FAZER LOGIN目を開けると、大聖堂前の石畳に倒れていた。
現実の空は、正しく暗くなり始めていた。雲が動いている。それを見て、イノリはようやく身体の力を抜いた。
避難していた人たちが遠巻きに見ている。治療師が駆け寄ってくる。
「ミアは」
少し離れた場所で、ミアが妹へ這い寄っていた。身体は透けていない。指も、腕も、膝から下も戻っている。
けれどリリは、白い布の上で眠ったままだった。
「悪夢は倒したよね」
「倒したわ」
「じゃあ、どうして起きないの」
「夢装は事故の傷を治せない」
ミコトは冷静に答えたが、銃を握る指が震えていた。
「傷のせいで眠ってるの?」
「傷のせいで眠ったのは、最初の一日だけよ」
「あとは」
「悪夢が、この子を起こさないでいた」
ミコトは眠る少女を見た。
「起きられたら、契約が要らなくなるから」
ミアがリリの手を自分の額へ押し当てる。
「私、ここにいるよ」
返事はない。
「ごめんね。嫌いじゃない。顔も見たくないなんて、本当じゃなかった」
周りの誰も、動かなかった。
治療師が一度リリの脈を診て、それから首を横に振らずに、ただ手を離した。何も言わないことが答えだと、その場の全員が分かっていた。
長い沈黙のあと、小さな声がした。
「……お姉ちゃん」
リリの瞼がゆっくり開く。
「手、痛いよ」
ミアは慌てて指を緩めた。
「ご、ごめん!」
「また謝った」
「だって」
「喧嘩の続き、まだあるから」
リリは弱い声で言った。
右の足だけが、布の下で動かなかった。
治療師が一度そこへ触れて、何も言わずに手を戻す。
「嫌だったこと、いっぱい言う」
ミアが泣きながら頷く。
「うん。私も言う」
元通りにはならなかった。
だからこそ、二人は本当に戻ってきたのだとイノリは思った。
人々の間から拍手が起こった。
「救世候補が悪夢を倒した!」
「二人を救った!」
大司教が広場へ現れて、両手を広げる。
「今日、世界は確かに救いへ一歩近づきました」
歓声が大きくなる。
肩が痛い。ミアの手を無理に引いた感触も、まだ残っている。
それでも、目の前で姉妹が泣いている。
喜んでいいのか分からないまま、イノリは白い塔を見上げた。
「ヨルも助けてくれました」
誰にともなく言った。
「結果は成功」
隣でミコトが小声で言う。
「でも、あなたがミアの答えを奪ったことまで正しくなったわけではない」
「分かってる」
「その返事は、次の行動で証明しなさい」
子どもたちが花を持ってきた。
「次も助けてね!」
イノリは笑おうとして、途中でやめた。
「怖かったけど、頑張る」
少年が少し驚いた顔をする。
「怖くても、来てくれるの」
「うん」
「じゃあ、これあげる」
英雄へ捧げる花ではなく、怖がっている人へ渡す花だった。
歓声が収まった後、ミアがイノリへ近づいてきた。
「ありがとうございました」
「私は、途中でミアを消しかけた」
「はい」
ミアは否定しなかった。
「怖かったです。放してって言っても、放してくれないと思いました」
「ごめん」
「でも、最後は放してくれた」
ミアは自分の手を見る。
「私も、自分で決めるのが怖かった。誰かに生きろって決めてもらった方が、楽だったかもしれません」
「それでも、自分で決めたんだね」
「両親が、来ました」
ミアは広場の端を見た。
母親が娘の名前を呼んでいる。もう忘れていない。
「でも、あの日のことを覚えていないんです」
「あの日って」
「事故の日です。二人とも、まるごと」
ミアは自分の胸へ手を当てた。
「私が椅子に座ったとき、抜けていったのは、たぶんそれです」
「取り返せないの」
「取り返す場所が、私じゃないので」
それだけ言って、ミアは笑わなかった。
「次に消えたいと思ったとき、すぐ自分で決められるかは分かりません」
「その時は、決めるまで一緒に考える」
イノリは言い切ってから、言い直した。
