로그인
崩れた梁の下で、イノリは自分の息の音を聞いていた。
ひゅう、と喉が鳴る。吸うたびに、濡れた紙を裂くような音が胸の奥でした。
右腕は肘から先が瓦礫の外に出ていて、そこだけが熱い。左側は何も感じない。感じないことが怖いのか、確かめるのが怖いのか、自分でも決められなかった。
火の音は、思っていたより静かだった。
燃えているのは家々ではなく、その中にあったものらしい。布や紙や、名前の分からないものが焦げる匂いが、地面すれすれのところに溜まっている。
その中に、混じってはいけない匂いが一つあった。
何の匂いかは、考えないことにした。
空に、黒い月が出ていた。
月というより、穴だ。星も煙も吸い込んで、その奥から名前のない何かが地上を覗いている。
見られている、と思った。
思った瞬間、穴の奥で何かが位置を変えた。
よく見るために動いた、という動き方だった。
目を逸らそうとして、逸らせなかった。首は動く。動かしても、視界の中心から外れてくれない。
指の感覚がなくなった。
*
声がした。
自分の声ではなかった。
遠い。瓦礫の向こう、たぶん道を一本挟んだあたりから聞こえる。
「だれか」
言葉はそれだけだった。
同じ言葉を、同じ間隔で繰り返している。
イノリは返事をしようとした。
口から出たのは、血の混じった泡だけだった。
足音が近づいてきた。
軽い。子どもの足音だった。
走ってきて、途中で止まる。
止まった場所は、たぶん自分と、あの声のちょうど間だった。
止まっている時間は、短かった。
息を二つ吸う間もなかったと思う。
足音は、こちらへ来た。
瓦礫が動いた。
石が擦れる音。木の折れる音。崩れた埃が口へ入ってきて、噎せようとしたが、噎せる力がなかった。
「イノリ」
爪の割れた指が、石を掻いている。額が切れて、血が片目を潰していた。それでも手を止めない。熱で膨れた金具に触れて、小さく声を上げて、それでもまた手を伸ばす。
「イノリ。目を開けて」
ヨルの指が、イノリの手を探し当てた。
冷たい。
周りは燃えているのに、その手だけが井戸の水みたいだった。
「わたしが助ける」
ヨルは泣いていなかった。
「だから、いなくならないで」
遠くで、まだ声がしていた。
「だれか」
さっきより、間が空いている。
「……だれか」
ヨルは手を止めなかった。
顔も上げなかった。
三度目の「だれか」は、途中で終わった。
四度目は、来なかった。
その時、ヨルの胸元が光った。
黒い光だった。
花の形をしていた、と思う。
開いてはいなかった。閉じたままの形から、蔦みたいな細い線が首筋へ伸びていく。
皮膚は破れなかった。
破れずに、線の方が内側へ入っていった。通り道だけが下から押し上げられて、細く盛り上がる。それが首筋を過ぎて、耳の下で見えなくなった。
ヨルは痛がりもしなかった。
ただ、自分の胸を見下ろした。
それから、はっとしてイノリの顔を見た。
目が合った。
声のことを考えようとしたが、考えるための場所が、もう頭のどこにも残っていなかった。
イノリの意識は、そこで切れた。
だから知らない。
ヨルが服の合わせ目を掻き寄せて、光を隠したことを。
黒い月が、一度だけ瞬いたことを。
もう一つの声が、いつ止まったのかを。
*
十年後の朝、イノリは白い塔の階段を上っていた。
王都の空はまだ薄い。大聖堂の鐘は一度目しか鳴っていない。
踊り場で、水差しを持った聖職者とすれ違った。
「今日は、式では」
「先に寄ります」
「……お早いですね」
聖職者は道を空けたが、少し困った顔をしていた。
最上階の扉には、銀の鎖が巻かれている。
七本。
太さは指ほどもなくて、力を入れれば切れそうに見える。それでも七本ある。
