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悪夢を食べる少女

Autor: たつき
last update Data de publicação: 2026-08-13 08:27:54

 目を開けると、大聖堂前の石畳に倒れていた。

 現実の空は、正しく暗くなり始めていた。雲が動いている。それを見て、イノリはようやく身体の力を抜いた。

 避難していた人たちが遠巻きに見ている。治療師が駆け寄ってくる。

「ミアは」

 少し離れた場所で、ミアが妹へ這い寄っていた。身体は透けていない。指も、腕も、膝から下も戻っている。

 けれどリリは、白い布の上で眠ったままだった。

「悪夢は倒したよね」

「倒したわ」

「じゃあ、どうして起きないの」

「夢装は事故の傷を治せない」

 ミコトは冷静に答えたが、銃を握る指が震えていた。

「傷のせいで眠ってるの?」

「傷のせいで眠ったのは、最初の一日だけよ」

「あとは」

「悪夢が、この子を起こさないでいた」

 ミコトは眠る少女を見た。

「起きられたら、契約が要らなくなるから」

 ミアがリリの手を自分の額へ押し当てる。

「私、ここにいるよ」

 返事はない。

「ごめんね。嫌いじゃない。顔も見たくないなんて、本当じゃなかった」

 周りの誰も、動かなかった。

 治療師が一度リリの脈を診て、それから首を横に振らずに、ただ手を離した。何も言わないことが答えだと、その場の全員が分かっていた。

 長い沈黙のあと、小さな声がした。

「……お姉ちゃん」

 リリの瞼がゆっくり開く。

「手、痛いよ」

 ミアは慌てて指を緩めた。

「ご、ごめん!」

「また謝った」

「だって」

「喧嘩の続き、まだあるから」

 リリは弱い声で言った。

 右の足だけが、布の下で動かなかった。

 治療師が一度そこへ触れて、何も言わずに手を戻す。

「嫌だったこと、いっぱい言う」

 ミアが泣きながら頷く。

「うん。私も言う」

 元通りにはならなかった。

 だからこそ、二人は本当に戻ってきたのだとイノリは思った。

 人々の間から拍手が起こった。

「救世候補が悪夢を倒した!」

「二人を救った!」

 大司教が広場へ現れて、両手を広げる。

「今日、世界は確かに救いへ一歩近づきました」

 歓声が大きくなる。

 肩が痛い。ミアの手を無理に引いた感触も、まだ残っている。

 それでも、目の前で姉妹が泣いている。

 喜んでいいのか分からないまま、イノリは白い塔を見上げた。

「ヨルも助けてくれました」

 誰にともなく言った。

「結果は成功」

 隣でミコトが小声で言う。

「でも、あなたがミアの答えを奪ったことまで正しくなったわけではない」

「分かってる」

「その返事は、次の行動で証明しなさい」

 子どもたちが花を持ってきた。

「次も助けてね!」

 イノリは笑おうとして、途中でやめた。

「怖かったけど、頑張る」

 少年が少し驚いた顔をする。

「怖くても、来てくれるの」

「うん」

「じゃあ、これあげる」

 英雄へ捧げる花ではなく、怖がっている人へ渡す花だった。

 歓声が収まった後、ミアがイノリへ近づいてきた。

「ありがとうございました」

「私は、途中でミアを消しかけた」

「はい」

 ミアは否定しなかった。

「怖かったです。放してって言っても、放してくれないと思いました」

「ごめん」

「でも、最後は放してくれた」

 ミアは自分の手を見る。

「私も、自分で決めるのが怖かった。誰かに生きろって決めてもらった方が、楽だったかもしれません」

「それでも、自分で決めたんだね」

「両親が、来ました」

 ミアは広場の端を見た。

 母親が娘の名前を呼んでいる。もう忘れていない。

「でも、あの日のことを覚えていないんです」

「あの日って」

「事故の日です。二人とも、まるごと」

 ミアは自分の胸へ手を当てた。

「私が椅子に座ったとき、抜けていったのは、たぶんそれです」

「取り返せないの」

「取り返す場所が、私じゃないので」

 それだけ言って、ミアは笑わなかった。

「次に消えたいと思ったとき、すぐ自分で決められるかは分かりません」

「その時は、決めるまで一緒に考える」

 イノリは言い切ってから、言い直した。

「一緒に考えてもいいか、聞く」

 ミアが少し笑った。

「お願いします」

 その会話を、ミコトは記録板へ残した。

 成功、被害、判断ミス、対象者の証言。英雄譚には必要とされない部分まで書く。

「教会へ全部出すの」

「当然よ」

「私の失敗も」

「隠せば、次の候補者が同じ失敗をする」

「怒られそう」

「怒られなさい」

     *

 白い塔の夢鏡は、黒く染まっていた。

 鏡面が波打っている。銀色だった表面の下に、別の何かが張り付いているのが分かる。指の形をしたものが、内側から表面を押し上げていた。押し上げて、押し切れずに、また沈む。

