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第39話 澄花はここで眠った

 古いテレビの画面に浮かんだ〈08:13〉は、誰も触れていないのにゆっくり薄れ、最後には砂嵐へ溶けた。 隠し部屋には再び機械の低い唸りと、壁の向こうを通る生活排水の音だけが残る。 澪は制服姿の澄花が写った写真を持ったまま、壁一面に貼られた女たちの写真から目を離せなかった。 十三年前に消えた女、十二年前に逃げた杏奈、そして八年前、七刻女学校から生きて逃げたはずの澄花まで、この部屋にいた誰かは同じ方法で見ていた。「ほかにも残ってるはずだ」 蓮司が低く言った。 妹の写真を見つけてから、声の奥に押し込めていたものが明らかに変わっていた。 冷静さは崩していない。 それでも机の引き出しを開ける指には力が入り、古い木が小さく軋んだ。 朔が床へ散らばった資料へ触れないよう注意しながら、棚の下段を照らす。 ビデオテープの箱のさらに奥に、黄ばんだ大学ノートが何冊も押し込まれていた。 背表紙には年だけが書かれ、一番古いものは十六年前、一番新しいものは数年前で途切れている。 蓮司は八年前の日付が含まれる一冊を選び、手袋をつけて机へ置いた。 中身は宿泊記録に近かった。 ただし、常世荘の正式な契約書でも管理会社の台帳でもない。 日付、人数、簡単な特徴、部屋番号、予定日数だけが手書きで並んでいる。 〈工事業者 一名 二〇一 一泊〉、〈親族 二名 二〇二 二泊〉といった雑な記録が続き、誰が何のために残したのかも分からない。「管理人の私的な記録かもしれない」 悠斗が紙の癖を見る。「昔は空室を短期で貸したり、工事業者を泊めたりする管理人もいた。正式な契約を通さずに」「会社として認められてた?」「今なら問題になる。でも、十年以上前の個人所有物件なら、現場で勝手にやってた可能性はある」 蓮司が頁をめくる。 八年前。 澄花が七刻女学校から姿を消した翌日。 その日付の欄で、指が止まった。 女子高生 一名 怪我あり 二〇三使用 三泊予定 名前はない。 学校名もない。 けれど、六人の呼吸が同時に止まった。「これ……」 奈々香が写真の澄花を見る。「澄花だよね」「断定はできない」 美月はそう言いながらも、記録から目を離さなかった。「でも条件は一致する。高校生。怪我をしてる。事件翌日。そして二〇三号室」 澪の胸が強く締めつけられた。 三泊
last updateآخر تحديث : 2026-08-27
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第40話 生きている失踪者

 隠し部屋のテレビが暗転したあとも、澪の耳には男の声が残っていた。「そこから先は、撮らせなかった」。 振り返ったとき、部屋にいたのは六人だけだった。 壁一面に貼られた盗撮写真、古いビデオテープ、灰皿、まだ生活の気配を残した細いベッド。 そのどこにも、声の主になり得る人影はない。 朔はテレビの電源コードが抜けていることをもう一度確認し、蓮司は床下へ続く逃走経路へ懐中電灯を向けたが、梯子の下にも物音はなかった。 誰かが隠し部屋のスピーカーへ音声を仕込んでいた可能性はある。 七刻女学校でも同じことは何度も起きた。 そう考えれば説明はつくはずなのに、澪は胸の奥へ落ちた冷たさを振り払えなかった。 あの声には録音特有の平板さがなく、自分の耳元で呼吸を伴って発せられたように聞こえた。 確かめようにも、部屋のどこにも新しいスピーカーは見当たらず、誰かが直前まで潜んでいた痕跡もなかった。 蓮司のスマートフォンが震え、全員が反射的にそちらを見た。 画面を確認した蓮司は「警察だ」とだけ告げ、隠し部屋の入口へ移動して通話を取る。 最初は短く相槌を打つだけだったが、数秒後、表情が変わった。 澪は返し雛が置かれた和室を振り返った。 赤い着物の人形は、澪の布団の上へ座ったまま動いていない。「本人は無事なんですね」 蓮司の声が低くなり、続けて怪我の有無を確認した。 しばらく相手の説明を聞いたあと、「分かりました。玄関には何もなかった?」と聞き返す。 奈々香が小さく息を呑み、美月も机へ置いた資料から顔を上げた。 