All Chapters of 元夫が復縁を迫る頃、私は御曹司と再婚し妊娠していた : Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

ネクタイピンではない。沙綾がまる一ヶ月かけて丁寧に作り上げたものは、俺への贈り物ではなかったのか?時彦は眉間をわずかに寄せ、丸められた白い書類を冷めた目で見つめた。特に興味を惹かれた様子もない。洋一も意外そうに口を開いた。「社長、奥様の贈り物はいつも斬新ですから、何か特別なものかもしれません」時彦は素っ気なく頷いた。「お前はもう帰れ」洋一が部屋を出た後、時彦の長い指が、白い書類に巻かれたピンクのリボンに触れた。その時、洋一が閉めていったドアが押し開けられた。「時彦」朱里はほんのりと頬を染め、ふらつく足取りで近づいてくると、そのまま勢いよく時彦の胸に倒れ込んだ。その拍子に無造作に動かした手が机の上の書類をなぎ払い、ギフトボックスもろとも床へ落としてしまう。ピンクのリボンで丸められた離婚協議書が箱の中から転がり出て、部屋の隅へと落ちた。朱里は時彦の膝の上に腰を下ろし、柔らかな両腕をその首に絡ませ、甘い吐息を漏らした。「時彦、頭がすごく痛いの」「誰かに酔い覚ましのドリンクを持ってこさせよう」時彦の声は穏やかだった。霞む視界の中で、時彦の端正な顔立ちが珍しく優しげに見え、朱里は胸を高鳴らせた。「酔い覚ましのドリンクは苦いから、時彦が飲ませて」「分かった」静寂に包まれた深夜の書斎に響く、時彦の低く甘やかな声は、ひどく魅力的だった。朱里は、27日後には時彦が離婚し、自分と籍を入れてくれること、そうすれば二人は永遠に結ばれるのだということを思い出し、満足げに口角を上げた。そして、時彦に柔らかく寄りかかりながら、階下へと向かった。……沙綾と同僚たちがチャリティーオークションの後片付けを終えた頃には、すでに深夜になっており、クリーニング店はとうに閉まっていた。仕方なくトレンチコートを手洗いして乾燥機にかけ、明日の朝、企画書と一緒に氷室グループへ届けることにした。シャワーを浴びた後、乾燥機からコートを取り出してアイロンをかける。以前の沙綾は、こんな家事などまったくできなかった。時彦に嫁いでからというもの、少しでも彼の力になりたいと、恵子に教わりながら少しずつ身につけてきたのだ。眠りにつく前、紀行から電話がかかってきた。「先輩、片付いた」「そうか」紀行は話題を変えた。「研究
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第12話

今日は第一陣となる白血病の子供たちの手術日だ。沙綾は病院側の医師や看護師との一連の手配を済ませ、費用の引き継ぎを行う必要があった。家族と一緒に待機している間、朝食を抜いていたせいで少し低血糖気味になったため、沙綾は有栖を残して病院の食堂へ向かった。産婦人科の前を通りかかった時、時彦と朱里に鉢合わせた。「高橋さん、遠藤さんのお体はここ最近の調整で順調に回復しており、妊娠に最適な時期に入りました。体外受精の準備を……」産婦人科部長の言葉は、朱里の鋭い視線によって遮られた。朱里は得意げに下腹部を撫でながら、沙綾を見下すような目を向けた。「お姉ちゃん、誤解しないでね。お父さんたちがお留守だから、時彦に付き添ってもらって健康診断に来ただけよ」男の端正な顔には何の表情も浮かんでおらず、その視線は淡々と沙綾の顔を通り過ぎていった。時彦がここまで偽善的になれるとは、思いもしなかった。すでに別の女との間に子供を作ろうとしているくせに、一昨日の夜は自分とも子供を作ろうとしていたのだから。沙綾は無表情のまま、二人とすれ違った。病院での用事を済ませた後、沙綾は氷室グループへと急いだ。ロビーに入ると、陣の秘書である礼司の姿が見えた。昨夜、トレンチコートの中に書類が入っているのを見つけ、彼に連絡を取っていたのだ。昨夜、礼司に連絡して初めて、そのコートが陣のものだと知ったのだ。沙綾は礼司の後について社長室へ向かった。