LOGIN「お母さん」
母親は振り返らなかった。
ミアの身体を煙みたいにすり抜けて、リリの皿へスープを足す。
「ねえ。私、ここにいるよ」
触れようとした指先が、白い靄になって崩れた。
崩れた場所は痛くないらしい。ミアは自分の手を何度も握ったり開いたりして、感覚があることを確かめている。
壁に並んだ家族の絵から、ミアだけが一枚ずつ消えていく。
端から消えるのではなかった。輪郭の内側が白く抜けて、そこへ背景の壁紙が入り込んでくる。最後に髪の一房だけが残って、それも消えた。
「ここはミアの願いで作られた悪夢よ」
ミコトが銃を抜いた。
「妹は目覚め、家族は幸福に暮らす。その代わり、姉の存在が最初からなかったことになる」
「リリ!」
ミアが妹へ駆け寄った。
「お姉ちゃんだよ。毎朝、髪を結んであげたでしょう。雷が怖い夜は――」
リリが笑顔のまま顔を上げる。
「お姉ちゃんなんて、いらなかった」
口が耳元まで裂けた。
裂けるとき、音がした。
紙ではなく、湿った布を引くときの音だった。裂けた縁がめくれて、歯の並びが頬の途中まで続いているのが見える。
その奥から黒い指が伸びた。
指の数が合わない。何本あるのか数える前に、二本目の腕が父親の背中から生えた。
ミアは悲鳴を上げなかった。
息を吸ったまま、吐き方を忘れたような顔で立っている。
イノリが腕を掴んで引いた時、初めて声が出た。
「走って!」
ミコトが連射する。青い弾丸は腕を貫いたが、傷口から新しい家族の顔が生えてきた。
イノリはミアを抱えて、崩れた壁の向こうへ飛び込む。
*
家の外には、同じ建物が並んでいた。
似ている、という程度の話で済まなかった。
屋根の傾き、扉の色、窓枠の割れ方、玄関前に置かれた靴の数と向きまで、一軒残らず同じだった。三軒先まで歩いて振り返ると、来た方向にも同じ家が並んでいる。
どの窓にも幸福な家族がいる。庭で遊ぶ家族。食卓を囲む家族。眠る子どもへ本を読む家族。
そのどこにも、ミアはいない。
悪夢の街には風がなかった。煙突の煙も、木の葉も、窓辺の布も止まっている。動いているのは、窓の中で笑う家族だけだった。
空は夕方の色で固定されている。太陽の位置を探したが、光がどこから来ているのか分からなかった。
影が、どの方向にも伸びていない。
イノリは自分の足元を見た。
自分の影もなかった。
同じ家を何度も過ぎたあたりで、膝に手をついた。
目が、どこを見ればいいのか分からなくなっている。同じものが並びすぎていると、人間の目は距離を測れないらしい。近くの家と遠くの家が、同じ大きさに見えた。
「気持ち悪い」
「吐くなら端でやりなさい」
「吐かないよ」
言ってから、少し口を押さえた。
「脱出路を探すわ」
ミコトが記録板を開いた。
「街の構造を把握する。窓の数、家の間隔、糸の向き」
「聞いて回るの?」
「それが早い」
イノリが一軒の扉を叩いた。
三度叩く前に開いた。待っていたように見えた。
知らない父親が出てくる。
「ミアっていう女の子、知りませんか」
「この街に、そんな子はいないよ」
穏やかな笑顔の口元から黒い糸が伸びて、街の奥へ吸い込まれていく。
その瞬間、ミアが小さく声を上げた。
右手の指先が、消えていた。
切断面はない。爪と、その先の空気の境目が、少しぼやけているだけだった。血も出ていない。
ミアは消えた指で、袖を掴もうとした。
掴めた。
何もないのに、掴めたらしい。布が、指の形にへこんでいる。
イノリの喉が鳴った。
「今の」
「見ていたわ」
「なんで消えたの」
「分からない」
ミコトは記録板へ何かを書いた。書いてから、線を引いて消した。
「何か起きたのは確かよ」
「それだけ?」
「それだけ」
扉はまだ開いたままだった。
中の父親は、同じ笑顔のまま二人を見ている。次の質問を待っているようにも見えた。
二軒目で、イノリはもう一度同じことを聞いた。
「ミアっていう女の子を、知りませんか」
「そんな子はいないねえ」
その場でミアの手首から先が消えた。
