All Chapters of 元夫が復縁を迫る頃、私は御曹司と再婚し妊娠していた : Chapter 41 - Chapter 50

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第41話

「綺麗……前にここへ来たのは、ずいぶん昔のことだわ」沙綾は思わず感慨に耽った。前に来た時は、時彦と一緒だった。あの冷酷で端正な顔が脳裏に浮かび、慌てて視線を逸らす。足首から温もりが離れたことに気づき、振り返って陣を見た。「ありがとうございます」陣は一言も発さず、車を降りた。礼司がミネラルウォーターの箱を運び出し、陣の手を洗うために水をかけた。それを見て、沙綾も申し訳なさそうに車を降りた。不思議なことに、足首の痛みはすっかり消え、ほんの少し違和感が残るだけになっていた。そこで自ら歩み寄り、進んで陣の手に水をかけた。高慢で冷淡な人だが、確かに何度か助けられている。片付けを終えて車に戻った後、礼司が尋ねた。「沙綾さん、どちらへお送りしましょうか」もう病院へ行く必要はない。「朧月レジデンスへお願いします」礼司が驚いたように言った。「えっ、沙綾さんもそこにお住まいなんですか?」もしかして、彼も同じマンションに住んでいるのだろうか。まさか。「何階ですか?うちの社長もそこに住んでいるんですよ」沙綾は途端に嫌な予感がした。「1202室です」「偶然ですね。社長は1201室です」礼司の言葉に、沙綾は一瞬言葉を失った。隣に座る陣から、明らかに不機嫌なオーラが放たれたのを感じた。以前は意図的に近づいたと疑われたが、今度はストーカー扱いされるのではないか?横目で陣の漆黒の瞳と視線がぶつかった。そこには微かに危険な香りが漂っている。しかし、彼が何も聞いてこない以上、どう説明していいかも分からない。いや、やっぱり説明するのはやめよう。あと二十三日もすれば出国する。どうせ彼とはもう関わることもないのだ。三人は一緒に十二階でエレベーターを降りた。沙綾は1202室に入った。陣はその場に立ち止まり、1202室のドアをじっと見つめていた。その横で、礼司が1201室のドアを開けた。---その頃、高橋本邸の使用人部屋。有希子が冷笑した。「時彦に助けてもらうって?愚かね。あの子があんたを保釈するのは、あんたの脚をへし折るためよ」ベッドの上で、翔平は四肢に白い包帯を巻かれ、まるで生きる屍のような姿だった。恐怖に見開かれた目で、汚い言葉を吐き捨てる。「あの野郎、親切心からだと思って
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第42話

「社長、奥様は病院にいらっしゃいます。広報部が付き添い、被害者の慰問を行っているとのことです」洋一は調査結果を報告した。「ああ」時彦は電話を切ると、書斎へ足を踏み入れた。床に散乱した惨状に視線を走らせ、恵子に命じる。「片付けておけ」書斎の管理はいつも洋一に任せており、恵子をここへ入れることは滅多になかった。恵子がしばらく片付けていると、声を上げた。「旦那様、これは……」時彦は、恵子が棚の下から見つけ出した書類に目をやった。丸められたそれには、ピンク色のリボンが結ばれている。沙綾が彼に贈るはずだった、結婚記念日のプレゼント。手を伸ばして受け取り、無造作に本棚へ置いた。あの女が、自分に価値のあるものなど贈れるはずがない。---沙綾は朝早くから病院へ向かい、広報部とともに被害者一人ひとりに謝罪して回った。その中にはセレブ夫人たちやスタッフ、そして現場の作業員もいた。セレブ夫人たちは高橋家と利益でつながっているため、沙綾を露骨に責めることはできなかった。スタッフも職務上、多くを語ろうとはしなかった。最も重傷を負ったのは、事故当時、アングル材の足場で作業をしていた作業員だった。「申し訳ありません」沙綾は、あの時の中年女性と小さな男の子に再び対面し、負傷した作業員へ心からの謝罪を口にした。「謝って何になるっていうの!」だが、中年女性はフルーツの盛り合わせを床に投げ捨てた。男の子は転がったリンゴを拾い上げ、沙綾に向かって投げつけた。示談に応じる気など微塵もないようだ。「この悪い女!お父さんの足を返してよ!」沙綾が身をかわすと、男の子は執拗に飛びかかって彼女の服を掴み、涙ながらに訴えた。「お父さんはもう歩けないんだ!もう肩車もしてくれない!お父さんの足を返して!」広報部長はそれを見て男の子を制止し、女性に説明した。「示談金につきましては、まだ話し合いの余地がございます。それに、今回の件が当会の会長の責任ではないと、警察から既に発表されておりまして……」しかし女性はまったく聞く耳を持たず、声を荒らげて非難した。「どうしてこの女のせいじゃないって言うの!責任を逃れないで!福祉振興会の会長であるこの女が、あんな悪徳業者を使ったからこんな問題が起きたんじゃない!」「示談金を倍額にします」沙綾は女
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第43話

