LOGIN世界を襲う七つの“大悪夢”を倒せば、百年の平和と 一つの願いが与えられる。 救世候補のイノリは、その願いで幼なじみ・ヨルを 塔から救うため、人々を悪夢から解放していく。 しかし、倒した悪夢はすべてヨルの中へ流れ込み、 彼女を処刑される“終末の魔女”へ育てていた。 人を救うためなら相手の意思まで奪ってしまうイノリ、 世界より自分を選んでほしい本音を隠すヨル、 代案がなければヨルを撃つ覚悟を持つミコト。 同じ答えを持てない三人は、誰か一人の犠牲を 正解とする世界の仕組みへ立ち向かう。
View More崩れた梁の下で、イノリは自分の息の音を聞いていた。
ひゅう、と喉が鳴る。吸うたびに、濡れた紙を裂くような音が胸の奥でした。
右腕は肘から先が瓦礫の外に出ていて、そこだけが熱い。左側は何も感じない。感じないことが怖いのか、確かめるのが怖いのか、自分でも決められなかった。
火の音は、静かだった。
燃えているのは家々ではなく、その中にあったものらしい。布や紙や、名前の分からないものが焦げる匂いが、地面すれすれのところに溜まっている。
その中に、混じってはいけない匂いが一つあった。
何の匂いかは、考えないことにした。
空に、黒い月が出ていた。
月というより、穴だ。星も煙も吸い込んで、その奥から名前のない何かが地上を覗いている。
見られている、と思った。
思った瞬間、穴の奥で何かが位置を変えた。
よく見るために動いた、という動き方だった。
目を逸らそうとして、逸らせなかった。首は動く。動かしても、視界の中心から外れてくれない。
指先から順に、感覚が抜けていく。
*
声がした。
自分の声ではなかった。
遠い。瓦礫の向こう、たぶん道を一本挟んだあたりから聞こえる。
「だれか」
言葉はそれだけだった。
同じ言葉を、同じ間隔で繰り返している。
イノリは返事をしようとした。
口から出たのは、血の混じった泡だけだった。
足音が近づいてきた。
軽い。子どもの足音だった。
走ってきて、途中で止まる。
止まった場所は、たぶん自分と、あの声のちょうど間だった。
止まっている時間は、短かった。
息を二つ吸う間もなかったと思う。
足音は、こちらへ来た。
瓦礫が動いた。
石が擦れる音。木の折れる音。崩れた埃が口へ入ってきて、噎せようとしたが、噎せる力がなかった。
「イノリ」
爪の割れた指が、石を掻いている。額が切れて、血が片目を潰していた。それでも手を止めない。熱で膨れた金具に触れて、小さく声を上げて、それでもまた手を伸ばす。
「イノリ。目を開けて」
ヨルの指が、イノリの手を探し当てた。
冷たい。
周りは燃えているのに、その手だけが冷たかった。
「わたしが助ける」
ヨルは泣いていなかった。
「だから、いなくならないで」
遠くで、まだ声がしていた。
「だれか」
さっきより、間が空いている。
「……だれか」
ヨルは手を止めなかった。
顔も上げなかった。
三度目の「だれか」は、途中で終わった。
四度目は、来なかった。
その時、ヨルの胸元が光った。
黒い光だった。
花の形をしていた、と思う。
開いてはいなかった。閉じたままの形から、蔦みたいな細い線が首筋へ伸びていく。
皮膚は破れなかった。
破れずに、線の方が内側へ入っていった。通り道だけが下から押し上げられて、細く盛り上がる。それが首筋を過ぎて、耳の下で見えなくなった。
ヨルは痛がりもしなかった。
ただ、自分の胸を見下ろした。
それから、はっとしてイノリの顔を見た。
目が合った。
声のことを考えようとしたが、考えるための場所が、もう頭のどこにも残っていなかった。
イノリの意識は、そこで切れた。
だから知らない。
ヨルが服の合わせ目を掻き寄せて、光を隠したことを。
黒い月が、一度だけ瞬いたことを。
もう一つの声が、いつ止まったのかを。
*
十年後の朝、イノリは白い塔の階段を上っていた。
王都の空はまだ薄い。大聖堂の鐘は一度目しか鳴っていない。
踊り場で、水差しを持った聖職者とすれ違った。
「今日は、式では」
「先に寄ります」
「……お早いですね」
聖職者は道を空けたが、少し困った顔をしていた。
