INICIAR SESIÓN落ちた先で、時間が少し戻っていた。
外では、ミコトの鎖が怪物を止めている。三十秒。けれど記憶の中では、秒が数えられない。長さを測るものが、どこにもなかった。
雨の中を、幼い姿のリリが走っていた。
まだ倒れていない。喧嘩の直後、家を飛び出したところだった。
顔が濡れているのは、雨のせいだけとは限らない。
「お姉ちゃんなんて」
走りながら、リリが言った。
「いなければいいのに」
イノリは足を止めた。
悪夢が作った台詞ではない。周りの雨も、石畳も、歪んでいない。水たまりに映る空は正しい色をしていて、跳ねた泥がちゃんと足首の高さまで飛んでいる。
ここは事故の記憶そのものだ。
直後に、馬車の警笛が鳴った。
御者は悪くない。角から出てきた子どもを、避けようとして手綱を引いた。引いたせいで車輪が滑った。石畳が濡れていた。それだけのことが、順番どおりに起きる。
音がした。
小さい音だった。何かがぶつかったのではなく、何かが止まった音に近い。
赤い髪飾りが水溜まりへ落ちて、跳ねて、石畳を転がった。
小さな身体が石畳へ投げ出された。
イノリは駆け寄って、膝をついた。
手を伸ばす。指は肩をすり抜けた。もう一度、今度は掌全体で押さえようとして、また抜けた。
水しぶきも上がらない。イノリがどれだけ動いても、この場所の水は動かなかった。
周りの人たちが助けを呼んでいる。だが誰の顔も黒く塗り潰されていて、姉の姿を探す者はいない。
事故の記憶からも、ミアが削られ始めていた。
「お姉ちゃん」
リリの指が宙を掴む。
「ごめんなさい。嫌いって言って、ごめんなさい」
怒りでも、恨みでもなかった。
姉を呼ぶ声だった。
イノリは見ていることしかできない。
二つとも、同じ雨の中にあった。
いなければいいと思ったことと、ごめんなさいと言ったこと。
*
雨粒が空中で止まった。
全部が一斉に、同じ高さで止まる。
一つずつが黒い目に変わって、記憶へ入り込んだ異物を見つめた。
瞬きの音がした。
何万という数の瞼が、少しずつずれた間隔で開いたり閉じたりしている。その音が雨の音の代わりになった。
「見てはいけない」
道の端から黒い腕が伸び、イノリの足首を掴んだ。
冷たくない。むしろ人肌より温かくて、そのせいで振り払う手が一瞬鈍った。
姉妹が互いに謝ろうとした記憶を、もう一度深いところへ沈めようとしている。
イノリは大剣を呼び出して、腕へ叩きつけた。刃が黒い肉へ食い込み、反動が骨まで響く。
断面から、雨と同じ黒い目が覗いた。
「返して」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「リリの言葉を、勝手に使わないで!」
黒い腕を断って、記憶の扉へ飛び込む。
*
街へ戻ると、ミアの身体は肩まで透けていた。
輪郭は残っている。ただ、その内側に街の景色が映り込んでいた。ミアの胸のあたりに、向かいの家の窓が見える。動くと、窓も一緒に動いた。
「ミア!」
イノリは駆け寄った。
「リリ、謝ってた」
「え」
「事故のあと、ずっとミアを呼んでた。嫌いって言ったこと、謝ってた」
ミアの目が揺れる。
「本当に」
「本当」
イノリは手を差し出した。
「だから帰ろう」
返事を待たずに、ミアの手を掴んだ。
「待って」
ミアが身を引く。
「もう決めたって、言いました」
「決め直したっていいでしょ!」
「イノリ、放しなさい!」
ミコトの声が飛んだ。
掴まれたミアの腕から、黒い糸がリリへ伸びていた。
眠る妹の輪郭まで、薄くなり始める。
「どうして」
「この悪夢は、ミアが選ぶことを条件にしている。あなたが代わりに選べば、姉妹二人を契約違反として消すつもりよ」
「でも、放したら」
「今のあなたは助けていない」
ミコトの声は冷たかった。
「自分が失いたくないから、相手の答えを奪っているだけ」
指を開く方が、剣を握るより怖かった。
イノリはミアの手を放した。
「……ごめん」
腕に残っていた温度が消える。
ミアは、しばらく自分の手を見ていた。
それから顔を上げた。
