LOGINヨルは胸に咲いた黒い花を、鋏で切ろうとした。
茎は思っていたより太い。指ほどではないが、鋏の刃を当てると、開いた分だけ押し返してくる。
力を入れた。
刃が茎へ食い込む前に、花の中心の目が開いた。
睫毛が動いて、こちらを見る。
「……見ないでよ」
鋏を閉じた。
鉄の刃は茎を傷つけるどころか、乾いた音を立てて欠けた。欠片が床へ落ちて、二度跳ねた。
切ろうとした場所が、あとから痛み始めた。
傷はない。痛みだけがある。自分の胸の内側で、切られかけた側が抗議している。
胸の奥で馬車の警笛が鳴った。
「私がいなくなればいい」
自分の口から、ミアの声が漏れた。
自分の喉で、他人の声帯が鳴っている。
「お前も同じだ」
胸の奥からだった。口の形をした場所はまだない。それでも、そこから聞こえた。
「大切な者を救うためなら、自分が消えても構わない」
ヨルは答えず、包帯を何重にも巻いて隠した。
巻きながら、二度手を止めた。締めすぎると花が動く。緩めると布が浮く。ちょうどいい強さを探すのに、毎朝しばらくかかるようになっていた。
巻き終わったところで、扉の鎖が外れる音がした。
「ヨル! 見て、こんなにもらった」
イノリが花束と手紙を抱えて入ってくる。肩にはまだ包帯が巻かれていた。ミコトは菓子の箱と記録板を持って、後ろから呆れた顔でついてくる。
「ミアとリリから。二人で作ったんだって」
「妹が料理して、姉が鍋を焦がしたって書いてあるけど」
イノリは手紙を見直して、黙って畳んだ。
「都合の悪いところだけ読まないのね」
「大事なのは、二人が元気ってことだから」
「ほんと、都合がいいんだから」
ヨルは寝台から下りて、床へ座った。
下りるときに一度、指先が寝台の縁を探した。
「肩、見せて」
「治ってるよ」
「治ってる人は、扉を開けるとき左手を使わない」
イノリは大人しく座り直した。
ヨルが包帯を解いていく。噛み跡が四つ、まだ塞がっていない。縁が赤く盛り上がって、真ん中だけが白い。
「痛い?」
「押されると」
「じゃあ押す」
「押さないで」
ヨルの指は冷たかった。傷の周りをなぞって、新しい布を巻いていく。塔から出たことのない少女は、包帯を巻くのだけは上手かった。
巻きながら、二人とも喋らなかった。
布が擦れる音と、外の風の音だけがしばらく続く。イノリは巻かれる腕を見ないで、ヨルの手ばかり見ていた。
「ヨルは」
「何が」
「顔色。昨日より白い」
「もともと白い」
「でも」
「イノリ」
ヨルは布の端を結んだ。
「今日は、私が手当てする日」
それで話が終わった。
ミコトが菓子の箱を机へ置く。包みを開けると、干した果物が入っていた。
「これ、教会の配給?」
ヨルが箱を覗き込んだ。
「私が買ったの」
「へえ」
「余ったのよ」
「何が余ったの」
ミコトは答えず、記録板を開いた。
「今日、何か見た?」
ヨルが聞いた。
いつもの質問だった。
「東の橋のところに、犬がいた」
「どんな」
「茶色。片耳が折れてる。パン屋の前で寝てて、誰も追い払わない」
「名前は」
「聞いてない」
「次は聞いて」
「うん」
「あと」
ヨルは干した果物を一つ取って、しばらく手の中で転がした。
「橋、まだあの色?」
「どの色」
「灰色。上のほうだけ、少し青い」
「……そうだったかも」
「見てきて」
「うん」
イノリは最近、街を歩くときに何かを覚えるようになった。
塔へ持ち帰るためだった。
それから花束を差し出す。
ヨルは受け取らない。
「枯れるものは嫌いって言ったでしょ」
「でも、これはミアが選んだ花だよ」
「私が見たくないって言っても?」