イノリは数えてから、扉を叩いた。
「ヨル。入るよ」
「返事を待たないなら、聞かなくていいと思う」
寝起きの声が返った。
部屋の中は暗い。窓が一つあるが、開かない。枠に古い塗料が固まっていて、そもそも開けることを想定していないように見えた。
黒髪の少女が、寝台の上で身体を起こしていた。
髪が肩から胸へ落ちている。結っていないと、腰の下まである。
「なんで来たの」
「顔、見に」
「式は」
「まだ」
ヨルは何か言おうとして、やめた。
イノリは床に座った。
椅子は一つしかないので、いつもそうしている。ヨルが寝台、自分が床。十年前からそうだったわけではないが、いつからかそうなった。
「髪、伸びたね」
「切ってない」
「切らないの」
「切りたくない」
それ以上は言わなかった。
毛先が少し傷んでいる。朝の光が当たると、そこだけ色が違って見えた。
イノリは手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「触っていい?」
「なんで」
「触りたいから」
ヨルの目が、一度だけ大きくなった。
「……いいよ」
指を通すと、思っていたより重かった。
冷たくもない。この部屋のものは大体冷たいのに、髪だけが人の温度をしている。
イノリはしばらく黙って、毛先を指の間で滑らせていた。
「それ、楽しい?」
「うん」
「変なの」
ヨルは窓の方を向いた。
向いたきり、しばらくそのままでいた。
*
大聖堂は、外から見るより中の方が暗かった。
高い窓から光が入るのに、床まで届く前に空気に吸われてしまう。石の匂いと、蝋の匂いと、誰かが昨日焚いた香の残りが混ざっている。人がたくさんいるのに、咳の音がやけに大きく響いた。
「――イノリ」
額に硬いものが落ちてきた。
目を開けたとき、自分の左腕を掴んでいた。
感覚はある。あることを、指で二度確かめた。
それから、声が耳へ入ってきた。
「救世候補の選定式で眠れる神経だけは尊敬するわ」
銀髪の少女が、教本を持ったまま見下ろしている。まるで、昔から自分のことを知っているかのような表情で。
「寝てない。昔の夢を見てただけ」
「机に顔をつけ、目を閉じ、返事をしなかった。三つ揃えば居眠りよ」
「……名前、なんだっけ」
「ミコト。二度目はないから覚えなさい」
「……ミコト」
床には七つの円が刻まれていた。
六つに少女が立っている。イノリとミコトを入れて、六人。
残る一つには白い布が掛けられ、誰も立っていない。
布は円の形に合わせて丁寧に敷かれていて、端が少しだけめくれていた。誰かが直そうとして、途中でやめたように見える。
布の下が、わずかに盛り上がっている気がした。
もう一度見ると、平らだった。
イノリは、その布から目を離せずにいた。
「百年に一度、黒い月が満ちる年」
祭壇の大司教が両手を広げた。
「人の恐怖、後悔、憎悪は七つの大悪夢となり、夢から現実へ染み出します。黒月が満ちるまでに討ち果たせなければ、世界は永久の眠りへ沈むでしょう」
満ちるのは、まだ先の話らしい。
けれど近づくにつれて、各地で小さな災害が起きる。十年前に王都が焼けた夜も、その一つだった。
背後の聖画には、怪物を囲む七人の少女が描かれている。
七人とも、顔だけが白く塗り潰されていた。
輪郭に沿って、髪の生え際で丁寧に止めてある。あとから消したのではなく、最初からそう描いてある。
イノリは自分の頬へ手をやった。
何も塗られていない。当たり前だった。
当たり前なのに、確かめてしまった。
「七つの大悪夢を滅ぼした時、世界には次の百年の平和が訪れます。そして最も多くの魂を救った者には――世界の理を一度だけ書き換える、最後の願いが与えられるでしょう」
