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救うという暴力

Autor: たつき
last update Fecha de publicación: 2026-08-12 12:41:06

 落ちた先で、時間が少し戻っていた。

 外では、ミコトの鎖が怪物を止めている。三十秒。けれど記憶の中では、秒が数えられない。長さを測るものが、どこにもなかった。

 雨の中を、幼い姿のリリが走っていた。

 まだ倒れていない。喧嘩の直後、家を飛び出したところだった。

 顔が濡れているのは、雨のせいだけとは限らない。

「お姉ちゃんなんて」

 走りながら、リリが言った。

「いなければいいのに」

 イノリは足を止めた。

 悪夢が作った台詞ではない。周りの雨も、石畳も、歪んでいない。水たまりに映る空は正しい色をしていて、跳ねた泥がちゃんと足首の高さまで飛んでいる。

 ここは事故の記憶そのものだ。

 直後に、馬車の警笛が鳴った。

 御者は悪くない。角から出てきた子どもを、避けようとして手綱を引いた。引いたせいで車輪が滑った。石畳が濡れていた。それだけのことが、順番どおりに起きる。

 音がした。

 小さい音だった。何かがぶつかったのではなく、何かが止まった音に近い。

 赤い髪飾りが水溜まりへ落ちて、跳ねて、石畳を転がった。

 小さな身体が石畳へ投げ出された。

 イノリは駆け寄って、膝をついた。

 手を伸ばす。指は肩をすり抜けた。もう一度、今度は掌全体で押さえようとして、また抜けた。

 水しぶきも上がらない。イノリがどれだけ動いても、この場所の水は動かなかった。

 周りの人たちが助けを呼んでいる。だが誰の顔も黒く塗り潰されていて、姉の姿を探す者はいない。

 事故の記憶からも、ミアが削られ始めていた。

「お姉ちゃん」

 リリの指が宙を掴む。

「ごめんなさい。嫌いって言って、ごめんなさい」

 怒りでも、恨みでもなかった。

 姉を呼ぶ声だった。

 イノリは見ていることしかできない。

 二つとも、同じ雨の中にあった。

 いなければいいと思ったことと、ごめんなさいと言ったこと。

     *

 雨粒が空中で止まった。

 全部が一斉に、同じ高さで止まる。

 一つずつが黒い目に変わって、記憶へ入り込んだ異物を見つめた。

 瞬きの音がした。

 何万という数の瞼が、少しずつずれた間隔で開いたり閉じたりしている。その音が雨の音の代わりになった。

「見てはいけない」

 道の端から黒い腕が伸び、イノリの足首を掴んだ。

 冷たくない。むしろ人肌より温かくて、そのせいで振り払う手が一瞬鈍った。

 姉妹が互いに謝ろうとした記憶を、もう一度深いところへ沈めようとしている。

 イノリは大剣を呼び出して、腕へ叩きつけた。刃が黒い肉へ食い込み、反動が骨まで響く。

 断面から、雨と同じ黒い目が覗いた。

「返して」

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

「リリの言葉を、勝手に使わないで!」

 黒い腕を断って、記憶の扉へ飛び込む。

     *

 街へ戻ると、ミアの身体は肩まで透けていた。

 輪郭は残っている。ただ、その内側に街の景色が映り込んでいた。ミアの胸のあたりに、向かいの家の窓が見える。動くと、窓も一緒に動いた。

「ミア!」

 イノリは駆け寄った。

「リリ、謝ってた」

「え」

「事故のあと、ずっとミアを呼んでた。嫌いって言ったこと、謝ってた」