「見れば好きになる」
善意で言われた言葉だった。
だからヨルは、笑ってやり過ごすしかなかった。
「イノリ」
「何?」
「あなた、私の『嫌だ』を聞く気ある?」
イノリの笑顔が止まる。
「あるよ」
「今、なかったけど」
花束を持つ手が少し下がった。
「……ごめん。窓辺に置いてもいい?」
「それなら」
ヨルは許した。
聞き方を変えれば通る。それを、この子はもう覚えたらしい。
*
ミコトは夢鏡の記録へ目を落としていた。
「第一の大悪夢を破壊した直後、異常な量の夢素がこの塔へ流れ込んでいる」
包帯の下で、花が目を開けた。
「悪夢が崩れた影響じゃない?」
「通常なら領域へ拡散する。今回は、残留量が少なすぎる」
「きれいに倒せたんだよ」
イノリが言う。
「結果だけ見ればね」
ミコトの視線がヨルへ移った。
「体調は」
「塔にいる病人へする質問としては雑だね」
「食事を三度残した。昨夜の生命反応も落ちている」
「監察役は病人の皿まで数えるんだ」
「必要なら」
ヨルは冗談で返したが、ミコトは笑わなかった。
イノリが二人の間へ割って入る。
「今日は調べる日じゃなくて、お見舞いの日」
「異常があるなら同じことよ」
「ヨルが嫌だって言ってる」
イノリは今度は、ヨルの顔を見て言った。
ヨルは、そっちも聞いていないくせに、とは言わなかった。
*
大聖堂の警鐘が鳴った。
ミコトの指輪に、赤い召集紋が浮かぶ。
「北方の聖歌都市リュミエール。七十三人の集団睡眠」
夢鏡に金髪の少女の肖像が映った。白い衣装。胸元の花。完璧な笑顔。
「セラ・ファルネ。聖歌院の歌い手。眠った者は全員、彼女の歌を聞いている」
「楽しい夢を見てるだけじゃなくて?」
「笑顔のまま、口元が裂け始めている」
夢鏡の映像が切り替わった。
寝台に並んだ人々の顔が映る。全員が笑っている。口角が上がりきって、そこから先へ上がろうとして、皮膚が耐えられなくなっていた。
裂けているのは唇ではない。頬だった。
イノリの顔から血の気が引いた。
「行く」
即答してから、ヨルを見る。
「……行っていい?」
ヨルは一瞬、答えを飲み込んだ。
行かないで。
今度こそ、そう言えばどうなるのだろう。
けれど夢鏡の中では、眠る人々の頬から血が落ちている。
「私が嫌だと言ったら」
イノリは困った顔をした。
「聞く。でも、助けを待ってる人がいるなら行く」
「正直でよろしい」
ヨルは笑った。
「行ってきなよ。私を選ばなかったこと、あとでちゃんと後悔して」
「そういう言い方ずるいよ」
「知ってる」
*
出立の直前、ミコトは夢鏡の子片を確かめていた。
掌より小さい銀の板で、塔の本体と対になっている。監察役はこれを持って出る。
確かめてから、上着の内側へ入れた。
イノリは廊下でミコトを捕まえた。
「ヨルって、あとどれくらい持つの」
ミコトは足を止めなかった。
「分からないの?」
「測れないの」
「どっち」
「同じことよ」
それだけ言って、先に階段を下りていった。
イノリはしばらく、その場に立っていた。
*
リュミエールへ向かう馬車の中でも、イノリは花束の話をしていた。
「ヨル、嫌そうだったよね」
「嫌だと言ったわ」
ミコトは窓の外を見たまま答える。
「でも、ちゃんと聞いたよ。置いていいかって」
「聞いたわね」
「じゃあ、いいでしょ」
ミコトは、それには返さなかった。
「なんで黙るの」
「最初に断られた事実は消えないわ」
「でも、聞き直した」
「分かってるなら、三回も言わないでしょう」
イノリは黙った。
夢鏡越しに聞いていたヨルが笑う。
「ミコト、教育係みたい」
「監察役よ」
「似たようなものだね」
