로그인「お母さん」
母親は振り返らなかった。
ミアの身体を煙みたいにすり抜けて、リリの皿へスープを足す。
「ねえ。私、ここにいるよ」
触れようとした指先が、白い靄になって崩れた。
崩れた場所は痛くないらしい。ミアは自分の手を何度も握ったり開いたりして、感覚があることを確かめている。
壁に並んだ家族の絵から、ミアだけが一枚ずつ消えていく。
端から消えるのではなかった。輪郭の内側が白く抜けて、そこへ背景の壁紙が入り込んでくる。最後に髪の一房だけが残って、それも消えた。
「ここはミアの願いで作られた悪夢よ」
ミコトが銃を抜いた。
「妹は目覚め、家族は幸福に暮らす。その代わり、姉の存在が最初からなかったことになる」
「リリ!」
ミアが妹へ駆け寄った。
「お姉ちゃんだよ。毎朝、髪を結んであげたでしょう。雷が怖い夜は――」
リリが笑顔のまま顔を上げる。
「お姉ちゃんなんて、いらなかった」
口が耳元まで裂けた。
裂けるとき、音がした。
紙ではなく、湿った布を引くときの音だった。裂けた縁がめくれて、歯の並びが頬の途中まで続いているのが見える。
その奥から黒い指が伸びた。
指の数が合わない。何本あるのか数える前に、二本目の腕が父親の背中から生えた。
ミアは悲鳴を上げなかった。
息を吸ったまま、吐き方を忘れたような顔で立っている。
イノリが腕を掴んで引いた時、初めて声が出た。
「走って!」
ミコトが連射する。青い弾丸は腕を貫いたが、傷口から新しい家族の顔が生えてきた。
イノリはミアを抱えて、崩れた壁の向こうへ飛び込む。
*
家の外には、同じ建物が並んでいた。
似ている、という程度の話ではなかった。
屋根の傾き、扉の色、窓枠の割れ方、玄関前に置かれた靴の数と向きまで、一軒残らず同じだった。三軒先まで歩いて振り返ると、来た方向にも同じ家が並んでいる。
どの窓にも幸福な家族がいる。庭で遊ぶ家族。食卓を囲む家族。眠る子どもへ本を読む家族。
そのどこにも、ミアはいない。
悪夢の街には風がなかった。煙突の煙も、木の葉も、窓辺の布も止まっている。動いているのは、窓の中で笑う家族だけだった。
空は夕方の色で固定されている。太陽の位置を探したが、光がどこから来ているのか分からなかった。
影が、どの方向にも伸びていない。
イノリは自分の足元を見た。
自分の影もなかった。
同じ家を何度も過ぎたあたりで、膝に手をついた。
目が、どこを見ればいいのか分からなくなっている。同じものが並びすぎていると、人間の目は距離を測れないらしい。近くの家と遠くの家が、同じ大きさに見えた。
「気持ち悪い」
「吐くなら端でやりなさい」
「吐かないよ」
言ってから、少し口を押さえた。
「脱出路を探すわ」
ミコトが記録板を開いた。
「街の構造を把握する。窓の数、家の間隔、糸の向き」
「聞いて回るの?」
「それが早い」
イノリが一軒の扉を叩いた。
三度叩く前に開いた。待っていたように見えた。
知らない父親が出てくる。
「ミアっていう女の子、知りませんか」
「この街に、そんな子はいないよ」
穏やかな笑顔の口元から黒い糸が伸びて、街の奥へ吸い込まれていく。
その瞬間、ミアが小さく声を上げた。
右手の指先が、消えていた。
切断面はない。爪と、その先の空気の境目が、少しぼやけているだけだった。血も出ていない。
ミアは消えた指で、袖を掴もうとした。
掴めた。
何もないのに、掴めたらしい。布が、指の形にへこんでいる。
イノリの喉が鳴った。
「今の」
「見ていたわ」
「なんで消えたの」
「分からない」
ミコトは記録板へ何かを書いた。書いてから、線を引いて消した。
「何か起きたのは確かよ」
「それだけ?」
「それだけ」
扉はまだ開いたままだった。
中の父親は、同じ笑顔のまま二人を見ている。次の質問を待っているようにも見えた。
二軒目で、イノリはもう一度同じことを聞いた。
「ミアっていう女の子を、知りませんか」
「そんな子はいないねえ」
その場でミアの手首から先が消えた。
今度は、三人とも見ていた。
「否定されるたび、削れているわ」
ミコトの声が硬くなる。
「聞くこと自体が、この子を削る」
「先に言ってよ!」
「今、分かったの」
ミアは腕を持ち上げて、袖を振った。
布だけが動いた。
それを二度やってから、腕を下ろした。
「もう、聞かないでください」