「二人に子供ができれば、感情も自然と深まるだろう……」その言葉を耳にして、沙綾の心に一瞬、驚きがよぎった。まさか崇史が、そこまで自分を高く評価してくれているとは思いもしなかったからだ。「時彦、中に入らないのか」二人に気づいた崇史が声をかけた。だが、沙綾は絶対に朱里を中に入れるつもりはなく、まっすぐ時彦の不機嫌な視線を受け止めた。朱里は突然、挑発するように時彦の腕をさらに強く抱きしめた。「お姉ちゃん、私はおば様のお見舞いに来たのよ」ぴったりと絡み合う二人の腕を見つめ、沙綾はわずかに目を伏せたが、一歩も引かなかった。時彦は眉をひそめ、彼女に不満げな態度を見せたものの、外で待っているようにと朱里には優しく囁いた。「君は外で待っていなさい」朱里は素直に手を離したが、時彦が足を踏み入れて中に入った直後、沙綾を鋭く睨みつけた。沙綾は気にする素振りも見せずに振り返り、ドアを閉めて、嫉妬に狂う朱里の視線を完全に遮断した。「沙綾、こっちへ来なさい」崇史に呼ばれる声を聞き、沙綾は感情を押し殺して時彦のそばへと歩み寄った。「私とお前の母親は、二人に仲良く円満に暮らしてほしいんだ。そして、早く孫の顔が見たいと願っている。私が帝都から戻る頃には、二人から良い知らせが聞けることを期待しているよ、いいな?」崇史はそう念を押した。時彦は淡々とした表情を崩さなかったが、沙綾は年長者の期待に満ちた眼差しを受け、どうやら母もすでに説得されたのだと悟った。崇史が帝都から戻る頃には、自分はすでに離婚届受理証明書を手に入れているはずだ。その時に真実を伝えても遅くはない、と沙綾は心の中で考えた。沙綾が一言も発しないのを見て、崇史は時彦に視線を向けた。「今の話は、外で聞いていただろう。高橋グループを継ぎたいなら沙綾を大切にし、早く孫を作って私を安心させてくれ」今度は時彦も、静かな声でそれに応じた。沙綾の胸の奥が、何かで抉られたようにずきりと痛んだ。時彦が離婚を渋っていたのは、結局のところ崇史の持つ高橋グループの株式が目当てだったのだ。崇史が手を離すと、沙綾はすぐに手を引っ込め、振り返って彼をドアの外まで見送った。崇史を見送り、母と別れの挨拶を交わした後、沙綾は関係者以外の者を絶対に母に近づけないよう介護士に念を押し、車を走らせてミシュラン
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第44話