通話を終えるまで、誰も蓮司へ話しかけなかった。「藤崎杏奈の安否が確認された」「生きてる?」「ああ。警察が自宅に入って本人と話してる。怪我もない」 澪の肩から力が抜け、奈々香も壁へ背を預けて大きく息を吐いた。 美月は目を閉じたあと、すぐに返し雛の方へ視線を戻した。 無事だったという安堵だけでは終われないことを、全員が分かっていた。 杏奈は電話が切れる直前、自宅の玄関に返し雛が現れたとはっきり言っていたからだ。「人形は?」「警察が着いたとき、玄関にはなかった。本人はまだ見間違いだと思ってない」 蓮司は警察から聞いた内容を整理するように続けた。 杏奈は澪との通話が切れたあと、玄関に現れた返し雛を見ないようにし、そのまま寝室へ逃げ込んだ
last updateآخر تحديث : 2026-08-28
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第41話 壁に埋められた七人分の荷物

 古いプリンターから吐き出された写真を透明袋へ入れたあとも、六人はすぐには隠し部屋を離れなかった。 現在も誰かが常世荘二〇三号室を監視し、存在しない社員番号で管理会社のシステムへアクセスしている。 しかも、六人がどこに立っているかまで把握している。 その事実は、壁の中にもう誰もいないと確認した直後だけに、目に見えない視線をさらに濃くした。 蓮司は床下へ続く蓋の脇へしゃがみ、梯子の周囲へ懐中電灯を向けた。 犯人が一階の空室へ逃げるために使ったと思われる縦穴とは別に、ベッドの下へ不自然な継ぎ目がある。 カーペットを剥がすと、床板の一部だけ釘の位置が新しく、四角く切り直されていた。 朔が撮影しながら釘を一本ずつ抜き、悠斗と蓮司が板を持ち上げると、下から乾いた紙と防虫剤の混じった臭いが上がってきた。「収納だ」 蓮司が光を落とす。 深さは膝ほどしかなく、逃走路ではない。 代わりに、樹脂製の収納箱が隙間なく並べられていた。 透明ではなく中身は見えず、それぞれの蓋へ白いラベルが貼られている。 最初の箱を引き上げた悠斗の手が止まった。 ラベルには女性の氏名が、黒い油性ペンでフルネームまで書かれていた。 蓮司が持っている入居者資料の中に同じ名がある。 常世荘二〇三号室から十一年前に姿を消し、現在も警察上は行方不明になっている女性だった。「開ける前に全部出す」 朔の言葉に従い、六人は箱の位置を撮影してから一つずつ床へ並べた。 全部で七つあり、どれも大きさと型がほぼ同じで、ラベルの文字だけが違う。 そのうち六つには、常世荘へ住んだ女性たちの名前があった。 蓋の表面には同じ種類の擦れが残り、同じ人物がまとめて用意したようにも見えた。 美月が資料を開き、氏名を読み上げるたび、蓮司が箱のラベルと照合した。 十二年前に逃げた藤崎杏奈の名前もある。 現在別の地域で暮らしている女性の箱まで存在することに、奈々香の顔が強張った。 失踪した者だけではなく、一度でも壁の中の男や人形に触れた女性の生活を、誰かがまとめて保管しているように見えた。「警察を呼んだ方がいい」 美月が言ったが、蓮司はすでに連絡を入れていた。 現場をこれ以上動かさず、箱の中身も必要最低限の確認だけにすると決める。 だが警察の到着まで待てば、管理システムへ今も入っている誰かが証
last updateآخر تحديث : 2026-08-29
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第42話 八年前の澄花のメモ

 〈八分十三秒を消した人が、ここにいる。〉 鉛筆を深く食い込ませた一文の前で、六人は誰も声を出せなかった。 隠し部屋の低い天井では古い蛍光灯がかすかに唸り、壁いっぱいに書かれた澄花の文字へ黄色い光を落としている。 壁紙の下から現れた記録は、一人の高校生が恐怖に耐えながら残した走り書きなどという量ではない。 日付、時刻、聞こえた足音、壁の中を移動した人物、二〇三号室の様子、返し雛について調べたことまで、空いた場所を探して書き続けた痕跡が三畳ほどの部屋を埋め尽くしていた。「最初から読む」 蓮司の声は低かった。 妹が八年前に立っていた同じ床へ膝をつき、壁へ触れない距離まで顔を寄せる。 