ミアが言った。
「でも、道が分からないと」
「私が消えれば、皆さんは出られるんですよね」
イノリは答えられなかった。
「聞くのをやめるわ」
ミコトが記録板を閉じる。
「本人が嫌だと言った」
「じゃあ、どうやって帰るの」
「別の方法を探す」
「何分かかるの」
「分からない」
*
風のない街で、三人は動かなくなった。
ミアは膝を抱えて、家と家の間に座っている。
見ている間にも、肘の輪郭が薄くなっていった。
イノリは同じ道を三度往復した。
どの家も同じなので、往復しているのかどうかも怪しい。三度目に戻ってきたとき、ミアの座っている位置が最初より遠くなっていた。距離が変わったのか、自分の歩幅が変わったのか、分からなかった。
ミコトは記録板へ何かを書いては消していた。
書く。読む。消す。同じ動作を、もう十回以上繰り返している。
「あと、どれくらい」
イノリが聞いた。
ミコトは指輪の光をミアの身体へ当てて、残り時間を見極める。
「二十分。誤差はある」
「間に合わないよ」
「二十分あるわ」
「二十分で、この子が自分で決められると思う?」
ミコトは答えなかった。
「私が決める」
「だめよ」
「じゃあ、どうするの」
「材料を渡す。決めるのは本人」
「材料を集めるのに二十分かかったら?」
ミコトの唇が動いて、そのまま止まった。
イノリは初めて、この人が答えを持っていない顔を見た。
街のどこかで、扉が閉まる音がした。
誰も開けていない扉だった。
「あの」
ミアが言った。
「もう、いいです」
二人が振り返る。
「決めました。私が消えます」
声は震えていなかった。
「待って」
「待ちません」
ミアは自分の透けた腕を見た。
「さっきから、お二人が私のことで言い合ってるでしょう」
一度だけ、息を吸った。
「それが、一番つらいんです」
「ミア」
「私が決めていいって、言いましたよね」
ミコトが動けなくなった。
街の家々から、一斉に糸が伸びてくる。
どの糸もミアには触れない。契約者だからだ。ただ、彼女の周りの空気を撫でるように回って、輪郭を薄くしていく。
「ミコト」
「……」
「止めてよ」
「本人の決定よ」
「今、決めさせたのは私たちでしょう!」
ミコトは言い返さなかった。
銃を持つ手が、一度だけ弾倉へ触れた。
*
夢鏡越しに、ヨルが街を見渡していた。
「家の窓から出てる糸が、真ん中の大きい家に集まってる。たぶんそこが契約の中心」
「声が遠いよ。大丈夫?」
「塔と悪夢の距離があるだけ」
ヨルは平気な顔で答えた。
夢鏡の内側では、黒い指が何度も表面を叩いている。悪夢はイノリを追わず、鏡の向こうのヨルを探していた。
叩き方には順番があった。三度叩いて、少し待つ。また三度叩く。返事を待っているように。
「こっちを見つけた」
誰にも聞こえない声で呟く。
黒い指が鏡に文字を書いた。
――空いている。
何が、と聞く前に文字は消えた。
ヨルの胸元の痣だけが、蕾の形に盛り上がった。
*
遠くで怪物が咆哮した。
家々の屋根を突き破って、家族の顔を持つ巨体が現れる。
顔は縫い合わされている。糸目が見えるほど雑な縫い方で、表情が動くたびに継ぎ目が引き攣れた。
引き攣れた隙間から、中身が見える。
中身も顔だった。
その下にも、たぶん顔がある。
怪物はイノリとミコトだけを狙い、ミアには触れようとしない。
「契約者は獲物じゃないの」
イノリが叫んだ。
ミコトが銃を構える。
「自分の存在を差し出して、妹の目覚めを願った側だから」
耳元で雑音が弾け、ヨルの声が繋がる。
「怪物を壊しても、契約が残ればまた生まれるよ」
「ヨル!」
「聞こえてる。家の中心に隠された記憶がある。たぶんリリ側の」
怪物の胸が裂けて、白い寝台で眠るリリが現れた。
「お姉ちゃんがいなくなれば、わたしは起きられるよ」
ミアは、もう驚かなかった。
「知ってます」
静かに言う。
「だから決めたんです」
「それ、本物?」
イノリが叫んだ。
「悪夢が作った言葉かもしれないでしょ!」
「本物かもしれません」
「確かめてない!」
ミコトが指輪の光をミアへ当てた。
「十分」
「さっきの半分だ」
イノリは大剣を呼び出した。
「まだ十分あるんでしょ」
「何をする気」
「怪物の中へ入る。リリの記憶を取ってくる」
「おすすめはしないよ」
ヨルが即答する。
