All Chapters of 元夫が復縁を迫る頃、私は御曹司と再婚し妊娠していた : Chapter 31 - Chapter 40

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第31話

沙綾は福祉振興会に戻ると、現在手がけているプロジェクトをきちんと引き継ぎ、できるだけ早く退任したいと理事たちに申し出た。福祉振興会の理事会は、早急に後任候補を選出し、沙綾の退任を承認すると決定した。「沙綾さん、書留が届いています。押印をお願いします」有栖がオフィスのドアをノックして知らせてきた。「明日の小学校の起工式の件、進捗を確認しておいて」沙綾は有栖にそう指示し、配達員からペンを受け取った。伝票の送り主欄には「氷室グループ」と書かれている。思わず振り返って窓の外を見た。林立する高層ビルの向こうに、氷室グループの本社ビルの最上階がかすかに見える気がした。視線を戻して受領印を押し、包みを開けてみると、中には赤いハイヒールが入っていた。昨夜、逃げ出した時に脱げてしまったものだ。きれいに磨き上げられ、丁寧にお手入れまでされているようだった。陣に電話をかけてお礼を言おうと思った。だが、そもそも陣の連絡先を知らないことに気がついた。夜になり、沙綾は自宅へ戻った。和之は、付き添いの介護士と自分がいれば大丈夫だと言ってくれた。それでも、昨夜の遠藤夫婦の行動を思い出すと、やはり安心できなかった。シャワーを浴びて着替えた後、ノートパソコンを持ち、車を走らせて病院へ向かった。地下駐車場から病棟へ向かって歩いていると、どうもいつもと様子が違う気がしてならない。「今日はなんだか警備員が多くない?監視カメラもあちこちに増えてるし」「昨日の夜、若い女の人が病院で変な男に襲われかけたらしいよ。それで病院側がすぐに対応して、警備を強化したんだって」「えっ、対応早すぎない?まだ半日しか経ってないのに。仕事早すぎるでしょ」すれ違った人々の会話を耳にし、沙綾は思わず心の中で病院の対応の早さに拍手を送り、VIP病室へ向かった。「氷室さん、服を返しに来ました」沙綾は、病室の中から話し声が聞こえることに気づいた。だが、ノックしても返事がない。そこで半開きになっていたドアを押し開け、中へ足を踏み入れた。すると、休憩室のソファに陣が座り、モニター画面を食い入るように見つめていた。画面に映っていたのは、今日の午後に行われた修治の講演の映像だった。その瞬間、沙綾の視線も画面に釘付けになり、嬉しさのあま
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第32話

陣はドアの前に立ち、昏い眼差しを向けながら、手にした湯吞みをゆっくりと撫でていた。沙綾は母親の病室へ戻ると、和之には一度家へ帰って身支度を整え、ゆっくり休んでから明日の朝また来るように伝えた。病室には付き添いの介護士が残り、沙綾はドア一枚隔てた休憩室にいた。ノートパソコンを開き、頭の中で先生の講演を思い返しながら要点を抜き出し、自分なりの提案をまとめて先輩にメールで送った。先輩からの返事を待つ間、沙綾は今夜の出来事をふと思い出していた。もし陣が、自分の使った湯吞みでお茶を飲んだことに気づいたら、いったいどれほど嫌がるだろうか……これからは、できるだけ陣と二人きりにならないようにしよう。何しろ相手は大物実業家だ。うっかり機嫌を損ねたりしたら、面倒なことになる。先輩からはすぐに返信が届いた。メールには沙綾を褒める言葉が添えられており、午後の出来事にも触れ、慰めの言葉をいくつかかけてくれていた。沙綾はバッグの中から一枚の写真を取り出した。指先でその写真をそっと撫でる。それは何気ない日常の一枚――普段着の二人が、寄り添って写っている写真だった。沙綾は時彦の胸元にそっと寄り添っている。時彦の顔にはほとんど表情がない。それでも、その手だけは優しく沙綾を抱き寄せていた。あの頃の時彦に対しては、命を救ってもらった恩だけを感じていたわけではなかった。時彦からの愛も感じていたからこそ、飛んで火に入る夏の虫のように、その結婚へ身を投じたのだ。結婚後、二人はしばらく幸せな日々を過ごしていた。時彦は出勤前になると沙綾の額にキスをし、仕事から帰れば後ろから沙綾の腰を抱き寄せた。夜には互いの頬を寄せ合い、額を重ねながら息を弾ませた。この幸せがずっと続いていくのだと、そう信じていた。けれど、ある日を境に、時彦は沙綾にネクタイを締めさせなくなった。沙綾が作った朝食にも手をつけなくなり、頻繁に出張へ行くようになった。沙綾は一刻も早く子供を授かり、二人の関係を修復したいと願った。けれど、待ち望んだ子供は授からず、二人の間の亀裂は日に日に深まっていった。時彦の態度はますます冷たくなり、最後には浮気までした。二人の関係は……もうここまでだった。沙綾は写真をバッグへしまった。そして、静かに明
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第33話