「沙綾さん、社長は現在会議中ですので、こちらでお待ちください」「はい」礼司は恭しく一礼すると、部屋を出ていった。沙綾は広々とした社長室を見渡した。黒、グレー、白を基調とした空間は、静謐で厳格な印象を与える。鼻先をかすめる、彼が纏っていた淡いシダーウッドの香りが、なぜかあの夜の記憶を呼び覚ました。陣に抱き上げられた時、薄く柔らかな布越しに伝わってきた、引き締まった筋肉の微かな熱と感触を……陣が近づいてきた時、沙綾はハッと我に返った。驚いたことに、彼は昨夜、沙綾がドレスショップで慌てて羽織った、あのダークグレーのチェック柄のスーツを着ていた。それは高級ブランドの春夏新作で、汐見市全体でたった一着しかないものだ。パリッとしたスーツ姿が、彼のエリートらしさを一層引き立てている。精緻な彫刻の
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第13話

頬が陣の首筋に触れ、脈打つ血流のリズムが肌を通してはっきりと伝わってくる。沙綾の顔は、瞬く間に恥ずかしさで真っ赤に染まった。直後、彼女の腰がしっかりと支えられた。陣の大きな手が沙綾の細い腰を掴み、彼女の体をグッと持ち上げてから、サッと突き放すように手を引いた。沙綾は慌ててデスクに手をつき、かろうじて転倒を免れた。あまりの気まずさに、いたたまれない気持ちになる。「申し訳ありません、私……」うつむいて足元の絨毯を見ると、そこには一切のシワもなく、綺麗に敷き詰められていた。今さら絨毯につまずいたと説明したところで、信じてもらえるだろうか。「沙綾さん、俺には君と食事をする時間などない」頭上から、陣の冷え切った声が降ってきた。どうやら、信じてもらう以前の問題のようだ。福祉振興会の会場で、狂った蜂や蝶のように陣を取り囲んでいた令嬢たちの姿を思い出す。まさか、自分も彼女たちと同じように言い寄ってきたのだと思われているのだろうか。陣が冷徹な表情のまま仕事に戻るのを見て、沙綾は頷くしかなかった。「お仕事のお邪魔をしてしまい、申し訳ありませんでした、氷室さん」立ち去る直前、沙綾はたまらず窓の外へと視線を向けた。しとしとと降る春雨越しに広がる、やや霞んだ視界。その先にある高橋グループ本社の社長室。巨大なガラス窓の前で、男女がまだ激しくもつれ合っているのが見えた。時彦と朱里が抱き合ったままソファへなだれ込むのを見て、沙綾は眉をひそめた。脳裏に産婦人科医の言葉が蘇る。朱里は現在、妊娠に最適な時期にあるという。時彦はそこまで待ちきれないのだろうか。白昼堂々と、よくもあんな真似ができるものだ。沙綾は福祉振興会のオフィスに戻り、一刻も早く引き継ぎを終えてここを去るべく、プロジェクトの進捗確認に没頭した。外の景色が薄暗くなり始めた頃。スマートフォンが鳴り、彼女はハッと我に返った。「沙綾、今すぐ本家へ来なさい」電話の主は、舅である高橋崇史(たかはし たかし)だった。高橋家と遠藤家は代々親交がある。母親と共に遠藤家を去る前、崇史は沙綾のことをとても可愛がってくれていた。両親が離婚した際、父の遠藤正人(こばやし まさと)は母親の小林佐有里(こばやし さゆり)に対し、沙綾を連れて汐見市から出て行くよう執拗に要
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第14話

「これでマスコミや崇史さんにも誤解されてしまったじゃない。早く皆さんにちゃんと説明してちょうだい」しかし、詩織のその優しげな顔の裏に、どれほど蛇のように狡猾で毒々しい本性が隠されているかを、沙綾はよく知っていた。詩織はふいに声を潜め、二人にしか聞こえない声で囁いた。「佐有里さん、心臓が弱くて刺激を与えちゃいけないんだったわよね。事を大きくしたくはないでしょう」これは脅しだ。だが、詩織は忘れているのだ。今の沙綾はもう、かつてのように無力で、白を黒と言いくるめられても黙って従うしかなかった子供ではない。