今度は、三人とも見ていた。
「否定されるたび、削れているわ」
ミコトの声が硬くなる。
「聞くこと自体が、この子を削る」
「先に言ってよ!」
「今、分かったの」
ミアは腕を持ち上げて、袖を振った。
布だけが動いた。
それを二度やってから、腕を下ろした。
「もう、聞かないでください」
ミアが言った。
「でも、道が分からないと」
「私が消えれば、皆さんは出られるんですよね」
イノリは答えられなかった。
「聞くのをやめるわ」
ミコトが記録板を閉じる。
「本人が嫌だと言った」
「じゃあ、どうやって帰るの」
「別の方法を探す」
「何分かかるの」
「分からない」
*
風のない街で、三人は動かなくなった。
ミアは膝を抱えて、家と家の間に座っている。
見ている間にも、肘の輪郭が薄くなっていった。
イノリは同じ道を三度往復した。
どの家も同じなので、往復しているのかどうかも怪しい。三度目に戻ってきたとき、ミアの座っている位置が最初より遠くなっていた。距離が変わったのか、自分の歩幅が変わったのか、分からなかった。
ミコトは記録板へ何かを書いては消していた。
書く。読む。消す。同じ動作を、もう十回以上繰り返している。
「あと、どれくらい」
イノリが聞いた。
ミコトは指輪の光をミアの身体へ当てて、残り時間を見極める。
「二十分。誤差はある」
「間に合わないよ」
「二十分あるわ」
「二十分で、この子が自分で決められると思う?」
ミコトの唇が、開いて閉じた。
「私が決める」
「だめよ」
「じゃあ、どうするの」
「材料を渡す。決めるのは本人」
「材料を集めるのに二十分かかったら?」
ミコトの唇が動いて、そのまま止まった。
イノリは初めて、この人が答えを持っていない顔を見た。
街のどこかで、扉が閉まる音がした。
誰も開けていない扉だった。
「あの」
ミアが言った。
「もう、いいです」
二人が振り返る。
「決めました。私が消えます」
声は震えていなかった。
「待って」
「待ちません」
ミアは自分の透けた腕を見た。
「さっきから、お二人が私のことで言い合ってるでしょう」
一度だけ、息を吸った。
「それが、一番つらいんです」
「ミア」
「私が決めていいって、言いましたよね」
ミコトが動けなくなった。
街の家々から、一斉に糸が伸びてくる。
どの糸もミアには触れない。契約者だからだ。ただ、彼女の周りの空気を撫でるように回って、輪郭を薄くしていく。
「ミコト」
「……」
「止めてよ」
「本人の決定よ」
「今、決めさせたのは私たちでしょう!」
ミコトは言い返さなかった。
銃を持つ手が、一度だけ弾倉へ触れた。
*
夢鏡越しに、ヨルが街を見渡していた。
「家の窓から出てる糸が、真ん中の大きい家に集まってる。たぶんそこが契約の中心」
「声が遠いよ。大丈夫?」
「塔と悪夢の距離があるだけ」
ヨルは平気な顔で答えた。
夢鏡の内側では、黒い指が何度も表面を叩いている。悪夢はイノリを追わず、鏡の向こうのヨルを探していた。
叩き方には順番があった。三度叩いて、少し待つ。また三度叩く。返事を待っているように。
「こっちを見つけた」
誰にも聞こえない声で呟く。
黒い指が鏡に文字を書いた。
――空いている。
何が、と聞く前に文字は消えた。
ヨルの胸元の痣だけが、蕾の形に盛り上がった。
*
遠くで怪物が咆哮した。
家々の屋根を突き破って、家族の顔を持つ巨体が現れる。
顔は縫い合わされている。糸目が見えるほど雑な縫い方で、表情が動くたびに継ぎ目が引き攣れた。
引き攣れた隙間から、中身が見える。
中身も顔だった。
その下にも、たぶん顔がある。
怪物はイノリとミコトだけを狙い、ミアには触れようとしない。
「契約者は獲物じゃないの」
イノリが叫んだ。
ミコトが銃を構える。
「自分の存在を差し出して、妹の目覚めを願った側だから」
耳元で雑音が弾け、ヨルの声が繋がる。
「怪物を壊しても、契約が残ればまた生まれるよ」
「ヨル!」