「さっきの、全部ですか」
イノリの息が止まった。
「え」
「リリが言ったこと。それで全部ですか」
答えられなかった。
ミアは、じっとイノリを見ている。透けかけた目で、正確に見ている。目の奥に、向かいの家の窓が見えた。
「嘘、つかないでください」
声は静かだった。
「私が決めるって言うなら、材料は全部ください」
イノリは、地面を見たまま話した。
走りながらリリが言ったこと。いなければいいのに、と言ったこと。
その直後に馬車が来たこと。
言い終わっても、ミアは何も言わなかった。
雨のない街に、風のない静けさだけがあった。
「そっちの方が、先だったんですね」
やがて、ミアが言った。
「うん」
「なんで言わなかったんですか」
「言ったら、ミアが消えるって思った」
「消える理由が増えるから?」
「うん」
「勝手ですね」
「うん」
ミアは笑わなかった。泣きもしなかった。
膝を抱えて、しばらく自分の足元を見ていた。
足元は、もう見えなくなっている。膝から下が街の石畳と同じ色になっていて、どこで身体が終わっているのか分からない。
「知ってました」
小さな声だった。
「え」
「あの子がそう思ってたこと、たぶん知ってました」
ミアは自分の胸を押さえる。
「だって私も、思ったことあるから」
透けた指が、寝間着の布を掴んだ。
「リリなんていなければ、お母さんは私を見てくれるのにって。何回も」
イノリは何も言えなかった。
「私は、そういう姉です」
ミアは言った。
「それでも、謝りたい」
*
怪物が街の家々を掴んで、投げつけてきた。
イノリは大剣の腹で壁を受け、ミコトが瓦礫を撃ち落とす。
投げられた家の中から、食器が降ってきた。皿も、スープの椀も、割れずに石畳を転がる。中身がこぼれない。最初から中身のない食器だった。
「契約の破棄はできるの」
イノリが叫んだ。
「条件があるはずよ」
ミコトが記録板を見る。
「差し出したものを、本人が取り返す動作。悪夢との契約は必ず対価を伴う」
「差し出したものって」
「席」
ミアが答えた。
三人は、崩れかけた家を振り返った。
窓の向こうに、幸福な食卓がある。
椅子が三つ。ミアの分だけがない。
家の中へ入ると、床が傾いた。
傾いたのは床ではなく、家そのものだった。梁が軋んで、天井の角が少し下がる。それでも中の家族は姿勢を変えない。父親は椅子に座ったまま、傾いた床の上で完璧に垂直を保っていた。
壁際に、木の椅子が一脚だけ転がっている。埃をかぶって、脚が一本欠けていた。
ミアが持ち上げようとした。
持ち上がらない。
床に貼りついたように、動かない。
「重い?」
「重くないです。動かないだけ」
「イノリ、支えなさい」
ミコトが弾丸を撃って、床の一点へ青い光の楔を打ち込む。
イノリが大剣を差し込み、椅子と床の間へ隙間を作った。
剥がれた瞬間、床から音がした。
何かを剥がされた側の音だった。
「ここから先は、こっちで運べない」
「分かってます」
ミアは欠けた脚の椅子を抱えた。
食卓まで、六歩。
一歩目で、椅子が重くなった。
抱えているのは木の椅子一脚で、大きさは変わらない。それなのに、ミアの腕が下がった。
二歩目で、壁が喋り始めた。
「お姉ちゃんなんて、いらなかった」
母親の声だった。
振り返っても、母親は食卓で皿を運んでいる。口は動いていない。
三歩目で、ミアの残っていた左手が薄くなった。
椅子を抱える指が、木を通り抜けそうになる。ミアは肘で挟み直した。
「最初から、いなかった」
四歩目で、膝が折れた。
椅子を落とさなかった。落とさない代わりに、自分の額が床へ当たった。音がした。
イノリが一歩出た。
手が届く距離だった。
出しかけて、握って、下ろした。
握った掌が汗で滑って、爪が食い込んだ。
「ミア」
声だけかけた。
「はい」
ミアは顔を上げずに答えた。
「まだ、五歩目です」
五歩目で、家族が立ち上がった。
三人とも、椅子を引いて、こちらへ向き直った。それだけで何もしない。ただ、見ている。
「戻れば、リリは幸せになれる」
六歩目。
