同じ速さで動いている。「違う」 澪が画面へ顔を近づけた。「ここ。悠斗が遅れたはず」「遅れてないな」 美月も確認する。 三往復目。 現実では、鏡の中の奈々香が一人だけ立ち止まった。 映像の中では、五人全員が同じ歩調で端まで進んでいる。「私、止まってたよね」 奈々香が掠れた声を出した。「鏡の中の私だけ。みんな見たよね」「見た」 澪が答える。 美月も頷いた。 四往復目。 澪の呼吸が浅くなる。 このとき、鏡の中には六人いた。 五人の後ろを、制服姿の少女が歩いていた。 右手首には赤い組紐。 けれど、小型カメラの映像には五人しか
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第21話 十三段目

 少女が「十三」と数えた直後、東棟の照明がすべて消えた。 暗闇は一瞬だった。 それでも澪には、その短いあいだに誰かが階段を一段上ったように聞こえた。 こつ。 硬い上履きの底が、木の踏み板へ触れる音。 続いて蛍光灯が白く明滅した。 十二段しかないはずの階段の最上部に、もう一段増えていた。「……何、あれ」 奈々香が美月の袖を握る。 誰も答えなかった。 澪は階段を見上げた。 一階から踊り場まで、十二段。 八年前にも上った。今夜も何度も通った。幅の狭い古い階段で、七段目だけ踏むと軋む。十一段目には大きな欠けがあり、十二段目を越えれば踊り場へ出る。 その十二段目の上に、見覚えのない黒い踏み板があった。 十三段目。 しかも、その先に廊下が続いている。 三階へ上がる階段ではない。 踊り場の壁がなくなり、さらに上の階へ向かう長い廊下が伸びていた。 薄暗い窓。 左右へ並ぶ教室の扉。 天井から垂れる蛍光灯。 突き当たりの壁だけが、霧の中へ溶けるように見えない。「四階……?」 美月が呟く。「ない」 悠斗が即座に否定した。 声がひどく乾いている。「この校舎は三階建てだ」「図面にも?」 澪が訊く。「ない。屋上の設備室ならあるが、人が歩ける階じゃない」 朔は階段へ近づかず、小型カメラを構えた。「全員、その場から動くな」 液晶に十三段目と四階らしき廊下が映っている。 今度は、カメラにも存在していた。 朔は角度を変えた。 正面から。 壁際から。 床近くから。 どの角度でも、十三段目はある。 突然、照明が消えた。「動かないで!」 美月の声。 数秒後、明かりが戻る。 十三段目は消えていた。 その先の四階もない。 十二段目の先には、いつもの踊り場の壁がある。 奈々香が息を呑む。「今、なかった」「ああ」 朔はカメラを確認する。「映像からも消えてる」 また照明が瞬いた。 一度暗くなる。 白い光が戻る。 十三段目。 四階。 存在する。 照明の明滅に合わせ、建物そのものが形を変えているようだった。 澪のスマートフォンが震えた。 続いて四人の端末も同時に鳴る。 七つの学校章。 赤く塗られているのは三つ。 七人目の出席。 校歌。 姿見。 その下へ新しい文章が表示された。 十三段目に
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第22話 階段の下の少女

「……上げて」 掠れた声は、階段下の暗闇から聞こえた。 男とも女とも判別できない。喉を潰した人間が、長いあいだ声を出さずにいたあと、無理に息を押し出したような音だった。 五人は動かなかった。 朔が十二段目へ膝をつき、懐中電灯を空洞へ向ける。 白い光が、壁面をゆっくり滑った。 深さは五メートルほど。 底には使われなくなった机や椅子が乱雑に積まれていた。錆びた金属脚が絡み合い、崩れた木製の天板が斜めに立っている。古い配管が壁に沿って下り、底には雨水らしい黒い水が薄く溜まっていた。 