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幸福な食卓に、姉はいない

작가: たつき
last update 게시일: 2026-08-11 15:22:46

「お母さん」

 母親は振り返らなかった。

 ミアの身体を煙みたいにすり抜けて、リリの皿へスープを足す。

「ねえ。私、ここにいるよ」

 触れようとした指先が、白い靄になって崩れた。

 崩れた場所は痛くないらしい。ミアは自分の手を何度も握ったり開いたりして、感覚があることを確かめている。

 壁に並んだ家族の絵から、ミアだけが一枚ずつ消えていく。

 端から消えるのではなかった。輪郭の内側が白く抜けて、そこへ背景の壁紙が入り込んでくる。最後に髪の一房だけが残って、それも消えた。

「ここはミアの願いで作られた悪夢よ」

 ミコトが銃を抜いた。

「妹は目覚め、家族は幸福に暮らす。その代わり、姉の存在が最初からなかったことになる」

「リリ!」

 ミアが妹へ駆け寄った。

「お姉ちゃんだよ。毎朝、髪を結んであげたでしょう。雷が怖い夜は――」

 リリが笑顔のまま顔を上げる。

「お姉ちゃんなんて、いらなかった」

 口が耳元まで裂けた。

 裂けるとき、音がした。

 紙ではなく、湿った布を引くときの音だった。裂けた縁がめくれて、歯の並びが頬の途中まで続いているのが見える。

 その奥から黒い指が伸びた。

 指の数が合わない。何本あるのか数える前に、二本目の腕が父親の背中から生えた。

 ミアは悲鳴を上げなかった。

 息を吸ったまま、吐き方を忘れたような顔で立っている。

 イノリが腕を掴んで引いた時、初めて声が出た。

「走って!」

 ミコトが連射する。青い弾丸は腕を貫いたが、傷口から新しい家族の顔が生えてきた。

 イノリはミアを抱えて、崩れた壁の向こうへ飛び込む。

     *

 家の外には、同じ建物が並んでいた。

 似ている、という程度の話ではなかった。

 屋根の傾き、扉の色、窓枠の割れ方、玄関前に置かれた靴の数と向きまで、一軒残らず同じだった。三軒先まで歩いて振り返ると、来た方向にも同じ家が並んでいる。

 どの窓にも幸福な家族がいる。庭で遊ぶ家族。食卓を囲む家族。眠る子どもへ本を読む家族。

 そのどこにも、ミアはいない。

 悪夢の街には風がなかった。煙突の煙も、木の葉も、窓辺の布も止まっている。動いているのは、窓の中で笑う家族だけだった。

 空は夕方の色で固定されている。太陽の位置を探したが、光がどこから来ているのか分からなかった。

 影が、どの方向にも伸びていない。

 イノリは自分の足元を見た。

 自分の影もなかった。

 同じ家を何度も過ぎたあたりで、膝に手をついた。

 目が、どこを見ればいいのか分からなくなっている。同じものが並びすぎていると、人間の目は距離を測れないらしい。近くの家と遠くの家が、同じ大きさに見えた。

「気持ち悪い」

「吐くなら端でやりなさい」

「吐かないよ」

 言ってから、少し口を押さえた。

「脱出路を探すわ」

 ミコトが記録板を開いた。

「街の構造を把握する。窓の数、家の間隔、糸の向き」

「聞いて回るの?」

「それが早い」

 イノリが一軒の扉を叩いた。

 三度叩く前に開いた。待っていたように見えた。

 知らない父親が出てくる。

「ミアっていう女の子、知りませんか」

「この街に、そんな子はいないよ」

 穏やかな笑顔の口元から黒い糸が伸びて、街の奥へ吸い込まれていく。

 その瞬間、ミアが小さく声を上げた。

 右手の指先が、消えていた。

 切断面はない。爪と、その先の空気の境目が、少しぼやけているだけだった。血も出ていない。

 ミアは消えた指で、袖を掴もうとした。

 掴めた。

 何もないのに、掴めたらしい。布が、指の形にへこんでいる。

 イノリの喉が鳴った。

「今の」

「見ていたわ」

「なんで消えたの」

「分からない」

 ミコトは記録板へ何かを書いた。書いてから、線を引いて消した。

「何か起きたのは確かよ」

「それだけ?」

「それだけ」

 扉はまだ開いたままだった。

 中の父親は、同じ笑顔のまま二人を見ている。次の質問を待っているようにも見えた。

 二軒目で、イノリはもう一度同じことを聞いた。

「ミアっていう女の子を、知りませんか」

「そんな子はいないねえ」

 その場でミアの手首から先が消えた。

 今度は、三人とも見ていた。

「否定されるたび、削れているわ」

 ミコトの声が硬くなる。

「聞くこと自体が、この子を削る」

「先に言ってよ!」

「今、分かったの」

 ミアは腕を持ち上げて、袖を振った。

 布だけが動いた。

 それを二度やってから、腕を下ろした。

「もう、聞かないでください」

 ミアが言った。

「でも、道が分からないと」

「私が消えれば、皆さんは出られるんですよね」

 イノリは答えられなかった。

「聞くのをやめるわ」

 ミコトが記録板を閉じる。

「本人が嫌だと言った」

「じゃあ、どうやって帰るの」

「別の方法を探す」

「何分かかるの」

「分からない」

     *

 風のない街で、三人は動かなくなった。

 ミアは膝を抱えて、家と家の間に座っている。

 見ている間にも、肘の輪郭が薄くなっていった。

 イノリは同じ道を三度往復した。

 どの家も同じなので、往復しているのかどうかも怪しい。三度目に戻ってきたとき、ミアの座っている位置が最初より遠くなっていた。距離が変わったのか、自分の歩幅が変わったのか、分からなかった。

