All Chapters of 元夫が復縁を迫る頃、私は御曹司と再婚し妊娠していた : Chapter 21 - Chapter 30

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第21話

車内。奈々は腹立たしそうに言い、途中から少し声を潜めた。「時彦の奴、見る目がないにも程があるわ!あなたとの子供は作らないくせに、あの性悪なバカ女と子供を作るなんて?あんな女に似て、性格も頭も悪い子が生まれたら、どうするつもりかしら。でも、時彦と朱里の間には、まだ何も起きていないんじゃない?ただ、その約束があったから、最近になって急に距離が縮まっただけとか……」沙綾は、以前、陣のオフィスから向かいの社長室を見た時の光景を思い出し、ハンドルを握る手に力を込めた。「そうかもしれない。でも、もう私には関係ないわ」「ええ、仮に本当に何もなかったとしても、この二年間、彼があなたに対してどれだけ冷淡だったかを考えれば、十分に愛想が尽きるわ。この二年間、あなたが尽くしてきたのは、彼の命の恩に報いるためだったと思うことにすればいいわ」奈々は低い声で応じた。彼女は知っていたからだ。沙綾が時彦に尽くしたのは、決して命の恩だけが理由ではない。あの時、沙綾の心には確かに時彦への愛があったのだ。沙綾と時彦。この二人の境遇は、どこか似ていた。時彦は日陰で生きる私生児であり、沙綾は両親の結婚生活が破綻したことで生まれた犠牲者だった。二人とも家庭環境に恵まれず、同じように罪のない被害者だったのだ。最初は間違いなく、お互いの瞳に相手を思いやる愛情があったはずなのに、どうしてこんな結末を迎えてしまったのだろう。もし、すべてを命の恩のせいにできれば、沙綾の心も少しは救われるのかもしれない。何しろ、自分が時彦に命を救われたのは事実なのだから。「うん!」沙綾の声はきっぱりとしていたが、その心はすっかり乾ききっていた。だが、この胸の痛みも、遅かれ早かれ過ぎ去っていくはずだ。二人は奈々の兄である橋本由宇(はしもと ゆう)の法律事務所へとやって来た。「お兄ちゃん、朱里の言ったこと、信憑性はあると思う?」縁のある眼鏡をかけ、落ち着いた色合いのスーツを着こなす由宇は、いかにも理知的で隙のない様子で、沙綾のために状況を分析した。「家庭裁判所の調停で双方が合意に達すれば、調停調書が作成され、その場で離婚届を提出することもできる。離婚届が受理されれば、協議離婚と同じく即日で効力が生じる。ただ、調停の申し立てから実際に期日が設定されるまでには、数週
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第22話

「沙綾、安心して。うちの兄とあの杉本は犬猿の仲で、相手の手口も誰よりよく分かっているから、きっと力になってくれるわ」奈々は沙綾を励ますように声をかけた。沙綾は、ふと母の言葉を思い出した。母は自分の親権を得るために、正人から財産分与なしの離婚協議書に署名させられたのだ。トップクラスのバイオ医薬の専門家で、多くの特許を持っていた母は、そのすべてを遠藤製薬に捧げたというのに、成果はあの母娘の手に渡り、いいように甘い汁を吸われている。母が捧げたすべては、もう二度と取り戻せない。時彦と朱里が結婚し、子供まで作れば、朱里と詩織はこれから先、高橋家のすべてまで手に入れることになる。それなら、母の代わりに、私がすべてを取り戻してみせる。「うん、色々とありがとう、由宇さん」法律事務所を後にし、奈々と別れる前、沙綾は祖母の形見であるルビーのネックレスを奈々に預け、修復してほしいと頼んだ。事の顛末を聞いた奈々が腹を立てたのは言うまでもない。これで早く離婚できそうで、本当によかったと胸を撫で下ろしていた。病院へ戻り、母の看病をしながら、明日には裁判所から電話が来るだろうと思うと、沙綾の心は激しく揺れ動いた。時彦との結婚生活にようやく終止符を打ち、過去を清算して新たな未来へ踏み出せることは、喜ばしい。だが、母に内緒で離婚を進めていることには、やはり拭いきれない不安があった。……夜になり、時彦はフォレストテラス青葉台へ帰宅した。恵子はキッチンで食事の支度をしていたが、彼の帰宅に気づくと出迎えた。「沙綾は?」時彦は淡々と尋ねた。「奥様は病院でございます。先ほどお電話があり、明日の朝に取りに来るので、栄養食を作っておいてほしいとのことでした。佐有里様が入院されたので、娘として当然付き添われるのでしょう」恵子はそう答えた。「ああ」時彦はそれ以上何も言わず、二階の書斎へ入り、スマートフォンを手に取って律に電話をかけた。律は彼の親友であり、高橋グループの法律顧問でもあった。……昨夜は和之と交代で看病していたため、沙綾はほとんど休めなかった。翌日、母の世話をするために介護士を雇った。その介護士は医療知識も豊富で、安心して任せられるうえ、お互いの負担も減らすことができる。沙綾は一度朧月レジデンスの自宅へ戻り、離婚に必要な
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第23話

