Alle Kapitel von この物語を最後まで読んではいけない ――七つの呪地と八人目の犯人――: Kapitel 1 – Kapitel 10

17 Kapitel

第1話 死亡した番号

 排水管の奥で、女が泣いていた。 細く、長く、息を殺すような声だった。泣き疲れた子どもが、誰にも見つからない場所で喉だけを震わせている。そんな音が、雨の降りしきる窓の外から、古びたワンルームの壁を伝って響いてくる。 雨宮澪はキーボードの上に指を置いたまま、しばらく耳を澄ませていた。 すすり泣きに聞こえるのは、詰まりかけた排水管を雨水が流れる音にすぎない。そう分かっている。二年前にこの部屋へ越してきてから、強い雨の夜には何度も聞いた。壁の薄い賃貸住宅では、配管の軋みも、上階の椅子を引く音も、隣人の咳も、眠れない者には別の何かに聞こえる。 澪は息を吐き、画面へ視線を戻した。 白い文書画面の右下には、午前零時十四分と表示されている。締切を三時間も過ぎていた。 机には、半分ほど残ったコーヒーが冷えている。表面には薄い油膜が張り、蛍光灯の光を鈍く映していた。隣には取材用の小型録音機と、角の欠けた黒いスマートフォン。録音機の赤いランプは消えているのに、ときおり内部で何かが擦れるような音がした。 書きかけの記事の題材は、都内の外れに建つ木造アパート〈常世荘〉だった。 築五十六年。二階建て。六世帯。 過去十五年のあいだに、同じ二〇三号室から三人の住人が失踪している。最初は独身の会社員、次は離婚したばかりの女性、最後は地方から上京した女子学生。いずれも玄関には鍵がかかり、財布も携帯電話も衣類も残されていた。争った跡はない。窓も内側から施錠されていた。 管理会社は偶然だと答え、所轄署は事件性を認めていない。 けれど、近隣の住民は口を揃えて言った。 二〇三号室の壁から、夜ごと女の声がする、と。 澪は何度か文章を読み返した。取材で聞いた話はひどく曖昧で、証拠と呼べるものはなかった。音声データも、壁紙の染みを撮った写真も、恐怖を求める者が好き勝手に意味を与えられる程度のものだ。 それでも記事は、何かを断定する言葉を求めていた。 指先が冷えていた。暖房はつけていない。八月の夜は蒸し暑く、窓ガラスには湿気がまとわりついている。なのに、右手の人差し指だけが、氷水に浸したように感覚を失っていた。 澪はその指で、最後の一文を打った。 ――真相は現在も明らかになっていない。 句点を入力した瞬間、机の上でスマートフォンが震えた。 短く一度。 少し間を置いて、もう一
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-03
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第2話 撮られた背中

