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放して、と彼女は言った

Penulis: たつき
last update Tanggal publikasi: 2026-08-11 12:14:32

 朝の訓練場は、静かだった。

 白い人形が並び、騎士たちが順番に剣を振り下ろしている。掛け声はない。刃が当たる音だけがする。

 人形は木でも布でもなく、触ると乾いた粘土のような感触がした。斬られた場所が黒く変色して、しばらくすると元へ戻る。何度でも使えるように作られている。

 イノリは大剣を構えた。

 構えたつもりだった。

 剣先が下がって、爪先の三センチ手前に落ちた。

「足」

 ミコトが短く言う。

「見えてた」

「見えていて避けないなら、それは反応が遅いのよ」

「見えてたって言ってるでしょ」

「二回言えば速くなるわけではないわ」

 午前中で、イノリは人形を一体も倒せなかった。

 振り上げると剣が後ろへ引かれ、振り下ろすと身体ごと持っていかれる。三回目で、自分が剣を振っているのか剣に振られているのか分からなくなった。四回目は、振る前に手を止めた。止めても、剣先は勝手に下がった。

 午前が終わる頃には、代わりに石畳を三箇所割っていた。

 訓練場の反対側では、槍を持った少女が人形の喉を正確に突いている。同じ場所を、同じ角度で、何度も。

 昨日、遺書を二つに折って懐へ入れた子だった。

 突いた後、必ず一度槍を引いて、穂先を見る。血がつくわけでもないのに、毎回見る。

「上手いね」

 イノリが声をかけると、カナタは槍を下ろした。

「三年やってる」

「三年」

「弟が死んだ日から」

 それだけ言って、また構え直した。

「弟さん、いくつだったの」

 カナタの穂先が止まった。

「十一」

 それ以上は言わなかった。イノリも聞かなかった。

 少し離れた場所で、弓を持った少女が的を射抜いていた。

 リゼットというらしい。矢は毎回同じ場所へ刺さる。抜いて、また射る。抜いて、また射る。的を替えようとしないので、同じ穴が広がっていくだけだった。

「当たりすぎて、練習にならないんじゃない?」

 イノリが言うと、リゼットは初めてこちらを見た。

「壁の向こうを射ってるの」

「え」

「あの的の向こうに、私の町があると思って射ってる」

 弓を下ろす。

「もうないけど」

 それだけ言って、また構えた。

 鎖のついた杖を持つフユは、訓練場の隅で紙の束を広げていた。

 名簿だった。細かい字が三段組みで並んでいる。イノリが覗こうとすると、拒否された。

「見せられない?」

「見ても、名前しかないよ」

 フユは束を閉じて、杖を握った。

 紙の角が擦り切れている。何度も開いて、何度も閉じた形だった。

「全部覚えてるの」

「三百人いる」

「覚えてるの?」

 フユは答えず、鎖を回し始めた。

 昼を過ぎた頃、志願者の一人が倒れた。

 候補者ではない。指輪の適性を測るために、借り物の夢装を出していた子だった。

 十五分になった瞬間、壁際の聖職者が二人、走り出した。

 誰かが叫ぶより早かった。片方が担架を持ち、もう片方が子どもの指から借り物の指輪を抜く。

 夢装が解けた。

 解けた直後に、膝が折れた。

「速いね」

「規則があるの」

 ミコトが言う。

「十五分を超えたら、何があっても下ろす」

「なんで十五分なの?」

「昔、十六分立っていた子が死んだから」

「悪夢の中でも十五分?」

「中は別よ。現実の身体を置いていくから」

「じゃあ、中の方が安全なんだ」

「置いていった身体の方が、先に駄目になるだけ」

 イノリは担架を目で追った。

 運ばれていく子は、目を開けたままだった。

 瞬きをしない。腕だけが動いて、聖職者の袖を掴もうとしている。聞き取れないことを、まだ言い続けていた。

 訓練場の誰も、その方を見なかった。

 見ないことに、慣れている動き方だった。

 双剣のナナセだけが、訓練場の隅で寝転がっていた。

「やらないの」

「やってる。目で」

「目で?」

「あの人たちの癖、全部覚えた。次に組むとき役に立つ」

 ナナセは片目を開けてイノリを見た。

「あなたのも覚えた。踏み込む前に息を吸う」

「え」

「直した方がいいよ。悪夢って耳がいいらしいから」

「どうしてそんなの見てるの」

「暇だから」

 目を閉じる。

「あと、生き残りたいから」

 イノリはその日、自分の呼吸を意識しすぎて、さらに二体の人形を取り逃した。

     *

 夕方、宿舎へ戻る途中でカナタが横に並んだ。

「昨日、子どもに言ってただろ」

「え」

「みんなを助けてくれるのって聞かれて、頷いてた」

「頷いたよ」

「願いは一つしか叶わない」

「聞いた」

「じゃあ、みんなとは言わない方がいい」

 イノリは足を止めた。

「誰かを見捨てるつもりはないよ」

「相手が、見捨ててくれって言ってもか」

 答えられなかった。

 カナタはそれ以上何も言わず、先に行った。

 宿舎の窓から訓練場が見える。

 隅で、一人の少女が赤い石を握って泣いていた。候補者の指輪ではない。ただの石だ。選ばれなかった子なのだと、あとで聞いた。

 悲しくて泣いているのか、選ばれずに済んで泣いているのか、イノリには分からなかった。

     *

 三日目の午後、広場で悲鳴が上がった。

「助けてください!」

 赤茶色の髪の少女が、眠った子どもを抱えて人垣から飛び出してくる。

 抱え方が下手だった。首が支えられていなくて、走るたびに頭が揺れる。それでも離さない。