その横で朔がカメラを構え、美月は日付ごとに記録を整理するため手帳を開いた。 悠斗と奈々香も離れず、澪は壁際に立ったまま、澄花がこの場所でどんな順番で文字を書いたのかを追うように視線を動かした。 もっとも古い日付は、七刻女学校から澄花が生きて出てきた翌日だった。 人形を返しに来た。 でも、置いても戻ってくる。 短い文章の横には、二〇三号室の簡単な間取りが描かれている。 畳の中央に丸印があり、そこから押し入れ、台所、浴室へ矢印が延びていた。 丸印の脇には〈朝 押し入れ〉、〈昼 玄関〉、〈夕方 布団〉と書かれている。「返し雛を置く場所を変えたのか」 悠斗が呟いた。「たぶん」 澪は矢印を追った。「どこに置いても、別の場所に戻った」 自分たちが目の前で経験したことと同じだった。 透明ケースへ封じても、現実では澪の布団へ移り、映像の中だけは元の場所へ残る。 八年前の澄花も、同じ現象に遭遇していたことになる。 蓮司が次の日付へ光を移した。 壁の中に男がいる。 学校にいた人と同じかは分からない。 文字の横に、細い人影が描かれていた。 背が高く、片手に四角いものを持っている。 顔には何も書かれていない。「杏奈さんが言っていた管理人の息子?」 奈々香が訊く。「時期が合わない」 蓮司は首を振った。「杏奈が逃げたのは十二年前。その男はその直後に消えている。澄花がここへ来たのは八年前だ」「別人」 美月の声が硬くなる。 初期の常世荘で女性を盗撮していた男がいなくなったあと、四年間、目立った失踪は途絶えている。 その後、澄花が二〇三号室へ現れた
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第43話 奈々香が消えた部屋

 壁に浮かんだ〈じゃあ、見せてあげる〉という黒い文字を読み終えた瞬間、隠し部屋の照明が落ちた。 テレビの砂嵐も、管理端末の表示も、朔が床へ置いていた機材の小さなランプも同時に消え、三畳ほどの空間は輪郭さえ失う。 澪は隣にいた美月の袖を掴もうとしたが、指先が空を切り、その直後に誰かの肩が壁へぶつかる鈍い音を聞いた。 暗闇は数秒しか続かなかったはずなのに、そのあいだだけ部屋がひどく広くなったように感じられた。「動かないで」 朔の声が闇の中から届き、すぐに非常用の小型灯が点いた。 青白い光が壁いっぱいの澄花の文字を照らし、蓮司、悠斗、美月、朔、澪の顔を順番に浮かび上がらせる。 澪は無意識に人数を数え、二度目で息を止めた。 五人しかいなかった。「奈々香?」 美月が最初に名前を呼んだ。 隠し部屋の入口、床下の蓋、ベッドの陰、壁際の机。 どこにも奈々香の明るい色の服は見えない。 ほんの数秒前まで、彼女は澪の右後ろで壁に現れた新しい文字を見ていたはずだった。「奈々香!」 今度は悠斗が声を張り、二〇三号室側へ飛び出した。 澪たちも続くが、和室にも台所にも浴室にも奈々香はいない。 玄関は内側から施錠され、椅子も倒れていない。 窓の開閉確認用テープも破れておらず、押し入れの奥に設置した監視カメラは赤い表示灯を点けたままだった。 蓮司が玄関の監視記録を開き、照明が消えた前後を巻き戻す。 奈々香が廊下へ出る姿はない。 窓側の映像にも人影はなく、床下の隠し通路へ向かう蓋も閉じたまま映っている。 七刻女学校で透の遺体が消えたときと同じように、存在していた人間だけが記録から抜け落ちたようだった。「外には出てない」 朔の声が低くなる。「じゃあ、どこに行ったの」 美月は和室を見回した。 いつもの冷静さを保とうとしているが、救急鞄の持ち手を握る指は白くなっている。「壁の中?」「入口は見てた」 悠斗が押し入れへ駆け寄り、外された奥板の先へ懐中電灯を向ける。 配管と断熱材、その奥の二重壁。 隠し部屋へ続く開口部には誰もいない。 床下の蓋も、隠し部屋側から出なければ開けにくい構造のままだった。 澪が奈々香の名をもう一度呼ぼうとしたとき、畳の上で電子音が鳴った。 奈々香のスマートフォンが落ちていた。 画面には細い亀裂が走り、昨夜から使っ
last updateآخر تحديث : 2026-08-30
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第44話 人形を返す場所