「一緒に考えてもいいか、聞く」
ミアが少し笑った。
「お願いします」
その会話を、ミコトは記録板へ残した。
成功、被害、判断ミス、対象者の証言。英雄譚には必要とされない部分まで書く。
「教会へ全部出すの」
「当然よ」
「私の失敗も」
「隠せば、次の候補者が同じ失敗をする」
「怒られそう」
「怒られなさい」
*
白い塔の夢鏡は、黒く染まっていた。
鏡面が波打っている。銀色だった表面の下に、別の何かが張り付いているのが分かる。指の形をしたものが、内側から表面を押し上げていた。押し上げて、押し切れずに、また沈む。
それを何十回も繰り返してから、ようやく一本が抜けてきた。
抜けた先は腕になっていた。手首から先だけの手が、鏡から生えて宙を探している。
ヨルは動かなかった。
二本目が出た。三本目が出た。腕は寝台の脚を掴み、机の縁を掴み、そして寝間着の裾を掴んだ。
黒い手が、腕や首へ絡んでいく。
広場の歓声が、遠い水底から聞こえた。
「世界は救われた」
「最初の悪夢は消えた」
黒い手の先には細い糸が伸びて、壁を抜け、広場のミアへ繋がっていた。
「帰る場所があるんだ」
ヨルは糸へ触れた。
触れたところから、他人の記憶が流れ込んでくる。
馬車の警笛。赤い髪飾り。自分が消えればいいという願い。
核を壊されて、形を失っただけ。放っておけば悪夢はミアへ戻り、また消えればいいと囁き始める。
「だめだよ」
ヨルは糸を掴んだ。
「イノリが助けたんだから」
「なら、どこへ行けばいい」
黒い手が言った。
「苦しみは、誰が引き受ける」
夢鏡には、人に囲まれたイノリが映っている。
ミアが何度も礼を言って、イノリの手を握っている。
ヨルの胸に、悪夢とは別の黒いものが生まれた。
その手を離してほしい。
こっちへ戻ってきてほしい。
「一瞬だけ」
ヨルは黒い手へ呟いた。
「ミアに帰ってもいいと思った。あの子がまた沈めば、イノリは私のところへ来るって」
黒い手が嬉しそうに蠢く。
「ひどいね、私」
「いいや」
悪夢は優しい声で答えた。
「お前は、選ばれたいだけだ」
その言葉が一番痛かった。
ヨルは糸を胸元へ押し当てる。
「でも、そんな自分をイノリに知られるくらいなら」
息を吸った。
「食べた方がまし」
*
最初の一本は、口から入った。
喉を通るとき、何かを飲み込んでいる感覚はなかった。ただ、通り道が内側から広げられていく。
二本目は鼻からだった。
三本目は、腕の古い傷から入った。傷は塞がっていたはずなのに、黒い指の先が触れると、そこだけが去年の形に戻った。
途中から、ヨルは数えるのをやめた。
押し込まれているのではなかった。
自分の身体が、迎え入れていた。
喉が勝手に動く。飲み下す動作を、頼んでもいないのに繰り返している。止めようとして舌を噛んだが、噛んだ場所を避けて次が入ってきた。
味がした。
他人の記憶に味があるとは思っていなかった。雨の匂いと、鉄と、誰かの家の台所の匂い。ミアが最後に嗅いだものだ。それを、自分の舌が覚えていく。
自分のものではない後悔が、骨の内側へ根を張った。
肋骨の内側を、細いものが探るように這う。一本が心臓の裏側へ回り込んだとき、ヨルは初めて声を上げた。
吐き出せば楽になる。
それは分かっていた。
喉の奥まで戻せば、あとは咳をするだけでいい。
その代わり、ミアへ戻る。
「イノリが救った子を、悪夢には戻させない」
ヨルは最後の一本まで飲み込んだ。
胸の奥が燃えた。
白い寝間着に、黒い茎が浮かぶ。
布の下ではなく、布の上に。皮膚の模様が、そのまま繊維へ写っている。
茎は肋骨に沿って伸びて、心臓のすぐ上で止まった。
そこから先は、内側から押し上げられた。
皮膚が伸びる。破れる直前まで伸びて、それでも破れない。十年前のあの夜と同じだった。この身体は、こういうものを通すときだけ丈夫にできている。
蕾が膨らんで、花弁が開いた。