陣の手が彼女の掌から離れ、微かな熱だけが残された。沙綾はほっと小さく息を吐き、彼の冷ややかな顔色を窺いながら言った。「氷室さん、新しい服を庇ってくださってありがとうございます」跳ね返る泥水を防いでいた傘を畳み、礼司が恭しく傍らに立った。「社長、ズボンが濡れております」その言葉で、沙綾はようやく事態に気づき、彼の全身を上から下まで見回した。「社長、向かいにショッピングモールがございます」礼司が声をかける。沙綾はふと思いついた。「氷室さん、ズボンを買わせてください。何度も助けていただいたお礼も兼ねて」陣は彼女を一瞥すると、そのままレストランへ向かって歩き出した。「必要ない」彼の警戒するような視線に触れ、沙綾は胸の奥がもやもやした。どうして、私が誘惑しようとしていると決めつけているのだろう。まるで、いい男を見たらすり寄らずにはいられない軽薄な女だと思われているみたいだ。断じてそんなことはないのに!「社長、濡れた服のままでは風邪を引いてしまいますよ」礼司が絶妙なタイミングで忠告した。それを聞いて、沙綾も慌てて歩み寄る。「氷室さん、汐見市は春先でも冷え込みが厳しいですから。私だって風邪を引いてしまったじゃないですか。だから、買わせてください」いつまでも彼に借りを重ねていては、そのうち返しきれなくなってしまう。礼司の説得もあって、陣の表情がほんの少しだけ和らいだ。「気を使わせてしまうな」「お気になさらないでください」陣が頷いてくれたのを見て、沙綾は足取りも軽く大通りを渡った。高級ブティック。「これ、今着てらっしゃるのと同じようなデザインですが、こちらのブランドでよろしいですか」陣を見つめながら、意外にもスタイルが良いことに気がついた。時彦とよく似た体格だ――無意識にその名前が脳裏に浮かび、沙綾は忌々しく思いながら振り払った。陣は淡々とした口調で応じた。「ああ」「奥様、旦那様は本当にスタイルが良くていらっしゃいますね。まるでモデルのようですわ。いっそ一式ご試着されてみてはいかがですか」店員が愛想よく声をかけてきた。沙綾は即座に否定した。「誤解です。この方は夫ではありません」横目で窺うと、案の定、陣の顔色は曇っていた。まさかこの店員も私が仕込んだとでも思っているのだろうか。沙綾は内心、泣
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第45話

陣が答えるのを待たず、沙綾は立ち上がって外へ歩き出した。彼女の抜け殻のような後ろ姿を見つめながら、陣はジャケットに染み込んだ涙を指先でそっとなぞった。冷たい水で顔を洗うと、沙綾はようやく落ち着きを取り戻した。「お姉ちゃん、福祉振興会の会長選挙にこのドレスを着ていくのはどうかな?」朱里が得意げに入ってくると、沙綾の青ざめた顔色を見て、わざとらしく驚いたような顔をした。「あれ、誰も教えてくれなかったの?」沙綾は相手にせず、顔を拭いて外へ向かうと、朱里は追いかけてきて彼女の腕を掴んだ。「役員会はお姉ちゃんの最近のやり方にすごく不満を持ってるの。明日にも役員会を開いてお姉ちゃんを解任し、新しい会長を選ぶことになってるわ。私が一番の有力候補なのよ」「あんたなんか選ばれるわけないわ!」沙綾はその手を振り払った。朱里は勢いよく後ろに倒れ込んだ。そこへ、長くて形の良い手が彼女の細い腰に添えられ、体を支え起こした。視線を上げると、そこには時彦の端正な顔があった。朱里は涙ぐみながら彼の腕にすがりついた。「時彦、お姉ちゃんがだらしないせいで役員会から解任されたのに、私が会長になることまで邪魔しようとするの……」「安心しなさい。誰も君の邪魔などできない」時彦は淡々と答えた。沙綾の視線は、彼の白いシャツの襟元についた口紅の跡で止まった。そのまま視線を上げ、冷酷な時彦の漆黒の瞳とぶつかる。「絶対に、この女を会長の席には座らせないわ」言い捨てて二人とすれ違おうとした瞬間、突然手首を強く掴まれ、そのまま引き戻されて冷たい壁に押し付けられた。目を伏せていた沙綾が顔を上げると、至近距離から見下ろす時彦の氷のような視線とぶつかった。「もう一度言ってみろ」時彦は冷ややかな声で言い放ち、沙綾の手首をさらに強く握りしめた。沙綾は痛みに顔を歪めながらも、頑なに言い返した。「私がいる限り、朱里なんかに会長の座は渡さない」あの席は、自分が要らないのなら他の誰が座ってもいい。ただ、朱里だけは絶対に許せなかった。そして時彦は、自分が朱里だけは許せないと知っていながら、あえてあの女を選ぼうとしているのだ。沙綾は負けじと、微かに怒りを滲ませた彼の黒い瞳を見つめ返した。その奥には暗い感情が渦巻いており、吸い込まれそうなほど深い眼差
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第46話