「聞こえてる。家の中心に隠された記憶がある。たぶんリリ側の」
怪物の胸が裂けて、白い寝台で眠るリリが現れた。
「お姉ちゃんがいなくなれば、わたしは起きられるよ」
ミアは、もう驚かなかった。
「知ってます」
静かに言う。
「だから決めたんです」
「それ、本物?」
イノリが叫んだ。
「悪夢が作った言葉かもしれないでしょ!」
「本物かもしれません」
「確かめてない!」
ミコトが指輪の光をミアへ当てた。
「十分」
「さっきの半分だ」
イノリは大剣を呼び出した。
「まだ十分あるんでしょ」
「何をする気」
「怪物の中へ入る。リリの記憶を取ってくる」
「おすすめはしないよ」
ヨルが即答する。
「他人の後悔は、見てる人の記憶まで食べる」
「別の方法は」
「ない」
「じゃあ行く」
「そこ、少しくらい迷って」
ミコトが弾丸を撃った。青い光が怪物の四肢に刺さり、鎖へ変わる。
「三十秒止める。戻れなければ、鎖ごと領域を切断する」
「私も切られる?」
「戻れば問題ない」
「顔が怖いよ!」
イノリはミアの前で一度だけ足を止めた。
「取ってくるだけ。決めるのはミア」
言ってから、自分でも意外に思った。
さっきまで、自分が決めると言っていたのに。
「行ってらっしゃい」
ミアは笑わずに言った。
「でも、間に合わなくても恨まないでね」
*
「ヨル。道を教えて」
「三歩先で右。黒い口が開いたら、その中」
「分かった」
「あなたの『分かった』は信用できない。帰るって言って」
イノリは怪物の肩で一度だけ振り返った。
遠い塔にいるはずのヨルと、目が合った気がした。
「帰る」
黒い裂け目へ飛び込む。
中は狭かった。
両側から、布のようなものが頬に触れる。
布ではなかった。触れた場所が濡れて、温かい。
落ちているのではなく、飲み込まれているのだと分かった。分かってから、剣の柄を握り直す力が抜けそうになって、指を無理に固めた。
闇の中で、知らない少女の声が囁いた。
「忘れて」
「私がいたことを、忘れて」
イノリは自分の名前を呼んだ。次にヨル、ミコト、ミア、リリ。
一つずつ繋ぎ止めるように叫びながら落ちていく。
底には、雨に濡れた道があった。
馬車の警笛が鳴る。
赤い髪飾りが石畳を転がって、イノリの足元で止まった。
拾おうとして、手が止まった。
幼い頃、ヨルと何を食べたか思い出せない。
名前は分かる。顔も分かる。二人で笑ったはずの一日だけが、白く抜けている。
長居しないで、とヨルが言った理由が、身体で分かった。
夜のあいだ、ヨルは何度も引き金を引いた。 眠ったままで、指だけが動く。 胸の三輪目も鳴っていた。ただし、指と同じ拍ではない。少し早い。ヨルの指が追いかけて、追いつけずにまた遅れる。 弾は出ない。撃鉄が落ちて、また上がる。それだけの音が、一晩に何十回も鳴った。 イノリは寝台の横に座って、それを聞いていた。 触ってよいと言われた手だけを握って、それ以上は何もしない。 握っている手も、時々動く。指が引き金の形になって、また戻る。 銃口は、ずっとイノリの方を向いていた。 イノリは位置を変えなかった。 変えたところで追ってくるのは、昼のうちに分かっている。 窓の外に、白い灯籠が上がっている。 三つ目の大悪夢が消えたことを、王都は知らされたらしい。 誰が知らせたのかは分からない。 三つ。 イノリは数えてから、数えたことを後悔した。 灯籠は、上がりきると見えなくなる。どこかへ落ちているはずなのに、拾ったという話を聞いたことがない。 夜が明ける頃には、三つとも見えなくなっていた。 * 空が白む頃、ヨルが目を開けた。「寝てないの」「ヨルも寝てないでしょ」「私は病人だから」「病人は寝るものじゃないの」「今日は例外」 イノリは握っていた手を離そうとした。 ヨルが指を絡め直す。「今は、離さないで」「うん」「でも、ずっとは嫌」「難しい注文だね」「私、人間だから」 ヨルは窓の方へ首を倒した。「花みたいに、一つの命令では動かない」「花は動くの」「動くよ。