人影はない。「誰かいるのか!」 悠斗が叫んだ。 返事はなかった。 先ほどまで聞こえていた爪の音さえ消えている。「空耳……?」 奈々香が美月の腕を掴んだ。「五人とも聞いた」 美月は空洞から目を離さない。「少なくとも、私には聞こえた」 澪も頷きかけた。 そのとき。 朽ちた椅子の隙間で、白いものが動いた。 細い指。 血の気のない小さな手が、折れた机の陰から一瞬だけ伸びたように見えた。「待って」 澪が一歩前へ出る。「今、手が」「何?」「下に誰かいる」 朔が光を戻す。 椅子の隙間。 何もない。「澪、離れて」 美月が肩へ触れた。「人がいるなら救助が必要。でも、まず安全を確認する。五メートルはある。下の床が抜けている可能性も――」「私が下りる」「駄目」「誰かがいるかもしれない」「だからこそ一人では下りない」 美月は強く言った。「さっき悠斗が落ちかけたばかりでしょう」 澪は空洞を見下ろした。 声。 白い手。 そして、耳の奥に蘇る八年前の澄花。『澪ちゃん。開けて』 助けを求める声を聞いた。 それなのに逃げた。 今度も同じことをしたら。「途中まででいい」 澪は朔を見る。「ロープをつけて。何かあったらすぐ引き上げて」「俺が行く」「朔じゃ駄目」「理由は」「私が見たから」 澪の声が僅かに震えた。「白い手を見たのは私。もしまた、私にしか見えてないものなら……私が確かめる」 朔は数秒黙った。 反対したのは美月だった。「危険すぎる」「でも、人がいるなら」「救助する側まで落ちたら意味がない」「分かってる」 澪は自分の腰へ手を当てた。「だからロープを使う」 朔は空洞と澪を交互に見た。 やがて、悠斗
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第23話 四番目の個室

 三階女子トイレには、三つしか個室がなかった。 八年前も同じだった。 澪は入口に立ったまま、右から順番に扉を数えた。 一つ。 二つ。 三つ。 薄い水色の扉はどれも塗装が剥げ、下端には湿気で膨らんだ木が黒く浮いている。床の白いタイルはところどころ割れ、洗面台の蛇口には赤錆が厚くこびりついていた。 五つ目の印が示した場所。 三階女子トイレ、四番目の個室。 だが、どれほど見ても四つ目はない。「間違ってるんじゃないの」 奈々香が入口から動かずに言った。 声には期待が混じっていた。「四番目なんてない。これなら、行き先そのものが嘘だったってことでしょ」 誰もすぐには答えなかった。 奥の小窓から雨の青白い光が差し込んでいる。天井灯は死んでおり、五人の懐中電灯だけが便器の白や配管の錆を拾っていた。 美月が三つの個室を一つずつ開く。 一番目。 空。 二番目。 便座が外され、床へ転がっている。 三番目。 天井から蜘蛛の巣が垂れているだけ。「壁の奥に設備室がある可能性は?」 美月が尋ねる。 悠斗が通路図を広げた。「女子トイレの裏は配管スペース。さっきの管理通路とつながってる。ただ、ここから直接入れる入口は載ってない」「載っていない入口ばかりだな」 朔が壁を照らす。 そのとき、澪は入口脇の鏡を見た。 長い洗面台の上に設置された横長の鏡。 表面は黒い斑点に侵され、中央には縦へ亀裂が走っている。 鏡の中に、四つの扉が映っていた。 澪は呼吸を止めた。「……ある」「何が?」 美月が振り返る。「鏡」 澪は指を向ける。「四つある」 全員が鏡を見た。 現実の背後には三つ。 鏡の中には四つ。 三番目の右隣。 本来なら灰色の壁しかない場所に、もう一枚、薄い水色の扉が立っている。 表面には黒い数字で〈4〉。 奈々香の顔色が変わった。「いや」 短い声だった。 壁へ背をつける。「奈々香?」「そこ……」 鏡の四番目の扉を見たまま、奈々香の唇が震える。「八年前も、あった」 悠斗が彼女を見る。「四つ目が?」「見えたわけじゃない。でも、澄花が言ってた」 奈々香は左耳に残ったガーゼへ触れた。「四つ目があるって。私、馬鹿にした。三つしかないじゃんって」 記憶が戻ったのか、声が次第に細くなる。「それから……