 ミコトは記録板へ何かを書いては消していた。

 書く。読む。消す。同じ動作を、もう十回以上繰り返している。

「あと、どれくらい」

 イノリが聞いた。

 ミコトは指輪の光をミアの身体へ当てて、残り時間を見極める。

「二十分。誤差はある」

「間に合わないよ」

「二十分あるわ」

「二十分で、この子が自分で決められると思う?」

 ミコトは答えなかった。

「私が決める」

「だめよ」

「じゃあ、どうするの」

「材料を渡す。決めるのは本人」

「材料を集めるのに二十分かかったら?」

 ミコトの唇が動いて、そのまま止まった。

 イノリは初めて、この人が答えを持っていない顔を見た。

 街のどこかで、扉が閉まる音がした。

 誰も開けていない扉だった。

「あの」

 ミアが言った。

「もう、いいです」

 二人が振り返る。

「決めました。私が消えます」

 声は震えていなかった。

「待って」

「待ちません」

 ミアは自分の透けた腕を見た。

「さっきから、お二人が私のことで言い合ってるでしょう」

 一度だけ、息を吸った。

「それが、一番つらいんです」

「ミア」

「私が決めていいって、言いましたよね」

 ミコトが動けなくなった。

 街の家々から、一斉に糸が伸びてくる。

 どの糸もミアには触れない。契約者だからだ。ただ、彼女の周りの空気を撫でるように回って、輪郭を薄くしていく。

「ミコト」

「……」

「止めてよ」

「本人の決定よ」

「今、決めさせたのは私たちでしょう!」

 ミコトは言い返さなかった。

 銃を持つ手が、一度だけ弾倉へ触れた。

     *

 夢鏡越しに、ヨルが街を見渡していた。

「家の窓から出てる糸が、真ん中の大きい家に集まってる。たぶんそこが契約の中心」

「声が遠いよ。大丈夫?」

「塔と悪夢の距離があるだけ」

 ヨルは平気な顔で答えた。

 夢鏡の内側では、黒い指が何度も表面を叩いている。悪夢はイノリを追わず、鏡の向こうのヨルを探していた。

 叩き方には順番があった。三度叩いて、少し待つ。また三度叩く。返事を待っているように。

「こっちを見つけた」

 誰にも聞こえない声で呟く。

 黒い指が鏡に文字を書いた。

 ――空いている。

 何が、と聞く前に文字は消えた。

 ヨルの胸元の痣だけが、蕾の形に盛り上がった。

     *

 遠くで怪物が咆哮した。

 家々の屋根を突き破って、家族の顔を持つ巨体が現れる。

 顔は縫い合わされている。糸目が見えるほど雑な縫い方で、表情が動くたびに継ぎ目が引き攣れた。

 引き攣れた隙間から、中身が見える。

 中身も顔だった。

 その下にも、たぶん顔がある。

 怪物はイノリとミコトだけを狙い、ミアには触れようとしない。

「契約者は獲物じゃないの」

 イノリが叫んだ。

 ミコトが銃を構える。

「自分の存在を差し出して、妹の目覚めを願った側だから」

