七つの悪夢を食べた魔女 のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

19 チャプター

黒い月と、七つ目の席

 崩れた梁の下で、イノリは自分の息の音を聞いていた。 ひゅう、と喉が鳴る。吸うたびに、濡れた紙を裂くような音が胸の奥でした。 右腕は肘から先が瓦礫の外に出ていて、そこだけが熱い。左側は何も感じない。感じないことが怖いのか、確かめるのが怖いのか、自分でも決められなかった。 火の音は、静かだった。 燃えているのは家々ではなく、その中にあったものらしい。布や紙や、名前の分からないものが焦げる匂いが、地面すれすれのところに溜まっている。 その中に、混じってはいけない匂いが一つあった。 何の匂いかは、考えないことにした。 空に、黒い月が出ていた。 月というより、穴だ。星も煙も吸い込んで、その奥から名前のない何かが地上を覗いている。 見られている、と思った。 思った瞬間、穴の奥で何かが位置を変えた。 よく見るために動いた、という動き方だった。 目を逸らそうとして、逸らせなかった。首は動く。動かしても、視界の中心から外れてくれない。 指先から順に、感覚が抜けていく。     * 声がした。 自分の声ではなかった。 遠い。瓦礫の向こう、たぶん道を一本挟んだあたりから聞こえる。「だれか」 言葉はそれだけだった。 同じ言葉を、同じ間隔で繰り返している。 イノリは返事をしようとした。 口から出たのは、血の混じった泡だけだった。 足音が近づいてきた。 軽い。子どもの足音だった。 走ってきて、途中で止まる。 止まった場所は、たぶん自分と、あの声のちょうど間だった。 止まっている時間は、短かった。 息を二つ吸う間もなかったと思う。 足音は、こちらへ来た。 瓦礫が動いた。 石が擦れる音。木の折れる音。崩れた埃が口へ入ってきて、噎せようとしたが、噎せる力がなかった。「イノリ」 爪の割れた指が、石を掻いている。額が切れて、血が片目を潰していた。それでも手を止めない。熱で膨れた金具に触れて、小さく声を上げて、それでもまた手を伸ばす。「イノリ。目を開けて」 ヨルの指が、イノリの手を探し当てた。 冷たい。 周りは燃えているのに、その手だけが冷たかった。「わたしが助ける」 ヨルは泣いていなかった。「だから、いなくならないで」 遠くで、まだ声がしていた。「だれか」 さっきより、間が空いている。「……だれか」 ヨルは手を止
last update最終更新日 : 2026-08-09
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放して、と彼女は言った

 朝の訓練場は、静かだった。 白い人形が並び、騎士たちが順番に剣を振り下ろしている。掛け声はない。刃が当たる音だけがする。 人形は木でも布でもなく、触ると乾いた粘土のような感触がした。斬られた場所が黒く変色して、しばらくすると元へ戻る。何度でも使えるように作られている。 イノリは大剣を構えた。 構えたつもりだった。 剣先が下がって、爪先の三センチ手前に落ちた。「足」 ミコトが短く言う。「見えてた」「見えていて避けないなら、それは反応が遅いのよ」「見えてたって言ってるでしょ」「二回言えば速くなるわけではないわ」 午前中で、イノリは人形を一体も倒せなかった。 振り上げると剣が後ろへ引かれ、振り下ろすと身体ごと持っていかれる。三回目で、自分が剣を振っているのか剣に振られているのか分からなくなった。四回目は、振る前に手を止めた。止めても、剣先は勝手に下がった。 午前が終わる頃には、代わりに石畳を三箇所割っていた。 訓練場の反対側では、槍を持った少女が人形の喉を正確に突いている。同じ場所を、同じ角度で、何度も。 昨日、遺書を二つに折って懐へ入れた子だった。 突いた後、必ず一度槍を引いて、穂先を見る。血がつくわけでもないのに、毎回見る。「上手いね」 イノリが声をかけると、カナタは槍を下ろした。「三年やってる」「三年」「弟が死んだ日から」 それだけ言って、また構え直した。「弟さん、いくつだったの」 カナタの穂先が止まった。「十一」 それ以上は言わなかった。イノリも聞かなかった。 少し離れた場所で、弓を持った少女が的を射抜いていた。 リゼットというらしい。矢は毎回同じ場所へ刺さる。抜いて、また射る。抜いて、また射る。的を替えようとしないので、同じ穴が広がっていくだけだった。「当たりすぎて、練習にならないんじゃない?」 イノリが言うと、リゼットは初めてこちらを見た。「壁の向こうを射ってるの」「え」「あの的の向こうに、私の町があると思って射ってる」 弓を下ろす。「もうないけど」 それだけ言って、また構えた。 鎖のついた杖を持つフユは、訓練場の隅で紙の束を広げていた。 名簿だった。細かい字が三段組みで並んでいる。イノリが覗こうとすると、拒否された。「見せられない?」「見ても、名前しかないよ」 フユは束を閉
last update最終更新日 : 2026-08-11
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幸福な食卓に、姉はいない