ミアは、三つ並んだ椅子の隣へ、四つ目を置いた。
脚が一本欠けているので、椅子は傾いたまま止まった。
「ありがとう」
ミアは自分で座った。
座面が軋んで、傾いた分だけ身体が右へ寄る。それでも座った。
座った瞬間、何かが胸から抜けていく感触があった。
抜けた場所に、何が入っていたのかは分からない。
母親が振り返る。父親が顔を上げる。リリが足を揺らすのをやめる。
三人の顔が、一斉に泥のように崩れた。
崩れた先から新しい顔が出てくる。それも崩れる。何層あるのか分からないまま、家が内側から膨らみ始めた。
*
怪物の胸へ赤黒い亀裂が走り、黒い核が露わになった。
「核は待ってくれないわ」
「拘束は」
「三秒」
六発の弾丸が核の周囲へ刺さり、青い檻を組み上げる。
一秒目。イノリは怪物の腕を駆け上がる。
足元の皮膚が柔らかい。踏むたびに沈んで、爪先が中へ入りそうになる。走るのをやめたら、たぶん膝まで埋まる。
二秒目。家族の口が肩へ噛みついた。
痛みで視界が白くなる。歯が四本だけ、深いところまで入っていた。
三秒目。リリの姿をした顔が、目の前に現れた。
「お姉ちゃんを連れていかないで」
イノリは一瞬だけ止まりかけた。
雨の中で、あの子は二つとも言っていた。
「その言葉も、リリに返す」
剣を振り抜く。
「誰かを縛るために使わせない!」
赤い刃が核へ食い込んだ。
青い弾丸が亀裂へ撃ち込まれる。
核が砕ける直前、怪物がイノリの耳元で囁いた。
「お前もいつか選ぶ」
「一人を消せば、すべてが救われる時が来る」
いつものように、両方助ける、と言い返しかけた。
その言葉で、たった今ミアの手を奪ったばかりだった。
「その時までに」
イノリは歯を食いしばって、剣を押し込む。
「次は、必ず――」
曖昧な答えだった。
それでも、黒い核は砕けた。
崩れる街を、三人は走った。
ミアは椅子を置いてきた。
最後の足場が崩れて、三人は白い光へ飛び込む。
その背後で、核が砕けたあとに何かが残った。
欠片ではない。核の外側にあって、壊れなかったものだった。
それは誰にも見えない糸に引かれて、遠い白い塔へ流れていった。
*
光の中で、イノリは失った記憶を探した。
ヨルと食べたもの。夏の日。冷たい甘さ。
最後まで名前は戻らなかった。
代わりに、夢鏡越しのヨルが言う。
「たぶん、氷菓子。あなた、私の分まで落としたから」
「どうして分かるの」
「私が覚えてるから」
自分から消えた記憶を、誰かが持っている。
礼を言おうとして、うまく言葉にならなかった。
落ちていきながら、イノリは考えた。
掴まなければ、ミアはもっと早く消えていた。
放したから、あの子は自分で決められた。
どちらも本当なのだとしたら、自分はどちらをやったことになるのだろう。
答えが出る前に、光が来た。
石室を飛び出した時には、核はもう地上へ抜けていた。 イノリが走る。三歩で振り返る。 ミコトが遅れている。三日眠っていない足が、階段で二度もつれた。 二度目は、手すりを掴んで持ち直した。三度目は掴めなかった。「先に行って!」「行けない!」 六歩。 この三日で身体が覚えた距離だった。 イノリは戻って、ミコトの腕を掴んだ。「舌噛むよ」「何を――」 抱えて走った。 軽かった。三日、ほとんど食べていない身体だった。 大聖堂を出ると、外は昼だった。 広場に人が集まっている。二十人ほど。誰も喋っていない。全員が同じ方向を向いて、片手を上げていた。指が二本立っている。銃の形だった。 子どもが混じっている。手が小さいので、指の形が上手く作れていない。それでも作ろうとしていた。 イノリは目を逸らさずに、その横を走り抜けた。 逸らさなかった。逸らせなかったのかもしれない。 階段は幅が狭い。二人ぶんの幅はないので、肩を壁に擦りながら上がった。制服の布が擦れて、途中で裂ける音がした。 途中の踊り場に、聖職者が二人立っていた。 道を空けなかった。 イノリは間を通った。通るとき、誰も止めなかった。止めない方が不自然だった。 * 塔の階段を上がりきると、扉が開いていた。 鎖は外れている。 