 ミアの目が揺れる。

「本当に」

「本当」

 イノリは手を差し出した。

「だから帰ろう」

 返事を待たずに、ミアの手を掴んだ。

「待って」

 ミアが身を引く。

「もう決めたって、言いました」

「決め直したっていいでしょ!」

「イノリ、放しなさい!」

 ミコトの声が飛んだ。

 掴まれたミアの腕から、黒い糸がリリへ伸びていた。

 眠る妹の輪郭まで、薄くなり始める。

「どうして」

「この悪夢は、ミアが選ぶことを条件にしている。あなたが代わりに選べば、姉妹二人を契約違反として消すつもりよ」

「でも、放したら」

「今のあなたは助けていない」

 ミコトの声は冷たかった。

「自分が失いたくないから、相手の答えを奪っているだけ」

 指を開く方が、剣を握るより怖かった。

 イノリはミアの手を放した。

「……ごめん」

 腕に残っていた温度が消える。

 ミアは、しばらく自分の手を見ていた。

 それから顔を上げた。

「さっきの、全部ですか」

 イノリの息が止まった。

「え」

「リリが言ったこと。それで全部ですか」

 答えられなかった。

 ミアは、じっとイノリを見ている。透けかけた目で、正確に見ている。目の奥に、向かいの家の窓が見えた。

「嘘、つかないでください」

 声は静かだった。

「私が決めるって言うなら、材料は全部ください」

 イノリは、地面を見たまま話した。

 走りながらリリが言ったこと。いなければいいのに、と言ったこと。

 その直後に馬車が来たこと。

 言い終わっても、ミアは何も言わなかった。

 雨のない街に、風のない静けさだけがあった。

「そっちの方が、先だったんですね」

 やがて、ミアが言った。

「うん」

「なんで言わなかったんですか」

「言ったら、ミアが消えるって思った」

「消える理由が増えるから?」

「うん」

「勝手ですね」

「うん」

 ミアは笑わなかった。泣きもしなかった。

 膝を抱えて、しばらく自分の足元を見ていた。

 足元は、もう見えなくなっている。膝から下が街の石畳と同じ色になっていて、どこで身体が終わっているのか分からない。

「知ってました」

 小さな声だった。

「え」

「あの子がそう思ってたこと、たぶん知ってました」

 ミアは自分の胸を押さえる。

「だって私も、思ったことあるから」

 透けた指が、寝間着の布を掴んだ。

「リリなんていなければ、お母さんは私を見てくれるのにって。何回も」

 イノリは何も言えなかった。

「私は、そういう姉です」

 ミアは言った。

「それでも、謝りたい」

     *

 怪物が街の家々を掴んで、投げつけてきた。

 イノリは大剣の腹で壁を受け、ミコトが瓦礫を撃ち落とす。

 投げられた家の中から、食器が降ってきた。皿も、スープの椀も、割れずに石畳を転がる。中身がこぼれない。最初から中身のない食器だった。

「契約の破棄はできるの」

 イノリが叫んだ。

「条件があるはずよ」

 ミコトが記録板を見る。

「差し出したものを、本人が取り返す動作。悪夢との契約は必ず対価を伴う」

「差し出したものって」

「席」

 ミアが答えた。

 三人は、崩れかけた家を振り返った。

 窓の向こうに、幸福な食卓がある。

 椅子が三つ。ミアの分だけがない。

 家の中へ入ると、床が傾いた。

 傾いたのは床ではなく、家そのものだった。梁が軋んで、天井の角が少し下がる。それでも中の家族は姿勢を変えない。父親は椅子に座ったまま、傾いた床の上で完璧に垂直を保っていた。