最上階の扉には、銀の鎖が巻かれている。
七本。
太さは指ほどもなくて、力を入れれば切れそうに見える。それでも七本ある。
イノリは数えてから、扉を叩いた。
「ヨル。入るよ」
「返事を待たないなら、聞かなくていいと思う」
寝起きの声が返った。
部屋の中は暗い。窓が一つあるが、開かない。枠に古い塗料が固まっていて、そもそも開けることを想定していないように見えた。
黒髪の少女が、寝台の上で身体を起こしていた。
髪が肩から胸へ落ちている。結っていないと、腰の下まである。
「なんで来たの」
「顔、見に」
「式は」
「まだ」
ヨルは何か言おうとして、やめた。
イノリは床に座った。
椅子は一つしかないので、いつもそうしている。ヨルが寝台、自分が床。十年前からそうだったわけではないが、いつからかそうなった。
「髪、伸びたね」
「切ってない」
「切らないの」
「切りたくない」
それ以上は言わなかった。
毛先が少し傷んでいる。朝の光が当たると、そこだけ色が違って見えた。
イノリは手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「触っていい?」
「なんで」
「触りたいから」
ヨルの目が、一度だけ大きくなった。
「……いいよ」
指を通すと、重かった。
冷たくもない。この部屋のものは大体冷たいのに、髪だけが人の温度をしている。
イノリはしばらく黙って、毛先を指の間で滑らせていた。
「それ、楽しい?」
「うん」
「変なの」
ヨルは窓の方を向いた。
向いたきり、しばらくそのままでいた。
*
大聖堂は、外から見るより中の方が暗かった。
高い窓から光が入るのに、床まで届く前に空気に吸われてしまう。石の匂いと、蝋の匂いと、誰かが昨日焚いた香の残りが混ざっている。人がたくさんいるのに、咳の音がやけに大きく響いた。
「――イノリ」
額に硬いものが落ちてきた。
目を開けたとき、自分の左腕を掴んでいた。
感覚はある。あることを、指で二度確かめた。
それから、声が耳へ入ってきた。
「救世候補の選定式で眠れる神経だけは尊敬するわ」
銀髪の少女が、教本を持ったまま見下ろしている。まるで、昔から自分のことを知っているかのような表情で。
「寝てない。昔の夢を見てただけ」
「机に顔をつけ、目を閉じ、返事をしなかった。三つ揃えば居眠りよ」
「……名前、なんだっけ」
「ミコト。二度目はないから覚えなさい」
「……ミコト」
床には七つの円が刻まれていた。
六つに少女が立っている。イノリとミコトを入れて、六人。
残る一つには白い布が掛けられ、誰も立っていない。
布は円の形に合わせて丁寧に敷かれていて、端が少しだけめくれていた。誰かが直そうとして、途中でやめたように見える。
布の下が、わずかに盛り上がっている気がした。
もう一度見ると、平らだった。
イノリは、その布から目を離せずにいた。
「百年に一度、黒い月が満ちる年」
祭壇の大司教が両手を広げた。
「人の恐怖、後悔、憎悪は七つの大悪夢となり、夢から現実へ染み出します。あの月が満ちるまでに討ち果たせなければ、世界は永久の眠りへ沈むでしょう」
満ちるのは、まだ先の話らしい。
けれど近づくにつれて、各地で小さな災害が起きる。十年前に王都が焼けた夜も、その一つだった。
背後の聖画には、怪物を囲む七人の少女が描かれている。
七人とも、顔だけが白く塗り潰されていた。
輪郭に沿って、髪の生え際で丁寧に止めてある。あとから消したのではなく、最初からそう描いてある。
イノリは自分の頬へ手をやった。
何も塗られていない。当たり前だった。
当たり前なのに、確かめてしまった。
「七つの大悪夢を滅ぼした時、世界には次の百年の平和が訪れます。そして最も多くの魂を救った者には――世界の理を一度だけ書き換える、最後の願いが与えられるでしょう」
どよめきが起きた。
死者を蘇らせる。呪いを解く。治らない病を、なかったことにする。
イノリがここに立っている理由は、それだけだった。
候補者が順に指輪を受け取る。イノリの石は赤かった。
はめた瞬間、骨の隙間へ熱い針を刺されたような痛みが走った。白と赤の戦闘衣が身体を包み、右手に剣が現れる。