第2話 撮られた背中 背後で落ちた水滴の音は、一度きりだった。 澪は机の端を掴んだまま、振り返れずにいた。指先へ力を込めるほど、爪の下が白くなる。スマートフォンの青白い光が、倒れた椅子と床へこぼれたコーヒーを照らし、その向こうの暗闇だけを避けているように見えた。 濡れた靴で歩く音は止んでいる。 それがかえって怖かった。 廊下の途中で立ち止まり、こちらを見ているのかもしれない。あるいは、もう背後まで来ているのかもしれない。 澪は息を吸った。喉の奥が狭くなり、空気がかすかな音を立てた。「朔……」 声にすると、名前だけが頼りなく暗闇へ落ちた。 画面には先ほどの通知が残っている。 二人目、既読。 その下で、神代朔の連絡先が淡く光っていた。 澪は震える親指で通話ボタンを押した。 一回。 二回。 三回目の呼び出し音が鳴り始めたところで、回線がつながった。『メールを開いたのか』 挨拶より早く、朔の低い声が耳へ届いた。 澪は返事を忘れた。 受話口の向こうでは、キーボードを打つ乾いた音が続いている。朔は眠っていなかった。驚いた様子も、こちらの電話を不審に思う間もなかった。「どうして……」『開いたんだな』「うん。でも、どうして分かったの」『俺のところにも来た』 朔の声は平らだった。 平らすぎて、その下に何があるのか分からない。 澪はスマートフォンを強く耳へ押し当てた。誰かの呼吸が混ざっていないか確かめるように、音へ意識を集中する。「同じメール?」『差出人は椎名澄花。件名は返してください。七つの住所と、七刻女学校へ来いという文面』「写真も?」 キーボードの音が一瞬止まった。『写真もある』「澄花の顔が、黒くなってた?」『最初はな』 最初は。 その言い方に、澪の胃が重く縮んだ。「そのあと、変わった?」『お前の顔が消えた』 澪は唇を閉じた。舌の奥にまだ鉄の味が残っている。 同じものを見た。 自分だけではない。その事実に安堵するはずだった。けれど、誰かが二人の端末へ同じ瞬間に同じ異常を送りつけたことになる。 廊下の方で、小さく木が鳴った。 澪は肩を跳ねさせた。『何だ』「さっき、玄関の鍵が開く音がして……誰かが入ってきたみたいに、足音がした」『今もいるのか』「分からない。暗くて、見えない」『ブレーカーは
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第3話 六人目の既読

 朝になっても、玄関の外には誰もいなかった。 澪が通報してから二十分ほどで警察官が二人訪れたが、共用廊下にも非常階段にも、濡れた靴跡ひとつ残っていなかった。防犯カメラは午前零時前から一時間だけ記録が途切れ、管理会社は雷による一時的な不具合だろうと答えた。 赤い組紐だけが、部屋の中に残った。 透明な食品保存袋へ入れ、さらにハンカチで包んでも、鞄の中から湿った絹の匂いがした。 午前九時を少し過ぎた駅前は、昨夜の雨を引きずっていた。歩道のくぼみには濁った水が溜まり、通勤客の靴がそこを踏むたび、細かな飛沫が跳ねる。雲は低く、ガラス張りのビルの上層を灰色に曇らせていた。 澪は喫茶店の窓際で、両手を膝の上に重ねていた。 眠れなかった。瞼の裏には、扉の向こうから自分を呼んだ少女の口元が、見てもいないのに焼きついている。 澪ちゃん。開けて。 声が耳の近くで蘇るたび、首筋の産毛が立った。 入口の鈴が鳴った。 神代朔は、外の湿気をほとんど連れ込まずに店へ入ってきた。 黒いシャツの上に薄手の濃紺のジャケットを羽織り、肩から仕事用の小型カメラを下げている。雨上がりの光を受けても、顔色は普段と変わらない。目の下にわずかな影はあったが、足取りも姿勢も崩れていなかった。「待たせた」「ううん。私も今来たところ」 嘘だった。三十分前から同じ席にいる。 朔は指摘せず、向かいの椅子を引いた。脚が床を擦る音に、澪の肩が小さく揺れる。その反応を見て、朔の視線が一度だけ玄関へ向いた。「昨夜、あのあと何かあったか」「警察が来るまで、声はしなかった。チャイムも鳴ってない。外には誰もいなかったって」「防犯カメラは」「その時間だけ映ってなかった」 朔は表情を変えなかった。 店員が水とおしぼりを置く。朔は珈琲を、澪は注文していた紅茶のお代わりを頼んだ。店員が離れるまで、二人とも黙っていた。 窓の外を傘を閉じた人々が流れていく。カップの触れ合う音、ミルクを泡立てる蒸気、低く流れる古い洋楽。明るい店内にいれば、昨夜の暗闇だけが別の世界の出来事だったように思えた。 澪は鞄を開いた。「これ」 ハンカチをほどき、保存袋をテーブルへ置く。 赤い組紐は乾いていた。 昨夜は水を吸い、指へ絡みつくほど柔らかかった。今は細く硬くなり、黒ずんだ赤が古い傷のように見える。 朔はジャケッ
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第4話 八年ぶりの集合