命令されたとおりに」 ヨルは自分の胸元へ目をやった。「誰が命令してるのかは、知らないけど」 イノリは何か聞こうとして、やめた。 昨日、二度目に答えてもらえなかったことだった。「ヨル」「何」「お腹すいてない?」「今それ聞く?」「聞くよ」 ヨルは少し黙ってから、答えた。「すいてない」「昨日から何も食べてないでしょ」「食べたよ」 言ってから、自分で口を閉じた。 イノリも、それ以上は言わなかった。 机の上に、干した果物の包みが置いてある。三日前のものだった。誰も片付けていない。誰も食べていない。紙の折り目が、少しずつ開いてきている。 * 朝、扉が開いた。 ミコトが立っている。教会の制服のままで、目の下が黒い。 右手の銃は、青白い
石室を飛び出した時には、核はもう地上へ抜けていた。 イノリが走る。三歩で振り返る。 ミコトが遅れている。三日眠っていない足が、階段で二度もつれた。 二度目は、手すりを掴んで持ち直した。三度目は掴めなかった。「先に行って!」「行けない!」 六歩。 この三日で身体が覚えた距離だった。 イノリは戻って、ミコトの腕を掴んだ。「舌噛むよ」「何を――」 抱えて走った。 軽かった。三日、ほとんど食べていない身体だった。 大聖堂を出ると、外は昼だった。 広場に人が集まっている。二十人ほど。誰も喋っていない。全員が同じ方向を向いて、片手を上げていた。指が二本立っている。銃の形だった。 子どもが混じっている。手が小さいので、指の形が上手く作れていない。それでも作ろうとしていた。 イノリは目を逸らさずに、その横を走り抜けた。 逸らさなかった。逸らせなかったのかもしれない。 階段は幅が狭い。二人ぶんの幅はないので、肩を壁に擦りながら上がった。制服の布が擦れて、途中で裂ける音がした。 途中の踊り場に、聖職者が二人立っていた。 道を空けなかった。 イノリは間を通った。通るとき、誰も止めなかった。止めない方が不自然だった。 * 塔の階段を上がりきると、扉が開いていた。 鎖は外れている。 切られていない。留め具が七つとも、きれいに外されて壁の鉤へ掛かっていた。「鍵で開けてあるわ」 ミコトが言った。 息が上がっている。それでも、見るところは見ていた。「誰が」「鍵を持っている者」「教会?」「他にいないでしょう」「なんで今」 ミコトは答えなかった。 答えなかったが、部屋の中を一度だけ見渡した。 まだ何も起きていない。それでも扉は開けてある。 部屋の中で、ヨルが窓辺に立っていた。「遅かったね」 息が上がっている。 夢鏡の表面が、内側から波打っていた。「ヨル、ミコトの銃から」「見えてる」「二十人に漏れてる」「一日ぶん飛んでるわ」 ミコトが言った。「二十人は、明日のはずだった」「核が出たから?」「たぶんね」「それも見えてる」 イノリは剣を呼んだ。「止める」「どうやって」 答えられなかった。「イノリ」「なに」「剣で止まるものだったら、私はとっくに何もしてない」 * ヨルは包帯の
封印した夜を最後に、ミコトは眠らなかった。 三日が過ぎている。 目を閉じると、断罪弾を撃たなかった未来が始まる。 黒い水へ沈む町。助けを呼ぶ人々。燃える家の窓から、レナがこちらを見る。 ――今度も、扉を閉めるの? 起きている間も、銃の弾倉から小さな呼吸音がした。 吸って、吐く。人の間隔より少し遅い。合わせようとすると、自分の呼吸の方が乱れた。 一日目の朝に分かったのは、七歩の縛りがミコトとイノリの間にしか働かないことだった。 ヨルの側は夢鏡が保っている。鏡が開いている限り、距離は問題にならない。「じゃあ、外に出られる?」 イノリが聞いた。「二人でなら」 それ以来、ミコトはどこへ行くにもイノリを連れて歩いた。 正確には、イノリがミコトから七歩以上離れられなくなった。 廊下ですれ違う者が、二人を見て道を空ける。前は監察役の制服に道を空けていた。今は、二人ぶんの幅を空けている。「一時間だけでも寝て」 塔の廊下で、イノリが毛布を持って追いかける。