「接近禁止命令か。それには相手が繰り返し接触してきたという事実が必要になる」由宇は冷静な口調で説明する。「沙綾、こういう条項は相手の名誉に関わる話です。向こうが同意するとは限らないし、調停も難しくなる」沙綾は、そこまでする必要があるとは思っていなかった。時彦の名誉を潰そうとも考えていない。何だかんだ言っても、時彦には恩がある。すると、由宇が声を落として尋ねた。「沙綾、あの人に手を出されたか?」「いいえ、そんなことはない」沙綾の目が暗く翳った。この前、時彦が自分を求めてきたことなら理解できる。あの時は時彦が離婚に同意しておらず、二人はまだ夫婦だと思っていたから。でも今は、時彦も自分と離婚するつもりなのだ。それなのに、さっきはなぜあんなことをしたのだろう。朱里に満たしてもらえなかったから?それとも……巷でいう、別れ際の一夜というやつなのだろうか。けれど、時彦が何を考えているのかなど、もう考えたくもなかった。電話を切ると、沙綾は荷物をまとめて病室へ入った。時彦はすでに帰っていた。母親の機嫌も良さそうだったので、しばらく付き添った後、そのまま高橋福祉振興会が寄付を募った小学校へ向かった。今日はその小学校の起工式の日だった。この仕事を終えれば、高橋福祉振興会で担当しているプロジェクトもほぼすべて片づき、退職できる。着工日とはいっても、建設業者はすでに現場に入り、作業を始めていた。ショベルカーやリフト、アングル材の足場が所狭しと積み上げられ、作業が進められている……沙綾は少し不安を覚え、建設業者の責任者と詳しく話し合った。そして現場を出たところで、時彦と朱里が並んで立ち、福祉振興会の奥様方に囲まれているのが目に入った。時彦はすらりと背が高く、全身を包むのは完全オーダーメイドのスーツ。その端正な容姿が、いっそう際立っていた。隣には、イブニングドレスに身を包み、念入りに化粧を施した朱里がぴたりと寄り添っている。二人はまさに、誰もが認める美男美女だった。奥様方は二人を取り囲み、口々に褒めそやしている。「沙綾さんは今日、こんなに地味な格好じゃ、紙面映えしないわ。だったら朱里さんに代わってもらって、高橋さんと一緒にテープカットしてもらったら?」まるで、沙綾に席を
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第34話