第4話 八年ぶりの集合 午後十一時を回った山道の入口には、雨を遮るものがなかった。 街道から一本外れた先で舗装は途切れ、黒い土が靴底へ重くまとわりつく。街灯はなく、杉林の奥で濡れた枝が擦れ合っていた。 澪は傘の柄を両手で握ったまま、道の先を見上げていた。 闇の向こうに、七刻女学校の門がある。 まだ姿は見えない。それでも雨の匂いに、古い木材と錆の臭いが混じっている気がした。 八年前の夜も雨だった。澄花は傘を差さず、濡れた手首へ赤い組紐を巻いて笑っていた。 帰る道を忘れないため。 その言葉が蘇るたび、澪のコートのポケットが重くなる。 透明な証拠袋へ入れた組紐は、コートの内側にある。脅しへ従う必要はないと言った朔も、仕掛けた者の目的を探るため、今夜だけ持参すべきだと判断した。 背後で車のドアが閉まった。 澪が振り返ると、黒い車の脇から朔が歩いてきた。黒いシャツに薄手のジャケット。肩には昨朝と同じ小型カメラを下げ、片手に防水の機材鞄を持っている。 傘は差さず、短い髪から雨粒を落としていた。「早いな」「眠れなかったから」「俺もだ」 そう言う顔には疲労がほとんど出ていない。 朔は澪の足元から道の左右へ視線を走らせた。「組紐は」「持ってる」「出すな。門までそのままにしろ」「分かった」 朔は澪の傘を少し持ち上げ、彼女の肩が濡れない位置へ傾けた。自分の右肩はすぐに雨を吸い、濃い色へ変わっていく。 澪が傘を戻そうとすると、朔は柄を押し返した。「足元を見ろ。滑る」 遠くから、車のエンジン音が近づいてきた。 白い乗用車が街道の端へ停まり、運転席から早乙女美月が降りる。紺色の防水上着に細身のパンツ。髪は後ろで一つに束ね、肩へ大きな医療用の鞄を掛けていた。 澪と目が合う。 美月の足が一瞬だけ止まった。「久しぶり」 澪が言うと、美月は口元を固くした。「そうね」 八年ぶりの挨拶は、それだけだった。 美月は朔へ短く頷き、救急用品を詰めた鞄の留め具を確認した。「病院から持ち出したの?」「私物。山へ入るなら最低限は必要でしょう」「廃校の中まで行くと決めたわけじゃない」 朔が言う。「でも、行かないつもりでもないんでしょう」 美月の目は朔ではなく、澪のポケットへ向いていた。 組紐のことを、オンライン通話で伝えてある。 また車
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-04
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第5話 電気のない放送