「お義父様、ピンクダイヤモンドは時彦が彼女に数日間貸して、遊びでつけさせてあげただけなんです」それを聞くと、詩織は満足げな表情を浮かべて離れていった。詩織と朱里の得意げな顔を見ながら、沙綾は言葉を続けた。「でも、朱里は私にこう言ったんです。時彦からプレゼントされたものだって。もう返すつもりはないと。私にはふさわしくない、自分こそが高橋家の女主人にふさわしいのだと。それだけじゃありません。朱里は私の祖母の唯一の形見まで壊したんです」沙綾はバッグから粉々になったルビーのネックレスを取り出し、ローテーブルの上に置いた。それを目にした瞬間、崇史は眉間に深い皺を刻み、激しい怒りを露わにした。「沙綾のお祖母さんの唯一の形見を壊しただと!?」詩織はハッと振り返り、悪意の滲んだ視線を沙綾へ向けた。朱里は必死に弁解した。「おじさん、違います、本当にやっていません。お姉ちゃんの嘘です」正人は怒りに震えながら朱里を睨みつけ、それから崇史へ視線を戻して説明した。「崇史、朱里は君が見て育てた子だ。少しわがままだが、そんなことはしない」「そんなことはしない?」沙綾は鼻で笑った。「朱里はあの時、形見は持ち主と一緒に滅びるべきだと言って、ネックレスを叩き割ったんです」「そんなこと言ってない……お姉ちゃん、濡れ衣よ……」朱里は崇史の険しい顔色を見て、堰を切ったように涙をこぼした。「スマホに録音してあるけど、皆さんに聞かせてあげましょうか」沙綾には録音などする暇はなかったが、スマートフォンを取り出し、再生するふりをした。朱里はみるみる顔面から血の気が引き、その場にへたり込んだ。「わ……私は……」明らか
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第15話

「この平手打ちは、亡き祖母に代わって罰を与えるためよ。そして、このネックレスはたとえ時彦があなたに贈ったものだとしても、私の同意なしにあなたが身につける資格なんてないわ」沙綾は、朱里の肌に真っ赤な五本指の跡が浮かび上がるのを、冷ややかに見つめた。力を込めすぎたせいで、自分の手のひらまで痺れるように痛み、微かに震えている。その一撃に、その場は一瞬にして静まり返った。次の瞬間、朱里は頬を押さえて泣きじゃくり始めたが、反撃してくるような真似はしなかった。詩織は悪意に満ちた視線で沙綾を睨みつけた後、崇史へ顔を向ける頃には、すっかり穏やかな表情を作っていた。「崇史さん、朱里はまだ子供ですから。家に連れ帰って、私たちがしっかり叱っておきますわ」崇史の顔色は優れなかったが、これ以上事を荒立てるつもりもないようだった。「この件はこれまでとする」画面越しに全員を一瞥すると、崇史はビデオ通話を切った。「お父さん、お母さん、どうして庇ってくれないの……」誰も自分の味方をしてくれないと悟った朱里は、泣きながら屋敷を飛び出していった。その瞬間、時彦は椅子からすっと立ち上がり、後を追うように外へ向かった。その長身が沙綾の横をすり抜けていく。彼女には一瞥すら向けなかった。廊下で足早に朱里に追いつき、優しげな表情で彼女をなだめる時彦の姿が見えた。かつては、私のこともああしてなだめてくれていたのに。今朝、社長室で二人が絡み合っていた光景が脳裏をよぎる。目の奥から込み上げてくる熱いものを必死に押し殺しながら、正人と有希子が口汚く罵る声を聞き流した。沙綾はルビーのネックレスを片付けた。エメラルドのネックレスとピンクダイヤモンドも一緒にバッグへしまった。いざとなれば捨ててしまってもいい。これらを朱里に残しておくことだけは、絶対に嫌だった。車に乗り込み、屋敷を後にする。エンジン音が津波のように、山腹の広々とした車道に轟いた。突然、スマートフォンが鳴った。着信画面に目を落とす。紀行の父親からの電話だった。沙綾は緊張しながら電話に出た。もう午前3時を回っている……「相馬おじさん、どうしたの?」「沙綾、お母さんが心臓発作を起こしたんだ。すぐに病院へ来てくれ!」先ほどまで落ち着いていた心臓が、今は肋骨を突き破
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第16話