一輪目の黒い花。
中心には小さな人間の目があり、ゆっくり瞬きをした。
瞼の縁に、睫毛まで生えている。
「一つ目」
誰かの声がした。
ヨルは、しばらく動かなかった。
それから寝台の縁を掴んで、身体を起こす。息を吸って、吐いて、もう一度吸う。
「ヨル」
声に出して、自分の名前を呼んでみた。
「うん。……ただいま。おかえり」
誰もいない部屋で、返事の練習をした。
いつもの高さで言えるようになるまで、四回かかった。
*
大聖堂の地下で、七本並んだ蝋燭のうち一本に黒い炎が灯った。
「灯りました」
若い聖職者が帳面を開く。
「記録を」
黒い法衣の枢機卿オルドが手を出した。
聖職者は少し戸惑ってから、帳面と筆を渡す。
書くのは本来、この老人の役目ではなかった。
オルドは自分で名前を書いた。
白い塔の、最上階にいる少女の名前を。
「一つ目、ですね」
「数えなくてよい」
「は」
「数えても、増えるだけだ」
帳面を閉じる。
地下には風がないので、黒い炎は揺れなかった。
「候補者たちへは、どのように」
「これまで通りに」
それだけ言って、オルドは階段へ向かった。
途中で一度、白い布を掛けられた何かの前で足を止める。
布の下を確かめることはせず、そのまま上がっていった。
*
塔ではヨルが咳き込んで、掌へ血を吐いた。
血の中で、黒い花の目がイノリだけを追って動いている。
夢鏡の向こうの、遠い広場を見ている。まだ人に囲まれているイノリを、瞬きもせずに追っている。
「見てるよ」
ヨルは花へ囁いた。
「だから、あの子には見つからないで」
花は返事の代わりに、もう一度だけ瞬きをした。
その夜、イノリが塔へ来た。
ミアが選んだという白い花を持ってきて、窓辺の水差しへ挿していった。
ヨルは笑って応えた。声も、いつもの高さで出た。
扉が閉まったあと、ヨルは花弁を一枚だけ引き寄せた。
白い花弁に、黒い筋が走っている。
触れると、胸の中心の目が同じ方向を見た。
「これは食べないで」
ヨルは花へ命じた。
胸の中心の目が一度だけ動いて、また閉じた。
石室を飛び出した時には、核はもう地上へ抜けていた。 イノリが走る。三歩で振り返る。 ミコトが遅れている。三日眠っていない足が、階段で二度もつれた。 二度目は、手すりを掴んで持ち直した。三度目は掴めなかった。「先に行って!」「行けない!」 六歩。 この三日で身体が覚えた距離だった。 イノリは戻って、ミコトの腕を掴んだ。「舌噛むよ」「何を――」 抱えて走った。 軽かった。三日、ほとんど食べていない身体だった。 大聖堂を出ると、外は昼だった。 広場に人が集まっている。二十人ほど。誰も喋っていない。全員が同じ方向を向いて、片手を上げていた。指が二本立っている。銃の形だった。 子どもが混じっている。手が小さいので、指の形が上手く作れていない。それでも作ろうとしていた。 イノリは目を逸らさずに、その横を走り抜けた。 逸らさなかった。逸らせなかったのかもしれない。 階段は幅が狭い。二人ぶんの幅はないので、肩を壁に擦りながら上がった。制服の布が擦れて、途中で裂ける音がした。 途中の踊り場に、聖職者が二人立っていた。 道を空けなかった。 イノリは間を通った。通るとき、誰も止めなかった。止めない方が不自然だった。 * 塔の階段を上がりきると、扉が開いていた。 鎖は外れている。 切られていない。留め具が七つとも、きれいに外されて壁の鉤へ掛かっていた。「鍵で開けてあるわ」 ミコトが言った。 息が上がっている。それでも、見るところは見ていた。「誰が」「鍵を持っている者」「教会?」「他にいないでしょう」「なんで今」 ミコトは答えなかった。 答えなかったが、部屋の中を一度だけ見渡した。 まだ何も起きていない。それでも扉は開けてある。 部屋の中で、ヨルが窓辺に立っていた。「遅かったね」 息が上がっている。 夢鏡の表面が、内側から波打っていた。「ヨル、ミコトの銃から」「見えてる」「二十人に漏れてる」「一日ぶん飛んでるわ」 ミコトが言った。「二十人は、明日のはずだった」「核が出たから?」「たぶんね」「それも見えてる」 イノリは剣を呼んだ。「止める」「どうやって」 答えられなかった。「イノリ」「なに」「剣で止まるものだったら、私はとっくに何もしてない」 * ヨルは包帯の