 消えた三階の窓を、六人はしばらく見上げていた。 雨は弱まる気配を見せず、門へ絡みついた鎖を銀色に濡らしている。校舎の輪郭は闇の中へ沈み、窓だけが幾つもの黒い眼窩のように並んでいた。先ほど制服姿の少女が立っていた場所には、もう何もない。 澪の耳には、硝子を爪で掻いた高い音が残っていた。「今の、見たよね」 奈々香が囁いた。 声が震えている。配信用の小型カメラを鞄から取り出していたが、構えた手は定まらず、映像には校舎と地面が交互に映っているだろう。「人影は見た」 朔が答えた。「人影って……あれ、澄花だった」「顔は確認できてない」「でも、赤い紐を――」「決めつけるな」 朔は短く言い、閉じた門へ近づいた。鎖と南京錠を一度ずつ引き、工具を持ってきた悠斗へ視線を送る。 悠斗は工具箱から大型の切断具を出し、鎖へ刃を噛ませた。両腕へ力を込める。金属が軋み、雨に濡れた持ち手が滑る。「切れない」「さっきまで地面に落ちてた鎖でしょう」 美月が懐中電灯で照らす。「錆びてるのは表面だけだ。中は新しい」 悠斗は息を切らしながら刃を外した。「誰かが交換したんだ。遠隔で巻き上げる仕掛けも作れる。南京錠だって、俺たちが見てない間に――」「地面から勝手に跳ねたように見えたけど」 奈々香の言葉に、悠斗は口を閉じた。 朔が校舎へ光を向ける。「外へ出る方法を探すにしても、中へ入らないと道具も通信手段もない。全員で動く。離れるな」「本当に入るの?」「門の内側で朝を待つよりはましだ」 美月が救急鞄を肩へ掛け直した。「少なくとも、屋根はある」 誰も賛成とは言わなかった。 それでも六人は、濡れた石畳を校舎へ向かって歩き始めた。 正面玄関のガラス戸は、中央から大きく割れていた。鋭い破片が枠へ残り、懐中電灯の光を受けて濡れた歯のように光る。足元には古い硝子片と枯れ葉が重なり、雨水が細い筋を作って内部へ流れ込んでいた。 朔が先に身を屈め、割れた箇所から中を照らした。「段差がある。足を上げろ」 澪は言われた通りに脚を上げた。跨ぐ瞬間、コートの裾が硝子へ触れ、乾いた音を立てる。朔の手が肘の下へ添えられ、身体がふらつく前に支えられた。 玄関の内側には、腐った木と湿った土の匂いがこもっていた。 左右へ並ぶ下駄箱は扉が外れ、内部に泥と枯れ葉が積もっている。蜘蛛
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-04
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第6話 七つの席

 扉の向こうには、八年前の教室が残っていた。 廊下の床は腐り、壁は雨水に黒く侵されていたのに、二年七組の中だけは時間の流れ方が違って見えた。剥がれかけた掲示物も、傾いた黒板も、窓際に吊られた薄いカーテンも、澪の記憶にある形を保っている。 教室の中央には、七つの机が円を描いて並べられていた。 朔の懐中電灯が一脚ずつを照らす。 机は互いの正面が見えるよう、わずかに内側へ向けられている。天板には傷も落書きもなく、椅子はすべて引かれた状態だった。誰かが七人の到着を待ち、座る位置まで整えたようだった。 それぞれの机の上に、白い封筒が置かれている。 雨宮澪。 神代朔。 早乙女美月。 黒瀬悠斗。 白石奈々香。 相馬透。 墨で書かれた六人の名が、湿った空気の中で鮮明に浮かんでいた。 七つ目の封筒には、椎名澄花。 その机だけが、ほかと違っていた。 六脚の机は表面が灰色に乾き、金属の脚に赤錆が浮いている。澄花の席だけは木目が明るく、磨かれたばかりのように淡い艶があった。椅子の背には傷一つなく、天板の右端に、小さな花の形をした赤い髪留めが置かれている。 奈々香が息を呑んだ。 門の箱に入っていた、割れた髪留めと同じ形だった。「どうして……」 奈々香の声が掠れた。 誰も答えない。 透は録音機を胸元まで持ち上げ、教室の音を拾っている。赤い表示灯が、鼓動のように明滅していた。「入る前に確認する」 朔は扉の脇へしゃがみ込み、床と蝶番へ光を当てた。「扉に罠らしいものはない。窓は全部閉まってる。天井の照明は配線が切れてる」「じゃあ、さっき明かりがついたのは何なの」 美月が問う。「外から投光した可能性はある」「三階の窓へ、あの角度で?」「可能性の話だ」 朔は教室の奥を見た。 その横顔に迷いはなかったが、懐中電灯を握る指だけが僅かに強張っている。 悠斗が先に中へ入った。「立って見ていても何も分からない。仕掛けた奴は、俺たちにこれを開けさせたいんだろ」「勝手に触らないで」 美月が止める。「触らなきゃ帰れないなら、同じだ」 悠斗は自分の名が書かれた封筒を持ち上げた。 糊付けはされていない。指を入れると、封は簡単に開いた。 中から二つ折りの白い紙が出てくる。 悠斗は一行目を見た瞬間、口元を引き結んだ。「何が書いてあるの」 澪が
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第7話 七人目の呼吸