切られていない。留め具が七つとも、きれいに外されて壁の鉤へ掛かっていた。「鍵で開けてあるわ」 ミコトが言った。 息が上がっている。それでも、見るところは見ていた。「誰が」「鍵を持っている者」「教会?」「他にいないでしょう」「なんで今」 ミコトは答えなかった。 答えなかったが、部屋の中を一度だけ見渡した。 まだ何も起きていない。それでも扉は開けてある。 部屋の中で、ヨルが窓辺に立っていた。「遅かったね」 息が上がっている。 夢鏡の表面が、内側から波打っていた。「ヨル、ミコトの銃から」「見えてる」「二十人に漏れてる」「一日ぶん飛んでるわ」 ミコトが言った。「二十人は、明日のはずだった」「核が出たから?」「たぶんね」「それも見えてる」 イノリは剣を呼んだ。「止める」「どうやって」 答えられなかった。「イノリ」「なに」「剣で止まるものだったら、私はとっくに何もしてない」 * ヨルは包帯の
封印した夜を最後に、ミコトは眠らなかった。 三日が過ぎている。 目を閉じると、断罪弾を撃たなかった未来が始まる。 黒い水へ沈む町。助けを呼ぶ人々。燃える家の窓から、レナがこちらを見る。 ――今度も、扉を閉めるの? 起きている間も、銃の弾倉から小さな呼吸音がした。 吸って、吐く。人の間隔より少し遅い。合わせようとすると、自分の呼吸の方が乱れた。 一日目の朝に分かったのは、七歩の縛りがミコトとイノリの間にしか働かないことだった。 ヨルの側は夢鏡が保っている。鏡が開いている限り、距離は問題にならない。「じゃあ、外に出られる?」 イノリが聞いた。「二人でなら」 それ以来、ミコトはどこへ行くにもイノリを連れて歩いた。 正確には、イノリがミコトから七歩以上離れられなくなった。 廊下ですれ違う者が、二人を見て道を空ける。前は監察役の制服に道を空けていた。今は、二人ぶんの幅を空けている。「一時間だけでも寝て」 塔の廊下で、イノリが毛布を持って追いかける。「眠れば封印が弱まるわ」「起きたまま倒れたら同じでしょ」「計算では、あと十六時間は行動できる」「人を計算機みたいに言わないで」「計算できる部分を計算しているだけよ」「できない部分は」 返ってこなかった。 答えないまま、廊下の壁へ一度肩をついた。 ついたのは、ほんの一瞬だった。 三日目になると、瞬きの回数が減った。 乾くので、時々目を強く閉じる。閉じた瞬間に、燃える窓が見える。だからすぐ開ける。開けると乾く。 その繰り返しを、イノリは六歩後ろから見ていた。「ミコト」「何」「目、赤いよ」「知っているわ」「休んで」「休むと見るの」「起きてても見てるじゃん」 ミコトは足を止めた。 止めてから、また歩き出した。「起きているときは、私が見ているの」「違うの?」「見せられるのと、見るのは違うわ」 *「ミコト。銃を鏡の前へ」 夢鏡越しに、ヨルが言った。「何をするの」「接続を調べる。今度は勝手に触らないから、許可をもらう」「皮肉?」「半分」 ミコトが銃を置くと、夢鏡へ黒い波紋が広がった。 鏡は割れたまま繋がっている。破片を並べ直しただけの面に、無理やり映像が乗っていた。継ぎ目のところで、映るものが少しずつずれる。 閉じた瞼の紋様が一度開いて
「この悪夢は、捨てたくない」 ミコトは核から目を離さなかった。「壊せば終わるでしょ」 イノリが言った。「終わるわ」「じゃあ」「怖さまで消したら、私はまた迷わず撃てる人間に戻る」 黒い結晶の表面で、閉じた瞼が細かく震えている。 瞼の縁に、睫毛がある。閉じているのに、下から光が漏れていた。「封じる。私の銃へ」「そんなことできるの」「前例はあるわ」 ミコトは弾倉を開いた。「剣へ封じた記録。周りの人が眠るたび斬られる夢を見て、十年後に赤子まで殺す風習ができた」「それ、失敗した記録じゃん」「完全に封じようとしたからよ」「完全じゃなかったら、どうなるの」「漏れるわ」「漏れたら」「私が夢に見る」 ミコトは青い夢装の裾を裂いて、銃と自分の手首を結んだ。 結び方に迷いがない。何度も練習した手つきだった。「私の夢痕へ繋ぐ。