「お母さん」 母親は振り返らなかった。 ミアの身体を煙みたいにすり抜けて、リリの皿へスープを足す。「ねえ。私、ここにいるよ」 触れようとした指先が、白い靄になって崩れた。 崩れた場所は痛くないらしい。ミアは自分の手を何度も握ったり開いたりして、感覚があることを確かめている。 壁に並んだ家族の絵から、ミアだけが一枚ずつ消えていく。 端から消えるのではなかった。輪郭の内側が白く抜けて、そこへ背景の壁紙が入り込んでくる。最後に髪の一房だけが残って、それも消えた。「ここはミアの願いで作られた悪夢よ」 ミコトが銃を抜いた。「妹は目覚め、家族は幸福に暮らす。その代わり、姉の存在が最初からなかったことになる」「リリ!」 ミアが妹へ駆け寄った。「お姉ちゃんだよ。毎朝、髪を結んであげたでしょう。雷が怖い夜は――」 リリが笑顔のまま顔を上げる。「お姉ちゃんなんて、いらなかった」 口が耳元まで裂けた。 裂けるとき、音がした。 紙ではなく、湿った布を引くときの音だった。裂けた縁がめくれて、歯の並びが頬の途中まで続いているのが見える。 その奥から黒い指が伸びた。 指の数が合わない。何本あるのか数える前に、二本目の腕が父親の背中から生えた。 ミアは悲鳴を上げなかった。 息を吸ったまま、吐き方を忘れたような顔で立っている。 イノリが腕を掴んで引いた時、初めて声が出た。「走って!」 ミコトが連射する。青い弾丸は腕を貫いたが、傷口から新しい家族の顔が生えてきた。 イノリはミアを抱えて、崩れた壁の向こうへ飛び込む。     * 家の外には、同じ建物が並んでいた。 似ている、という程度の話で済まなかった。 屋根の傾き、扉の色、窓枠の割れ方、玄関前に置かれた靴の数と向きまで、一軒残らず同じだった。三軒先まで歩いて振り返ると、来た方向にも同じ家が並んでいる。 どの窓にも幸福な家族がいる。庭で遊ぶ家族。食卓を囲む家族。眠る子どもへ本を読む家族。 そのどこにも、ミアはいない。 悪夢の街には風がなかった。煙突の煙も、木の葉も、窓辺の布も止まっている。動いているのは、窓の中で笑う家族だけだった。 空は夕方の色で固定されている。太陽の位置を探したが、光がどこから来ているのか分からなかった。 影が、どの方向にも伸びていない。 イノリは自分の足元を見
last update最終更新日 : 2026-08-11
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救うという暴力