沙綾は訝しげに有栖の後について会議室へ向かった。まさか時彦は、自分と離婚して朱里と結婚することを、皆の前で公表するつもりなのだろうか?二人の男女は隣り合って座っていた。むしろ、福祉振興会の意思決定層にいる何人かの裕福な夫人たちのほうが、どこか居心地悪そうに身を縮めている。時彦が放つ強烈な威圧感に、すっかり気圧されていたのだ。「社長、福祉振興会の運営層に加わるには、二つの条件を満たす必要があります。一つはフィランソロピストの夫人であること、もう一つは1億円の寄付をすることです。朱里さんは、どちらの条件も満たしておりません。私どもとしては、彼女の加入に同意いたしかねます」副会長はそう述べた。時彦はわずかに顎を上げた。傍らにいた洋一が、小切手を副会長へ差し出す。「ここに4億円ある。これで十分だろう」時彦は沙綾に視線を向けた。「それに、フィランソロピストの夫人という条件だったな?朱里の将来の夫は、間違いなくそうなるはずだ」その言葉を聞いて、朱里は頬を染め、恥じらうような素振りを見せた。それを見たその場の全員が顔を見合わせる。社長自ら大金を投じて朱里を福祉振興会の運営層に押し込み、さらに彼女が近いうちにどこかの夫人になる予定だという。これではどう見ても、暗に何かをほのめかしているではないか。皆、昨晩高橋グループが発表した公式声明を見て、沙綾の正妻としての地位は揺るぎないものだと思い込んでいた。その陰で、朱里のことを嘲笑していた者も少なくない。まさか一晩で風向きが変わるとは、誰も思っていなかったのだ。やはり、過去二回のスキャンダル報道は、まったくの事実無根ではなかったらしい。もしかすると、朱里が次の高橋夫人になるのかもしれない。副会長は4億円の小切手を受け取ると、困り果てたように沙綾を見た。「奥様、いかがいたしましょうか」二人は間もなく離婚する。時彦が朱里を妻に迎える日も近く、彼自身もグループ内で私の顔など二度と見たくないのだろう。だからこそ、朱里を後継者として持ち上げているのだ。だが、沙綾は朱里の勝ち誇ったような嘲笑を見て、詩織が母にボイスメッセージを送りつけ、心臓発作を誘発させたことを思い出した。自分がこの高橋福祉振興会を去るのは構わない。だが、朱里にだけは甘い汁を吸わせたくなかった。「お金さえ積めば福祉振興会
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第24話