漏れた分は、私が引き受ける」「ずっと悪夢を見るってこと」「そうなるわね」「だめ」 イノリが首を振った。「一人で背負うのと同じだよ」「違うわ」 ミコトは黒い核を見たまま言う。「これは私のよ。誰にも渡さない」「私に渡らないなら、いいと思うけど」 ヨルが言った。 イノリが振り返る。「よくないよ」「なんで」「ミコトが潰れる」「潰れる前に、こっちに来る」 ヨルは自分の胸へ触れた。「そうなったら、私がなんとかする」 言い方が軽かった。 軽かったので、イノリは一瞬何を言われたのか分からなかった。「一人では無理だよ」 ヨルが続けた。「反対?」「手伝う」 胸元へ手を当てる。包帯の下で、何かが動いた。「接続を三つに分ける。核から漏れた分を、ミコトだけじゃなく私とイノリにも少し流す」「ヨルに流したら意味がない!」「留めない。通すだけ」「通すだけって、何が違うの」「残らないってこと」 ヨルは指を二本立てた。「川に橋を架けるのと、桶で受けるのは違うでしょ」「架けておくのは、平気なの」「平気」 間がなかった。 イノリは、その間のなさを覚えていた。 覚えていたが、今は他に方法がなかった。「安全なの」「安全な方法があるなら、先に言ってる」 ヨルはイノリを見た。「嫌なら断って」 問われた。 以前の自分なら、即答で手を伸ばしていた。 イノリは想像する。 ミコトがレナを撃つ
「聖女ミコト」「世界を救った英雄」 跪いた人々が、顔を上げずに呼ぶ。 声は揃っている。息継ぎの位置まで同じだった。 祭壇の上のミコトは、こちらを見ていた。 夢装は着ている。ただ、袖の青が濁っていた。水で薄めたような色になっている。「来ないで」「行くよ」「これは私の悪夢よ」「だから来た」 イノリは階段を上ろうとした。 銃口が動く。「あなたたちがいるから、選ばされるの」 その言葉で、足が止まった。 ミコトは泣いていない。 ただ、弾倉を開けて閉じるのを、さっきから三度繰り返している。「ミコト」「何」「どれだけかかったの」「え」「扉を開けるまで」 イノリは口を開いて、閉じた。「……分かんない」「そう」 ミコトは、それきり聞かなかった。 聞かなかったが、弾倉を開ける手が四度目に動いた。 * 天井の高さが、急に決まった。 巨大な天秤が降りてくる。 鎖が太い。人の胴くらいある。それが天井の見えないところから四本、まっすぐ下りてきて、皿を吊っていた。 片方の皿に、イノリとヨル。 もう片方に、街が乗っていた。屋根も、煙も、洗濯物も、そのまま乗っている。「選びなさい」 大聖堂中から声が響いた。「正しい少女よ」 街の皿では、人々が動いていた。 赤ん坊を抱く母親。夕食を運ぶ老人。明日の約束をする子どもたち。 誰も、自分が皿に乗っていることを知らない。皿の縁の外を見ようともしない。 イノリは皿の縁を見た。石畳が途中で切れて、その先は何もない。切れ目のすぐ手前に、洗濯物を干している女がいる。籠を置いて、一枚ずつ広げて、留め具で挟む。手を伸ばすと、指先が縁から出る。出ても気づかない。 英雄の選択という言葉では見えない大きさで、生活が続いている。「もし本当に反対側なら」 ミコトが聞いた。「私が二人を撃てば何千人も助かるなら、どうするの」 イノリは、撃たせない、と言いかけた。 その言葉は、ミコトの答えを先に潰す。「私は、嫌だ」 代わりに、自分のことだけ言った。「撃たれたくない。ヨルも殺されたくない。でも、ミコトが何考えてるかは聞く」「聞いた後で、止めるでしょう」「たぶん」「結局、同じじゃない」「同じかもしれない。でも、最初からなかったことにはしない」「それに、何の意味が」「分かんない」