あの交通事故と同じだった。事故の加害者は今も逃亡を続けており、沙綾が受けた苦しみや傷はいまだに償われていない。真夜中に夢から覚めると、今でも事故現場へと引き戻され、あの時の衝撃と痛みが蘇る。犯人がいつか法の裁きを受けることは分かっている。けれど、この結婚が沙綾にもたらした傷は、まるで消えない烙印のように付きまとい、もしかすると永遠に心から消えることはないのかもしれない。それは、目を覚ましたまま見る悪夢のようなものだ。「責任者は誰だ?」駆けつけた警察が現場の状況を確認した。沙綾は顔を上げ、指先で目尻の湿り気を拭うと、前へ進み出た。「私です」「十八人が負傷した重大な安全事故だ。一緒に署まで来てもらい、事情を聴く必要がある」警察官は厳しい表情で告げた。「基礎工事の責任者も一緒に同行してもらう」救急車の中では、時彦がひどく怯える朱里を慰めていた。沙綾はゆっくりと視線を戻し、ぼんやりと頷くと、警察とともにその場を離れた。幸い、死者は出なかった。背後から洋一の声が聞こえた。「奥様、安心して警察へ行ってください。すぐに杉本先生に連絡します」……「高橋沙綾さん。基礎工事の責任者である山本剛(やまもと つよし)が供述した。あなたが公金を横領し、粗悪な鋼材を購入するよう指示したことが事故の原因だと言っている。何か説明することはあるか?」警察官が厳しい口調で尋ねた。公金横領となれば、刑務所に入ることになる。そんなこと、全く身に覚えがない。警察がきちんと調べれば、真相は必ず明らかになると信じていた。それでも、身に覚えのない罪を着せられたことに、胸の奥が大きく揺さぶられた。沙綾は由宇へ視線を向けた。取調室で三十分待ったが、律は来なかったため、代わりに由宇を呼んだのだ。「僕の依頼人は、この件に一切関与しておりません。公金横領の容疑についても否認します」由宇が沙綾に代わって答え、そのまま勾留の取り消しを申請した。「あなたは一時的に職務停止となる。捜査が終わるまでは汐見市内に留まり、市外へ移動する際は事前に届け出るように。いいですね?」沙綾は頷いた。取調室を出ると、ロビーは人でごった返していた。今回の事故で呼ばれ、証言を求められている現場関係者たちだ。沙綾が停職処
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第35話

「先に病院へ送るよ。それから確認しに行こう」由宇は沙綾の足首を心配していた。沙綾も由宇の言う通りだと思い直した。これほど大きな事故が起きた上、現場にはあれだけ多くの記者がいたのだ。きっと大騒ぎになるだろう。ニュースで報道されれば、病院にいる母親の目にも入るかもしれない。母親の体調を思うと、沙綾の顔からサッと血の気が引いた。「わかった。でも大丈夫、病院には私一人で行けるから」由宇と別れ、沙綾は足首の痛みに耐えながら病院へ急いだ。病室へ着くと、母親はソファに座り、今回の事故を報じるテレビのニュースを見ていた。その隣では、和之が心配そうに佐有里の手を握りしめている。「お母さん」沙綾は佐有里の前まで歩み寄り、その場にしゃがみ込んだ。「沙綾、大丈夫なの?」佐有里は震える両手で沙綾の頬を包み込み、怪我はないかと隅々まで確かめるように見つめた。「私は大丈夫」母親の胸に寄り添い、太鼓のように激しく打つ心臓の音を聞きながら、沙綾はできるだけ平静を装った。「警察に連れて行かれて、捜査に協力しただけだから」「沙綾が公金を横領するはずがない。あの男が沙綾を陥れているに決まっている。紀行に電話して、沙綾のために一番優秀な弁護士を頼まないと」和之の怒りに満ちた声には、娘を思うような心配と苦痛が滲んでいた。「おじさん、先輩に頼まなくても大丈夫です。もう弁護士には依頼してありますから」沙綾が小さな声で答えると、突然、佐有里に肩を押さえられた。佐有里は沙綾の肩を支えにして立ち上がった。「きっと詩織がやったのよ。あの女のところへ行って問いただしてくる」「ちょっと待って、お母さん!」沙綾は手を伸ばして母親を引き止めた。「警察がちゃんと調べてくれるから。私は何もしてないし、必ず潔白を証明してもらえる。まだ療養中なんだから、そんな無理しないで……」「じゃあ、警察署へ行って手がかりを提供して、詩織を調べてもらうの。絶対にあの女よ。あの女だけが、そんなに下劣なことをする。あなたに死んでほしいと思ってるのも、あの女だけよ」佐有里は息を荒くし、胸元を強く握りしめた。「もしときくんがあなたを突き飛ばしてくれなかったら、あの鉄パイプがあなたの頭に落ちていたのよ……」母親の目に浮かぶ恐怖と憎しみに触れ、沙綾
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第36話