「沙綾さん、久しぶりだな」翔平は有希子の弟であり、時彦の名目上の叔父にあたる人物だった。沙綾はエレベーターに乗り込み、一階のボタンを押すと、何の反応も示さなかった。「チッ、相変わらず冷たいね!でも、そういうところ、嫌いじゃないぜ」翔平がじりじりと距離を詰めてくる。沙綾は後ずさりするしかなく、冷たいエレベーターの壁に背中を押しつけた。彼女は冷ややかな目で彼を睨みつける。「殴られたくなければ、これ以上近づかないで」二年前の結婚式の日、翔平は酔った勢いで新居に押し入り、沙綾を襲おうとした。その時、時彦に半殺しにされた翔平は、有希子によって海外へ送られたはずだった。それなのに、なぜ突然戻ってきたのだろうか。「まだ自分が名門高橋家の若奥様だとでも思ってるのか?もうすぐ時彦に追い出されるくせに」その言葉を聞いて、沙綾はようやく合点がいった。時彦が朱里を贔屓しているからだ。沙綾がもう彼に気にかけられておらず、守られてもいないことを知っているからこそ、翔平は図々しくも戻ってこられたのだ。突然、翔平の手が伸びてきた。その瞳には欲望が渦巻いている。「時彦のやつ、もうずっとお前に触れてないんだろ?寂しいんじゃないのか?俺が満足させてやるよ」沙綾は怒りに任せて手を振り上げ、彼の頬を平手打ちした。「ゲスな男からは、ゲスな言葉しか出ないのね」翔平は顔を横に弾かれたが、次の瞬間、両手で彼女の手首を掴み、エレベーターの壁に押さえつけた。振り返って沙綾をねめつけるその目には、チロチロと欲望の炎が燃えている。怒りを恐れるどころか、かえって異様なほど興奮していた。「先に手を出してきたのは、お前だからな」翔平の顔が素早く近づき、唇が触れそうになる。沙綾が必死に抵抗して身をかわした、その時だった。突然エレベーターの扉が開いた。外へ向かって助けを呼ぼうと顔を向けた瞬間、朱里に腕を組まれた時彦がこちらへ歩いてくるのが見えた。視線が交差したが、時彦は何の反応も示さず、声を上げて叱責することすらなかった。沙綾の瞳に自嘲の色が浮かんだ。まさか、彼がまだ自分のことを気にかけてくれるとでも思っていたのだろうか?沙綾は思い切り脚を振り上げ、翔平の股間を蹴り上げた。翔平の額に青筋が浮かび、欲望に満ちていた顔が一瞬で青ざめる
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第25話

「相手が口を開くのを待てば、主導権はこちらが握れる」由宇は離婚調停の駆け引きについて、沙綾に分析してみせた。「そうなれば、もっと多くの条件を勝ち取れる……」沙綾は由宇の手を押さえ、その言葉を遮った。由宇は口をつぐんで顔を上げ、彼女とともに時彦へ視線を向けた。近づいてくる時彦は、その長身と洗練された佇まいがひときわ目を引いた。鋭い顎のラインには、人を寄せ付けない冷ややかな空気が漂っている。「時彦さん、お久しぶりです」由宇が挨拶すると、時彦は淡々と頷いた。幼い頃から同じ界隈にいたため、親しくはなくとも顔見知りではあった。沙綾は彼の冷淡な様子を見て、由宇に帰るよう目配せした。由宇が立ち去った後も、時彦が離婚を切り出す気配はなかった。どうやら、まだそのつもりはないらしい。沙綾が押し黙っていると、時彦が冷ややかに口を開いた。「外へ出ろ」訳が分からずにいると、スマートフォンが鳴った。電話に出ると母からの伝言があり、先に歩き出した時彦の冷たい背中を見て、なぜ突然彼がここに現れたのかを理解した。母が彼に電話をかけたのだ。ロールスロイスの密閉された後部座席。男の清涼な香水と、女のほのかなクチナシの香りが混ざり合った匂いが鼻を突き、沙綾は胃が激しく波打つような不快感を覚えた。陣のところで見た、社長室で二人が抱き合っていた光景が脳裏をよぎる。自力ではできないから、体外受精でも思いついたとでも言うの?あの二人に手玉に取られているという、息が詰まるほどの屈辱感が込み上げてきた。こんな日々は、もう耐えられない。たとえ母が知って怒ったとしても、時彦とは絶対に離婚する。病院に到着すると、沙綾はまっすぐ入院病棟へ向かった。すると、母が激怒し、遠藤夫婦を指差して怒鳴っているのが見えた。「出て行きなさい!」「佐有里、詩織はお前が重病だと知って、好意で見舞いに来てくれたんだぞ。なんだ、その態度は」「白々しいこと言わないで、正人。この女が好意で見舞いに来たのか、それとも私を追い詰めて苦しめようと来たのか、あんたたちが一番よく分かっているでしょう?」病室に入ってその光景を目にした沙綾は、すぐさま駆け寄って佐有里を支え、遠藤夫婦を睨みつけた。「ここはあなたたちを歓迎していません。今すぐ出て行かないなら、警備員
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第26話