 それを何十回も繰り返してから、ようやく一本が抜けてきた。

 抜けた先は腕になっていた。手首から先だけの手が、鏡から生えて宙を探している。

 ヨルは動かなかった。

 二本目が出た。三本目が出た。腕は寝台の脚を掴み、机の縁を掴み、そして寝間着の裾を掴んだ。

 黒い手が、腕や首へ絡んでいく。

 広場の歓声が、遠い水底から聞こえた。

「世界は救われた」

「最初の悪夢は消えた」

 黒い手の先には細い糸が伸びて、壁を抜け、広場のミアへ繋がっていた。

「帰る場所があるんだ」

 ヨルは糸へ触れた。

 触れたところから、他人の記憶が流れ込んでくる。

 馬車の警笛。赤い髪飾り。自分が消えればいいという願い。

 核を壊されて、形を失っただけ。放っておけば悪夢はミアへ戻り、また消えればいいと囁き始める。

「だめだよ」

 ヨルは糸を掴んだ。

「イノリが助けたんだから」

「なら、どこへ行けばいい」

 黒い手が言った。

「苦しみは、誰が引き受ける」

 夢鏡には、人に囲まれたイノリが映っている。

 ミアが何度も礼を言って、イノリの手を握っている。

 ヨルの胸に、悪夢とは別の黒いものが生まれた。

 その手を離してほしい。

 こっちへ戻ってきてほしい。

「一瞬だけ」

 ヨルは黒い手へ呟いた。

「ミアに帰ってもいいと思った。あの子がまた沈めば、イノリは私のところへ来るって」

 黒い手が嬉しそうに蠢く。

「ひどいね、私」

「いいや」

 悪夢は優しい声で答えた。

「お前は、選ばれたいだけだ」

 その言葉が一番痛かった。

 ヨルは糸を胸元へ押し当てる。

「でも、そんな自分をイノリに知られるくらいなら」

 息を吸った。

「食べた方がまし」

     *

 最初の一本は、口から入った。

 喉を通るとき、何かを飲み込んでいる感覚はなかった。ただ、通り道が内側から広げられていく。

 二本目は鼻からだった。

 三本目は、腕の古い傷から入った。傷は塞がっていたはずなのに、黒い指の先が触れると、そこだけが去年の形に戻った。

 途中から、ヨルは数えるのをやめた。

 押し込まれているのではなかった。

 自分の身体が、迎え入れていた。

 喉が勝手に動く。飲み下す動作を、頼んでもいないのに繰り返している。止めようとして舌を噛んだが、噛んだ場所を避けて次が入ってきた。

 味がした。

 他人の記憶に味があるとは思っていなかった。雨の匂いと、鉄と、誰かの家の台所の匂い。ミアが最後に嗅いだものだ。それを、自分の舌が覚えていく。

 自分のものではない後悔が、骨の内側へ根を張った。

 肋骨の内側を、細いものが探るように這う。一本が心臓の裏側へ回り込んだとき、ヨルは初めて声を上げた。

 吐き出せば楽になる。

 それは分かっていた。

 喉の奥まで戻せば、あとは咳をするだけでいい。

 その代わり、ミアへ戻る。

「イノリが救った子を、悪夢には戻させない」

 ヨルは最後の一本まで飲み込んだ。

 胸の奥が燃えた。

 白い寝間着に、黒い茎が浮かぶ。

 布の下ではなく、布の上に。皮膚の模様が、そのまま繊維へ写っている。

 茎は肋骨に沿って伸びて、心臓のすぐ上で止まった。

 そこから先は、内側から押し上げられた。

 皮膚が伸びる。破れる直前まで伸びて、それでも破れない。十年前のあの夜と同じだった。この身体は、こういうものを通すときだけ丈夫にできている。

 蕾が膨らんで、花弁が開いた。

 一輪目の黒い花。

 中心には小さな人間の目があり、ゆっくり瞬きをした。