「他人の後悔は、見てる人の記憶まで食べる」
「別の方法は」
「ない」
「じゃあ行く」
「そこ、少しくらい迷って」
ミコトが弾丸を撃った。青い光が怪物の四肢に刺さり、鎖へ変わる。
「三十秒止める。戻れなければ、鎖ごと領域を切断する」
「私も切られる?」
「戻れば問題ない」
「顔が怖いよ!」
イノリはミアの前で一度だけ足を止めた。
「取ってくるだけ。決めるのはミア」
言ってから、自分でも意外に思った。
さっきまで、自分が決めると言っていたのに。
「行ってらっしゃい」
ミアは笑わずに言った。
「でも、間に合わなくても恨まないでね」
*
「ヨル。道を教えて」
「三歩先で右。黒い口が開いたら、その中」
「分かった」
「あなたの『分かった』は信用できない。帰るって言って」
イノリは怪物の肩で一度だけ振り返った。
遠い塔にいるはずのヨルと、目が合った気がした。
「帰る」
黒い裂け目へ飛び込む。
中は狭かった。
両側から、布のようなものが頬に触れる。
布ではなかった。触れた場所が濡れて、温かい。
落ちているのではなく、飲み込まれているのだと分かった。分かってから、剣の柄を握り直す力が抜けそうになって、指を無理に固めた。
闇の中で、知らない少女の声が囁いた。
「忘れて」
「私がいたことを、忘れて」
イノリは自分の名前を呼んだ。次にヨル、ミコト、ミア、リリ。
一つずつ繋ぎ止めるように叫びながら落ちていく。
底には、雨に濡れた道があった。
馬車の警笛が鳴る。
赤い髪飾りが石畳を転がって、イノリの足元で止まった。
拾おうとして、手が止まった。
幼い頃、ヨルと何を食べたか思い出せない。
名前は分かる。顔も分かる。二人で笑ったはずの一日だけが、白く抜けている。
長居しないで、とヨルが言った理由が、身体で分かった。
「お母さん」 母親は振り返らなかった。 ミアの身体を煙みたいにすり抜けて、リリの皿へスープを足す。「ねえ。私、ここにいるよ」 触れようとした指先が、白い靄になって崩れた。 崩れた場所は痛くないらしい。ミアは自分の手を何度も握ったり開いたりして、感覚があることを確かめている。 壁に並んだ家族の絵から、ミアだけが一枚ずつ消えていく。 端から消えるのではなかった。輪郭の内側が白く抜けて、そこへ背景の壁紙が入り込んでくる。最後に髪の一房だけが残って、それも消えた。「ここはミアの願いで作られた悪夢よ」 ミコトが銃を抜いた。「妹は目覚め、家族は幸福に暮らす。その代わり、姉の存在が最初からなかったことになる」「リリ!」 ミアが妹へ駆け寄った。「お姉ちゃんだよ。毎朝、髪を結んであげたでしょう。雷が怖い夜は――」 リリが笑顔のまま顔を上げる。「お姉ちゃんなんて、いらなかった」 口が耳元まで裂けた。 裂けるとき、音がした。 紙ではなく、湿った布を引くときの音だった。裂けた縁がめくれて、歯の並びが頬の途中まで続いているのが見える。 その奥から黒い指が伸びた。 指の数が合わない。何本あるのか数える前に、二本目の腕が父親の背中から生えた。 ミアは悲鳴を上げなかった。 息を吸ったまま、吐き方を忘れたような顔で立っている。 イノリが腕を掴んで引いた時、初めて声が出た。「走って!」 ミコトが連射する。青い弾丸は腕を貫いたが、傷口から新しい家族の顔が生えてきた。 イノリはミアを抱えて、崩れた壁の向こうへ飛び込む。 * 家の外には、同じ建物が並んでいた。 似ている、という程度の話ではなかった。 屋根の傾き、扉の色、窓枠の割れ方、玄関前に置かれた靴の数と向きまで、一軒残らず同じだった。三軒先まで歩いて振り返ると、来た方向にも同じ家が並んでいる。 どの窓にも幸福な家族がいる。庭で遊ぶ家族。食卓を囲む家族。眠る子どもへ本を読む家族。 そのどこにも、ミアはいない。 悪夢の街には風がなかった。煙突の煙も、木の葉も、窓辺の布も止まっている。動いているのは、窓の中で笑う家族だけだった。 空は夕方の色で固定されている。太陽の位置を探したが、光がどこから来ているのか分からなかった。 影が、どの方向にも伸びていない。 イノリは自分の足元を見