どよめきが起きた。
死者を蘇らせる。呪いを解く。治らない病を、なかったことにする。
イノリがここに立っている理由は、それだけだった。
候補者が順に指輪を受け取る。イノリの石は赤かった。
はめた瞬間、骨の隙間へ熱い針を刺されたような痛みが走った。白と赤の戦闘衣が身体を包み、右手に剣が現れる。
重い。
想像していた重さの、三倍くらい重い。
剣先が落ちて、床の石に亀裂が入った。
「イノリ!」
「落としてない。置いただけ」
「嘘おっしゃい!」
「じゃあ、どうすればよかったの」
「ちゃんと、持っていなさい」
ミコトの方は、青白い銃を危なげなく構えている。
「どうして最初から使えるの」
「候補者になる可能性を考えて訓練していたから」
「普通、考えないよそんなの」
「普通の人間は選定式で寝ないわ」
夢装が消えたあと、胸の中心に薄い痕が残った。
円を半分に割ったような形をしている。指でなぞっても、盛り上がってはいない。
「それが夢痕よ」
ミコトが言った。
「消えるの」
「死ぬまで残るわ」
「へえ」
「そこから引き抜かれることもある。気をつけなさい」
「何を」
「まだ分からない」
補佐の聖職者が、白い紙と封蝋を配って回った。
「任務の前に、必ずご用意ください」
遺書だった。
誰かが息を呑む音がした。イノリの隣では、槍を持った少女が紙を二つに折って懐へ入れている。慣れた手つきだった。折り目を指の腹で二度なぞってから、しまった。
壁際には、悪夢で家族を失った者たちが並んでいる。包帯を巻いた母親。片腕の青年。それから、絵本の英雄を見るような目をした小さな子ども。
その子が母親の袖を引いた。
「あの、赤いお姉ちゃんが」
言い直す。
「赤いお姉ちゃんが、みんなを、助けてくれるの」
夢装は骨に食い込んでいて、背中まで痛かった。
それでもイノリは笑ってみせた。
子どもも笑った。
その瞬間、剣が急に重くなった。
「どうして、聖画の子たちは顔がないの」
イノリが小声で聞く。
「個人ではなく、使命を描いているからでしょう」
「名前も残ってないの」
「世界を救った。それで十分よ」
ミコトの声に迷いはなかった。
イノリには、十分だとは思えなかった。好きだった食べ物も、怖かった夜も、誰に会いたかったかも消して、使命だけを残す。それは人を英雄にするのではなく、最初から人ではなかったことにするかのようだ。
式が終わると、イノリは白布の掛かった七つ目の円へ近づいた。
布の下は、ただの石だった。他の六つと同じ、円と、その中に刻まれた細かい文様。
埃が積もっていない。誰かが定期的に掃いている。
「触らない方がいい」
ミコトが言う。
「まだ持ち主がいるから?」
「記録上は」
「記録上は、って何」
ミコトは答えなかった。
*
その夜、イノリは遺書用紙を開いた。
書いたのは、別れの言葉ではない。
――ヨルへ。必ず戻る。最後の願いで、塔の外へ連れ出す。
遺書としては間違っている。
封をして、胸元へ入れた。
大聖堂の裏に、白い塔がある。
窓がほとんどない。あるのは踊り場ごとの細い明かり取りだけで、外からは壁の継ぎ目にしか見えない。壁に刻まれた聖印は病人を守るためのものだと教会は言うが、イノリにはどう見ても、檻に何重も鍵を掛けているようにしか見えなかった。
「今日はもう休むべきだわ」
螺旋階段を、ミコトが後ろからついてくる。
「その前に報告する」
「選ばれたことなら、教会から伝わっているでしょう」
「紙で読むのと、私が言うのは違うよ」
階段は幅が狭くて、二人並ぶと肩が当たる。
上るにつれて空気が変わった。冷たくなるのではなく、動かなくなる。息を吸うと、自分の吐いたものをもう一度吸っている気がした。