佐有里は正人の手を押さえ、沙綾の肩を抱き寄せた。「あなたにこの子を殴る資格なんてない!」「この子だって俺の娘だ!この子が高橋家に嫁げたのは俺のおかげだ。お前のおかげじゃない!」その言葉を聞いた瞬間、沙綾は呆然とした。正人の平手打ちが、勢いよく沙綾の頬を掠めた。そのまま佐有里まで突き飛ばされる。「お母さん!」沙綾は手を伸ばしたが、支えることができなかった。幸い、後ろにいた和之が佐有里を抱き留めた。その時、エレベーターの扉が開いた。佐有里は時彦の姿を見るなり、切迫した様子で訴えた。「ときくん、沙綾を陥れたのは絶対に詩織よ。あの人たちを許しちゃ駄目」佐有里は、時彦なら必ず自分たちの側に立ってくれると思っていた。けれど、その思いは無残に裏切られてしまった。時彦は冷淡な表情のまま、佐有里を見つめた。「プロジェクトの責任者は沙綾です。他の人間には関係ありません」佐有里の瞳から光が消えた。困惑したように時彦を見つめ、呟く。「どうしてそんなことを言うの?……あなたは子供の頃、沙綾が虐められているのを見ていたでしょう。沙綾が虐められていると、私に知らせに来てくれた。沙綾の面倒を見るのも手伝ってくれたじゃない。沙綾を信じてくれないの?沙綾を助けてくれないの?」そう問い詰めた佐有里に応じたのは、時彦の冷たい沈黙だけだった。沙綾の頬には五本の指の跡が浮かび、ひりひりと焼けるように痛む。ゆっくりと痛む頬に手を添え、時彦と正人を見つめた。「これからは、私たちとは一切関わらないでください。お母さん、病室へ戻ろう。警察がきっと私の潔白を証明してくれるから」沙綾は和之と一緒に佐有里を支え、病室へ戻った。すると突然、手を強く握られた。振り返ると、そこには憔悴しきった佐有里の顔があった。弱々しくも、揺るぎのない声だった。「沙綾、あの人と離婚しなさい」涙を湛えた佐有里の目を見つめ、沙綾は頷いた。数時間後、警察署から連絡があり、事件の取り下げ手続きに来るよう告げられた。警察の捜査は迅速だった。高橋福祉振興会と建設会社の帳簿を調べた結果、剛が公金を横領し、粗悪な鉄パイプを購入したことで今回の事故を引き起こしたことが判明した。警察は剛を立件し、起訴することになった。それだけ
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第37話

裁判所に駆けつけた時には、すでに午後三時になっていた。沙綾の足首は一回り腫れ上がり、歩くのもままならない。それでもどうにか調停室まで辿り着いたが、そこにいたのは物腰の柔らかな由宇だけだった。「由宇さん?杉本さんは?」胸の奥に、漠然とした不安が湧き上がる。「そのことだが、杉本は離婚調停の申し立てをしていない」由宇は気まずそうな顔をした。沙綾の代理人弁護士である由宇は、アングル材の足場が崩落した事故の捜査結果を誰よりも早く知っていた。夫の時彦は、周囲の人間が妻を責めるのを黙って見ているだけだった。沙綾を気遣う素振りも一切ない。それどころか、妻を陥れた人間まで庇っている。傷つけば傷つくほど、沙綾は離婚を望むようになった。だからこそ今、その望みが叶わなかったことに、余計に失望していた。沙綾は今朝、時彦が自分に近づいてきた場面を思い出した。時彦は、最初から裁判所で調停離婚をするつもりなどなかったのだ。それなのに、朱里には約束していた。二日間抱いていた期待が、突然すべて消え去った。胸の中へ冷たい水を一杯注ぎ込まれたようで、背中まで冷えていく。「でも、安心して。離婚を成立させるように僕が手伝うよ。ただ、君たち夫婦が署名したあの離婚協議書に従って進めるしかない。他の条件を勝ち取るのは難しい」由宇の申し訳なさそうな言葉を聞き、凍りついていた沙綾の心が少しずつ温もりを取り戻していく。「由宇さん、離婚できればそれで構わない。ほかのことはどうでもいいだから」由宇は力強く言った。「わかった。任せて。絶対に君を失望させない。今回君を呼んだのは、僕の知り合いを紹介したかったからでもある」「ええ、分かったわ」夕陽の中、沙綾は足首の激痛を堪えながら、柔らかな笑みを浮かべた。そして由宇と共に、関係者たちと顔を合わせた。調停が成立すれば、離婚届を出せる日もそう遠くない。そう思うと、胸の奥に残っていた苦しさも、少しずつ薄れていった。すべてを終えると、沙綾は由宇と別れ、足首の治療を受けるため病院へ向かおうとした。その時、崇史から電話がかかってきた。今日のニュースは、どれも高橋福祉振興会で起きた重大事故の話題ばかりだった。高橋グループにも極めて大きな悪影響を及ぼしている。建設責任者の剛が片山
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第38話