監察部の書庫には、失敗の記録しか残っていない。 持ち出せないので、ミコトは三日かけて書き写した。 写した紙を、また何度も読み返す。 七人へ分けた記録。剣へ封じた記録。海の向こうへ逃がした記録。 どれも、なぜ失敗したかは書いてある。 どこまで保ったかは、書いていない。 八日目に殺し合いが起きたなら、七日目までは何が起きていたのか。 十年後に風習が生まれたなら、一年目はどうだったのか。 誰も書いていない。「何読んでるの」 イノリが覗き込んできた。「書き写したものよ」「手伝う」「読めないわ。写しでも、字は監察部のものだから」「じゃあ、声に出して」 ミコトは少し黙ってから、頁の端を指で押さえた。「七人へ分けた記録」「うん」「八日目に、七つの町で殺し合いが起きた」「七日目までは?」 ミコトの指が、頁の上で止まった。「今、同じことを考えていたわ」「じゃあ合ってる」「合っているかどうかは、まだ分からない」「でも二人が同じこと考えたなら、私はもう合ってると思う」 ミコトは反論しかけて、やめた。「七日間、七人は普通に暮らしたわ」「じゃあ、七日はいけたんだ」「七日でも足りないの」「足りないけど、ゼロじゃない」「何日ならいいの」「分からないわ」「じゃあ、何日から数えるかは決められる?」 ミコトが顔を上げた。「どういう意味」「七日でだめだったなら、八日目に何があったか調べればいいでしょ」「八日目のことは書いてあるわ」「書いてあるのは、起きたことだけ?」「……ええ」「じゃあ、その日に誰が何をやめたのかは、書いてないんだ」 ミコトは頁へ目を戻した。 書いていなかった。 イノリは頁を覗き込もうとして、途中で手を引いた。「見ないよ。読めないんでしょ」「読めないわ」「うん」 三日読んで、結局は何も見つからなかった。 見つからなかったことも、ミコトは書き留めた。 * その夜、夢を見た。 白い大聖堂。何千人もの人が跪いている。「聖女ミコト」「世界を救った英雄」 跪いている人々の顔は、見えない。全員が床へ額をつけている。うなじだけが何千と並んでいて、どれも同じ角度で曲がっていた。 誰も顔を上げないので、誰が誰なのか分からない。 分からないまま、声だけが揃って上がってくる。 正面の祭壇
三日、命令書を読んだ。 読むたびに同じ長さで、同じことしか書いていない。 二日目の夜に、書き写してみた。 自分の字で書くと、少し長く感じた。長く感じただけで、意味は増えなかった。写した紙は燃やした。燃やしてから、燃やす必要があったのか分からなくなった。 四日目の朝、ミコトは監察部へ願い出た。「記録を読ませてください」「どの記録を」「私が読む段階にない、と言われたものです」 オルドはしばらく黙っていた。「今なら、構いません」「何が変わったのですか」「あなたが、自分から聞きに来ました」「前回は、あなたが呼びました」「はい」「同じ内容でも、順番が違えば別だと」「別です」 老人は立ち上がった。「読まされた者は、読んだことを他人のせいにできますから」 * 書庫は地下の三層目にあった。 棚が壁ではなく床から生えていて、通路が一本しかない。左右の棚のあいだは、人が一人通れる幅しかなかった。二人で入ると、後ろの人間は前の人間を追い越せない。 空気が乾いている。紙を保たせるためだと、案内の聖職者が言った。 喉の奥がすぐに渇いた。唾を飲もうとして、飲むものがなかった。 灯りは低い位置にある。棚の上の方は暗い。どこまで棚が続いているのかは、見えなかった。 オルドは一冊の帳面を抜き出した。 抜くとき、隣の帳面が倒れなかった。詰まっているのではなく、一冊ずつ支えが入っている。 表紙に日付が刻まれている。百年前、黒い月が満ちた年。「開きなさい」 最初の頁に、少女の肖像が貼られていた。 処刑台の上に立っている。 胸に、黒い花が七輪。 泣いているのだと思った。 よく見ると、口の端だけが上がっている。 絵の具が、そこだけ二度塗られていた。上から直した跡だった。「この子は」「リシア。候補者でした」「候補者が、なぜ処刑台に」「器になったからです」「器」「倒された大悪夢は、消えません」 オルドは頁の端を指で押さえた。「一人へ集まります。七輪咲けば、満ちる」「満ちたら」「終末の魔女と呼ばれるものになります」「それで、処刑を」「はい」「呼ばれるもの、という言い方をされますね」 オルドは頁から目を上げなかった。「なったところを、誰も見ていないからです」 ミコトは肖像から目を離さなかった。 七輪。数える