朝の訓練場は、思っていたより静かだった。 白い人形が並び、騎士たちが順番に剣を振り下ろしている。掛け声はない。刃が当たる音だけがする。 人形は木でも布でもなく、触ると乾いた粘土のような感触がした。斬られた場所が黒く変色して、しばらくすると元へ戻る。何度でも使えるように作られている。 イノリは大剣を構えた。 構えたつもりだった。 剣先が下がって、爪先の三センチ手前に落ちた。「足」 ミコトが短く言う。「見えてた」「見えていて避けないなら、それは反応が遅いのよ」「見えてたって言ってるでしょ」「二回言えば速くなるわけではないわ」 午前中で、イノリは人形を一体も倒せなかった。 振り上げると剣が後ろへ引かれ、振り下ろすと身体ごと持っていかれる。三回目で、自分が剣を振っているのか剣に振られているのか分からなくなった。四回目は、振る前に手を止めた。止めても、剣先は勝手に下がった。 午前が終わる頃には、代わりに石畳を三箇所割っていた。 訓練場の反対側では、槍を持った少女が人形の喉を正確に突いている。同じ場所を、同じ角度で、何度も。 昨日、遺書を二つに折って懐へ入れた子だった。 突いた後、必ず一度槍を引いて、穂先を見る。血がつくわけでもないのに、毎回見る。「上手いね」 イノリが声をかけると、カナタは槍を下ろした。「三年やってる」「三年」「弟が死んだ日から」 それだけ言って、また構え直した。「弟さん、いくつだったの」 カナタの穂先が止まった。「十一」 それ以上は言わなかった。イノリも聞かなかった。 少し離れた場所で、弓を持った少女が的を射抜いていた。 リゼットというらしい。矢は毎回同じ場所へ刺さる。抜いて、また射る。抜いて、また射る。的を替えようとしないので、同じ穴が広がっていくだけだった。「当たりすぎて、練習にならないんじゃない?」 イノリが言うと、リゼットは初めてこちらを見た。「壁の向こうを射ってるの」「え」「あの的の向こうに、私の町があると思って射ってる」 弓を下ろす。「もうないけど」 それだけ言って、また構えた。 鎖のついた杖を持つフユは、訓練場の隅で紙の束を広げていた。 名簿だった。細かい字が三段組みで並んでいる。イノリが覗こうとすると、拒否された。「見せられない?」「見ても、名前しかないよ」
崩れた梁の下で、イノリは自分の息の音を聞いていた。 ひゅう、と喉が鳴る。吸うたびに、濡れた紙を裂くような音が胸の奥でした。 右腕は肘から先が瓦礫の外に出ていて、そこだけが熱い。左側は何も感じない。感じないことが怖いのか、確かめるのが怖いのか、自分でも決められなかった。 火の音は、思っていたより静かだった。 燃えているのは家々ではなく、その中にあったものらしい。布や紙や、名前の分からないものが焦げる匂いが、地面すれすれのところに溜まっている。 その中に、混じってはいけない匂いが一つあった。 何の匂いかは、考えないことにした。 空に、黒い月が出ていた。 月というより、穴だ。星も煙も吸い込んで、その奥から名前のない何かが地上を覗いている。 見られている、と思った。 思った瞬間、穴の奥で何かが位置を変えた。 よく見るために動いた、という動き方だった。 目を逸らそうとして、逸らせなかった。首は動く。動かしても、視界の中心から外れてくれない。 指の感覚がなくなった。 * 声がした。 自分の声ではなかった。 遠い。瓦礫の向こう、たぶん道を一本挟んだあたりから聞こえる。「だれか」 言葉はそれだけだった。 同じ言葉を、同じ間隔で繰り返している。 イノリは返事をしようとした。 口から出たのは、血の混じった泡だけだった。 足音が近づいてきた。 軽い。子どもの足音だった。 走ってきて、途中で止まる。 止まった場所は、たぶん自分と、あの声のちょうど間だった。 止まっている時間は、短かった。 息を二つ吸う間もなかったと思う。 足音は、こちらへ来た。 瓦礫が動いた。 石が擦れる音。木の折れる音。崩れた埃が口へ入ってきて、噎せようとしたが、噎せる力がなかった。「イノリ」 爪の割れた指が、石を掻いている。額が切れて、血が片目を潰していた。それでも手を止めない。熱で膨れた金具に触れて、小さく声を上げて、それでもまた手を伸ばす。「イノリ。目を開けて」 ヨルの指が、イノリの手を探し当てた。 冷たい。 周りは燃えているのに、その手だけが井戸の水みたいだった。「わたしが助ける」 ヨルは泣いていなかった。「だから、いなくならないで」 遠くで、まだ声がしていた。「だれか」 さっきより、間が空いている。「……だれか」