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第24話 水の中に立つ女

 黒い水は、奈々香の膝を越えていた。「早く! もう腰まで来る!」 四番目の個室の内側から、奈々香が扉を叩く。 狭い木板が衝撃を受け、鈍い音を繰り返した。 ばたん。 ばたん。 その合間にも、水の流れる音が大きくなる。 ごぼ、ごぼ、と水洗タンクの奥で空気が泡立ち、黒い液体が床へ溢れている。 澪は扉へ両手をついた。「奈々香、もう少しだけ待って!」「無理! 冷たい! 足が動かない!」 奈々香の声は泣き崩れていた。 先ほどまでは足首ほどだったはずの水位が、数十秒で腰近くまで上がっている。 澪は床を見た。 個室の外は乾いている。 扉の下には数センチの隙間があるのに、黒い水は一滴も漏れてこない。「おかしい」 美月も同じ場所を見ていた。「これだけ溜まれば、下から流れ出るはず」 古い女子トイレには排水口がある。 しかも、増設された四番目の個室の床にも、小さな排水穴が見えていた。 完全に塞がれていたとしても、腰まで水を溜めるには相当な量が必要になる。 この狭い空間に、その水がどこから供給されているのか。「朔!」 悠斗が叫ぶ。「錠はまだか!」「外から外す」 朔は電磁錠を諦め、個室の側壁へ懐中電灯を当てていた。 増設された木板の継ぎ目。 外側から古く見せるため、表面には汚し塗装が施されている。 しかし、板そのものは新しい。 朔は工具の先端を継ぎ目へ差し込んだ。「悠斗、ここを押さえろ」 二人で板をこじる。 最初はびくともしない。 悠斗が肩を押しつけ、朔が工具をさらに深く差し込む。 みし。 木材が裂ける。 内側で奈々香が悲鳴を上げた。「何か、いる!」 澪の背中が凍る。「何が?」「鏡に……後ろに……澄花が!」「鏡を見ないで!」 美月が叫ぶ。「正面の扉だけ見て! 私たちの声を聞いて!」「無理! 耳元で喋ってる!」「何て?」 奈々香の返事は、水を蹴る音に掻き消された。 ばしゃん。 ばしゃん。「腰まで来た! お願い、開けて!」 八年前。 理科準備室の扉を叩く声が、澪の耳の奥で重なった。『澪ちゃん、開けて!』 掌の古傷が疼く。 あのときは逃げた。 煙。 火災警報。 男の声。『もう助からない』 そして、自分は扉を離れた。「今度は絶対に置いていかない」 澪は呟いた。「何?」 美
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第25話 死者による欠席放送

『殺されたからです』 死んだ相馬透の声が、三階女子トイレの天井から降ってきた。 奈々香が息を呑む。 美月は反射的に廊下の方角を見た。悠斗は何かを言おうとして口を開いたが、言葉にならない。 澪だけは、その場から動けなかった。 声があまりにも透だった。 低く、少し掠れている。語尾を必要以上に伸ばさず、問いへ短く答える話し方。八年前から変わらない。 けれど透は死んでいる。 二年七組へ安置したまま。 澪自身、その身体を担架に乗せた。『俺は聞いてしまった』 校内放送が続く。 五人の呼吸が止まった。『八年前に消された音を』 ざらり、と雑音が混じる。 古いスピーカーの膜が震えている。『犯人は、ずっと一緒にいた』「止めろよ」 悠斗が天井を睨んだ。「誰だ。何がしたい!」 返事はない。 代わりに、七刻女学校の始業ベルが一音だけ鳴った。 