重い。
想像していた重さの、三倍くらい重い。
剣先が落ちて、床の石に亀裂が入った。
「イノリ!」
「落としてない。置いただけ」
「嘘おっしゃい!」
「じゃあ、どうすればよかったの」
「ちゃんと、持っていなさい」
ミコトの方は、青白い銃を危なげなく構えている。
「どうして最初から使えるの」
「候補者になる可能性を考えて訓練していたから」
「普通、考えないよそんなの」
「普通の人間は選定式で寝ないわ」
夢装が消えたあと、胸の中心に薄い痕が残った。
円を半分に割ったような形をしている。指でなぞっても、盛り上がってはいない。
「それが夢痕よ」
ミコトが言った。
「消えるの」
「死ぬまで残るわ」
「へえ」
「そこから引き抜かれることもある。気をつけなさい」
「何を」
「まだ分からない」
補佐の聖職者が、白い紙と封蝋を配って回った。
「任務の前に、必ずご用意ください」
遺書だった。
誰かが息を呑む音がした。イノリの隣では、槍を持った少女が紙を二つに折って懐へ入れている。慣れた手つきだった。折り目を指の腹で二度なぞってから、しまった。
壁際には、悪夢で家族を失った者たちが並んでいる。包帯を巻いた母親。片腕の青年。それから、絵本の英雄を見るような目をした小さな子ども。
その子が母親の袖を引いた。
「あの、赤いお姉ちゃんが」
言い直す。
「赤いお姉ちゃんが、みんなを、助けてくれるの」
夢装は骨に食い込んでいて、背中まで痛かった。
それでもイノリは笑ってみせた。
子どもも笑った。
その瞬間、剣が急に重くなった。
「どうして、聖画の子たちは顔がないの」
イノリが小声で聞く。
「個人ではなく、使命を描いているからでしょう」
「名前も残ってないの」
「世界を救った。それで十分よ」
ミコトの声に迷いはなかった。
イノリには、十分だとは思えなかった。好きだった食べ物も、怖かった夜も、誰に会いたかったかも消して、使命だけを残す。それは人を英雄にするのではなく、最初から人ではなかったことにするかのようだ。
式が終わると、イノリは白布の掛かった七つ目の円へ近づいた。
布の下は、ただの石だった。他の六つと同じ、円と、その中に刻まれた細かい文様。
埃が積もっていない。誰かが定期的に掃いている。
「触らない方がいい」
ミコトが言う。
「まだ持ち主がいるから?」
「記録上は」
「記録上は、って何」
ミコトは答えなかった。
*
その夜、イノリは遺書用紙を開いた。
書いたのは、別れの言葉ではない。
――ヨルへ。必ず戻る。最後の願いで、塔の外へ連れ出す。
遺書としては間違っている。
封をして、胸元へ入れた。
大聖堂の裏に、白い塔がある。
窓がほとんどない。あるのは踊り場ごとの細い明かり取りだけで、外からは壁の継ぎ目にしか見えない。壁に刻まれた聖印は病人を守るためのものだと教会は言うが、イノリにはどう見ても、檻に何重も鍵を掛けているようにしか見えなかった。
「今日はもう休むべきだわ」
螺旋階段を、ミコトが後ろからついてくる。
「その前に報告する」
「選ばれたことなら、教会から伝わっているでしょう」
「紙で読むのと、私が言うのは違うよ」
階段は幅が狭くて、二人並ぶと肩が当たる。
上るにつれて空気が変わった。冷たくなるのではなく、動かなくなる。息を吸うと、自分の吐いたものをもう一度吸っている気がした。
三十段ほど上ったところで、下の音が届かなくなった。
大聖堂の鐘も、人の声も、風もない。
ここで叫んでも、誰にも聞こえない。
そう気づいてから、イノリは自分の足音を少し大きく立てるようになった。
*
部屋は、外から見た塔の細さに合わない広さだった。
広いのに、物がない。
寝台が一つ。机が一つ。椅子が一つ。壁際に銀色の夢鏡。それだけだ。
ヨルは窓辺に腰掛けていた。朝と同じ場所で、朝と違う向きで。
白い寝間着から覗く腕に、黒い蔦のような痣が絡んでいる。手首から始まって、肘の内側で一度太くなり、そこから先は袖に隠れていた。どこで終わっているのかは、イノリも知らない。
爪は短く切り揃えられている。自分で切ったにしては、左右が同じ長さすぎる。