三十段ほど上ったところで、下の音が届かなくなった。
大聖堂の鐘も、人の声も、風もない。
ここで叫んでも、誰にも聞こえない。
そう気づいてから、イノリは自分の足音を少し大きく立てるようになった。
*
部屋は、思っていたより広い。
広いのに、物がない。
寝台が一つ。机が一つ。椅子が一つ。壁際に銀色の夢鏡。それだけだ。
ヨルは窓辺に腰掛けていた。朝と同じ場所で、朝と違う向きで。
白い寝間着から覗く腕に、黒い蔦のような痣が絡んでいる。手首から始まって、肘の内側で一度太くなり、そこから先は袖に隠れていた。どこで終わっているのかは、イノリも知らない。
爪は短く切り揃えられている。自分で切ったにしては、左右が同じ長さすぎる。
十年前のあの夜から、ヨルはこの塔にいる。
痣が黒いものを漏らし始めたのは半年前で、それから扉の鎖が三本増えた。
夢装に、病を治す力はない。
だから、最後の願いが必要だった。
「おめでとう、救世候補」
「見て、指輪」
「大聖堂の床を壊した指輪だ」
「壊してない。置いただけ」
「もう伝わってるんだ、その言い訳」
「誰から聞いたの」
「聞いてない。想像した」
ヨルは窓枠から下りて、寝台に座り直した。
立ち上がるときに一度、机の縁へ手をついた。それを見なかったふりをするのは、イノリの十年ぶんの習慣だった。
机の上には、枯れない白い花と、教会が選んだ本と、時刻を告げる小さな鐘があった。
花は蝋か何かでできていて、埃をかぶらない材質らしい。本は背表紙が硬いまま、一度も開かれた形跡がない。鐘は一日に四度鳴る。祈りの時刻を知らせるためのものだが、この部屋には祈る相手がいない。
外の季節を知らせるものは、何もなかった。
「次は本物の花を持ってくるね」
「枯れるものは嫌い」
「どうして」
「ここにいると、最後まで見届けることになるから」
イノリが言葉に詰まると、ヨルは肩をすくめた。
「冗談」
「今の、絶対冗談じゃない」
「半分は冗談」
「半分ってどっち」
「聞かないで」
イノリは床に座った。
「私、七つ全部倒す」
顔を上げて言った。
「最後の願いで、ヨルを塔から出す」
「ふうん」
ヨルは窓の外を見た。
「海が見たい」
「え?」
「なんでもない」
ヨルは足を組み替える。
「世界を救うついでに、私も救うんだ」
「ついでじゃない」
「じゃあ、世界と私、どっちが大事?」
軽い調子の問いだった。
でもヨルの指は、寝間着の裾を強く掴んでいた。
「どっちも」
イノリは迷わなかった。
「どっちかを選ばなきゃいけない理由なんて、ないよ」
ヨルは笑った。
笑ってから、一度だけ口の端を下げて、また上げた。
窓の外で、鐘が鳴った。
三度目の祈りの時刻だった。ヨルは窓の外へ目をやったまま、鐘が鳴り終わるのを待っていた。
*
帰り際、ヨルが窓枠を指で叩いた。
「ねえ」
「何?」
「もし私が、もう悪夢へ行かないでって言ったら」
イノリは振り返った。
ヨルの目は笑っていない。
それでもイノリは、その問いを冗談に戻そうとした。
「ヨルはそんなこと言わないよ」
少し間があった。
「……そうだね」
ヨルは視線を落とした。
イノリは何か間違えた気がしたけれど、何を聞き直せばいいのか分からないまま、扉を閉めた。
銀の鎖が、外側から一本ずつ掛け直されていく。
一つ。二つ。三つ。
イノリは階段を下りながら、数えていた。
七つ。
なぜ数えたのかは、自分でも分からなかった。
*
扉が閉じたあと、ヨルは窓辺から動かなかった。
黒い月が、少しだけ膨らんでいる。
寝間着の合わせ目を開くと、胸の痣が熱を持っていた。十年前から消えない痣だ。教会の医師は、誰も名前をつけられなかった。