 奈々香の悲鳴が、青白い教室を裂いた。 手から投げ出されたスマートフォンは机の脚へ当たり、乾いた音を立てて床を滑った。二度、三度と跳ね、澄花の席の前で止まる。画面の右端から蜘蛛の巣のような亀裂が走り、配信映像が細かな破片へ分かれた。「いや……いや、いる、そこにいる!」 奈々香は椅子を蹴るように後退した。膝裏が別の机へぶつかり、身体が傾く。美月が腕を掴み、倒れる寸前で支えた。 六人の視線が、同時に七つ目の席へ向いた。 椅子は空だった。 木目の明るい机。右端に置かれた赤い髪留め。引かれたままの椅子。その座面には、誰かが座っていた跡も、濡れた制服から落ちた水滴もない。 それでも澪には、空席の上だけ空気が沈んで見えた。 教室の湿気とは違う。人ひとり分の冷たさが、そこへ形を持って留まっている。「触るな」 床へ手を伸ばしかけた悠斗を制し、朔がスマートフォンを拾った。 割れた硝子が掌へ食い込まないよう、手袋の指先で端を挟む。液晶は明滅していたが、配信はまだ切れていなかった。視聴者数は七人のまま。コメント欄だけが止まり、〈SUMIKA〉の名が亀裂の下で歪んでいる。 朔は機内モードへ切り替え、外部との接続を遮断した。それでも配信中の赤い印は消えない。「どうして止まらないの」 奈々香の声は息に近かった。「通信を切ってるのに」「端末上の表示だけ残ってる可能性がある」 朔は画面を操作し、直前の映像を端末内へ保存した。指の動きは落ち着いていたが、再生画面を開いた瞬間、瞳の奥が僅かに狭くなる。 六人が映っている。 その背後、澄花の机には制服姿の少女が座っていた。 長い髪が顔を覆い、頬の輪郭すらほとんど見えない。右手首の赤いものだけが鮮明だった。映像が進むにつれ、少女はゆっくり顔を上げる。けれど、目元が現れる直前で画面が激しく乱れ、黒い横線に飲み込まれた。「澄花なの?」 澪は朔の肩越しに覗き込んだ。「判別できない」「髪も、制服も同じだった」「似せることはできる」 朔は映像を数秒戻した。 少女の輪郭の周囲に、僅かな揺らぎがある。明るさの違う映像を重ねたときに生じる境界にも見えた。 悠斗がそれを指した。「合成だ。最初から撮っておいた女の映像を重ねてる」「どうやってリアルタイムで?」 美月が問う。「奈々香の配信機材に細工すればできる。使
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-04
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第8話 消された八分十三秒