かあん。 余韻が消える。「放送室」 朔が言った。「発信元を確認する」「透のところへ戻るの?」 奈々香の声が震えた。「嫌ならここで待つか?」「一人では絶対に残らない」「なら五人で行く」 朔は骨伝導装置を入れた証拠袋を機材鞄へしまった。 動きには淀みがない。 澪はその横顔を見た。 頼りたい。 だが、奈々香の髪から落ちた装置を触る朔の指を見てから、胸の奥にある小さな疑いが消えなかった。 音響。 映像。 遠隔操作。 録音。 偽の映像。 朔の知識が役に立つたび、その知識でこれらを作ることもできるのだと気づいてしまう。 五人は管理通路を戻った。 細いコンクリートの壁に貼られた自分たちの写真が、懐中電灯の光を受けて一枚ずつ浮かぶ。 美月の病院。 奈々香の配信場所。 悠斗の会社。 澪の取材先。 そして、室内から撮影された朔。 奈々香は朔の写真の前を通るとき、顔を上げなかった。 朔も何も言わない。 校内放送では、透の声が途切れ途切れに続いていた。『ずっと……』 雑音。『近くに……』 また雑音。『見ていた』「細切れに聞かせるな」 悠斗が吐き捨てる。「意味を持たせたいだけだ」「そうかもしれない」 朔が答えた。「そうじゃなければ?」 美月の問いに、朔は歩みを止めなかった。「確認するしかない」 二年七組の前へ着く。 まず、朔が設置した小型カメラを
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第26話 七不思議の操作室

 管理通路は、人間が歩くために作られたというより、建物の臓腑へ無理に押し込まれた裂け目のようだった。 肩幅ほどしかないコンクリートの壁。頭上には錆びた水道管と、後から増設された新しい電線が何本も絡み合っている。古い鉄から落ちる赤錆と、樹脂被膜のまだ新しい匂いが混ざり、湿った空気が喉へまとわりついた。 五人は一列になって進んだ。 先頭は朔。その後ろに澪、美月、奈々香、最後を悠斗が歩く。 誰も背後を空けたくなかった。 だからといって、この狭さでは振り返ることも難しい。 壁に固定された赤い表示灯が、一つ先へ進むたび順番に点灯していく。 かち。 かち。 まるで五人の位置を誰かが確認しながら、道を開いているようだった。「止まって」 朔が片手を上げた。 澪は背中へぶつかりかけ、足を止める。 右側の壁に、細い横穴が開いていた。 高さは目の位置ほど。横幅十センチほどしかない。換気口にしては不自然で、縁だけ埃が薄い。 朔が懐中電灯を消し、穴へ目を近づけた。「何が見える?」 澪が囁く。「放送室」 朔が横へずれた。 澪も覗く。 壁の向こうに、透が死んだ放送室が見えた。 壊された扉。 床の血痕。 切断された黒い磁気テープ。 オープンリール式録音機。 見える角度は、透が倒れていた位置を真正面から捉えている。 もし誰かがここに立っていたなら。 透が首へ絡んだテープを外そうともがく姿を、最後まで見ていられた。 澪は目を離した。 首筋が冷える。「これ、覗き穴……?」 奈々香の声が細い。「そう見える」 美月が答えた。 数メートル進むと、また穴があった。 今度は音楽室。 グランドピアノを横から見下ろす位置。 ソレノイドの仕掛けを調べていた五人の姿も、ここからなら死角なく見えていたはずだ。 次は女子トイレ。 四番目の個室を隠す壁の裏側。 さらに舞踊室。 一方通行の鏡の向こう。 奈々香が足を止めた。「ずっと……見てたってこと?」 誰も返事をしなかった。 鏡の中で自分だけが遅れたとき。 耳から血が流れたとき。 四番目の個室へ閉じ込められたとき。 誰かが壁の向こうから、その恐怖を見ていた。 それも、怪異が起きた結果を偶然確認したのではない。 最初から見るために穴を開けている。 澪は背後の奈々香が呼吸を乱す