「眠れば封印が弱まるわ」「起きたまま倒れたら同じでしょ」「計算では、あと十六時間は行動できる」「人を計算機みたいに言わないで」「計算できる部分を計算しているだけよ」「できない部分は」 返ってこなかった。 答えないまま、廊下の壁へ一度肩をついた。 ついたのは、ほんの一瞬だった。 三日目になると、瞬きの回数が減った。 乾くので、時々目を強く閉じる。閉じた瞬間に、燃える窓が見える。だからすぐ開ける。開けると乾く。 その繰り返しを、イノリは六歩後ろから見ていた。「ミコト」「何」「目、赤いよ」「知っているわ」「休んで」「休むと見るの」「起きてても見てるじゃん」 ミコトは足を止めた。 止めてから、また歩き出した。「起きているときは、私が見ているの」「違うの?」「見せられるのと、見るのは違うわ」 *「ミコト。銃を鏡の前へ」 夢鏡越しに、ヨルが言った。「何をするの」「接続を調べる。今度は勝手に触らないから、許可をもらう」「皮肉?」「半分」 ミコトが銃を置くと、夢鏡へ黒い波紋が広がった。 鏡は割れたまま繋がっている。破片を並べ直しただけの面に、無理やり映像が乗っていた。継ぎ目のところで、映るものが少しずつずれる。 閉じた瞼の紋様が一度開いて
「この悪夢は、捨てたくない」 ミコトは核から目を離さなかった。「壊せば終わるでしょ」 イノリが言った。「終わるわ」「じゃあ」「怖さまで消したら、私はまた迷わず撃てる人間に戻る」 黒い結晶の表面で、閉じた瞼が細かく震えている。 瞼の縁に、睫毛がある。閉じているのに、下から光が漏れていた。「封じる。私の銃へ」「そんなことできるの」「前例はあるわ」 ミコトは弾倉を開いた。「剣へ封じた記録。周りの人が眠るたび斬られる夢を見て、十年後に赤子まで殺す風習ができた」「それ、失敗した記録じゃん」「完全に封じようとしたからよ」「完全じゃなかったら、どうなるの」「漏れるわ」「漏れたら」「私が夢に見る」 ミコトは青い夢装の裾を裂いて、銃と自分の手首を結んだ。 結び方に迷いがない。何度も練習した手つきだった。「私の夢痕へ繋ぐ。漏れた分は、私が引き受ける」「ずっと悪夢を見るってこと」「そうなるわね」「だめ」 イノリが首を振った。「一人で背負うのと同じだよ」「違うわ」 ミコトは黒い核を見たまま言う。「これは私のよ。誰にも渡さない」「私に渡らないなら、いいと思うけど」 ヨルが言った。 イノリが振り返る。「よくないよ」「なんで」「ミコトが潰れる」「潰れる前に、こっちに来る」 ヨルは自分の胸へ触れた。「そうなったら、私がなんとかする」 言い方が軽かった。 軽かったので、イノリは一瞬何を言われたのか分からなかった。「一人では無理だよ」 ヨルが続けた。「反対?」「手伝う」 胸元へ手を当てる。包帯の下で、何かが動いた。「接続を三つに分ける。核から漏れた分を、ミコトだけじゃなく私とイノリにも少し流す」「ヨルに流したら意味がない!」「留めない。通すだけ」「通すだけって、何が違うの」「残らないってこと」 ヨルは指を二本立てた。「川に橋を架けるのと、桶で受けるのは違うでしょ」「架けておくのは、平気なの」「平気」 間がなかった。 イノリは、その間のなさを覚えていた。 覚えていたが、今は他に方法がなかった。「安全なの」「安全な方法があるなら、先に言ってる」 ヨルはイノリを見た。「嫌なら断って」 問われた。 以前の自分なら、即答で手を伸ばしていた。 イノリは想像する。 ミコトがレナを撃つ