 落ちた先で、時間が少し戻っていた。 外では、ミコトの鎖が怪物を止めている。三十秒。けれど記憶の中では、秒が数えられない。長さを測るものが、どこにもなかった。 雨の中を、幼い姿のリリが走っていた。 まだ倒れていない。喧嘩の直後、家を飛び出したところだった。 顔が濡れているのは、雨のせいだけとは限らない。「お姉ちゃんなんて」 走りながら、リリが言った。「いなければいいのに」 イノリは足を止めた。 悪夢が作った台詞ではない。周りの雨も、石畳も、歪んでいない。水たまりに映る空は正しい色をしていて、跳ねた泥がちゃんと足首の高さまで飛んでいる。 ここは事故の記憶そのものだ。 直後に、馬車の警笛が鳴った。 御者は悪くない。角から出てきた子どもを、避けようとして手綱を引いた。引いたせいで車輪が滑った。石畳が濡れていた。それだけのことが、順番どおりに起きる。 音がした。 小さい音だった。何かがぶつかったのではなく、何かが止まった音に近い。 赤い髪飾りが水溜まりへ落ちて、跳ねて、石畳を転がった。 小さな身体が石畳へ投げ出された。 イノリは駆け寄って、膝をついた。 手を伸ばす。指は肩をすり抜けた。もう一度、今度は掌全体で押さえようとして、また抜けた。 水しぶきも上がらない。イノリがどれだけ動いても、この場所の水は動かなかった。 周りの人たちが助けを呼んでいる。だが誰の顔も黒く塗り潰されていて、姉の姿を探す者はいない。 事故の記憶からも、ミアが削られ始めていた。「お姉ちゃん」 リリの指が宙を掴む。「ごめんなさい。嫌いって言って、ごめんなさい」 怒りでも、恨みでもなかった。 姉を呼ぶ声だった。 イノリは見ていることしかできない。 二つとも、同じ雨の中にあった。 いなければいいと思ったことと、ごめんなさいと言ったこと。     * 雨粒が空中で止まった。 全部が一斉に、同じ高さで止まる。 一つずつが黒い目に変わって、記憶へ入り込んだ異物を見つめた。 瞬きの音がした。 何万という数の瞼が、少しずつずれた間隔で開いたり閉じたりしている。その音が雨の音の代わりになった。「見てはいけない」 道の端から黒い腕が伸び、イノリの足首を掴んだ。 冷たくない。むしろ人肌より温かくて、そのせいで振り払う手が一瞬鈍った。 姉妹が互いに謝
last update最終更新日 : 2026-08-12
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悪夢を食べる少女

 目を開けると、大聖堂前の石畳に倒れていた。 現実の空は、正しく暗くなり始めていた。雲が動いている。それを見て、イノリはようやく身体の力を抜いた。 避難していた人たちが遠巻きに見ている。治療師が駆け寄ってくる。「ミアは」 少し離れた場所で、ミアが妹へ這い寄っていた。身体は透けていない。指も、腕も、膝から下も戻っている。 けれどリリは、白い布の上で眠ったままだった。「悪夢は倒したよね」「倒したわ」「じゃあ、どうして起きないの」「夢装は事故の傷を治せない」 ミコトは冷静に答えたが、銃を握る指が震えていた。「傷のせいで眠ってるの?」「傷のせいで眠ったのは、最初の一日だけよ」「あとは」「悪夢が、この子を起こさないでいた」 ミコトは眠る少女を見た。「起きられたら、契約が要らなくなるから」 ミアがリリの手を自分の額へ押し当てる。「私、ここにいるよ」 返事はない。「ごめんね。嫌いじゃない。顔も見たくないなんて、本当じゃなかった」 周りの誰も、動かなかった。 治療師が一度リリの脈を診て、それから首を横に振らずに、ただ手を離した。何も言わないことが答えだと、その場の全員が分かっていた。 長い沈黙のあと、小さな声がした。「……お姉ちゃん」 リリの瞼がゆっくり開く。「手、痛いよ」 ミアは慌てて指を緩めた。「ご、ごめん!」「また謝った」「だって」「喧嘩の続き、まだあるから」 リリは弱い声で言った。 右の足だけが、布の下で動かなかった。 治療師が一度そこへ触れて、何も言わずに手を戻す。「嫌だったこと、いっぱい言う」 ミアが泣きながら頷く。「うん。私も言う」 元通りにはならなかった。 だからこそ、二人は本当に戻ってきたのだとイノリは思った。 人々の間から拍手が起こった。「救世候補が悪夢を倒した!」「二人を救った!」 大司教が広場へ現れて、両手を広げる。「今日、世界は確かに救いへ一歩近づきました」 歓声が大きくなる。 肩が痛い。ミアの手を無理に引いた感触も、まだ残っている。 それでも、目の前で姉妹が泣いている。 喜んでいいのか分からないまま、イノリは白い塔を見上げた。「ヨルも助けてくれました」 誰にともなく言った。「結果は成功」 隣でミコトが小声で言う。「でも、あなたがミアの答えを奪ったこと
last update最終更新日 : 2026-08-13
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笑顔の街