「先輩、本当にありがとうございます。早く行きましょう」沙綾と紀行は、最上階の特別病棟にあるVIP病室へと急いだ。VIP病室の前に設けられた待合室。陣はソファに腰を下ろし、手にした資料に目を通していた。その佇まいには、人を寄せつけない気品が漂っている。礼司に取り次いでもらい、ようやく二人は陣のもとへ近づくことができた。紀行は非常に丁寧な口調で切り出した。「氷室さん、ひとつお願いできないかと思いまして」沙綾は全力で走ってきたため、胸が激しく上下し、小さな顔は赤く染まっていた。数秒だけ落ち着きを取り戻した心臓が、再び激しく跳ね上がる。彼女はすがるような、期待に満ちた眼差しで陣を見つめた。陣は資料を置き、淡々と尋ねた。「何の用だ」沙綾は待ちきれず、一歩前に出て言った。「氷室さん、母が心臓発作で危篤状態なんです。人工心肺を用いた心尖部弁膜手術が必要で……ご祖母様の主治医は、世界的な心臓血管外科の権威である五十嵐英治(いがらし えいじ)先生だと伺いました。どうか、五十嵐先生に母の手術をお願いできるよう、取り計らっていただけないでしょうか」陣の表情は冷淡なままで、ただ眉がわずかに動いただけだった。礼司が不意に口を挟んだ。「相馬さん、私たちは外で待ちましょう。社長のご祖母様は静かな環境を必要とされていますので」待合室と病室は、ドア一枚を隔てているだけだ。沙綾は陣の祖母を起こして彼の機嫌を損ねることを恐れ、少し気まずそうな顔をしている紀行に、慌てて声をかけた。「先輩、先に出て待っていて」この件は、あくまで彼女自身の問題だ。確かに、先輩に代わりに頭を下げてもらうのは筋が違う。「分かった、すぐ外にいるからな」紀行はそう言い残し、礼司と共に外へ出ていった。待合室のドアが静かに閉まる。沙綾は今にも崩れ落ちそうな感情を必死に押し殺した。陣の冷ややかな視線がこちらに向けられているのを見て、さらに一歩踏み出す。「氷室さん、雇用契約書をもう一度結び直していただけませんか。年俸6億円はいりません。その代わりに、五十嵐先生の手術を一度だけ受けさせてください」だが、陣はまったく動じなかった。微かな光を宿した漆黒の瞳が、沙綾の薬指へと落ちる。沙綾は火傷でもしたかのようにハッと手を握りしめ、自分が何を握っているのかに気づいた。
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第17話

陣が起こしてくれたのは、少しは心が揺らいだからだろうか。沙綾は慌てて彼の腕を掴んだ。「氷室さん、お願いします。私、何を差し出しても構いません。どうか五十嵐先生に母の手術をさせてください」陣の深い眼差しがふいに彼女の手へと落ち、沙綾はハッとして手を離した。彼は何も言わない。視線だけが手から顔へとゆっくり這い上がってくる。二人の距離はあまりにも近く、彼の温かな息遣いが額にかかるほどだった。その視線は決して重苦しいものではない。だが、わずかな隙もなく、片時も逸らされることはなかった。隠そうともしない強烈な支配欲を孕み、まるで沙綾の全身をその視界の中に閉じ込め、どこへも逃がさないかのように絡みついてくる。危険な気配が濃く漂う中、低く掠れた声が降ってきた。「何でもする、と?」指一本触れられていないのに、その眼差しはどんな接触よりも侵略的で、沙綾は思わず動揺した。だが、母を案じる気持ちは、この得体の知れない焦燥感などはるかに上回っていた。沙綾は力強く頷いた。陣はゆっくりと立ち上がり、隣のソファに腰を下ろすと、スマートフォンを手に取った。清涼感のある男の香りが遠ざかると、あの危険な空気も一緒に引いていった。彼が医師に電話をかけ、状況を説明しているのが聞こえてくる。沙綾はホッと息をつき、妙な想像をしてしまった自分を密かに責めた。あれはただ、彼が持つ独特のオーラに過ぎないのだ。「ありがとうございます」沙綾は礼を述べて立ち上がった。「氷室さんは、私に何を望んでおられるのでしょうか」「少し考えさせてくれ」陣は淡々と答えた。