 瞼の縁に、睫毛まで生えている。

「一つ目」

 誰かの声がした。

 ヨルは、しばらく動かなかった。

 それから寝台の縁を掴んで、身体を起こす。息を吸って、吐いて、もう一度吸う。

「ヨル」

 声に出して、自分の名前を呼んでみた。

「うん。……ただいま。おかえり」

 誰もいない部屋で、返事の練習をした。

 いつもの高さで言えるようになるまで、四回かかった。

     *

 大聖堂の地下で、七本並んだ蝋燭のうち一本に黒い炎が灯った。

「灯りました」

 若い聖職者が帳面を開く。

「記録を」

 黒い法衣の枢機卿オルドが手を出した。

 聖職者は少し戸惑ってから、帳面と筆を渡す。

 書くのは本来、この老人の役目ではなかった。

 オルドは自分で名前を書いた。

 白い塔の、最上階にいる少女の名前を。

「一つ目、ですね」

「数えなくてよい」

「は」

「数えても、増えるだけだ」

 帳面を閉じる。

 地下には風がないので、黒い炎は揺れなかった。

「候補者たちへは、どのように」

「これまで通りに」

 それだけ言って、オルドは階段へ向かった。

 途中で一度、白い布を掛けられた何かの前で足を止める。

 布の下を確かめることはせず、そのまま上がっていった。

     *

 塔ではヨルが咳き込んで、掌へ血を吐いた。

 血の中で、黒い花の目がイノリだけを追って動いている。

 夢鏡の向こうの、遠い広場を見ている。まだ人に囲まれているイノリを、瞬きもせずに追っている。

「見てるよ」

 ヨルは花へ囁いた。

「だから、あの子には見つからないで」

 花は返事の代わりに、もう一度だけ瞬きをした。

 その夜、イノリが塔へ来た。

 ミアが選んだという白い花を持ってきて、窓辺の水差しへ挿していった。

 ヨルは笑って応えた。声も、いつもの高さで出た。

 扉が閉まったあと、ヨルは花弁を一枚だけ引き寄せた。

 白い花弁に、黒い筋が走っている。

 触れると、胸の中心の目が同じ方向を見た。

「これは食べないで」

 ヨルは花へ命じた。

 胸の中心の目が一度だけ動いて、また閉じた。

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Último capítulo

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  • 七つの悪夢を食べた魔女   正しい未来

     監察部の書庫には、失敗の記録しか残っていない。 持ち出せないので、ミコトは三日かけて書き写した。 写した紙を、また何度も読み返す。 七人へ分けた記録。剣へ封じた記録。海の向こうへ逃がした記録。 どれも、なぜ失敗したかは書いてある。 どこまで保ったかは、書いていない。 八日目に殺し合いが起きたなら、七日目までは何が起きていたのか。 十年後に風習が生まれたなら、一年目はどうだったのか。 誰も書いていない。「何読んでるの」 イノリが覗き込んできた。「書き写したものよ」「手伝う」「読めないわ。写しでも、字は監察部のものだから」「じゃあ、声に出して」 ミコトは少し黙ってから、頁の端を指で押さえた。「七人へ分けた記録」「うん」「八日目に、七つの町で殺し合いが起きた」「七日目までは?」 ミコトの指が、頁の上で止まった。「今、同じことを考えていたわ」「じゃあ合ってる」「合っているかどうかは、まだ分からない」「でも二人が同じこと考えたなら、私はもう合ってると思う」 ミコトは反論しかけて、やめた。