封印した夜を最後に、ミコトは眠らなかった。 三日が過ぎている。 目を閉じると、断罪弾を撃たなかった未来が始まる。 黒い水へ沈む町。助けを呼ぶ人々。燃える家の窓から、レナがこちらを見る。 ――今度も、扉を閉めるの? 起きている間も、銃の弾倉から小さな呼吸音がした。 吸って、吐く。人の間隔より少し遅い。合わせようとすると、自分の呼吸の方が乱れた。 一日目の朝に分かったのは、七歩の縛りがミコトとイノリの間にしか働かないことだった。 ヨルの側は夢鏡が保っている。鏡が開いている限り、距離は問題にならない。「じゃあ、外に出られる?」 イノリが聞いた。「二人でなら」 それ以来、ミコトはどこへ行くにもイノリを連れて歩いた。 正確には、イノリがミコトから七歩以上離れられなくなった。 廊下ですれ違う者が、二人を見て道を空ける。前は監察役の制服に道を空けていた。今は、二人ぶんの幅を空けている。「一時間だけでも寝て」 塔の廊下で、イノリが毛布を持って追いかける。「眠れば封印が弱まるわ」「起きたまま倒れたら同じでしょ」「計算では、あと十六時間は行動できる」「人を計算機みたいに言わないで」「計算できる部分を計算しているだけよ」「できない部分は」 返ってこなかった。 答えないまま、廊下の壁へ一度肩をついた。 ついたのは、ほんの一瞬だった。 三日目になると、瞬きの回数が減った。 乾くので、時々目を強く閉じる。閉じた瞬間に、燃える窓が見える。だからすぐ開ける。開けると乾く。 その繰り返しを、イノリは六歩後ろから見ていた。「ミコト」「何」「目、赤いよ」「知っているわ」「休んで」「休むと見るの」「起きてても見てるじゃん」 ミコトは足を止めた。 止めてから、また歩き出した。「起きているときは、私が見ているの」「違うの?」「見せられるのと、見るのは違うわ」 *「ミコト。銃を鏡の前へ」 夢鏡越しに、ヨルが言った。「何をするの」「接続を調べる。今度は勝手に触らないから、許可をもらう」「皮肉?」「半分」 ミコトが銃を置くと、夢鏡へ黒い波紋が広がった。 鏡は割れたまま繋がっている。破片を並べ直しただけの面に、無理やり映像が乗っていた。継ぎ目のところで、映るものが少しずつずれる。 閉じた瞼の紋様が一度開いて
「この悪夢は、捨てたくない」 ミコトは核から目を離さなかった。「壊せば終わるでしょ」 イノリが言った。「終わるわ」「じゃあ」「怖さまで消したら、私はまた迷わず撃てる人間に戻る」 黒い結晶の表面で、閉じた瞼が細かく震えている。 瞼の縁に、睫毛がある。閉じているのに、下から光が漏れていた。「封じる。私の銃へ」「そんなことできるの」「前例はあるわ」 ミコトは弾倉を開いた。「剣へ封じた記録。周りの人が眠るたび斬られる夢を見て、十年後に赤子まで殺す風習ができた」「それ、失敗した記録じゃん」「完全に封じようとしたからよ」「完全じゃなかったら、どうなるの」「漏れるわ」「漏れたら」「私が夢に見る」 ミコトは青い夢装の裾を裂いて、銃と自分の手首を結んだ。 結び方に迷いがない。何度も練習した手つきだった。「私の夢痕へ繋ぐ。漏れた分は、私が引き受ける」「ずっと悪夢を見るってこと」「そうなるわね」「だめ」 イノリが首を振った。「一人で背負うのと同じだよ」「違うわ」 ミコトは黒い核を見たまま言う。「これは私のよ。誰にも渡さない」「私に渡らないなら、いいと思うけど」 ヨルが言った。 イノリが振り返る。