 ヨルは胸に咲いた黒い花を、鋏で切ろうとした。 茎は思っていたより太い。指ほどではないが、鋏の刃を当てると、開いた分だけ押し返してくる。 力を入れた。 刃が茎へ食い込む前に、花の中心の目が開いた。 睫毛が動いて、こちらを見る。「……見ないでよ」 鋏を閉じた。 鉄の刃は茎を傷つけるどころか、乾いた音を立てて欠けた。欠片が床へ落ちて、二度跳ねた。 切ろうとした場所が、あとから痛み始めた。 傷はない。痛みだけがある。自分の胸の内側で、切られかけた側が抗議している。 胸の奥で馬車の警笛が鳴った。「私がいなくなればいい」 自分の口から、ミアの声が漏れた。 自分の喉で、他人の声帯が鳴っている。「お前も同じだ」 胸の奥からだった。口の形をした場所はまだない。それでも、そこから聞こえた。「大切な者を救うためなら、自分が消えても構わない」 ヨルは答えず、包帯を何重にも巻いて隠した。 巻きながら、二度手を止めた。締めすぎると花が動く。緩めると布が浮く。ちょうどいい強さを探すのに、毎朝しばらくかかるようになっていた。 巻き終わったところで、扉の鎖が外れる音がした。「ヨル! 見て、こんなにもらった」 イノリが花束と手紙を抱えて入ってくる。肩にはまだ包帯が巻かれていた。ミコトは菓子の箱と記録板を持って、後ろから呆れた顔でついてくる。「ミアとリリから。二人で作ったんだって」「妹が料理して、姉が鍋を焦がしたって書いてあるけど」 イノリは手紙を見直して、黙って畳んだ。「都合の悪いところだけ読まないのね」「大事なのは、二人が元気ってことだから」「ほんと、都合がいいんだから」 ヨルは寝台から下りて、床へ座った。 下りるときに一度、指先が寝台の縁を探した。「肩、見せて」「治ってるよ」「治ってる人は、扉を開けるとき左手を使わない」 イノリは大人しく座り直した。 ヨルが包帯を解いていく。噛み跡が四つ、まだ塞がっていない。縁が赤く盛り上がって、真ん中だけが白い。「痛い?」「押されると」「じゃあ押す」「押さないで」 ヨルの指は冷たかった。傷の周りをなぞって、新しい布を巻いていく。塔から出たことのない少女は、包帯を巻くのだけは上手かった。 巻きながら、二人とも喋らなかった。 布が擦れる音と、外の風の音だけがしばらく続く。イノリは巻か
last update最終更新日 : 2026-08-14
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救世主は笑っていなさい

 落ちた先は、床だった。 膝が板を打つ。木の音がした。悪夢の中でこんなに正しい音が鳴るとは、思っていなかった。 イノリは顔を上げた。 舞台の上にいた。 白く塗られた板が、奥へ向かってわずかに傾いている。客席から見上げやすいように作られた傾きだった。手をついた場所に、うっすらと踵の跡がついている。何百回も同じ位置に立った人間の形だった。 光は上から来ている。 見上げた。 光源はなかった。天井もなかった。舞台を照らす白い光は闇の途中から始まっていて、その上には何もない。銀色の糸が何十本も、その闇へ向かって伸びて、途中で見えなくなっている。 どこまで続いているのか分からない。 分からないと思った瞬間、膝の力が少し抜けた。 振り返る。 客席があった。 舞台の縁から最前列まで、五歩ほどしかない。近い。手を伸ばせば、最前列に座った人の膝に触れる。 そこから後ろへ、段が積み上がっていた。一段上がるごとに暗くなって、七列目から先は闇に溶けている。 七十三人。 仮面が白いので、顔の位置だけが浮かんで見えた。前の列は肩の輪郭まで分かる。後ろへ行くほど、白い楕円がぼんやり並ぶだけになる。 いちばん上の列は、見えなかった。 それでも拍手は、そこからも聞こえた。     * 拍手が揃っている。 七十三対の手が、一度もずれずに鳴っていた。人が集まって手を叩けば、必ず誰かが半拍遅れる。ここには遅れる者がいない。一つの大きな手が鳴っているようだった。 音と音の間に、息の音がない。 イノリは鼻から息を吸った。 埃の匂いしかしなかった。汗も、髪も、服の匂いもしない。 舞台の中央に、セラが吊られていた。 両手首、両足首、首の後ろ、口元。 糸は皮膚の下を通っていた。手首の内側から入って、肘の手前で外へ出る。その間の皮膚が細く盛り上がって、道の形になっていた。 口元には六本あった。上唇の両端から、頬骨へ向かって斜めに。糸が引かれるたび唇の端が持ち上がり、そこの皮膚だけが白くなる。血が通わなくなるまで引かれていた。 白い靴の先から、血が落ちている。 落ちた血は、板に届く前に消えた。 舞台には、染みが一つもなかった。 糸が動いた。 セラの腕が上がる。指先が広がって、客席へ向けて掲げられる。膝が曲がり、踵が浮き、身体が半回転した。 目だけが、動きに
last update最終更新日 : 2026-08-17
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あなたが泣けと言ったから