時彦が去っていく後ろ姿を見つめていると、突然、佐有里に手首を強く掴まれた。「沙綾、ときくんを追いかけて連れ戻してちょうだい。お母さん、まだあの子に聞きたいことがあるの」「お母さん……」「早く行きなさい!」佐有里は譲らなかった。沙綾は従うしかなかった。母を介護士に任せ、彼女は後を追って外へ出た。長い廊下の両端で、時彦と沙綾は立ち止まった。「時彦……」沙綾は声を張り上げた。「待っていろ」時彦は冷たくそう言い放つと、正人と詩織に対する口調は明らかに和らげて言った。「お二人をお見送りします」時彦は遠藤夫婦に対しては温和な態度をとるのに、母に対してはひどく冷淡だった。どうして母はまだ分からないのだろう、どうしてまだ時彦に虚しい期待を抱いているのだろうか。沙綾はその場でずっと待っていたが、時彦が一向に戻ってこないため、これ以上待つ気にはなれなかった。立ち去ろうとした時、突然大きな手が伸びてきて、沙綾を石柱に押し付けて拘束した。「丸山翔平!」翔平は顔を腫らして青あざを作り、手首には包帯を巻いていて、誰かに酷く殴られたようだった。突然その指先で沙綾の顎を強く摘み、歪んだ吐き気を催すような笑みを浮かべた。「お高くとまってるんじゃないのか?俺のことが気に入らないんだろ?今夜は俺に大人しく奉仕させてやるよ」「離して!」沙綾は慌てて抵抗したが、翔平は今回すでに警戒しており、両脚で彼女の長い脚を挟み込み、身動きをとれなくした。「時彦の野郎のせいで、こんな目に遭わされたんだ。お前を逃がしたら、この怒りを誰にぶつければいいんだ?」沙綾はハッとして我に返った。「時彦がもうすぐ戻ってくるわ!あなたが私に乱暴しようとしているのを見たら、今度こそ絶対にあなたを許さないはずよ!」ところが、翔平は恐れるどころか、かえって大声で笑い出した。「お前、自分がまだあいつに愛されているとでも思ってるのか?お前の素晴らしい旦那様がどこにいるか見てみろよ」彼は大きな手で沙綾の両手首を掴んで背後に回すと、スマートフォンを取り出し、SNSの動画を再生した。バーの混乱した映像の中で、時彦は陰惨な目をし、ある男の胸倉を掴み、その顔に何度も何度も拳を叩きつけていた。一方の朱里は、恐れ慄きながらソファの隅に縮こまり
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第27話

「あいつの目には朱里しか映っていない。お前のことなど、もう見えていないんだよ」翔太は彼女が泣き崩れているのを見て、声を和らげた。「大人しく俺の女になれ。俺が姉さんを助けて高橋グループを取り戻したら、あのクズ共を一緒に踏みつけてやろうぜ」沙綾は頷いた。「いい子だ、たまらないぜ……」翔太は、沙綾が逃げられずに屈したのだと思い込み、そのまま彼女の上に覆いかぶさった。沙綾の瞳に残っていたのは、凄まじい怒りの炎だけだった。彼の首筋に力いっぱい噛みつき、鮮血が滴るほど深く歯を立てる。翔太はもともと怪我をしていたうえ、沙綾から立て続けに反撃を受けたことで、痛みに悲鳴を上げ、一時的に抵抗する力を失った。沙綾は翔平を突き飛ばし、よろめきながら起き上がると、外へ向かって走り出した。「この……」翔太の呪詛の声を背に聞きながら、彼女はさらに走る速度を上げた。その時、ドンッと額が硬い胸板にぶつかった。顔を上げると、そこには非の打ち所がないほど整った顔立ちがあった。ただ、その静かな黒い瞳の奥には、まるで吹き荒れる嵐が渦巻いているかのようだった。救世主に出会ったような心地で、沙綾は陣の手を掴んだ。「氷室さん、こいつに追われているんです。どうか、助けてください」陣の底知れない深みを湛えた視線が、彼女をすっと捉えた。彼が口を開くより先に、翔太が追いついてきた。沙綾は恐怖のあまり陣の背後に隠れた。彼の袖を掴む手は震えていた。「氷室さん、彼に無理やり犯されそうになって……」翔太の瞳に一瞬だけ後ろめたさがよぎったが、すぐに声を張り上げた。「そいつの出鱈目を信じるな。こいつは俺の甥の嫁だ。目上の立場として少し説教してやったら、急に狂ったように俺をこんなにボコボコにしやがったんだ。今すぐこいつを連れて帰って、甥のところへ行く。高橋家にはきっちり落とし前をつけてもらうからな」彼が沙綾を捕まえようと迫ってくる。沙綾は恐怖に後ずさりし、背を向けて逃げようとした、その時――陣が突然脚を上げ、翔太の膝を蹴り飛ばした。翔太はあっけなく前のめりに倒れ込み、顎を地面に強く打ちつけた。傷口からたちまち鮮血が噴き出し、彼はそのまま気を失った。張り詰めていた緊張の糸が切れ、沙綾は体を支えきれず、倒れ込みそうになった。その瞬間、腰のあたり
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第28話