「七日間、七人は普通に暮らしたわ」「じゃあ、七日はいけたんだ」「七日でも足りないの」「足りないけど、ゼロじゃない」「何日ならいいの」「分からないわ」「じゃあ、何日から数えるかは決められる?」 ミコトが顔を上げた。「どういう意味」「七日でだめだったなら、八日目に何があったか調べればいいでしょ」「八日目のことは書いてあるわ」「書いてあるのは、起きたことだけ?」「……ええ」「じゃあ、その日に誰が何をやめたのかは、書いてないんだ」 ミコトは頁へ目を戻した。 書いていなかった。 イノリは頁を覗き込もうとして、途中で手を引いた。「見ないよ。読めないんでしょ」「読めないわ」「うん」 三日読んで、結局は何も見つからなかった。 見つからなかったことも、ミコトは書き留めた。     * その夜、夢を見た。 白い大聖堂。何千人もの人が跪いている。「聖女ミコト」「世界を救った英雄」 跪いている人々の顔は、見えない。全員が床へ額をつけている。うなじだけが何千と並んでいて、どれも同じ角度で曲がっていた。 誰も顔を上げないので、誰が誰なのか分からない。 分からないまま、声だけが揃って上がってくる。 正面の祭壇

  • 七つの悪夢を食べた魔女   八千二百四十一

     三日、命令書を読んだ。 読むたびに同じ長さで、同じことしか書いていない。 二日目の夜に、書き写してみた。 自分の字で書くと、少し長く感じた。長く感じただけで、意味は増えなかった。写した紙は燃やした。燃やしてから、燃やす必要があったのか分からなくなった。 四日目の朝、ミコトは監察部へ願い出た。「記録を読ませてください」「どの記録を」「私が読む段階にない、と言われたものです」 オルドはしばらく黙っていた。「今なら、構いません」「何が変わったのですか」「あなたが、自分から聞きに来ました」「前回は、あなたが呼びました」「はい」「同じ内容でも、順番が違えば別だと」「別です」 老人は立ち上がった。「読まされた者は、読んだことを他人のせいにできますから」     * 書庫は地下の三層目にあった。 棚が壁ではなく床から生えていて、通路が一本しかない。左右の棚のあいだは、人が一人通れる幅しかなかった。二人で入ると、後ろの人間は前の人間を追い越せない。 空気が乾いている。紙を保たせるためだと、案内の聖職者が言った。 喉の奥がすぐに渇いた。唾を飲もうとして、飲むものがなかった。 灯りは低い位置にある。棚の上の方は暗い。どこまで棚が続いているのかは、見えなかった。 オルドは一冊の帳面を抜き出した。 抜くとき、隣の帳面が倒れなかった。詰まっているのではなく、一冊ずつ支えが入っている。 表紙に日付が刻まれている。百年前、黒い月が満ちた年。「開きなさい」 最初の頁に、少女の肖像が貼られていた。 処刑台の上に立っている。 胸に、黒い花が七輪。 泣いているのだと思った。 よく見ると、口の端だけが上がっている。 絵の具が、そこだけ二度塗られていた。上から直した跡だった。「この子は」「リシア。候補者でした」「候補者が、なぜ処刑台に」「器になったからです」「器」「倒された大悪夢は、消えません」 オルドは頁の端を指で押さえた。「一人へ集まります。七輪咲けば、満ちる」「満ちたら」「終末の魔女と呼ばれるものになります」「それで、処刑を」「はい」「呼ばれるもの、という言い方をされますね」 オルドは頁から目を上げなかった。「なったところを、誰も見ていないからです」 ミコトは肖像から目を離さなかった。 七輪。数える

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