娘の高橋茜(たかはし あかね)の話になると、有希子の顔はぱっとほころんだ。沙綾は眉をひそめた。「だめです。片山鋼業は今回の粗悪な鋼材の納入業者ですよ。山本と共謀していたかどうかも警察がまだ捜査している最中なのに、どうして片山家の娘である朱里を高橋福祉振興会の会長にできるんですか?」崇史は机の向こうから、同意するような眼差しを沙綾へ向けた。「沙綾の言う通りだ」「それなら、私がやるしかないわね……」有希子は、いかにも仕方がないといった顔をした。「お義母さんもだめです。片山鋼業を高橋福祉振興会の指定納入業者に決めたのは、会長だった時のあなた自身でしょう」沙綾の言わんとすることは明白だった。有希子自身が賄賂を受け取っていた疑いも十分にあるのだ。その瞬間、崇史の目がすっと冷たくなり、有希子へと向けられた。「私が外の人間と手を組んで高橋家を陥れたって言いたいの?なんて生意気な。嫁の分際で、よくも姑をそんなふうに疑えるわね!」有希子は怒りをあらわにした。「私はただ、お義母さんが会長になるのは名目上ふさわしくないと言っているだけです。それでは、ほかの奥様方に付け入る隙を与えてしまいます」「あんた、自分が会長の座を手放したくないだけじゃないの……」「もういい」崇史が静かに一喝した。「今回の事故は沙綾のせいじゃない。沙綾は広報部の人間と一緒に、負傷した人たちへきちんと謝罪してきなさい。示談金を増やせば、問題にはならない」「はい」沙綾は小さく頷いた。すると、崇史はさらに沙綾を後押しするように言った。「高橋福祉振興会の会長を務められるのは、高橋家の女主人だけだ。沙綾以外に務まる者はいない」沙綾はまもなく退任する。だから、会長の座にしがみつくつもりはなかった。だが、朱里や有希子の思い通りにさせる気もない。理事会で後任が選出されてから、二人に伝えればいいことだ。「夕食を食べてから帰りなさい」崇史が再び口を開いた。沙綾は長居したくなかった。だが――「沙綾、お母さんが心臓発作を起こして、今回はかなり危険な状態だったと聞いた。具合はどうなんだ?」崇史の気遣うような眼差しに触れた。それに、今回の件で崇史の国会議員への立候補にまで影響を及ぼしてしまったことを、沙綾は心から申し訳なく思ってい
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第39話