「全く違う」
*
馬車が北へ進むにつれて、道沿いの景色が変わった。
最初に気づいたのは、花だった。
どの家の軒先にも、白い花が吊るされている。同じ種類、同じ大きさ、同じ数。三軒目までは偶然に見えたが、十軒を過ぎても続いた。数える気になって数え始め、二十軒でやめた。
次に、窓だった。
閉まっている窓の内側に、笑顔の仮面が掛けてある。外へ向けて。誰に見せるためのものなのかは分からない。
墓地の入口には、『泣かずに送り出しましょう』と書かれた布が掲げられていた。
布は新しかった。何度も掛け替えられている。
「昔からこういう街なの」
イノリが御者へ聞いた。
「セラ様が歌うようになってからです」
「歌う前は」
「十年前の、黒い月が出た夜です。大勢死にました」
御者は前を向いたまま言う。
「毎日誰かの葬式があって、子どもまで泣き疲れてた。セラ様が歌うと、皆が前を向けたんです」
声には本物の感謝があった。
その声が、ずっと同じ調子だった。
イノリは御者の横顔を見た。口角が、少しだけ上がったままになっている。話している間ずっと、下がらない。
聖歌院の壁には、幼いセラの肖像が何枚も飾られていた。
母親の棺の前で歌う少女。災害の生存者へ笑顔を向ける少女。町長から白い花冠を受け取る少女。
どの絵でも、セラは笑っている。
枚数が多かった。廊下の片側が全部、同じ少女の肖像で埋まっている。並び順は年齢順で、奥へ行くほど幼い。奥の一枚と手前の一枚で、笑い方がまったく変わっていなかった。
最初の一枚だけ、画家が塗り直した跡の下に、泣いて腫れた目が残っていた。
塗り直された絵の具は、周りより少し明るい。何年も前に直したものだ。それを外さずに、ずっと掛けてある。
「誰が、最初に笑えって言ったのかな」
イノリが呟く。
「悪意のある一人とは限らないわ」
ミコトが肖像を見上げた。
「一人ずつは、ただのお願いよ」
その先を、ミコトは言わなかった。
道端の老婆が、洗って畳んだ子ども服を抱えて座っていた。
「悲しいですか」
イノリが尋ねると、老婆は涙を流しながら微笑んだ。
「いいえ。あの子が心配しますから」
笑顔の端が裂けて、血が落ちた。
落ちた血が、抱えている布の上へ当たる。
老婆は拭かなかった。拭くと笑顔が崩れるからだ。血が顎を伝って、喉のあたりで止まっている。
「大丈夫です。私たちは幸せです」
イノリは手を伸ばしかけて、止めた。
止めた理由は、うまく言えなかった。
聖歌院から歌が聞こえてくる。
失った者は光の国へ行った。だから悲しまず、笑顔で送り出そう。
歌を聞いた人々が、一斉に口角を上げる。
膝から血を流す子どもも、棺を担ぐ男も、腐った果物を売る店主も笑っていた。
歌は優しかった。
優しすぎて、イノリの肩の痛みまで消えていく。
消えるとき、抵抗がなかった。
痛みが薄れることに、身体が反対しない。むしろ歓迎している。それが一番怖かった。
「これなら、ずっと聞いていたいかも」
ミコトが頬を叩いた。
「痛い!」
「痛いと分かるなら、まだ戻れる」
*
礼拝堂では、百人ほどが舞台を見上げていた。
誰も座席にもたれていない。全員が背筋を伸ばして、同じ角度で顔を上げている。
前の方の席だけ、様子が違った。
寝台がそのまま運び込まれている。七十三人。眠ったまま、同じ角度で天井を向いていた。
中央でセラが歌っている。
「歌を止めなさい!」
ミコトの銃声が天井へ響く。
誰も振り返らなかった。百人のうち、一人も。
セラだけが笑顔のまま振り返った。
「この方々は幸せな夢を見ています。目を覚ませば、もっと苦しみます」
「セラは」
イノリが舞台へ上がった。