「よくないよ」「なんで」「ミコトが潰れる」「潰れる前に、こっちに来る」 ヨルは自分の胸へ触れた。「そうなったら、私がなんとかする」 言い方が軽かった。 軽かったので、イノリは一瞬何を言われたのか分からなかった。「一人では無理だよ」 ヨルが続けた。「反対?」「手伝う」 胸元へ手を当てる。包帯の下で、何かが動いた。「接続を三つに分ける。核から漏れた分を、ミコトだけじゃなく私とイノリにも少し流す」「ヨルに流したら意味がない!」「留めない。通すだけ」「通すだけって、何が違うの」「残らないってこと」 ヨルは指を二本立てた。「川に橋を架けるのと、桶で受けるのは違うでしょ」「架けておくのは、平気なの」「平気」 間がなかった。 イノリは、その間のなさを覚えていた。 覚えていたが、今は他に方法がなかった。「安全なの」「安全な方法があるなら、先に言ってる」 ヨルはイノリを見た。「嫌なら断って」 問われた。 以前の自分なら、即答で手を伸ばしていた。 イノリは想像する。 ミコトがレナを撃つ
「聖女ミコト」「世界を救った英雄」 跪いた人々が、顔を上げずに呼ぶ。 声は揃っている。息継ぎの位置まで同じだった。 祭壇の上のミコトは、こちらを見ていた。 夢装は着ている。ただ、袖の青が濁っていた。水で薄めたような色になっている。「来ないで」「行くよ」「これは私の悪夢よ」「だから来た」 イノリは階段を上ろうとした。 銃口が動く。「あなたたちがいるから、選ばされるの」 その言葉で、足が止まった。 ミコトは泣いていない。 ただ、弾倉を開けて閉じるのを、さっきから三度繰り返している。「ミコト」「何」「どれだけかかったの」「え」「扉を開けるまで」 イノリは口を開いて、閉じた。「……分かんない」「そう」 ミコトは、それきり聞かなかった。 聞かなかったが、弾倉を開ける手が四度目に動いた。 * 天井の高さが、急に決まった。 巨大な天秤が降りてくる。 鎖が太い。人の胴くらいある。それが天井の見えないところから四本、まっすぐ下りてきて、皿を吊っていた。 片方の皿に、イノリとヨル。 もう片方に、街が乗っていた。屋根も、煙も、洗濯物も、そのまま乗っている。「選びなさい」 大聖堂中から声が響いた。「正しい少女よ」 街の皿では、人々が動いていた。 赤ん坊を抱く母親。夕食を運ぶ老人。明日の約束をする子どもたち。 誰も、自分が皿に乗っていることを知らない。皿の縁の外を見ようともしない。 イノリは皿の縁を見た。石畳が途中で切れて、その先は何もない。切れ目のすぐ手前に、洗濯物を干している女がいる。籠を置いて、一枚ずつ広げて、留め具で挟む。手を伸ばすと、指先が縁から出る。出ても気づかない。 英雄の選択という言葉では見えない大きさで、生活が続いている。「もし本当に反対側なら」 ミコトが聞いた。「私が二人を撃てば何千人も助かるなら、どうするの」 イノリは、撃たせない、と言いかけた。 その言葉は、ミコトの答えを先に潰す。「私は、嫌だ」 代わりに、自分のことだけ言った。「撃たれたくない。ヨルも殺されたくない。でも、ミコトが何考えてるかは聞く」「聞いた後で、止めるでしょう」「たぶん」「結局、同じじゃない」「同じかもしれない。でも、最初からなかったことにはしない」「それに、何の意味が」「分かんない」
監察部の書庫には、失敗の記録しか残っていない。 持ち出せないので、ミコトは三日かけて書き写した。 写した紙を、また何度も読み返す。 七人へ分けた記録。剣へ封じた記録。海の向こうへ逃がした記録。 どれも、なぜ失敗したかは書いてある。 どこまで保ったかは、書いていない。 八日目に殺し合いが起きたなら、七日目までは何が起きていたのか。 十年後に風習が生まれたなら、一年目はどうだったのか。 誰も書いていない。「何読んでるの」 イノリが覗き込んできた。「書き写したものよ」「手伝う」「読めないわ。