十年前のあの夜から、ヨルはこの塔にいる。
痣が黒いものを漏らし始めたのは半年前で、それから扉の鎖が三本増えた。
夢装に、病を治す力はない。
だから、最後の願いが必要だった。
「おめでとう、救世候補」
「見て、指輪」
「大聖堂の床を壊した指輪だ」
「壊してない。置いただけ」
「もう伝わってるんだ、その言い訳」
「誰から聞いたの」
「聞いてない。想像した」
ヨルは窓枠から下りて、寝台に座り直した。
立ち上がるときに一度、机の縁へ手をついた。それを見なかったふりをするのは、イノリの十年ぶんの習慣だった。
机の上には、枯れない白い花と、教会が選んだ本と、時刻を告げる小さな鐘があった。
花は蝋か何かでできていて、埃をかぶらない材質らしい。本は背表紙が硬いまま、一度も開かれた形跡がない。鐘は一日に四度鳴る。祈りの時刻を知らせるためのものだが、この部屋には祈る相手がいない。
外の季節を知らせるものは、何もなかった。
「次は本物の花を持ってくるね」
「枯れるものは嫌い」
「どうして」
「ここにいると、最後まで見届けることになるから」
イノリが言葉に詰まると、ヨルは肩をすくめた。
「冗談」
「今の、絶対冗談じゃない」
「半分は冗談」
「半分ってどっち」
「聞かないで」
イノリは床に座った。
「私、七つ全部倒す」
顔を上げて言った。
「最後の願いで、ヨルを塔から出す」
「ふうん」
ヨルは窓の外を見た。
「海が見たい」
「え?」
「なんでもない」
ヨルは足を組み替える。
「世界を救うついでに、私も救うんだ」
「ついでじゃない」
「じゃあ、世界と私、どっちが大事?」
軽い調子の問いだった。
でもヨルの指は、寝間着の裾を強く掴んでいた。
「どっちも」
イノリは迷わなかった。
「どっちかを選ばなきゃいけない理由なんて、ないよ」
ヨルは笑った。
笑ってから、一度だけ口の端を下げて、また上げた。
窓の外で、鐘が鳴った。
三度目の祈りの時刻だった。ヨルは窓の外へ目をやったまま、鐘が鳴り終わるのを待っていた。
*
帰り際、ヨルが窓枠を指で叩いた。
「ねえ」
「何?」
「もし私が、もう悪夢へ行かないでって言ったら」
イノリは振り返った。
ヨルの目は笑っていない。
それでもイノリは、その問いを冗談に戻そうとした。
「ヨルはそんなこと言わないよ」
少し間があった。
「……そうだね」
ヨルは視線を落とした。
イノリは何か間違えた気がしたけれど、何を聞き直せばいいのか分からないまま、扉を閉めた。
銀の鎖が、外側から一本ずつ掛け直されていく。
一つ。二つ。三つ。
イノリは階段を下りながら、数えていた。
七つ。
なぜ数えたのかは、自分でも分からなかった。
*
扉が閉じたあと、ヨルは窓辺から動かなかった。
黒い月が、少しだけ膨らんでいる。
寝間着の合わせ目を開くと、胸の痣が熱を持っていた。十年前から消えない痣だ。教会の医師は、誰も名前をつけられなかった。
指で押すと、皮膚の下で何かが動いた。
押した場所が、押し返してくる。
脈だった。
自分の心臓より、少しだけ速い。
蕾のような形をしている。
「まだ、咲かないで」
返事はない。
当たり前だ。
花はまだ、口を持っていない。
ヨルは髪へ手をやった。
朝にイノリが触った側だけ、指で梳いてみる。
それから、窓の外へ目をやった。
十年前に焼けた側の空を、少しだけ見た。
すぐに、やめた。
それから、両手で顔を覆った。
しばらく、そのままでいた。
夜のあいだ、ヨルは何度も引き金を引いた。 眠ったままで、指だけが動く。 胸の三輪目も鳴っていた。ただし、指と同じ拍ではない。少し早い。ヨルの指が追いかけて、追いつけずにまた遅れる。 弾は出ない。撃鉄が落ちて、また上がる。それだけの音が、一晩に何十回も鳴った。 イノリは寝台の横に座って、それを聞いていた。 触ってよいと言われた手だけを握って、それ以上は何もしない。 握っている手も、時々動く。指が引き金の形になって、また戻る。 銃口は、ずっとイノリの方を向いていた。 イノリは位置を変えなかった。 変えたところで追ってくるのは、昼のうちに分かっている。 