「セラは、何をしたいの」
「希望に、自分の望みは必要ありません」
少女の胸元の白い花が、ゆっくり黒く染まる。
「救世主は笑っていなければならないでしょう?」
銀の針が、上から降りてきた。
六本あった。上唇の両端から、それぞれ違う角度で頬骨へ向かう。
刺さる音がした。
布を縫う音と同じだった。
裂けた唇が、笑顔の形へ引き上げられて、そこで縫い止められる。
セラは抵抗しなかった。針が刺さっている間、まばたきもしなかった。
「あなたも、傷だらけなのに笑っていた」
セラが、客席へ一度だけ目を向けた。
視線の先、起きている側の席に、年老いた修道女がいた。
両手を合わせている。祈っているのか、拍手をしようとしているのか、途中で止まった形のまま動かない。
セラの唇が動いた。
音になる前に、赤い幕が落ちる。
眠っている七十三人と、イノリたちを呑み込んで、現実の音が遠くなった。
最後に見えたのは、起きている人たちが手を伸ばそうとして、届かずに止まる形だった。
石室を飛び出した時には、核はもう地上へ抜けていた。 イノリが走る。三歩で振り返る。 ミコトが遅れている。三日眠っていない足が、階段で二度もつれた。 二度目は、手すりを掴んで持ち直した。三度目は掴めなかった。「先に行って!」「行けない!」 六歩。 この三日で身体が覚えた距離だった。 イノリは戻って、ミコトの腕を掴んだ。「舌噛むよ」「何を――」 抱えて走った。 軽かった。三日、ほとんど食べていない身体だった。 大聖堂を出ると、外は昼だった。 広場に人が集まっている。二十人ほど。誰も喋っていない。全員が同じ方向を向いて、片手を上げていた。指が二本立っている。銃の形だった。 子どもが混じっている。手が小さいので、指の形が上手く作れていない。それでも作ろうとしていた。 イノリは目を逸らさずに、その横を走り抜けた。 逸らさなかった。逸らせなかったのかもしれない。 階段は幅が狭い。二人ぶんの幅はないので、肩を壁に擦りながら上がった。制服の布が擦れて、途中で裂ける音がした。 途中の踊り場に、聖職者が二人立っていた。 道を空けなかった。 イノリは間を通った。通るとき、誰も止めなかった。止めない方が不自然だった。 * 塔の階段を上がりきると、扉が開いていた。 鎖は外れている。 切られていない。留め具が七つとも、きれいに外されて壁の鉤へ掛かっていた。「鍵で開けてあるわ」 ミコトが言った。 息が上がっている。それでも、見るところは見ていた。「誰が」「鍵を持っている者」「教会?」「他にいないでしょう」「なんで今」 ミコトは答えなかった。 答えなかったが、部屋の中を一度だけ見渡した。 まだ何も起きていない。それでも扉は開けてある。 部屋の中で、ヨルが窓辺に立っていた。「遅かったね」 息が上がっている。 夢鏡の表面が、内側から波打っていた。「ヨル、ミコトの銃から」「見えてる」「二十人に漏れてる」「一日ぶん飛んでるわ」 ミコトが言った。「二十人は、明日のはずだった」「核が出たから?」「たぶんね」「それも見えてる」 イノリは剣を呼んだ。「止める」「どうやって」 答えられなかった。「イノリ」「なに」「剣で止まるものだったら、私はとっくに何もしてない」 * ヨルは包帯の