 朔のすぐ背後で聞こえた呼吸は、振り返ったときには消えていた。 教室の隅まで懐中電灯を向けても、揺れる光の中に人影はない。七つの机、濡れた黒板、口を開けた教師用の引き出し。そこにあるのは、古い校舎の湿気と、六人分の浅い息だけだった。 それでも、澪の耳には少女の喉が震える音が残っていた。 ひゅう、と細く吸い込む息。 泣くことを堪えたまま、誰かの背中へ顔を寄せていたような近さだった。 朔は何も言わず、引き出しから小型ビデオテープを取り出した。白いラベルには、七刻女学校、八年前、未編集とある。黒い文字は乾いているのに、指で触れれば滲みそうなほど濃かった。「本当に、お前の字じゃないのか」 悠斗が訊いた。 朔はラベルを光へ傾ける。「似ている」「似てるじゃなくて」「俺が書くなら、年号を入れる。八年前とは書かない」 淡々とした返答だった。 だが、テープを持つ指先は動かなかった。爪の横へ力が入り、手袋の薄い布が僅かに引きつれている。 澪はその手を見つめた。 八年前、朔は撮影機材のすべてへ自分の字で番号を書いていた。細く右上がりで、角のある文字。ラベルの筆跡は、記憶の中にあるそれとよく似ている。「再生できるの?」 奈々香が扉から離れた場所で言った。「その形、朔が持ってるカメラのテープと違わない?」「違う」 朔は肩に下げていた小型カメラではなく、機材鞄を床へ置いた。 防水の留め具を外し、中から古いビデオカメラを取り出す。 角の擦れた黒い機体。側面には剥がれかけた白い番号札が残っている。八年前、朔が七刻女学校へ持ち込んだものだった。 澪は息を止めた。「まだ持ってたの」「警察から返却された」「いつ?」「事件の半年後」「どうして今日、持ってきた?」 美月の問いに、朔は一拍置いた。「同じ場所へ行くなら、当時の機材が必要になるかもしれないと思った」「何に必要なの」「比較だ。映像に仕掛けがあれば、機種の癖から分かる」 説明に無理はない。 だが、美月の視線は和らがなかった。 朔はカメラの蓋を開いた。内部の受け口と、手に持つテープを見比べる。「規格が違う」 透が近づき、低く言った。「こっちは幅も厚みも合わない」「入るはずがないってこと?」 澪が訊く。「普通なら途中で止まる」 朔はテープを差し込み口へ近づけた。「無理
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-04
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第9話 原音を知る者

 放送室へ続く廊下は、二年七組の扉の向こうで黒く沈んでいた。 天井のスピーカーは沈黙している。それでも、少女の声が消えたあとの空気には、まだ薄い震えが残っているようだった。 次は、放送室です。 その言葉を聞いてから、誰も最初の一歩を踏み出さなかった。「行かない」 美月が最初に口を開いた。 救急鞄の持ち手を握りしめ、教室の中央に立つ。青白い照明が頬を照らし、疲労の影を深くしていた。「相手の指示へ従うたび、危険が増えてる。門では閉じ込められた。階段では澪が殺されかけた。この教室では、誰かの嘘を数えられた。次が放送室だからって、素直に行く理由はない」「ここへ残る理由もないだろ」 悠斗が工具箱を持ち直す。「扉はまた閉じるかもしれない。廊下へ出られるうちに移動した方がいい」「移動することと、指定された場所へ行くことは別よ」「じゃあ、どこへ行く。出口へ戻ろうとして三回ここへ戻された」「だからこそ、相手が望む方向へ進むべきじゃない」 美月の声には苛立ちより恐怖があった。 感情を押し殺すたび、言葉が鋭くなる。高校時代から変わらない。誰かが怪我をすれば真っ先に駆け寄り、そのあとで無茶をした本人を容赦なく叱った。 澪は朔の手にある古いビデオカメラを見た。 液晶は停止画面へ戻っている。制服姿の少女は消え、青い砂嵐だけが揺れていた。そこに映っていた指先の向きは、今も廊下の奥を示しているように思えた。「放送室なら、校内の設備が集まってる」 透が言った。 それまで壁際で録音機を操作していた彼は、画面から目を上げない。「スピーカーの配線も、校内の集音装置も、元はあそこへつながっていた。今流れてる音の出所を探すなら、放送室が一番近い」「今流れてる音?」 奈々香が眉を寄せる。「放送は止まってるでしょ」「止まってない」 透は録音機の小さなスピーカーを切り、ヘッドフォンの片側を外した。「聞こえないだけだ」 その言い方に、澪の皮膚が粟立つ。 透は再び八年前の映像を再生し、音声だけを自分の機器へ送った。画面には、理科準備室の前で揺れる光景が映っている。澄花が扉の内側へ押し込まれた直後、音が途切れる箇所。 透は波形を大きく広げた。「ここに低い信号が入ってる」 液晶の下端に、ほとんど平らな線が続いている。規則的に盛り上がる小さな山は、澪には機械の
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