沙綾の口元に自嘲の笑みが浮かんだ。時彦が後悔などするはずがない。きっと自分の見間違いだ。沙綾は視線を戻した。「私は丸山翔平の頭を殴って、首を噛んだだけです」「それはおかしな話ですね」警察官は小さくため息をついた。「丸山の両手は骨折しているんですよ」「手が折れている?」沙綾は一生懸命に記憶を辿った。「おそらく、私を追いかけてきた時に転んだんだと思います。目に砂が入って、前がよく見えていなかったはずですから」「その可能性はありますね。容疑者はすでに身柄を拘束しています。今後、証拠が揃い次第、改めて捜査にご協力いただくことになるでしょう。どうかゆっくり休んで、一日も早く回復してくださいね」警察官はそう告げた。「はい、ありがとうございます」沙綾は警察官を見送った。そこへ、紀行がチューリップの花束を抱えて入ってきた。心配そうな顔をしている。「沙綾、大丈夫か?」「先輩、心配しないで。私は大丈夫だから。今日にも退院できるし、このことは、お母さんには言わないでね」沙綾は不安そうに言葉を続けた。「安心して。おばさんには知らせていないよ」紀行はチューリップを花瓶に生けた。その時、洋一が二つのバラの花束を抱えて病室に入ってきた。白いバラを置くと、口を開いた。「社長、朱里さんが検査を拒み、社長にお会いになりたいと」時彦は淡々と応じ、沙綾の体に残る痛々しい青あざに視線を走らせてから、外へと歩き出した。ふと視界の端に、沙綾が白いバラを掴んでゴミ箱に投げ捨て、チューリップの花びらをそっと撫でながら、優しく褒める姿が映った。「先輩は本当にセンスがいいね。このチューリップ、とても綺麗だよ」紀行の瞳に笑みが浮かんだ。二人が楽しそうに談笑し、三十分ほど経った頃、紀行が病室を出ると、思いがけず時彦の姿があった。時彦がどれくらいの間、外に座っていたのかは分からない。「相馬さんは俺の妻に気があるのか?」時彦の冷ややかな声が響いた。伏せていた目を上げると、その切れ長の瞳は氷のように冷たかった。紀行も負けじと言い返した。「高橋さんは、他人が自分と同じように厚顔無恥だとでも思っているのか?」二人の離婚がどこまで進んでいるのかは分からない。だが、沙綾が決めたことは決して変わらない。かつて時彦に嫁
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第29話