 壁際に、木の椅子が一脚だけ転がっている。埃をかぶって、脚が一本欠けていた。

 ミアが持ち上げようとした。

 持ち上がらない。

 床に貼りついたように、動かない。

「重い?」

「重くないです。動かないだけ」

「イノリ、支えなさい」

 ミコトが弾丸を撃って、床の一点へ青い光の楔を打ち込む。

 イノリが大剣を差し込み、椅子と床の間へ隙間を作った。

 剥がれた瞬間、床から音がした。

 何かを剥がされた側の音だった。

「ここから先は、こっちで運べない」

「分かってます」

 ミアは欠けた脚の椅子を抱えた。

 食卓まで、六歩。

 一歩目で、椅子が重くなった。

 抱えているのは木の椅子一脚で、大きさは変わらない。それなのに、ミアの腕が下がった。

 二歩目で、壁が喋り始めた。

「お姉ちゃんなんて、いらなかった」

 母親の声だった。

 振り返っても、母親は食卓で皿を運んでいる。口は動いていない。

 三歩目で、ミアの残っていた左手が薄くなった。

 椅子を抱える指が、木を通り抜けそうになる。ミアは肘で挟み直した。

「最初から、いなかった」

 四歩目で、膝が折れた。

 椅子を落とさなかった。落とさない代わりに、自分の額が床へ当たった。音がした。

 イノリが一歩出た。

 手が届く距離だった。

 出しかけて、握って、下ろした。

 握った掌が汗で滑って、爪が食い込んだ。

「ミア」

 声だけかけた。

「はい」

 ミアは顔を上げずに答えた。

「まだ、五歩目です」

 五歩目で、家族が立ち上がった。

 三人とも、椅子を引いて、こちらへ向き直った。それだけで何もしない。ただ、見ている。

「戻れば、リリは幸せになれる」

 六歩目。

 ミアは、三つ並んだ椅子の隣へ、四つ目を置いた。

 脚が一本欠けているので、椅子は傾いたまま止まった。

「ありがとう」

 ミアは自分で座った。

 座面が軋んで、傾いた分だけ身体が右へ寄る。それでも座った。

 座った瞬間、何かが胸から抜けていく感触があった。

 抜けた場所に、何が入っていたのかは分からない。

 母親が振り返る。父親が顔を上げる。リリが足を揺らすのをやめる。

 三人の顔が、一斉に泥のように崩れた。

 崩れた先から新しい顔が出てくる。それも崩れる。何層あるのか分からないまま、家が内側から膨らみ始めた。

     *

 怪物の胸へ赤黒い亀裂が走り、黒い核が露わになった。

「核は待ってくれないわ」

「拘束は」

「三秒」

 六発の弾丸が核の周囲へ刺さり、青い檻を組み上げる。

 一秒目。イノリは怪物の腕を駆け上がる。

 足元の皮膚が柔らかい。踏むたびに沈んで、爪先が中へ入りそうになる。走るのをやめたら、たぶん膝まで埋まる。

 二秒目。家族の口が肩へ噛みついた。

 痛みで視界が白くなる。歯が四本だけ、深いところまで入っていた。

 三秒目。リリの姿をした顔が、目の前に現れた。

「お姉ちゃんを連れていかないで」

 イノリは一瞬だけ止まりかけた。

 雨の中で、あの子は二つとも言っていた。

「その言葉も、リリに返す」

 剣を振り抜く。

「誰かを縛るために使わせない!」

 赤い刃が核へ食い込んだ。

 青い弾丸が亀裂へ撃ち込まれる。

 核が砕ける直前、怪物がイノリの耳元で囁いた。

「お前もいつか選ぶ」

「一人を消せば、すべてが救われる時が来る」

 いつものように、両方助ける、と言い返しかけた。

 その言葉で、たった今ミアの手を奪ったばかりだった。

「その時までに」

 イノリは歯を食いしばって、剣を押し込む。

「次は、必ず――」

 曖昧な答えだった。

 それでも、黒い核は砕けた。

 崩れる街を、三人は走った。

 ミアは椅子を置いてきた。

 最後の足場が崩れて、三人は白い光へ飛び込む。

 その背後で、核が砕けたあとに何かが残った。

 欠片ではない。核の外側にあって、壊れなかったものだった。

 それは誰にも見えない糸に引かれて、遠い白い塔へ流れていった。

     *

 光の中で、イノリは失った記憶を探した。

 ヨルと食べたもの。夏の日。冷たい甘さ。

 最後まで名前は戻らなかった。

 代わりに、夢鏡越しのヨルが言う。

「たぶん、氷菓子。あなた、私の分まで落としたから」

「どうして分かるの」

「私が覚えてるから」

 自分から消えた記憶を、誰かが持っている。

 礼を言おうとして、うまく言葉にならなかった。

 落ちていきながら、イノリは考えた。

 掴まなければ、ミアはもっと早く消えていた。

 放したから、あの子は自分で決められた。

 どちらも本当なのだとしたら、自分はどちらをやったことになるのだろう。

 答えが出る前に、光が来た。

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Último capítulo