 床下の横穴から引き上げられた奈々香は、二〇三号室の和室へ戻ってからも何度も時計を確認していた。 照明が落ちてから発見されるまで、澪たちの側では三分ほどしか経っていない。 それなのに奈々香は、八年前の二〇三号室で二時間以上過ごしたと主張し、そこで七体の返し雛と制服姿の澄花を見たという。 夢だったと決めつけるには、彼女のポケットから八年前の日付が印刷された領収書が出てきたことが重すぎた。 美月は奈々香を座らせ、瞳孔、呼吸、脈拍、手足の感覚を改めて確認した。 目立った外傷も意識障害もなく、会話にも不自然な混乱はない。 ただし、床下の横穴へ入ったときから頭痛があり、口の中に薬品めいた苦みを感じていたと奈々香が話したため、蓮司が持っていた簡易の空気測定器で横穴内部を調べることになった。 朔と悠斗が換気をせずに測定すると、通常よりわずかに高い揮発性有機化合物の反応が出た。「これで幻覚が起きたってこと?」 奈々香が訊くと、美月はすぐには頷かなかった。 古い接着剤、断熱材、カビ、床下に残った塗料などから揮発性物質が出ることはあり、狭い場所で吸い込めば頭痛や吐き気、集中力の低下を起こす可能性はある。 濃度や種類によっては時間感覚の乱れや視覚異常につながることも否定できないが、簡易測定だけで奈々香が見たものすべてを説明することはできないと、美月は慎重に言葉を選んだ。「七体の人形も、澄花も、八年前の部屋も、全部私の頭が作ったって言いたい?」「言ってない。そういう可能性の一部があるだけ」「でも領収書は本物でしょ」「少なくとも紙は古い。あなたが自分で持っていた記憶がない以上、誰かが入れた可能性も残る」 奈々香は不満そうに唇を結んだが、それ以上は反論しなかった。 澪は床下から出てきた白い人形の腕を透明袋越しに見つめていた。 肘から先だけの小さな陶製の腕は、二〇三号室にある返し雛の肌とよく似ているが、同じ個体から欠けたものかは分からない。 返し雛の両腕は揃っているため、奈々香が見た七体の人形のどれかに属する可能性さえあった。 蓮司は領収書を机の上へ置き、斜めから光を当てた。 表には八年前の日付と〈二〇三号室 三泊分〉という古い記載があり、裏には澄花の筆跡で〈奈々香へ。もしこれを読んでるなら、私はもうここにはいない。〉と書かれている。 前に確認したと
last updateآخر تحديث : 2026-08-31
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第45話 壁に残った名前

 祭壇の台座には、返し雛が消えたあとも薄い埃の輪だけが残っていた。 数分前まで赤い着物の人形が座っていた場所には、髪一本さえ落ちていない。 スマートフォンには〈一つ、返却しました〉という表示が残っている一方、祭壇の壁には〈これは私の人形じゃない〉という赤黒い文字が乾き始めていた。 二つの事実は明らかに矛盾していたが、どちらかが偽物だと決められる材料はなかった。 朔は、人形が消える直前に撮った接写映像を端末へ呼び出した。 髪、着物、首、足元、台座へ接した底面まで一枚ずつ拡大していく。 七刻女学校で見た八年前の映像と比べれば、古い人形であること自体は疑いにくかった。 着物の褪色も糸の傷みも自然で、最近作られた複製品を無理に古く見せたようには見えない。「でも、ここだけ違う」 朔が画面を拡大した。 人形の底、着物で隠れる位置に細い継ぎ目があり、その周囲だけ樹脂の光沢が残っている。 木部の年代に比べて接着剤が明らかに新しく、一度胴体を開いたあと、再び閉じた痕跡だった。「中を加工した?」 美月が訊くと、朔は可能性が高いと答えた。 返し雛そのものは祭壇から消えているが、透明ケースへ入れる前に撮影した高精細の映像と、最初に台所で見つけた際の写真は残っている。 そこでは底面の一部がほんの僅かに浮き、細い器具を差し込んだ傷まで確認できた。 悠斗が眉を寄せた。「じゃあ、あの人形も誰かが仕掛けに使ってたってことか」「人形が偽物だった可能性もあるし、本物を一度分解して細工した可能性もある」「どっちにしても、中に何か入ってた」 奈々香は祭壇の空いた台座を見たまま、両腕を身体へ寄せた。 人形が消えた直後から、彼女は祭壇へ近づこうとしない。 八年前の二〇三号室で七体の人形を見た記憶が残っている以上、同じ顔を持つものが複数存在する可能性を誰より恐れているようだった。 蓮司は隠し部屋へ戻り、壁際に置かれていた小さな透明袋を持ってきた。 返し雛を透明ケースへ入れる前、朔が人形の底から落ちた異物を回収していたものだった。 その時点では焦げた木片かと思われ、詳しく確認していなかったが、袋の中には黒い樹脂片と一緒に、爪ほどの薄い記録媒体が入っている。「これ、メモリーカード?」 澪が訊く。 朔はすぐには答えず、手袋越しに角度を変えた。 一般的な携帯電話
