排水管の奥で、女が泣いていた。 細く、長く、息を殺すような声だった。泣き疲れた子どもが、誰にも見つからない場所で喉だけを震わせている。そんな音が、雨の降りしきる窓の外から、古びたワンルームの壁を伝って響いてくる。 雨宮澪はキーボードの上に指を置いたまま、しばらく耳を澄ませていた。 すすり泣きに聞こえるのは、詰まりかけた排水管を雨水が流れる音にすぎない。そう分かっている。二年前にこの部屋へ越してきてから、強い雨の夜には何度も聞いた。壁の薄い賃貸住宅では、配管の軋みも、上階の椅子を引く音も、隣人の咳も、眠れない者には別の何かに聞こえる。 澪は息を吐き、画面へ視線を戻した。 白い文書画面の右下には、午前零時十四分と表示されている。締切を三時間も過ぎていた。 机には、半分ほど残ったコーヒーが冷えている。表面には薄い油膜が張り、蛍光灯の光を鈍く映していた。隣には取材用の小型録音機と、角の欠けた黒いスマートフォン。録音機の赤いランプは消えているのに、ときおり内部で何かが擦れるような音がした。 書きかけの記事の題材は、都内の外れに建つ木造アパート〈常世荘〉だった。 築五十六年。二階建て。六世帯。 過去十五年のあいだに、同じ二〇三号室から三人の住人が失踪している。最初は独身の会社員、次は離婚したばかりの女性、最後は地方から上京した女子学生。いずれも玄関には鍵がかかり、財布も携帯電話も衣類も残されていた。争った跡はない。窓も内側から施錠されていた。 管理会社は偶然だと答え、所轄署は事件性を認めていない。 けれど、近隣の住民は口を揃えて言った。 二〇三号室の壁から、夜ごと女の声がする、と。 澪は何度か文章を読み返した。取材で聞いた話はひどく曖昧で、証拠と呼べるものはなかった。音声データも、壁紙の染みを撮った写真も、恐怖を求める者が好き勝手に意味を与えられる程度のものだ。 それでも記事は、何かを断定する言葉を求めていた。 指先が冷えていた。暖房はつけていない。八月の夜は蒸し暑く、窓ガラスには湿気がまとわりついている。なのに、右手の人差し指だけが、氷水に浸したように感覚を失っていた。 澪はその指で、最後の一文を打った。 ――真相は現在も明らかになっていない。 句点を入力した瞬間、机の上でスマートフォンが震えた。 短く一度。 少し間を置いて、もう一
Zuletzt aktualisiert : 2026-08-03 Mehr lesen