沙綾は手を上げて額に浮かんだ細かな冷や汗を拭うと、二階へ上がり、一部屋ずつ探していった。使用人の部屋の前まで来た時、突然、翔平の苦しげなだみ声が聞こえてきた。扉の隙間から中を覗くと、翔平は包帯でぐるぐる巻きにされ、まるでミイラのような姿になっていた。全身の骨が折れているかのようだった。「お姉ちゃん、どうして俺をここに隠したんだ?あの時、別に監視カメラに顔を撮られたわけでもないし、俺を起訴しようにも証拠がないんだから、出してくれよ……」「あなた、崇史さんに気付けられたいの?あなたがその息子の嫁に手を出そうとしたと知ったら、ただじゃ済まないわよ」「時彦だって気にしてないし、俺を保釈までしてくれたんだ。なんで崇史さんがそんなに怒るんだよ」その言葉を聞いた瞬間、沙綾は両脚から力が抜けた。廊下の手すりに手をかけ、視線を落とす。ちょうどその時、部屋へ入ってこようとした時彦と目が合った。時彦の目は暗く沈んでいた。足首は痺れるほど痛んだ。沙綾は歯を食いしばり、視線を逸らすと、痛みに耐えながら一歩ずつ階段を下りていった。最後の一段をそっと踏み下ろした時、沙綾はついに体を支えきれず、その場に崩れ落ちそうになった。大きな手が沙綾の腕を掴んだ。「沙綾、どうした?」頭上から、崇史の心配そうな声が降ってきた。「顔色がひどく悪いじゃないか。足も、どうしてこんなに腫れてるんだ?」「大丈夫……お義父さん、私、先に病院へ行ってきます……」「一人じゃ無理だろう。時彦、何をしてる。早く沙綾を病院へ連れていって、ちゃんと面倒を見てやりなさい」「お義父さん、本当に大丈夫です……」言い終わるより先に、沙綾は腰を抱き上げられた。慣れ親しんだ時彦の気配に、かすかなクチナシの香水の匂いが混じり、鼻先をくすぐった。痛みに耐えきれず、沙綾は目を閉じた。もう時彦を見ることはせず、崇史の念を押す声を聞きながら屋敷を出た。車の後部座席に降ろされた時、沙綾は目を開けた。そこには、温もりの欠片もない時彦の冷淡な眼差しがあった。二人の吐息が絡み合い、薄く柔らかな布地越しに、互いの肌の温もりが伝わってくる。沙綾が顔を背けると、時彦は手を離した。バタン、とドアが閉まった。沙綾は窓の外へ視線を向けた。隣の革張りのシートが
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第40話

黒いベントレーの後部座席。陣と顔を合わせる時、沙綾は決まって惨めな姿をしていた。沙綾はもう、気恥ずかしささえ覚えていた。「氷室さん、車に乗せていただいて、ありがとうございます」陣に出会えたのは本当に幸運だった。こんな真夜中、山腹にある高級住宅街でタクシーが捕まるはずもない。彼がいなければ、どうやって帰ればいいか分からなかった。その時、車体が大きく揺れた。「きゃっ……」足首に何かがぶつかり、痛みに眉をひそめた。反射的に、手近にあった温かいものを掴む。我に返ると、陣がシートに置いていた手をしっかりと握ってしまっていた。深く暗い陣の瞳と目が合い、慌てて手を離す。「沙綾さん、どうしました?」礼司が、沙綾の悲鳴に驚いたように尋ねてきた。「いいえ……」痛みのあまり、ほとんど声が出ない。「申し訳ありませんが……近くの病院まで送っていただけませんか?」礼司はルームミラー越しに陣の様子を窺った。陣が小さく頷くのを確認してから、答える。「では、しっかり座っていてください。山を下りる道は少し揺れますから」「はい……」返事をした直後、車は猛スピードで走り出した。ただでさえ全身傷だらけで、足首に力も入らない。車の激しい揺れに耐えきれず、沙綾の体はそのまま陣の胸へと倒れ込んだ。痛みに今にも泣き出しそうになる中、涙でぼやけた視界に陣の端正な横顔が映った。「あの……私……わざとじゃ……ありません……」だが、車は容赦なく速度を上げていく。沙綾は陣の腕の中から抜け出そうとしたが、体が言うことを聞かない。陣の大きな手が、沙綾の腰を抱きとめた。沙綾はほっと息をついた。きっと突き飛ばされると思っていたからだ。ところが、腰に添えられた手が突然ぐっと力を込めた。沙綾は再び陣の硬い胸へと引き寄せられ、体をぴったりと密着させられた。冷たい手が沙綾の顎を持ち上げる。冷たく沈んだ眼差しと視線がぶつかった。「沙綾さん、これで二度目だ。いい加減にしてくれ」漆黒の瞳に宿る苛立ちと警告の色が、沙綾の羞恥心を容赦なくえぐる。痛みに青ざめていた頬が、恥ずかしさで一気に赤く染まった。「違います……」沙綾も少しムッとした。それでも、結果的に自分から彼の胸へ飛び込んでしまった形になったのだから、
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