last updateآخر تحديث : 2026-09-03
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第46話 切れた電話線

 切断された固定電話の受話器は、もう何も喋らなかった。 澪は耳へ押し当てたまま、受話口の奥に残った静電気のようなざらつきを聞いていたが、透の声も、女の囁きも戻ってこない。 数秒前まで確かに「戻り橋」と聞こえ、「俺を見つけても、絶対に触るな」と告げられたはずなのに、今は自分の呼吸だけが黒い樹脂へ跳ね返っている。 常世荘二〇三号室の窓から差す午後の光は明るく、階下では掃除機の音までしているのに、澪の掌だけが昨夜の廃校へ取り残されたように冷えていた。「透は死んだ」 美月の声は、慰めるためのものではなかった。 救命の現場で何度も死亡確認をしてきた人間が、自分自身へ事実を言い聞かせるときの硬さがあった。 彼女は澪の正面へ座り、首へ巻かれた磁気テープの跡、呼吸、頸動脈、瞳孔を一つずつ思い返すようにゆっくり言葉を続けた。「私が確認した。呼吸はなかった。頸動脈も触れなかった。瞳孔の反応もなかった。あの時点で、生きていると判断できる所見は一つもなかった」 澪は受話器を置けなかった。 放送室で倒れていた透の身体を思い出すと、冷え始めていた髪の感触まで掌へ戻ってくる。 美月が間違えたとは思いたくないし、透が死んだという事実を受け入れたいわけでもない。 けれど、仮にあのあと奇跡的に蘇生したとしても、七刻女学校から遺体だけが消え、誰にも発見されないまま一時間以上離れた戻り橋へ移動し、常世荘の切断電話へ連絡してきたという説明にはならなかった。「生存の可能性を完全にゼロにはできない」 美月はそう付け加えたが、声は重かった。 極端な低体温や薬物、特殊な状況で生命兆候が極めて弱くなる例はあるものの、透の状態と一致する保証はない。 しかも遺体が消失した時点で、再確認も検査もできていない。「だから私は、死んだと確認した自分の判断を変えない。でも、今の電話が本当に透なら、何か別の事実がある」 美月はそう言い、澪の手から受話器をそっと離した。 朔は固定電話の本体を机へ移し、底面の螺子を外していた。 常世荘に以前から置かれていた古い家庭用電話で、外装には黄ばみがあり、受話器のコードも何度か交換された跡がある。 壁へ伸びる電話線は途中で切断され、被覆の断面には古い埃が詰まっていた。 少なくとも今日や昨日に切られたものではなく、現在の通信回線へ物理的につながっていない
last updateآخر تحديث : 2026-09-03
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第47話 戻ってはいけない橋

 三回目の着信をやり過ごしたあと、四回目のベルはきっかり四分後に鳴った。 澪は朔たちが見守る中で受話器を取り、何度も「もしもし」と呼びかけたが、返ってきたのは遠くを流れる水音と、タイヤが濡れた路面を踏むようなかすかな摩擦音だけだった。 三十秒ほどで通話は切れ、それ以降、二〇三号室の固定電話が鳴ることはなかった。 指示どおり四回目へ出たことで何が変わったのかは分からないまま、六人は警察へ追加の記録を渡し、戻り橋へ向かう準備を整えた。 午後十時を少し過ぎたころ、常世荘を出た二台の車は山間部へ向かって走り始めた。 先頭を蓮司が運転し、助手席には悠斗、後部座席に美月が乗る。 後ろの車は朔が運転し、澪と奈々香が同乗した。 互いの位置情報は常時共有し、車間が開けばすぐ止まるよう取り決め、警察にも目的地と到着予定時刻を伝えている。 