指で押すと、皮膚の下で何かが動いた。
押した場所が、押し返してくる。
脈だった。
自分の心臓より、少しだけ速い。
蕾のような形をしている。
「まだ、咲かないで」
返事はない。
当たり前だ。
花はまだ、口を持っていない。
ヨルは髪へ手をやった。
朝にイノリが触った側だけ、指で梳いてみる。
それから、窓の外へ目をやった。
十年前に焼けた側の空を、少しだけ見た。
すぐに、やめた。
それから、両手で顔を覆った。
しばらく、そのままでいた。
「お母さん」 母親は振り返らなかった。 ミアの身体を煙みたいにすり抜けて、リリの皿へスープを足す。「ねえ。私、ここにいるよ」 触れようとした指先が、白い靄になって崩れた。 崩れた場所は痛くないらしい。ミアは自分の手を何度も握ったり開いたりして、感覚があることを確かめている。 壁に並んだ家族の絵から、ミアだけが一枚ずつ消えていく。 端から消えるのではなかった。輪郭の内側が白く抜けて、そこへ背景の壁紙が入り込んでくる。最後に髪の一房だけが残って、それも消えた。「ここはミアの願いで作られた悪夢よ」 ミコトが銃を抜いた。「妹は目覚め、家族は幸福に暮らす。その代わり、姉の存在が最初からなかったことになる」「リリ!」 ミアが妹へ駆け寄った。「お姉ちゃんだよ。毎朝、髪を結んであげたでしょう。雷が怖い夜は――」 リリが笑顔のまま顔を上げる。「お姉ちゃんなんて、いらなかった」 口が耳元まで裂けた。 裂けるとき、音がした。 紙ではなく、湿った布を引くときの音だった。裂けた縁がめくれて、歯の並びが頬の途中まで続いているのが見える。 その奥から黒い指が伸びた。 指の数が合わない。何本あるのか数える前に、二本目の腕が父親の背中から生えた。 ミアは悲鳴を上げなかった。 息を吸ったまま、吐き方を忘れたような顔で立っている。 イノリが腕を掴んで引いた時、初めて声が出た。「走って!」 ミコトが連射する。青い弾丸は腕を貫いたが、傷口から新しい家族の顔が生えてきた。 イノリはミアを抱えて、崩れた壁の向こうへ飛び込む。 * 家の外には、同じ建物が並んでいた。 似ている、という程度の話ではなかった。 屋根の傾き、扉の色、窓枠の割れ方、玄関前に置かれた靴の数と向きまで、一軒残らず同じだった。三軒先まで歩いて振り返ると、来た方向にも同じ家が並んでいる。 どの窓にも幸福な家族がいる。庭で遊ぶ家族。食卓を囲む家族。眠る子どもへ本を読む家族。 そのどこにも、ミアはいない。 悪夢の街には風がなかった。煙突の煙も、木の葉も、窓辺の布も止まっている。動いているのは、窓の中で笑う家族だけだった。 空は夕方の色で固定されている。太陽の位置を探したが、光がどこから来ているのか分からなかった。 影が、どの方向にも伸びていない。 イノリは自分の足元を見
朝の訓練場は、思っていたより静かだった。 白い人形が並び、騎士たちが順番に剣を振り下ろしている。掛け声はない。刃が当たる音だけがする。 人形は木でも布でもなく、触ると乾いた粘土のような感触がした。斬られた場所が黒く変色して、しばらくすると元へ戻る。何度でも使えるように作られている。 イノリは大剣を構えた。 構えたつもりだった。 剣先が下がって、爪先の三センチ手前に落ちた。「足」 ミコトが短く言う。「見えてた」「見えていて避けないなら、それは反応が遅いのよ」「見えてたって言ってるでしょ」「二回言えば速くなるわけではないわ」 午前中で、イノリは人形を一体も倒せなかった。 振り上げると剣が後ろへ引かれ、振り下ろすと身体ごと持っていかれる。三回目で、自分が剣を振っているのか剣に振られているのか分からなくなった。