封印した夜を最後に、ミコトは眠らなかった。 三日が過ぎている。 目を閉じると、断罪弾を撃たなかった未来が始まる。 黒い水へ沈む町。助けを呼ぶ人々。燃える家の窓から、レナがこちらを見る。 ――今度も、扉を閉めるの? 起きている間も、銃の弾倉から小さな呼吸音がした。 吸って、吐く。人の間隔より少し遅い。合わせようとすると、自分の呼吸の方が乱れた。 一日目の朝に分かったのは、七歩の縛りがミコトとイノリの間にしか働かないことだった。 ヨルの側は夢鏡が保っている。鏡が開いている限り、距離は問題にならない。「じゃあ、外に出られる?」 イノリが聞いた。「二人でなら」 それ以来、ミコトはどこへ行くにもイノリを連れて歩いた。 正確には、イノリがミコトから七歩以上離れられなくなった。 廊下ですれ違う者が、二人を見て道を空ける。前は監察役の制服に道を空けていた。今は、二人ぶんの幅を空けている。「一時間だけでも寝て」 塔の廊下で、イノリが毛布を持って追いかける。「眠れば封印が弱まるわ」「起きたまま倒れたら同じでしょ」「計算では、あと十六時間は行動できる」「人を計算機みたいに言わないで」「計算できる部分を計算しているだけよ」「できない部分は」 返ってこなかった。 答えないまま、廊下の壁へ一度肩をついた。 ついたのは、ほんの一瞬だった。 三日目になると、瞬きの回数が減った。 乾くので、時々目を強く閉じる。閉じた瞬間に、燃える窓が見える。だからすぐ開ける。開けると乾く。 その繰り返しを、イノリは六歩後ろから見ていた。「ミコト」「何」「目、赤いよ」「知っているわ」「休んで」「休むと見るの」「起きてても見てるじゃん」 ミコトは足を止めた。 止めてから、また歩き出した。「起きているときは、私が見ているの」「違うの?」「見せられるのと、見るのは違うわ」 *「ミコト。銃を鏡の前へ」 夢鏡越しに、ヨルが言った。「何をするの」「接続を調べる。今度は勝手に触らないから、許可をもらう」「皮肉?」「半分」 ミコトが銃を置くと、夢鏡へ黒い波紋が広がった。 鏡は割れたまま繋がっている。破片を並べ直しただけの面に、無理やり映像が乗っていた。継ぎ目のところで、映るものが少しずつずれる。 閉じた瞼の紋様が一度開いて
「この悪夢は、捨てたくない」 ミコトは核から目を離さなかった。「壊せば終わるでしょ」 イノリが言った。「終わるわ」「じゃあ」「怖さまで消したら、私はまた迷わず撃てる人間に戻る」 黒い結晶の表面で、閉じた瞼が細かく震えている。 瞼の縁に、睫毛がある。閉じているのに、下から光が漏れていた。「封じる。私の銃へ」「そんなことできるの」「前例はあるわ」 ミコトは弾倉を開いた。「剣へ封じた記録。周りの人が眠るたび斬られる夢を見て、十年後に赤子まで殺す風習ができた」「それ、失敗した記録じゃん」「完全に封じようとしたからよ」「完全じゃなかったら、どうなるの」「漏れるわ」「漏れたら」「私が夢に見る」 ミコトは青い夢装の裾を裂いて、銃と自分の手首を結んだ。 結び方に迷いがない。何度も練習した手つきだった。「私の夢痕へ繋ぐ。漏れた分は、私が引き受ける」「ずっと悪夢を見るってこと」「そうなるわね」「だめ」 イノリが首を振った。「一人で背負うのと同じだよ」「違うわ」 ミコトは黒い核を見たまま言う。「これは私のよ。誰にも渡さない」「私に渡らないなら、いいと思うけど」 ヨルが言った。 イノリが振り返る。「よくないよ」「なんで」「ミコトが潰れる」「潰れる前に、こっちに来る」 ヨルは自分の胸へ触れた。「そうなったら、私がなんとかする」 言い方が軽かった。 軽かったので、イノリは一瞬何を言われたのか分からなかった。「一人では無理だよ」 ヨルが続けた。「反対?」「手伝う」 胸元へ手を当てる。包帯の下で、何かが動いた。「接続を三つに分ける。核から漏れた分を、ミコトだけじゃなく私とイノリにも少し流す」「ヨルに流したら意味がない!」「留めない。通すだけ」「通すだけって、何が違うの」「残らないってこと」 ヨルは指を二本立てた。「川に橋を架けるのと、桶で受けるのは違うでしょ」「架けておくのは、平気なの」「平気」 間がなかった。 イノリは、その間のなさを覚えていた。 覚えていたが、今は他に方法がなかった。「安全なの」「安全な方法があるなら、先に言ってる」 ヨルはイノリを見た。「嫌なら断って」 問われた。 以前の自分なら、即答で手を伸ばしていた。 イノリは想像する。 ミコトがレナを撃つ