 耳元で雑音が弾け、ヨルの声が繋がる。

「怪物を壊しても、契約が残ればまた生まれるよ」

「ヨル!」

「聞こえてる。家の中心に隠された記憶がある。たぶんリリ側の」

 怪物の胸が裂けて、白い寝台で眠るリリが現れた。

「お姉ちゃんがいなくなれば、わたしは起きられるよ」

 ミアは、もう驚かなかった。

「知ってます」

 静かに言う。

「だから決めたんです」

「それ、本物?」

 イノリが叫んだ。

「悪夢が作った言葉かもしれないでしょ!」

「本物かもしれません」

「確かめてない!」

 ミコトが指輪の光をミアへ当てた。

「十分」

「さっきの半分だ」

 イノリは大剣を呼び出した。

「まだ十分あるんでしょ」

「何をする気」

「怪物の中へ入る。リリの記憶を取ってくる」

「おすすめはしないよ」

 ヨルが即答する。

「他人の後悔は、見てる人の記憶まで食べる」

「別の方法は」

「ない」

「じゃあ行く」

「そこ、少しくらい迷って」

 ミコトが弾丸を撃った。青い光が怪物の四肢に刺さり、鎖へ変わる。

「三十秒止める。戻れなければ、鎖ごと領域を切断する」

「私も切られる?」

「戻れば問題ない」

「顔が怖いよ!」

 イノリはミアの前で一度だけ足を止めた。

「取ってくるだけ。決めるのはミア」

 言ってから、自分でも意外に思った。

 さっきまで、自分が決めると言っていたのに。

「行ってらっしゃい」

 ミアは笑わずに言った。

「でも、間に合わなくても恨まないでね」

     *

「ヨル。道を教えて」

「三歩先で右。黒い口が開いたら、その中」

「分かった」

「あなたの『分かった』は信用できない。帰るって言って」

 イノリは怪物の肩で一度だけ振り返った。

 遠い塔にいるはずのヨルと、目が合った気がした。

「帰る」

 黒い裂け目へ飛び込む。

 中は狭かった。

 両側から、布のようなものが頬に触れる。

 布ではなかった。触れた場所が濡れて、温かい。

 落ちているのではなく、飲み込まれているのだと分かった。分かってから、剣の柄を握り直す力が抜けそうになって、指を無理に固めた。

 闇の中で、知らない少女の声が囁いた。

「忘れて」

「私がいたことを、忘れて」

 イノリは自分の名前を呼んだ。次にヨル、ミコト、ミア、リリ。

 一つずつ繋ぎ止めるように叫びながら落ちていく。

 底には、雨に濡れた道があった。

 馬車の警笛が鳴る。

 赤い髪飾りが石畳を転がって、イノリの足元で止まった。

 拾おうとして、手が止まった。

 幼い頃、ヨルと何を食べたか思い出せない。

 名前は分かる。顔も分かる。二人で笑ったはずの一日だけが、白く抜けている。

 長居しないで、とヨルが言った理由が、身体で分かった。

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