「三日前から、目を覚まさないんです。それに今朝から、お父さんたちが私のことまで思い出せなくなってて」

 手から家族の絵が落ちた。

 父、母、妹。その隣にいたはずの一人だけが、黒く塗り潰されている。

 何度も上から塗り重ねたらしく、その部分だけ紙が波打っていた。

「名前は」

「ミア。妹はリリです」

「妹さんは、目を覚ました?」

 ミコトが聞いた。

「まだです」

「あなたのことは、誰から忘れていった」

「父と、母から」

「対価だけ払わされているわね」

 ミコトの声が低くなる。

「え」

「何でもないわ」

「イノリ、下がって」

 ミコトの指輪が青く光った。

「夢素濃度が急上昇している。悪夢領域が開くわ」

 石畳の隙間から、黒い水が滲み出した。

 水は低い方へ流れない。溝を無視して、まっすぐミアの足元へ集まってくる。

 広場の人々が下がった。

 悲鳴は上がらなかった。声より先に、後退りが来る。誰かが露店の台をひっくり返して、林檎が転がった。

 林檎は黒い水に触れた場所から、音もなく色を失った。

 家族の顔を縫い合わせたような影が、ミアの背後に立った。

 顔は三つある。父と、母と、子ども。継ぎ目のところで目の高さが合っていない。

 子どもの顔だけが、上下逆に付いていた。

「お姉ちゃんなんて、最初からいなかった」

 ミアが両手で耳を塞いだ。

「私がいなくなれば、リリは助かるの?」

 影の腕がミアの腰へ絡み、黒い水へ引きずり込む。

「放して!」

 ミアが叫んだ。

「私が消えればいいなら、放してよ!」

 イノリは伸ばされた手を掴んだ。

「イノリ、放しなさい! 構造も脱出方法も分からない!」

 イノリは放さなかった。

「本人も放してって言ってる!」

「怖くて言ってるだけだよ!」

「それを決めるのは、あなたじゃない!」

 ミコトの声が、想像していたより大きかった。

 イノリの手の中で、ミアの指が握り返してくる。

 放してと言った口と、掴んでいる手が、違うことを言っている。

「分からないからって、見捨てる理由にはならない」

 赤い夢装が身体を包んだ。

 それでも、と思う。

「ミア」

 イノリは顔を近づけた。

「私と来る?」

 ミアは黒い腕に引かれながら、泣いて頷いた。

「助けて」

「分かった」

 イノリがミアを抱き寄せる。ミコトが舌打ちして、二人の腕を掴んだ。

「中では私の指示を聞きなさい。勝手に走らない。勝手に剣を振らない。勝手に誰かを抱えて飛び込まない」

「最後のは、もうやってる」

「そんなの、分かってるわよ!」

 黒い水が三人を呑み込んだ。

     *

 沈むというより、落ちる感覚だった。

 水は身体に纏わりつかない。抵抗もない。ただ、上と下が入れ替わったように景色が流れていく。

 音が消えた。広場の人声も、警鐘も、自分の心臓の音まで遠くなる。

 イノリは三人の手を繋ぎ直した。

 ミアの手は冷たい。ミコトの手は強くて、指が食い込むほど掴んでくる。

「怖い?」

 イノリがミアに聞いた。

「救世候補なのに、聞くんですか」

「なったばかりだから、私も怖い」

「怖くても来たの」

「ミアが来てって言ったから」

 さっきまで放してと叫んでいた少女は、今は手を離さない。

 背後でミコトが銃を呼び出した。

「感想を言い合っている場合ではないわ。現実の身体との接続を確保する。ヨル、聞こえる?」

 雑音混じりの声が返った。

「聞こえる。三人とも生命反応はある。イノリの心拍だけうるさい」

「怖いって言ったでしょ」

「ミコトの方は」

 イノリが聞いた。

「正常範囲」

「そういう人が、一番怖がってるんだよ」

「黙って呼吸を数えなさい」

「意識すると、余計に――」

「ヨル」

「はい」

 黒い水が胸まで上がってくる。

 温度がない。冷たくも温かくもない。触れている場所の輪郭だけが、少しずつ薄れていく。

 イノリは息を止めた。

 止めたまま、しばらく経った。

 苦しくならない。

 苦しくならないことが、いちばん怖かった。人間の身体がしなければならないことを、この場所が肩代わりしている。

 周りから、家族の声が聞こえた。

「お姉ちゃんなんて、いらない」

「最初から、いなかった」

 声は近くから聞こえるのに、姿は見えない。

 ミアの輪郭が、暗闇の中で薄くなった。

 イノリは手を引き寄せて、少女を抱きしめた。

「ミア。名前を呼んで」

「誰の」

「自分の」

「……ミア」

「もう一回」

「ミア」

 三人で何度も名前を呼んだ。

 存在を証明する魔法なんてない。ただ声に出して、ここにいると確かめるだけだ。

 赤い指輪が暗闇を照らした。

     *

 水面を抜けた瞬間、夕日の色と料理の匂いが三人を包んだ。

 焼きたてのパン。白いスープ。窓から差す、傾いた光。

 匂いが濃すぎた。

 実際の台所では、こんなに全部が同時に匂わない。焼きたてと、煮込みと、干した果物の甘さが、どれも同じ強さで立っている。

 幸福な家というものを思い出しながら、あとから匂いを足していったような部屋だった。

 埃が光の中で回っている。床は磨かれていて、壁には子どもの背丈を測った線が何本も引かれていた。

 父親が笑っている。母親が皿を運んでいる。眠っていたはずのリリが、足を揺らしてスープを飲んでいる。

 あまりに温かい景色だったので、イノリは一瞬、自分たちの方が壊しに来た側なのではないかと思った。

 食卓には、椅子が三つあった。

 ミアの席だけがなかった。

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