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第27話 七不思議を作った人間

 第二犠牲者の名は、黒く塗り潰されたままだった。 監視室の机に置かれた進行表。その紙面を覆う黒いインクは、何度光を当てても下の文字を透かさない。 澪は指先で紙の端を押さえたまま、息を詰めていた。 すぐ背後で聞こえた椅子を引く音は、もう消えている。 振り返っても、監視室には五人しかいなかった。 朔。 美月。 悠斗。 奈々香。 そして澪。 十数台のモニターから漏れる青白い光が、全員の顔を不健康な色へ染めている。機械の冷却ファンが低く唸り、壁内を走る新しい配線の表示灯が一定の間隔で瞬いていた。 右端の画面。 図面には存在しない教室。 制服姿の少女は、先ほど引いた椅子の横へ立っている。 顔は見えない。 背を向けたまま、次に座る誰かを待っているようだった。「台本、全部見せて」 美月が言った。 朔が進行表を机の中央へ移す。「触るなら手袋を」「分かってる」 美月は薄い手袋をつけ、透の死亡が記された頁を慎重にめくった。 次の頁には、七不思議ごとの準備項目が並んでいる。 必要機材。 想定反応。 対象者。 誘導文。 その書き方に、悠斗の目が止まった。「待て」 身を乗り出す。「ここ」 指したのは、十三段目について書かれた箇所だった。 〈異常を否定する者を先行させ、残りの反応を撮影する〉 短い一文。 悠斗の顔から血の気が引いた。「これ……俺が書いた」「今夜?」 奈々香が訊く。「違う」 悠斗は首を振った。「八年前だ」 監視室が静かになった。「心霊研究会で、探索計画書を作った。どの場所をどう回るか、誰が先に入るか。動画として面白くなる順番も決めた。そのとき使った言い方だ」「同じ文章?」 美月が問う。「ほぼ同じ」 悠斗は進行表をめくった。 音楽室。 〈音の発生源を確認する者を先に室内へ入れる〉 舞踊室。 〈最後尾の人物だけ遅れているように見せる〉 放送室。 〈実際の声と録音を混ぜ、どこから聞こえているか判断できなくする〉 悠斗の指が止まる。「これも」「全部、昔の計画書に?」「そのままじゃない。でも言葉の癖が同じだ」 朔が一冊の黒いファイルを開いた。「八年前の計画書は残ってるのか」「警察に提出したはずだ」「複製は?」「部室のパソコンにあった」「誰でも見られた?」「部員なら
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第28話 理科準備室の白い手

 管理通路は、理科準備室の裏側へ近づくほど狭くなった。 古い給水管と新しい電線が頭上で絡み、ところどころ壁から剥き出しの鉄骨が突き出している。五人は身体を横へ傾けながら、一列になって進んだ。 先頭の朔が足を止める。「この先だ」 懐中電灯の光が、コンクリート壁の小さな表示札を照らした。 理科準備室。 文字を見ただけで、澪の呼吸が浅くなった。 胸の奥へ冷たい指を差し込まれたように、息が途中で止まる。 八年前。 濡れた木の扉。 爪で何度も表面を引っかく音。『澪ちゃん、開けて』 澄花の声。 取っ手へ両手を掛けた自分。 そして、背後から腕を掴んだ誰か。 耳元へ落ちた低い男の声。『もう助からない』「澪」 朔の声で、記憶が切れた。 目の前に彼の肩がある。「止まるか」「止まらない」 答えるまでに一度、唾を飲み込んだ。「行く」 朔は何も言わず、歩幅を少しだけ落とした。 管理通路の終わりに、点検口があった。 内側から押すと、薄い金属板が動く。その向こうは理科準備室へ続く小さな物置だった。五人は順番に這い出し、埃の積もった床へ降りる。 