 白い腕が、イノリごと舞台を押し潰そうとした。 大剣で受け止める。刃が震えて、肩の噛み跡が裂けた。 腕には重さがない。押してくる力だけがある。踏ん張っても足の裏が滑らず、代わりに板の方が沈んでいった。膝が曲がり、腿が震え、それでも重さの感覚だけが最後まで来ない。 人間の腕なら、どこかに骨がある。 これには、どこにもなかった。「セラ、どうしたい」 歯を食いしばって、もう一度聞いた。「分かりません」 銀糸に吊られた少女は、笑顔のまま泣いていた。 涙が頬を伝って、糸の通っている盛り上がりに沿って流れる。糸が道を作っているので、涙は一本の線から外れない。「私は、誰かに必要な歌しか知りません」 拍手が激しくなる。 激しくなっても、揃ったままだった。「自分が何をしたいのか、もう分からないんです」「じゃあ、考えて」「そんなこと、考えたこともありませんでした」 白い腕がさらに沈んだ。イノリの膝が板へついた。「答えられないなら、救世主が決めて」「そのための救世主でしょう」 観客が言う。 仮面はどれも、口の形すら持っていない。 このまま待てば、全員が縫われる。 糸を切れば、セラは助かるかもしれない。 イノリは、あと三秒待った。 一。 二。 耳の奥で、塔からの接続が開いた。 何かが倒れる音がした。木の椅子くらいの重さのものが、板の上へ落ちる音。それきり、また閉じた。 三。 答えは出なかった。「ごめん」 腕を押し返した勢いのまま、舞台の中央へ跳ぶ。 大剣が、セラの胸へ集まる太い銀糸を斬った。 音が消えた。     * セラの身体が床へ落ちる。「助け――」 イノリは抱き止めた。 軽かった。歌い手の身体は、片腕で支えられるほど軽い。 次の瞬間、客席の仮面が一斉に割れた。 落ちなかった。 割れた白い破片は、そのまま顔に残っている。内側の針が皮膚へ食い込んでいて、破片を支えていた。七十三の顔が、白い欠片を貼りつけたまま現れる。 その顔から、押し込められていた悲鳴が噴き出した。 亡くした子の名前。焼けた故郷の匂い。助けられなかった者への謝罪。 七十三人ぶんの声が、同時に来た。 劇場に反響はなかった。声は闇に触れたところで止まって、返ってこない。だから何度でも新しい悲鳴の余地があった。 半分だけ仮面の残った男が
last update最終更新日 : 2026-08-18
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誰の悲しみでもない