窓の外に、白い灯籠が上がっている。 三つ目の大悪夢が消えたことを、王都は知らされたらしい。 誰が知らせたのかは分からない。 三つ。 イノリは数えてから、数えたことを後悔した。 灯籠は、上がりきると見えなくなる。どこかへ落ちているはずなのに、拾ったという話を聞いたことがない。 夜が明ける頃には、三つとも見えなくなっていた。 * 空が白む頃、ヨルが目を開けた。「寝てないの」「ヨルも寝てないでしょ」「私は病人だから」「病人は寝るものじゃないの」「今日は例外」 イノリは握っていた手を離そうとした。 ヨルが指を絡め直す。「今は、離さないで」「うん」「でも、ずっとは嫌」「難しい注文だね」「私、人間だから」 ヨルは窓の方へ首を倒した。「花みたいに、一つの命令では動かない」「花は動くの」「動くよ。命令されたとおりに」 ヨルは自分の胸元へ目をやった。「誰が命令してるのかは、知らないけど」 イノリは何か聞こうとして、やめた。 昨日、二度目に答えてもらえなかったことだった。「ヨル」「何」「お腹すいてない?」「今それ聞く?」「聞くよ」 ヨルは少し黙ってから、答えた。「すいてない」「昨日から何も食べてないでしょ」「食べたよ」 言ってから、自分で口を閉じた。 イノリも、それ以上は言わなかった。 机の上に、干した果物の包みが置いてある。三日前のものだった。誰も片付けていない。誰も食べていない。紙の折り目が、少しずつ開いてきている。 * 朝、扉が開いた。 ミコトが立っている。教会の制服のままで、目の下が黒い。 右手の銃は、青白い
石室を飛び出した時には、核はもう地上へ抜けていた。 イノリが走る。三歩で振り返る。 ミコトが遅れている。三日眠っていない足が、階段で二度もつれた。 二度目は、手すりを掴んで持ち直した。三度目は掴めなかった。「先に行って!」「行けない!」 六歩。 この三日で身体が覚えた距離だった。 イノリは戻って、ミコトの腕を掴んだ。「舌噛むよ」「何を――」 抱えて走った。 軽かった。三日、ほとんど食べていない身体だった。 大聖堂を出ると、外は昼だった。 広場に人が集まっている。二十人ほど。誰も喋っていない。全員が同じ方向を向いて、片手を上げていた。指が二本立っている。銃の形だった。 子どもが混じっている。手が小さいので、指の形が上手く作れていない。それでも作ろうとしていた。 イノリは目を逸らさずに、その横を走り抜けた。 逸らさなかった。逸らせなかったのかもしれない。 階段は幅が狭い。二人ぶんの幅はないので、肩を壁に擦りながら上がった。制服の布が擦れて、途中で裂ける音がした。 途中の踊り場に、聖職者が二人立っていた。 道を空けなかった。 イノリは間を通った。通るとき、誰も止めなかった。止めない方が不自然だった。 * 塔の階段を上がりきると、扉が開いていた。 鎖は外れている。 切られていない。留め具が七つとも、きれいに外されて壁の鉤へ掛かっていた。「鍵で開けてあるわ」 ミコトが言った。 息が上がっている。それでも、見るところは見ていた。「誰が」「鍵を持っている者」「教会?」「他にいないでしょう」「なんで今」 ミコトは答えなかった。 答えなかったが、部屋の中を一度だけ見渡した。 まだ何も起きていない。それでも扉は開けてある。 部屋の中で、ヨルが窓辺に立っていた。「遅かったね」 息が上がっている。 夢鏡の表面が、内側から波打っていた。「ヨル、ミコトの銃から」「見えてる」「二十人に漏れてる」「一日ぶん飛んでるわ」 ミコトが言った。「二十人は、明日のはずだった」「核が出たから?」「たぶんね」「それも見えてる」 イノリは剣を呼んだ。「止める」「どうやって」 答えられなかった。「イノリ」「なに」「剣で止まるものだったら、私はとっくに何もしてない」 * ヨルは包帯の