沙綾自身、何をもって陣に感謝すればいいのか見当もつかなかった。なにしろ、彼には欠けているものなど何一つないのだから。けれど、陣が望むのなら、自分にあるものはすべて差し出すつもりだった。沙綾は彼に向かって深々と一礼し、待合室を出ると、紀行とともに手術室の前へと急いで戻った。5時間という果てしなく長い待機時間の後、手術室のランプが消え、彼女の焦燥もようやく断ち切られた。佐有里が看護師に押され、手術室から出てきた。執刀医の英治は、手術は非常に順調だったと告げた。張り詰めていた糸が切れ、まるで空気の抜けた風船のように、極度の倦怠感と無力感が全身を襲った。病床のそばに座り、母が目を
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第18話

時彦の瞳に一瞬だけ痛ましげな色がよぎったが、それは沙綾の錯覚だったのかもしれない。時彦は沙綾を抱き起こした。沙綾はベッドの柵を握りしめ、必死に体を支えながら立ち上がった。病室の空気は凍りついたように張り詰めていた。時彦は洋一から渡されたカルテを受け取り、執刀医の欄に記された「五十嵐英治」の名を見て、眉をひそめた。国内外に名を知られる、心臓血管外科の権威だ。「お前、五十嵐先生とはいつ知り合ったんだ?」「奥様、社長はずっと中村先生を通じて、五十嵐先生に佐有里様を診ていただけるよう手配しようとされていたんですよ」沙綾の顔は青ざめ、ひどく怯えているように見えた。だが、洋一の言葉には微塵も心を動かされなかった。綺麗な眉を寄せ、血の気の失せた唇をわずかに開くと、冷ややかな声で言い放った。「あなたには関係ないわ」その言葉を聞いた時彦は、カルテをローテーブルへ投げつけた。遠藤家の母娘に復讐するためだけに俺と結婚し、沙綾の目には最初から俺など映っていなかった。ならば、確かに俺には関係のないことだ。時彦は眉を寄せ、病室の入り口にいた相馬父子を思い出した。和之は帝都大学の教授であり、英治もちょうど帝都大学のフェローを務めている。おそらく何らかの接点があるのだろう。それに紀行も、ここ数年でビジネスの半導体分野において頭角を現しており、それなりの資本を持っている。時彦が洋一に目配せすると、洋一は病室のドアを閉めて出て行った。「家庭内の事情を外に漏らすべきではない」時彦の冷ややかな声には、責めるような響きが混じっていた。「中村先生が見つからないのなら、俺に電話すべきだった」彼は、私が外部の人間を頼ったことを責めているのだ。沙綾は彼を見つめ返した。この男にとっては、高橋家の体面のほうが、自分の母の命よりも大切だというのだろうか。「電話したわよ。しなかったとでも言うの?あなたは朱里や詩織さんの相手をするのに忙しくて、おまけに主治医まで引き抜いたじゃない」その言葉に、時彦はわずかに眉をひそめ、何かを思い出したように言った。「あれは想定外の事故だ。次はもうない」彼の言葉など、沙綾はもう二度と信じるつもりはなかった。沙綾が氷のように冷たい視線を向けると、時彦の眼差しは次第に複雑な色を帯びていった。不意に彼
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第19話

佐有里は単刀直入に言った。「沙綾との結婚を続けていく気がないのなら、さっさと別れてちょうだい」母にこれほど心配をかけてしまい、沙綾は胸が張り裂けそうだった。病室はしばし、静まり返った。時彦はしばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。その声はどこまでも冷ややかで、よそよそしかった。「誤解です」「誤解だと言うなら、夫としてこんなスキャンダルはきちんと処理すべきよ。沙綾に辛い思いをさせないでちょうだい」佐有里は息を整えると、さらに鋭い口調で追及した。時彦の視線が佐有里の顔をかすめる。その瞳の奥は、底なしの淵のように冷え切っていた。時彦は、父である崇史の言うことすら意に介さない。ましてや、佐有里の言葉に耳を貸すはずがない。