「名前を、教えてください」 セラは歌わなかった。 黒い水へ腰まで浸かりながら、一人ずつ観客の前へ立つ。 水は冷たくない。体温より少しだけ高い。浸かった場所から順に、記憶が濃くなっていく。セラは何度も足を止めて、自分が今どこに立っているのかを確かめ直した。 最前列の老婆は、両手で膝を抱えていた。 顔は上がっている。目だけが、誰も見ていない。「あなたが会いたい人の名前を、教えてください」 返事はなかった。 もう一度聞いた。三度目で、老婆の唇が動いた。「エマ」「エマさん」「孫の」 言ってから、老婆は自分の声に驚いたような顔をした。「靴だけ残って、帰ってこなかった」 その隣で、男が肩まで水に浸かっていた。 名前を呼ばれても、しばらく反応しなかった。老婆が手を伸ばして、袖を引く。二度引いた。「私の妻は、リーナです」「奥さんを」「昨日」「私は三年前です」 老婆が言った。 失った相手も、時間も、後悔も違う。二人はそれきり黙った。 それでも、水位が二人の周りだけ、わずかに下がった。「今」 セラが言うより早く、ミコトが撃った。 青い光が水面へ刺さって、そのまま沈まずに留まる。円い、薄い板のようなものが二人の足元へできた。 老婆が先に立ち上がった。男が遅れて続く。 足場の上では、水は膝より上へ来なかった。「一つ目」 ミコトが言う。「あと五発」 板は透けていた。 厚みは指の半分もない。青い光の膜が張っているだけで、その下の水が見える。 水の中に、顔があった。 沈んだ者たちが、上を向いている。目は開いている。板の真下にいる者は、はっきりと見えた。輪郭も、髪の流れ方も。 その中に、右手を動かし続けている女がいた。 拍手の形のまま、掌を合わせている。 イノリは、その顔を見た。 それから、板の別の場所へ足をずらした。「下を見ないで」 ミコトが言った。「見たら」「足の裏の感覚がなくなるの」 老婆が下を見た。 見てから、慌てて顔を上げた。それきり、しばらく足を動かさなかった。     * イノリは大剣で巨大な顔の歯を受け止めていた。 怪物は言葉を持たない。口を開くたび、七十三人の記憶が混じった悲鳴を吐く。 母を呼ぶ声。帰れなかった兵士の名前。誰にも言えなかった助けて。 腕が痺れて、剣先が沈んだ。「イノ
last update最終更新日 : 2026-08-19
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悲しみを渡す

 黒い核へ亀裂が走った。 巨大な顔も、白い腕も、笑顔の仮面も、細かな光へ崩れていく。 崩れるのに、時間がかかった。 歯が一本ずつ落ちて、光になる。増えた順の逆から消えていく。最後まで残ったのは、いちばん小さな乳歯だった。 黒い水が透明になった。 底には無数の白い花が沈んでいる。目も口もない、ただの花だった。 イノリは空中から落ちて、ミコトと一緒に舞台へ転がった。「無事」「それは私の台詞よ」「ミコトが下になったから、私は大丈夫」「たまには、申し訳なさそうにしたら?」 笑おうとすると、頬の傷が痛んだ。 痛んだ場所は、糸に引かれて笑わされた側だった。 イノリは笑うのをやめた。「怖かった」「そう」「勝手に糸を切ったとき、全部終わったと思った」「運がよかっただけよ」「厳しいね」「事実よ」 ミコトはそれ以上責めず、立ち上がるために手を差し出した。 その手が、まだ濡れている。 黒い水はもう透明になったのに、ミコトの袖だけが肘まで黒かった。引き上げた人数の分だけ、色が残っている。 セラが二人の前へ来る。 裂けた口元には、まだ銀糸の跡が残っていた。「皆、まだ悲しんでいます」「悲しいことがあったから」 イノリは答えた。「悲しみが消えなかったことを、失敗だとは思いません」 セラは静かに言う。「でも、あなたが私の糸を勝手に切ったことは、まだ許せません」「うん」「それでも、助けてくれたことには感謝しています」「うん」 イノリは、どちらにも同じ返事をした。 どちらか片方だけを受け取りたくなる自分を、押さえていた。     * 現実へ戻った聖歌院は、泣き声に包まれていた。 眠っていた人々が一人ずつ目を覚まし、大切な者の名前を呼ぶ。 目を覚ますとき、全員が同じ動きをした。まず口元へ手をやる。仮面を探している。ないと分かって、指がそのまま頬へ落ちる。 そこから泣き出すまでに、少しだけ間があった。 孫の靴を抱いた老婆が尋ねた。「泣いても、いいのでしょうか」 セラは、少し待ってから口を開いた。 これまでなら、はいと笑って皆を安心させただろう。「私は、泣きたいです」 少女は自分の胸へ手を当てた。「一緒に泣いてくれる人がいたら、嬉しいです」 老婆の表情が崩れる。「会いたい」 小さな靴を抱きしめた。「あの子に
last update最終更新日 : 2026-08-20
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