封印した夜を最後に、ミコトは眠らなかった。 三日が過ぎている。 目を閉じると、断罪弾を撃たなかった未来が始まる。 黒い水へ沈む町。助けを呼ぶ人々。燃える家の窓から、レナがこちらを見る。 ――今度も、扉を閉めるの? 起きている間も、銃の弾倉から小さな呼吸音がした。 吸って、吐く。人の間隔より少し遅い。合わせようとすると、自分の呼吸の方が乱れた。 一日目の朝に分かったのは、七歩の縛りがミコトとイノリの間にしか働かないことだった。 ヨルの側は夢鏡が保っている。鏡が開いている限り、距離は問題にならない。「じゃあ、外に出られる?」 イノリが聞いた。「二人でなら」 それ以来、ミコトはどこへ行くにもイノリを連れて歩いた。 正確には、イノリがミコトから七歩以上離れられなくなった。 廊下ですれ違う者が、二人を見て道を空ける。前は監察役の制服に道を空けていた。今は、二人ぶんの幅を空けている。「一時間だけでも寝て」 塔の廊下で、イノリが毛布を持って追いかける。「眠れば封印が弱まるわ」「起きたまま倒れたら同じでしょ」「計算では、あと十六時間は行動できる」「人を計算機みたいに言わないで」「計算できる部分を計算しているだけよ」「できない部分は」 返ってこなかった。 答えないまま、廊下の壁へ一度肩をついた。 ついたのは、ほんの一瞬だった。 三日目になると、瞬きの回数が減った。 乾くので、時々目を強く閉じる。閉じた瞬間に、燃える窓が見える。だからすぐ開ける。開けると乾く。 その繰り返しを、イノリは六歩後ろから見ていた。「ミコト」「何」「目、赤いよ」「知っているわ」「休んで」「休むと見るの」「起きてても見てるじゃん」 ミコトは足を止めた。 止めてから、また歩き出した。「起きているときは、私が見ているの」「違うの?」「見せられるのと、見るのは違うわ」 *「ミコト。銃を鏡の前へ」 夢鏡越しに、ヨルが言った。「何をするの」「接続を調べる。今度は勝手に触らないから、許可をもらう」「皮肉?」「半分」 ミコトが銃を置くと、夢鏡へ黒い波紋が広がった。 鏡は割れたまま繋がっている。破片を並べ直しただけの面に、無理やり映像が乗っていた。継ぎ目のところで、映るものが少しずつずれる。 閉じた瞼の紋様が一度開いて
「この悪夢は、捨てたくない」 ミコトは核から目を離さなかった。「壊せば終わるでしょ」 イノリが言った。「終わるわ」「じゃあ」「怖さまで消したら、私はまた迷わず撃てる人間に戻る」 黒い結晶の表面で、閉じた瞼が細かく震えている。 瞼の縁に、睫毛がある。閉じているのに、下から光が漏れていた。「封じる。私の銃へ」「そんなことできるの」「前例はあるわ」 ミコトは弾倉を開いた。「剣へ封じた記録。周りの人が眠るたび斬られる夢を見て、十年後に赤子まで殺す風習ができた」「それ、失敗した記録じゃん」「完全に封じようとしたからよ」「完全じゃなかったら、どうなるの」「漏れるわ」「漏れたら」「私が夢に見る」 ミコトは青い夢装の裾を裂いて、銃と自分の手首を結んだ。 結び方に迷いがない。何度も練習した手つきだった。「私の夢痕へ繋ぐ。漏れた分は、私が引き受ける」「ずっと悪夢を見るってこと」「そうなるわね」「だめ」 イノリが首を振った。「一人で背負うのと同じだよ」「違うわ」 ミコトは黒い核を見たまま言う。「これは私のよ。誰にも渡さない」「私に渡らないなら、いいと思うけど」 ヨルが言った。 イノリが振り返る。「よくないよ」「なんで」「ミコトが潰れる」「潰れる前に、こっちに来る」 ヨルは自分の胸へ触れた。「そうなったら、私がなんとかする」 言い方が軽かった。 軽かったので、イノリは一瞬何を言われたのか分からなかった。「一人では無理だよ」 ヨルが続けた。「反対?」「手伝う」 胸元へ手を当てる。包帯の下で、何かが動いた。「接続を三つに分ける。核から漏れた分を、ミコトだけじゃなく私とイノリにも少し流す」「ヨルに流したら意味がない!」「留めない。通すだけ」「通すだけって、何が違うの」「残らないってこと」 ヨルは指を二本立てた。「川に橋を架けるのと、桶で受けるのは違うでしょ」「架けておくのは、平気なの」「平気」 間がなかった。 イノリは、その間のなさを覚えていた。 覚えていたが、今は他に方法がなかった。「安全なの」「安全な方法があるなら、先に言ってる」 ヨルはイノリを見た。「嫌なら断って」 問われた。 以前の自分なら、即答で手を伸ばしていた。 イノリは想像する。 ミコトがレナを撃つ