「聖女ミコト」「世界を救った英雄」 跪いた人々が、顔を上げずに呼ぶ。 声は揃っている。息継ぎの位置まで同じだった。 祭壇の上のミコトは、こちらを見ていた。 夢装は着ている。ただ、袖の青が濁っていた。水で薄めたような色になっている。「来ないで」「行くよ」「これは私の悪夢よ」「だから来た」 イノリは階段を上ろうとした。 銃口が動く。「あなたたちがいるから、選ばされるの」 その言葉で、足が止まった。 ミコトは泣いていない。 ただ、弾倉を開けて閉じるのを、さっきから三度繰り返している。「ミコト」「何」「どれだけかかったの」「え」「扉を開けるまで」 イノリは口を開いて、閉じた。「……分かんない」「そう」 ミコトは、それきり聞かなかった。 聞かなかったが、弾倉を開ける手が四度目に動いた。 * 天井の高さが、急に決まった。 巨大な天秤が降りてくる。 鎖が太い。人の胴くらいある。それが天井の見えないところから四本、まっすぐ下りてきて、皿を吊っていた。 片方の皿に、イノリとヨル。 もう片方に、街が乗っていた。屋根も、煙も、洗濯物も、そのまま乗っている。「選びなさい」 大聖堂中から声が響いた。「正しい少女よ」 街の皿では、人々が動いていた。 赤ん坊を抱く母親。夕食を運ぶ老人。明日の約束をする子どもたち。 誰も、自分が皿に乗っていることを知らない。皿の縁の外を見ようともしない。 イノリは皿の縁を見た。石畳が途中で切れて、その先は何もない。切れ目のすぐ手前に、洗濯物を干している女がいる。籠を置いて、一枚ずつ広げて、留め具で挟む。手を伸ばすと、指先が縁から出る。出ても気づかない。 英雄の選択という言葉では見えない大きさで、生活が続いている。「もし本当に反対側なら」 ミコトが聞いた。「私が二人を撃てば何千人も助かるなら、どうするの」 イノリは、撃たせない、と言いかけた。 その言葉は、ミコトの答えを先に潰す。「私は、嫌だ」 代わりに、自分のことだけ言った。「撃たれたくない。ヨルも殺されたくない。でも、ミコトが何考えてるかは聞く」「聞いた後で、止めるでしょう」「たぶん」「結局、同じじゃない」「同じかもしれない。でも、最初からなかったことにはしない」「それに、何の意味が」「分かんない」
監察部の書庫には、失敗の記録しか残っていない。 持ち出せないので、ミコトは三日かけて書き写した。 写した紙を、また何度も読み返す。 七人へ分けた記録。剣へ封じた記録。海の向こうへ逃がした記録。 どれも、なぜ失敗したかは書いてある。 どこまで保ったかは、書いていない。 八日目に殺し合いが起きたなら、七日目までは何が起きていたのか。 十年後に風習が生まれたなら、一年目はどうだったのか。 誰も書いていない。「何読んでるの」 イノリが覗き込んできた。「書き写したものよ」「手伝う」「読めないわ。写しでも、字は監察部のものだから」「じゃあ、声に出して」 ミコトは少し黙ってから、頁の端を指で押さえた。「七人へ分けた記録」「うん」「八日目に、七つの町で殺し合いが起きた」「七日目までは?」 ミコトの指が、頁の上で止まった。