「聖女ミコト」「世界を救った英雄」 跪いた人々が、顔を上げずに呼ぶ。 声は揃っている。息継ぎの位置まで同じだった。 祭壇の上のミコトは、こちらを見ていた。 夢装は着ている。ただ、袖の青が濁っていた。水で薄めたような色になっている。「来ないで」「行くよ」「これは私の悪夢よ」「だから来た」 イノリは階段を上ろうとした。 銃口が動く。「あなたたちがいるから、選ばされるの」 その言葉で、足が止まった。 ミコトは泣いていない。 ただ、弾倉を開けて閉じるのを、さっきから三度繰り返している。「ミコト」「何」「どれだけかかったの」「え」「扉を開けるまで」 イノリは口を開いて、閉じた。「……分かんない」「そう」 ミコトは、それきり聞かなかった。 聞かなかったが、弾倉を開ける手が四度目に動いた。 * 天井の高さが、急に決まった。 巨大な天秤が降りてくる。 鎖が太い。人の胴くらいある。それが天井の見えないところから四本、まっすぐ下りてきて、皿を吊っていた。 片方の皿に、イノリとヨル。 もう片方に、街が乗っていた。屋根も、煙も、洗濯物も、そのまま乗っている。「選びなさい」 大聖堂中から声が響いた。「正しい少女よ」 街の皿では、人々が動いていた。 赤ん坊を抱く母親。夕食を運ぶ老人。明日の約束をする子どもたち。 誰も、自分が皿に乗っていることを知らない。皿の縁の外を見ようともしない。 イノリは皿の縁を見た。石畳が途中で切れて、その先は何もない。切れ目のすぐ手前に、洗濯物を干している女がいる。籠を置いて、一枚ずつ広げて、留め具で挟む。手を伸ばすと、指先が縁から出る。出ても気づかない。 英雄の選択という言葉では見えない大きさで、生活が続いている。「もし本当に反対側なら」 ミコトが聞いた。「私が二人を撃てば何千人も助かるなら、どうするの」 イノリは、撃たせない、と言いかけた。 その言葉は、ミコトの答えを先に潰す。「私は、嫌だ」 代わりに、自分のことだけ言った。「撃たれたくない。ヨルも殺されたくない。でも、ミコトが何考えてるかは聞く」「聞いた後で、止めるでしょう」「たぶん」「結局、同じじゃない」「同じかもしれない。でも、最初からなかったことにはしない」「それに、何の意味が」「分かんない」
監察部の書庫には、失敗の記録しか残っていない。 持ち出せないので、ミコトは三日かけて書き写した。 写した紙を、また何度も読み返す。 七人へ分けた記録。剣へ封じた記録。海の向こうへ逃がした記録。 どれも、なぜ失敗したかは書いてある。 どこまで保ったかは、書いていない。 八日目に殺し合いが起きたなら、七日目までは何が起きていたのか。 十年後に風習が生まれたなら、一年目はどうだったのか。 誰も書いていない。「何読んでるの」 イノリが覗き込んできた。「書き写したものよ」「手伝う」「読めないわ。写しでも、字は監察部のものだから」「じゃあ、声に出して」 ミコトは少し黙ってから、頁の端を指で押さえた。「七人へ分けた記録」「うん」「八日目に、七つの町で殺し合いが起きた」「七日目までは?」 ミコトの指が、頁の上で止まった。「今、同じことを考えていたわ」「じゃあ合ってる」「合っているかどうかは、まだ分からない」「でも二人が同じこと考えたなら、私はもう合ってると思う」 ミコトは反論しかけて、やめた。「七日間、七人は普通に暮らしたわ」「じゃあ、七日はいけたんだ」「七日でも足りないの」「足りないけど、ゼロじゃない」「何日ならいいの」「分からないわ」「じゃあ、何日から数えるかは決められる?」 ミコトが顔を上げた。「どういう意味」「七日でだめだったなら、八日目に何があったか調べればいいでしょ」「八日目のことは書いてあるわ」「書いてあるのは、起きたことだけ?」「……ええ」「じゃあ、その日に誰が何をやめたのかは、書いてないんだ」 ミコトは頁へ目を戻した。 書いていなかった。 イノリは頁を覗き込もうとして、途中で手を引いた。「見ないよ。読めないんでしょ」「読めないわ」「うん」 三日読んで、結局は何も見つからなかった。 見つからなかったことも、ミコトは書き留めた。 * その夜、夢を見た。 白い大聖堂。何千人もの人が跪いている。「聖女ミコト」「世界を救った英雄」 跪いている人々の顔は、見えない。全員が床へ額をつけている。うなじだけが何千と並んでいて、どれも同じ角度で曲がっていた。 誰も顔を上げないので、誰が誰なのか分からない。 分からないまま、声だけが揃って上がってくる。 正面の祭壇