和之は、佐有里の心の中ですでに特別な存在になっていたが、今回ついに正式な夫としての立場を得た。佐有里は珍しく恥じらいを見せ、そっと手を伸ばして沙綾の頬を撫でた。だが、次の瞬間、その顔に緊張が走った。「顔のその怪我、どうしたの?手首にもあるじゃない」和之も心配そうな顔をした。「ブレスレットがうっかり割れちゃって、少し引っ掻いただけで、大したことないわ」「いつもおっちょこちょいなんだから、もっと気をつけなさいよ」「ブレスレットが割れたのは、厄落としになったんだよ」和之が佐有里をなだめた。沙綾は、体にまだ他にも傷があることを母に気づかれるのを恐れ、ドアのところにいる紀行へ助けを求めるような視線を向けた。だが妙なことに、紀行は足取りもどこかためらいがちで、まるで冷水にどっぷり浸かったかのように、その黒い瞳には微塵の生気も感じられない。「先輩?私と一緒に、介添人をやってくれない?」沙綾は少し心配になり、紀行の方へ歩み寄った。「先輩、これからは私たちも家族になるんだから。ね?」――どうしたんだろう。先輩は、母と和之おじさんの結婚に納得していないのだろうか?でも、この数年間、先輩は母にとても良くしてくれていたはずだ。紀行は目の前の沙綾を見下ろした。胸の奥のどこかがチクチクと痛むのを感じながらも、顔を上げ、父が佐有里を支えてベッドに寝かせ、その瞳に溢れんばかりの愛情を浮かべている様子を見つめた。彼はすべての感情を押し殺し、ごく静かに答えた。「ああ」沙綾はほっと息をついた。「結婚式なんてやらなくていいわよ。もういい歳なんだから」母の遠慮がちな言葉を聞いて、沙綾は笑いながら異議を唱えた。「ダメよ!結婚は一生に一度の大事なことなんだから、盛大にお祝いしなきゃ。先輩、そう思うでしょ?」「父さん、佐有里おばさん。沙綾の言う通りだ。身内と親しい友人だけを呼んで、ささやかな結婚式を挙げましょう」紀行が調子を合わせてくれたので、沙綾はますます嬉しくなった。母と和之が正式に結ばれた。24日後に自分がこの街を離れる時も、これで少しは安心できる。この喜ばしい知らせが、連日沙綾の心に立ち込めていた暗雲を吹き飛ばしてくれた。母を介護士と和之に任せ、沙綾と紀行は病院を後にした。「沙綾、今日、中島先生が帝都大学で
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第30話

「いいよ」紀行は沙綾を朧月レジデンスまで送り届けた。沙綾がフォレストテラス青葉台からすでに引っ越したと知り、これからの人生では妹として接すると決めたものの、紀行の心の奥にはやはりかすかな波紋が広がっていた。「上がらないよ」「じゃあ、すぐ降りてくるね」沙綾は、看護師が買ってくれた可愛らしいキャラクター柄のパジャマを着て、布製の靴を履いていた。さすがにそんな格好でああいう場へ行くのは、少し……気が引ける。自分の服に着替えたいし、陣のトレンチコートもきちんとしまっておかなければならない。落としたりしたら大変だ。二人が帝都大学に到着した時には、すでに座談会が始まっていた。紀行は著名な卒業生であり、修治の自慢の教え子でもある。会場に入った途端、紀行はたちまち大勢の注目を集め、修治から壇上へ呼ばれた。沙綾は流行を取り入れたカジュアルな服装に着替え、キャップを深くかぶって一番後ろの席に座った。修治に促され、壇上で自信に満ちて話し始めた紀行の姿を見つめながら、沙綾は羨ましい気持ちを抱いていた。本来なら、自分の人生も先輩と同じ軌跡を辿るはずだった。自分で自分の翼を折ってしまったのだ。鼻の奥がツンとするのをこらえ、沙綾は思った。今からでも、決して遅くない。そう自分に言い聞かせ、ノートを取り出すと、座談会で議論されている要点を書き留め始めた。突然、肩を強くぶつけられた。手にしていたボールペンが床へ滑り落ち、沙綾は眉をひそめた。ボールペンを拾い上げ、再び記録しようとしたその時、鼻先に濃厚なクチナシの香水が漂ってきた。振り向くと、そこには念入りに着飾った朱里の顔があった。「お姉ちゃん、話についていけてる?」朱里は声を潜め、くすくすと嘲笑った。「ここはお姉ちゃんみたいな素人が来るような座談会じゃないんだけど?」「そう。分かったわ」「ねえ、聞いたんでしょ?時彦が律に頼んで、裁判所に夫婦関係調整の申し立てをするんだって。明日には時彦に家から追い出されるんでしょ?高橋福祉振興会の会長だって、もう続けられない。今度は研究界で適当にやっていくつもりなんだよね?」朱里は突然、沙綾のノートをひったくると、そのまま隅のゴミ箱へ放り込んだ。「無駄な努力はやめたほうがいいよ。お姉ちゃんみたいに適当に生き
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