だが、時彦の口から出たのは意外な言葉だった。「ご安心ください」沙綾は時彦が病室を出ていくのを見届けてから、口を開いた。「お母さん、私、時彦と離婚することに決めたの。もう私たちのことで心配しなくていいから」その言葉を聞いた佐有里は、一転して怒りを露わにした。「離婚ですって?朱里に何度か挑発されたくらいで、時彦と離婚する気なの?高橋家の奥様という立場を、みすみすあの女に譲ってやるというの?しっかりしなさい、沙綾!」沙綾は、声を荒らげたせいで微かに息を弾ませている母を、驚きと戸惑いの入り混じった目で見つめた。「お母さん、最初はあんなにこの結婚に反対していたじゃない。それなのに、いざ私が離婚するって言ったら……反対するの?」「ええ、反対よ」「でも、お父さんがお母さんを裏切った時、お母さんだって離婚を選んだじゃない」「あの時、私は何もかも捨ててあなたを連れて離婚し、遠藤家のすべてをあの母娘に無条件で明け渡したわ。それからというもの、奴らは我が世の春を謳歌し、私たちはどうなった?身一つで家を出た後、自分の実力さえあれば、必ずあなたに良い暮らしをさせてやれると思っていたわ。でも、詩織は私を見逃すつもりなんて、これっぽっちもなかった。私に論文のデータ捏造という濡れ衣を着せ、社会的に抹殺したのよ。当時、重い病気で寝たきりだったお祖母ちゃんにとって、それが決定的な致命傷になったの。あなたが少しでも引けば、朱里は図に乗って踏み込んでくるだけじゃなく、あなたの血肉までしゃぶり尽くそうとするわ。
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第20話

沙綾は、まさか母親が離婚に反対するとは思ってもみなかった。すっかり意気消沈し、病院の廊下を歩いていた彼女がふと顔を上げると、少し離れたところに陣が立っているのが見えた。陣の傍らにいた礼司が彼女に気づき、声をかけた。「沙綾さん、お母様は目を覚まされましたか?」沙綾は歩み寄り、頷いた。「ええ、もう目を覚ましたわ」沙綾は視線を上げ、背筋を伸ばして立つ陣を見つめると、淡々と口を開いた。「ありがとうございました、氷室さん」男の返事はそっけなかった。「ああ」命を救ってもらった恩は、感謝の言葉一つで返せるものではないと分かっていた。何か見返りを求めているのか聞こうとしたが、彼は礼司と別の話をしながら、そのまま立ち去ってしまった。心の中には不安が残ったが、向こうが何も言わない以上、こちらから切り出すわけにもいかない。まさか、法に触れるようなことをさせられるわけではないだろう。振り返ると、そこには急いで駆けつけてきた親友の姿があった。奈々は心の中で驚いていた。先ほどすれ違ったあの人の後ろ姿が、陣によく似ていたのだ。だが、あの陣がこんな場所にいるわけがない。それに、沙綾と知り合いであるはずもない。奈々はそのまま沙綾のもとへ駆け寄った。「沙綾、佐有里おばさんの容態が悪化したって聞いたけど、どうなの?」蒼海市から汐見市へ飛んできた奈々は、飛行機が着陸した直後にこの知らせを聞き、家にも帰らず、そのまま病院へ駆けつけたのだ。沙綾は答えた。「峠は越えて、もう目を覚ましたわ」「それなら、おばさんの顔を見てくるわ」「さっき母と少し口論になっちゃったから、後にして」奈々が心配してくれたので、沙綾は母親との口論について打ち明けた。二人は会員制クラブのソファに並んで座っていた。「それで、これからどうするつもり?」「私の決意は変わらないわ」もう時彦にこれ以上の時間を無駄にするつもりはなかった。「そうだ、お兄さんに会って、離婚の手続きについて相談したいの。いつなら時間が取れるか聞いてくれない?」「ええ、分かったわ」食事を終え、しばらく語り合ってから部屋を出ると、聞き覚えのある耳障りな声が聞こえてきた。沙綾は気にも留めなかったが、野次馬根性を刺激された奈々に手を引かれ、向かいの個室のドアの前まで連れてこられた。
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