澪が最初に見たのは、扉だった。 廊下側へ通じる木製の扉。 表面の下半分が黒く焦げている。 焼けた木は波打ち、取っ手の周囲には熱で膨らんだ塗膜が固まっていた。 八年前の火災警報。 白い煙。 鼻の奥へ、存在しない焦げ臭さが戻ってくる。「焼け跡は古い」 悠斗が低く言った。「事件のときのままだ」 美月が扉へ近づく。「でも、鍵は違う」 錠前だけが新しかった。 銀色の金属はほとんど錆びておらず、焦げた木製扉へ無理に埋め込まれている。螺子にも新しい傷が残り、数年以内に交換されたことは明らかだった。「こっちからは開かない」 朔が取っ手を回す。 内側のつまみすら動かなかった。「管理通路から入れるのに、わざわざ廊下側を新しい鍵で閉じてる」 美月が眉を寄せた。「誰かを閉じ込めるため?」「あるいは、外から入らせないため」 朔は工具を出した。 細い金属片を錠前の隙間へ差し込み、内部の位置を探る。二度、三度と角度を変える。 かちり。 小さな音。 錠が外れた。 扉は数センチだけ開き、廊下の暗闇が見えた。 その隙間から、爪で木を掻く音が聞こえた。 きい。 澪の身体が固まる。
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第29話 八年前の翌日

 紫外線の光に浮かんだ文字を、五人はしばらく見つめていた。 私はここから出た。 でも、誰かがもう一度連れ戻した。 壁材へ染み込んだ文字は、表面だけに書かれたものではなかった。美月が手袋をつけ、剥がれかけた塗装の端を慎重に確認する。紫外線を角度を変えて当てると、文字の輪郭は壁の内側まで残っていた。「最近書いたものじゃない」 美月が低く言った。 澪は振り返る。「分かるの?」「塗装の上に書かれてるんじゃない。古い層まで染みてる。少なくとも、今夜誰かが書いたとは考えにくい」 悠斗が焦げた壁へ近づく。「八年前?」「断定はできない。でも、その可能性は高い」 奈々香が両腕を抱いた。「じゃあ、本当に澄花が書いたの?」 誰も答えられなかった。 だが筆跡は澄花のものだった。 音楽室の楽譜。 心霊研究会の古いノート。 高校時代、澄花が何度も書いた丸みのある文字と一致している。 澪は一行目を見た。 私はここから出た。 胸の奥で、八年間動かなかった何かが崩れた。「じゃあ……」 声が掠れる。「私が澄花を置いて逃げたあとも、生きてた」 美月が澪を見る。「そうなる」「準備室から出た」「少なくとも、これが本人の記録なら」 澪は焦げた扉を見た。 八年前の自分。 開かない扉。 助けを求める澄花。 背後から腕を掴んだ誰か。 そして、自分は逃げた。 その記憶を、ずっと澄花の最後だと思っていた。「私が見捨てたから死んだんじゃない」 言葉にした瞬間、胸が軽くなることはなかった。 むしろ別の重さが加わった。「でも、誰かがもう一度連れ戻した」 壁の二行目。 美月の目がそこへ落ちる。「一度出た澄花を、誰かが捕まえた」「事件の翌日まで生きてたなら」 悠斗が検査記録を見る。「その誰かは、警察が捜索してる最中にも校内を動けたってことになる」「管理通路を使えば」 奈々香が言う。「見つからずに動ける」 朔は無言で壁の文字と通路図を撮影していた。 澪はその横顔を見て、胸元の手帳へ指を当てた。 まだ隠している。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 その一文が、いままでよりはっきりと意味を持ち始めていた。「翌日」 美月が突然呟いた。 澪が見る。 美月は小瓶を握ったまま、視線を床へ落としている。
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