「今、同じことを考えていたわ」「じゃあ合ってる」「合っているかどうかは、まだ分からない」「でも二人が同じこと考えたなら、私はもう合ってると思う」 ミコトは反論しかけて、やめた。「七日間、七人は普通に暮らしたわ」「じゃあ、七日はいけたんだ」「七日でも足りないの」「足りないけど、ゼロじゃない」「何日ならいいの」「分からないわ」「じゃあ、何日から数えるかは決められる?」 ミコトが顔を上げた。「どういう意味」「七日でだめだったなら、八日目に何があったか調べればいいでしょ」「八日目のことは書いてあるわ」「書いてあるのは、起きたことだけ?」「……ええ」「じゃあ、その日に誰が何をやめたのかは、書いてないんだ」 ミコトは頁へ目を戻した。 書いていなかった。 イノリは頁を覗き込もうとして、途中で手を引いた。「見ないよ。読めないんでしょ」「読めないわ」「うん」 三日読んで、結局は何も見つからなかった。 見つからなかったことも、ミコトは書き留めた。 * その夜、夢を見た。 白い大聖堂。何千人もの人が跪いている。「聖女ミコト」「世界を救った英雄」 跪いている人々の顔は、見えない。全員が床へ額をつけている。うなじだけが何千と並んでいて、どれも同じ角度で曲がっていた。 誰も顔を上げないので、誰が誰なのか分からない。 分からないまま、声だけが揃って上がってくる。 正面の祭壇
三日、命令書を読んだ。 読むたびに同じ長さで、同じことしか書いていない。 二日目の夜に、書き写してみた。 自分の字で書くと、少し長く感じた。長く感じただけで、意味は増えなかった。写した紙は燃やした。燃やしてから、燃やす必要があったのか分からなくなった。 四日目の朝、ミコトは監察部へ願い出た。「記録を読ませてください」「どの記録を」「私が読む段階にない、と言われたものです」 オルドはしばらく黙っていた。「今なら、構いません」「何が変わったのですか」「あなたが、自分から聞きに来ました」「前回は、あなたが呼びました」「はい」「同じ内容でも、順番が違えば別だと」「別です」 老人は立ち上がった。「読まされた者は、読んだことを他人のせいにできますから」 * 書庫は地下の三層目にあった。 棚が壁ではなく床から生えていて、通路が一本しかない。左右の棚のあいだは、人が一人通れる幅しかなかった。二人で入ると、後ろの人間は前の人間を追い越せない。 空気が乾いている。紙を保たせるためだと、案内の聖職者が言った。 喉の奥がすぐに渇いた。唾を飲もうとして、飲むものがなかった。 灯りは低い位置にある。棚の上の方は暗い。どこまで棚が続いているのかは、見えなかった。 オルドは一冊の帳面を抜き出した。 抜くとき、隣の帳面が倒れなかった。詰まっているのではなく、一冊ずつ支えが入っている。 表紙に日付が刻まれている。百年前、黒い月が満ちた年。「開きなさい」 最初の頁に、少女の肖像が貼られていた。 処刑台の上に立っている。 胸に、黒い花が七輪。 泣いているのだと思った。 よく見ると、口の端だけが上がっている。 絵の具が、そこだけ二度塗られていた。上から直した跡だった。「この子は」「リシア。候補者でした」「候補者が、なぜ処刑台に」「器になったからです」「器」「倒された大悪夢は、消えません」 オルドは頁の端を指で押さえた。「一人へ集まります。七輪咲けば、満ちる」「満ちたら」「終末の魔女と呼ばれるものになります」「それで、処刑を」「はい」「呼ばれるもの、という言い方をされますね」 オルドは頁から目を上げなかった。「なったところを、誰も見ていないからです」 ミコトは肖像から目を離さなかった。 七輪。数える