戻り橋の正式名称は〈美影橋〉だった。 県境に近い山間部を通る旧国道に架けられた、全長五十メートルにも満たない古いコンクリート橋で、十数年前に新しいバイパスが開通してから交通量は急速に減った。 現在では沿道の商店もほとんど閉まり、夜間に通るのは地元住民か、道を間違えた車くらいだという。 〈戻り橋〉は地図にも道路台帳にも載らない、土地の人間がいつからか使い始めた呼び名だった。 車窓の外では、街灯が一つ減るたび闇が濃くなった。 二〇三号室を出たときにはまだ住宅やコンビニの灯りが続いていたが、四十分ほど走ると家屋はまばらになり、やがて道路の両側を杉林だけが塞ぐようになった。 奈々香は膝の上で両手を組み、窓へ自分の顔が映るたび視線を逸らしている。 八年前の二〇三号室へ迷い込んだという感覚からまだ完全には戻れておらず、暗いガラスの向こうへ長い髪の女が映ることを恐れているようだった。「戻り橋って、どういう話なの」 奈々香が静かに訊いた。 澪は事前に集めた記事を開こうとしたが、先頭車両にいる蓮司から通話が入り、車載スピーカーへ切り替える。 蓮司は古い地域誌と新聞記事を照合した内容を、運転の邪魔にならない範囲で説明し始めた。 昔、戻り橋のたもとには公衆電話が一台あった。 深夜に橋周辺で事故死した者が、その電話から家族へ最後の電話をかけるという噂があり、受けた側が死を知らずに「帰っておいで」と答えると、その夜のうちに死者が家へ戻
last updateآخر تحديث : 2026-09-04
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第48話 一回目の着信

 受話器のない公衆電話から響いた呼び出し音は、橋の下を流れる川音を押し退けるほど鮮明だった。 六人は電話ボックスの前で動きを止め、誰もガラス扉へ触れないまま音が止むのを待った。 黒い電話機には電源表示もなく、十三年前に受話器を失ったコードだけが垂れている。 それなのにベルは二度、三度と内部で鳴り、七回目で唐突に沈黙した。 蓮司はすぐに電話ボックスの周囲を封鎖するよう六人の立ち位置を決めた。 朔は内部へ入る前にガラス面、足元、屋根、支柱を撮影し、悠斗は古い設備台帳を開いたまま現在位置と撤去記録を照合する。 床には吹き込んだ落ち葉と黒い埃が積もり、長期間人が立ち入っていないように見えたが、電話機の表面だけは不自然なほどきれいだった。 番号盤の縁にも硬貨投入口にも厚い埃がなく、つい最近、濡れた布で拭いたような筋が残っている。「誰かが手入れしてる」 奈々香がガラス越しに言った。 声には恐怖だけでなく、仕掛けの痕跡を見つけたことへのわずかな安堵が混じっていた。 七刻女学校でも常世荘でも、人間が触った痕跡を見つけられた瞬間だけは、怖さに輪郭が生まれたからだ。 朔は手袋をつけ、電話ボックスの扉をゆっくり開いた。 蝶番が錆びた音を立てたが、扉そのものには最近動かした跡があり、下部に積もった土が半円状に削れている。 電話機の背面を確認すると、本来あるはずの電源線も電話線も撤去済みで、地面から伸びる古い配管は途中で切られていた。 通常の設備だけなら、今のベルを鳴らすことはできない。 美月が床の埃を照らすと、古い靴跡の上へ一つだけ比較的新しい踏み跡が重なっていた。 踵とつま先の輪郭は崩れており靴種までは分からないが、電話機の正面へ立ち、少し右へ体重を寄せた位置に残っている。 誰かが最近このボックスへ入り、電話機へ直接触れたことだけは、磨かれた外装と合わせれば偶然では済ませにくかった。「下を見る」 朔は電話ボックスの基礎へしゃがみ、懐中電灯を低く当てた。 コンクリートと雑草の境目に、黒い細線が一本だけ覗いている。 古い配管ではなく、被覆の新しいケーブルだった。 草の根を傷めないよう周囲を掻き分けると、それは電話ボックスの床下から橋の側面へ回り込み、ガードレールの外へ続いていた。 六人は橋上に二人を残し、蓮司と悠斗がケーブルを追った。 朔は
last updateآخر تحديث : 2026-09-05
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