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  • 七つの悪夢を食べた魔女   正しい未来

     監察部の書庫には、失敗の記録しか残っていない。 持ち出せないので、ミコトは三日かけて書き写した。 写した紙を、また何度も読み返す。 七人へ分けた記録。剣へ封じた記録。海の向こうへ逃がした記録。 どれも、なぜ失敗したかは書いてある。 どこまで保ったかは、書いていない。 八日目に殺し合いが起きたなら、七日目までは何が起きていたのか。 十年後に風習が生まれたなら、一年目はどうだったのか。 誰も書いていない。「何読んでるの」 イノリが覗き込んできた。「書き写したものよ」「手伝う」「読めないわ。写しでも、字は監察部のものだから」「じゃあ、声に出して」 ミコトは少し黙ってから、頁の端を指で押さえた。「七人へ分けた記録」「うん」「八日目に、七つの町で殺し合いが起きた」「七日目までは?」 ミコトの指が、頁の上で止まった。「今、同じことを考えていたわ」「じゃあ合ってる」「合っているかどうかは、まだ分からない」「でも二人が同じこと考えたなら、私はもう合ってると思う」 ミコトは反論しかけて、やめた。「七日間、七人は普通に暮らしたわ」「じゃあ、七日はいけたんだ」「七日でも足りないの」「足りないけど、ゼロじゃない」「何日ならいいの」「分からないわ」「じゃあ、何日から数えるかは決められる?」 ミコトが顔を上げた。「どういう意味」「七日でだめだったなら、八日目に何があったか調べればいいでしょ」「八日目のことは書いてあるわ」「書いてあるのは、起きたことだけ?」「……ええ」「じゃあ、その日に誰が何をやめたのかは、書いてないんだ」 ミコトは頁へ目を戻した。 書いていなかった。 イノリは頁を覗き込もうとして、途中で手を引いた。「見ないよ。読めないんでしょ」「読めないわ」「うん」 三日読んで、結局は何も見つからなかった。 見つからなかったことも、ミコトは書き留めた。     * その夜、夢を見た。 白い大聖堂。何千人もの人が跪いている。「聖女ミコト」「世界を救った英雄」 跪いている人々の顔は、見えない。全員が床へ額をつけている。うなじだけが何千と並んでいて、どれも同じ角度で曲がっていた。 誰も顔を上げないので、誰が誰なのか分からない。 分からないまま、声だけが揃って上がってくる。 正面の祭壇

  • 七つの悪夢を食べた魔女   八千二百四十一

     三日、命令書を読んだ。 読むたびに同じ長さで、同じことしか書いていない。 二日目の夜に、書き写してみた。 自分の字で書くと、少し長く感じた。長く感じただけで、意味は増えなかった。写した紙は燃やした。燃やしてから、燃やす必要があったのか分からなくなった。 四日目の朝、ミコトは監察部へ願い出た。「記録を読ませてください」「どの記録を」「私が読む段階にない、と言われたものです」 オルドはしばらく黙っていた。「今なら、構いません」「何が変わったのですか」「あなたが、自分から聞きに来ました」「前回は、あなたが呼びました」「はい」「同じ内容でも、順番が違えば別だと」「別です」 老人は立ち上がった。「読まされた者は、読んだことを他人のせいにできますから」     * 書庫は地下の三層目にあった。 棚が壁ではなく床から生えていて、通路が一本しかない。左右の棚のあいだは、人が一人通れる幅しかなかった。二人で入ると、後ろの人間は前の人間を追い越せない。 空気が乾いている。紙を保たせるためだと、案内の聖職者が言った。 喉の奥がすぐに渇いた。唾を飲もうとして、飲むものがなかった。 灯りは低い位置にある。棚の上の方は暗い。どこまで棚が続いているのかは、見えなかった。 オルドは一冊の帳面を抜き出した。 抜くとき、隣の帳面が倒れなかった。詰まっているのではなく、一冊ずつ支えが入っている。 表紙に日付が刻まれている。百年前、黒い月が満ちた年。「開きなさい」 最初の頁に、少女の肖像が貼られていた。 処刑台の上に立っている。 胸に、黒い花が七輪。 泣いているのだと思った。 よく見ると、口の端だけが上がっている。 絵の具が、そこだけ二度塗られていた。上から直した跡だった。「この子は」「リシア。候補者でした」「候補者が、なぜ処刑台に」「器になったからです」「器」「倒された大悪夢は、消えません」 オルドは頁の端を指で押さえた。「一人へ集まります。七輪咲けば、満ちる」「満ちたら」「終末の魔女と呼ばれるものになります」「それで、処刑を」「はい」「呼ばれるもの、という言い方をされますね」 オルドは頁から目を上げなかった。「なったところを、誰も見ていないからです」 ミコトは肖像から目を離さなかった。 七輪。数える

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