写しでも、字は監察部のものだから」「じゃあ、声に出して」 ミコトは少し黙ってから、頁の端を指で押さえた。「七人へ分けた記録」「うん」「八日目に、七つの町で殺し合いが起きた」「七日目までは?」 ミコトの指が、頁の上で止まった。「今、同じことを考えていたわ」「じゃあ合ってる」「合っているかどうかは、まだ分からない」「でも二人が同じこと考えたなら、私はもう合ってると思う」 ミコトは反論しかけて、やめた。「七日間、七人は普通に暮らしたわ」「じゃあ、七日はいけたんだ」「七日でも足りないの」「足りないけど、ゼロじゃない」「何日ならいいの」「分からないわ」「じゃあ、何日から数えるかは決められる?」 ミコトが顔を上げた。「どういう意味」「七日でだめだったなら、八日目に何があったか調べればいいでしょ」「八日目のことは書いてあるわ」「書いてあるのは、起きたことだけ?」「……ええ」「じゃあ、その日に誰が何をやめたのかは、書いてないんだ」 ミコトは頁へ目を戻した。 書いていなかった。 イノリは頁を覗き込もうとして、途中で手を引いた。「見ないよ。読めないんでしょ」「読めないわ」「うん」 三日読んで、結局は何も見つからなかった。 見つからなかったことも、ミコトは書き留めた。 * その夜、夢を見た。 白い大聖堂。何千人もの人が跪いている。「聖女ミコト」「世界を救った英雄」 跪いている人々の顔は、見えない。全員が床へ額をつけている。うなじだけが何千と並んでいて、どれも同じ角度で曲がっていた。 誰も顔を上げないので、誰が誰なのか分からない。 分からないまま、声だけが揃って上がってくる。 正面の祭壇
三日、命令書を読んだ。 読むたびに同じ長さで、同じことしか書いていない。 二日目の夜に、書き写してみた。 自分の字で書くと、少し長く感じた。長く感じただけで、意味は増えなかった。写した紙は燃やした。燃やしてから、燃やす必要があったのか分からなくなった。 四日目の朝、ミコトは監察部へ願い出た。「記録を読ませてください」「どの記録を」「私が読む段階にない、と言われたものです」 オルドはしばらく黙っていた。「今なら、構いません」「何が変わったのですか」「あなたが、自分から聞きに来ました」「前回は、あなたが呼びました」「はい」「同じ内容でも、順番が違えば別だと」「別です」 老人は立ち上がった。「読まされた者は、読んだことを他人のせいにできますから」 * 書庫は地下の三層目にあった。 棚が壁ではなく床から生えていて、通路が一本しかない。左右の棚のあいだは、人が一人通れる幅しかなかった。二人で入ると、後ろの人間は前の人間を追い越せない。 空気が乾いている。紙を保たせるためだと、案内の聖職者が言った。 喉の奥がすぐに渇いた。唾を飲もうとして、飲むものがなかった。 灯りは低い位置にある。棚の上の方は暗い。どこまで棚が続いているのかは、見えなかった。 オルドは一冊の帳面を抜き出した。 抜くとき、隣の帳面が倒れなかった。詰まっているのではなく、一冊ずつ支えが入っている。 表紙に日付が刻まれている。百年前、黒い月が満ちた年。「開きなさい」 最初の頁に、少女の肖像が貼られていた。 処刑台の上に立っている。 胸に、黒い花が七輪。 泣いているのだと思った。 よく見ると、口の端だけが上がっている。 絵の具が、そこだけ二度塗られていた。上から直した跡だった。「この子は」「リシア。候補者でした」「候補者が、なぜ処刑台に」「器になったからです」「器」「倒された大悪夢は、消えません」 オルドは頁の端を指で押さえた。「一人へ集まります。七輪咲けば、満ちる」「満ちたら」「終末の魔女と呼ばれるものになります」「それで、処刑を」「はい」「呼ばれるもの、という言い方をされますね」 オルドは頁から目を上げなかった。「なったところを、誰も見ていないからです」 ミコトは肖像から目を離さなかった。 七輪。数える