四回目は、振る前に手を止めた。止めても、剣先は勝手に下がった。 午前が終わる頃には、代わりに石畳を三箇所割っていた。 訓練場の反対側では、槍を持った少女が人形の喉を正確に突いている。同じ場所を、同じ角度で、何度も。 昨日、遺書を二つに折って懐へ入れた子だった。 突いた後、必ず一度槍を引いて、穂先を見る。血がつくわけでもないのに、毎回見る。「上手いね」 イノリが声をかけると、カナタは槍を下ろした。「三年やってる」「三年」「弟が死んだ日から」 それだけ言って、また構え直した。「弟さん、いくつだったの」 カナタの穂先が止まった。「十一」 それ以上は言わなかった。イノリも聞かなかった。 少し離れた場所で、弓を持った少女が的を射抜いていた。 リゼットというらしい。矢は毎回同じ場所へ刺さる。抜いて、また射る。抜いて、また射る。的を替えようとしないので、同じ穴が広がっていくだけだった。「当たりすぎて、練習にならないんじゃない?」 イノリが言うと、リゼットは初めてこちらを見た。「壁の向こうを射ってるの」「え」「あの的の向こうに、私の町があると思って射ってる」 弓を下ろす。「もうないけど」 それだけ言って、また構えた。 鎖のついた杖を持つフユは、訓練場の隅で紙の束を広げていた。 名簿だった。細かい字が三段組みで並んでいる。イノリが覗こうとすると、拒否された。「見せられない?」「見ても、名前しかないよ」
崩れた梁の下で、イノリは自分の息の音を聞いていた。 ひゅう、と喉が鳴る。吸うたびに、濡れた紙を裂くような音が胸の奥でした。 右腕は肘から先が瓦礫の外に出ていて、そこだけが熱い。左側は何も感じない。感じないことが怖いのか、確かめるのが怖いのか、自分でも決められなかった。 火の音は、思っていたより静かだった。 燃えているのは家々ではなく、その中にあったものらしい。布や紙や、名前の分からないものが焦げる匂いが、地面すれすれのところに溜まっている。 その中に、混じってはいけない匂いが一つあった。 何の匂いかは、考えないことにした。 空に、黒い月が出ていた。 月というより、穴だ。星も煙も吸い込んで、その奥から名前のない何かが地上を覗いている。 見られている、と思った。 思った瞬間、穴の奥で何かが位置を変えた。 よく見るために動いた、という動き方だった。 目を逸らそうとして、逸らせなかった。首は動く。動かしても、視界の中心から外れてくれない。 指の感覚がなくなった。 * 声がした。 自分の声ではなかった。 遠い。瓦礫の向こう、たぶん道を一本挟んだあたりから聞こえる。「だれか」 言葉はそれだけだった。 同じ言葉を、同じ間隔で繰り返している。 イノリは返事をしようとした。 口から出たのは、血の混じった泡だけだった。 足音が近づいてきた。 軽い。子どもの足音だった。 走ってきて、途中で止まる。 止まった場所は、たぶん自分と、あの声のちょうど間だった。 止まっている時間は、短かった。 息を二つ吸う間もなかったと思う。 足音は、こちらへ来た。 瓦礫が動いた。 石が擦れる音。木の折れる音。崩れた埃が口へ入ってきて、噎せようとしたが、噎せる力がなかった。「イノリ」 爪の割れた指が、石を掻いている。額が切れて、血が片目を潰していた。それでも手を止めない。熱で膨れた金具に触れて、小さく声を上げて、それでもまた手を伸ばす。「イノリ。目を開けて」 ヨルの指が、イノリの手を探し当てた。 冷たい。 周りは燃えているのに、その手だけが井戸の水みたいだった。「わたしが助ける」 ヨルは泣いていなかった。「だから、いなくならないで」 遠くで、まだ声がしていた。「だれか」 さっきより、間が空いている。「……だれか」