沙綾は呼ばれて振り返った。カウンター越しに調理をするシェフの背後、その向こうにある入口に奈々の姿を見つけると、嬉しそうに微笑んだ。「友達が届け物に来てくれたみたいです。氷室さん、相馬先輩、ちょっと外してきますね」隣に座る紀行が淡々と答えた。「ああ」一方、陣の顔色は優れなかった。今日、陣を呼び出したのは紀行だった。研究の進捗に満足していない陣に、沙綾なら何かアドバイスを与えられるかもしれないと考えたからだ。入口へ向かう沙綾は、奈々が陣と紀行のほうから視線を戻すのに気づいた。驚いたようなその目と視線がぶつかると、沙綾は説明した。「私、相馬先輩の研究所に入ったの」奈々は沙綾の肩をそっと抱き寄せ、大喜びで言った。「やっと心を決めたのね。専業主婦よりキャリアウーマンのほうがずっといいに決まってるわ。あの頃のあなたは本当にどうかしてたのよ……」奈々はそこまで言って、ハッとして口をつぐんだ。沙綾が特に気にした様子を見せないのを確認すると、バッグからジュエリーボックスを取り出し、彼女の手に押し付けた。「それじゃあ、高橋福祉振興会の会長職はどうするの?」「辞めたわ」沙綾はジュエリーボックスを受け取った。「私、もうすぐ相馬先輩の研究チームと一緒にA国へ行くことになったの。向こうで一年間過ごす予定よ」「ちょっと、どうして今になって言うのよ」奈々は少し不満そうに言った。「私、そのことを知った最後の人間じゃないでしょうね?」「もちろん違うわ」沙綾は奈々の手を取って、優しく宥めた。「お母さんにもまだ話していないし、あなたは少なくとも三人目よ」もしかすると、母はすでに紀行から聞いているかもしれないけれど。「それなら許してあげる。A国か。遠いって言えば遠いけど、飛行機で十数時間あれば着くし、絶対に会いに行くからね」奈々はそこで言葉を区切ると、話題を変えた。「沙綾、もう一人の方は……」「氷室さんのこと?」沙綾は合点がいったように答えた。「彼は先輩の研究所のスポンサーなの」その言葉を聞いて、奈々は小声で呟いた。「そういうことだったのね」「えっ?」なんだか今日の奈々は少し様子がおかしい。沙綾は小首を傾げた。その時、別の個室から顔を覗かせた人物がいた。「社長、こちらです」奈々の助手である原田だった。繋いでいた手がパッと
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第47話

「お母さん、こんなことして大丈夫なの?」「何が大丈夫じゃないの。あの恩知らずに見せつけて、悔しがらせてやればいいのよ」沙綾は無表情のまま、その場を離れた。紙袋を手に取ると、車で病院へ向かい、あの母子のもとで事故の事後処理を続けた。夜も更け、辺りが静まり返る頃。沙綾は自宅のバルコニーに座り、暗い瞳で遠くの景色を見つめていた。朱里は薬を盛らなければ、時彦と関係を持てない……奈々の言葉が、再び脳裏に蘇る。もし時彦と朱里が肉体関係を持っておらず、ただ子供を産むという約束のためだけに近づいたのだとしたら?あの日、雨越しに離れた場所から、二人がもみ合いながらソファに倒れ込むのを見たが、それは最後までしたという意味ではないかもしれない。時彦は朱里に手を出していなかったのだろうか?ふと振り返ると、向かいのバルコニーに優雅で気品のある男の姿が見えた。陣が隣に住んでいるのだと、改めて実感した。陣から預かったズボンのことを思い出し、立ち上がって紙袋から汚れたズボンを取り出すと、屈み込んで洗濯機のドアを開けた。ズボンを中に入れる時、その生地を撫でる手から、ふと高級ブティックでの出来事が思い起こされた。時彦の底知れない暗い瞳、渦巻くような激情、そして強く擦るように握られた手の感触。ズボンを洗濯機に放り込んでドアを閉めると、沙綾は玄関へ向かい、車のキーを手に取って部屋を飛び出した。ポルシェが放たれた矢のように走り出す。たとえ離婚する仲だとしても、時彦が命の恩人であることに変わりはない。誰かが彼の意思を捻じ曲げようとするのを、黙って見過ごすことなどできなかった。車はフォレストテラス青葉台に到着した。恵子が出迎える。「奥様、最近お忙しそうでしたし、今は月のものも重なっておりますから。コーンスープを作っておきました。体に良いですから、温かいうちに召し上がってください」「時彦は?」「二階にいらっしゃいます」「彼一人なの?」「朱里さんもご一緒で……あの……奥様、まだ上には行かないでください……お耳に入れておきたいことがありまして……」沙綾は足を止めることなく二階へ上がると、朱里の艶めかしい声が聞こえてきた。主寝室のドアノブを握る手が震える。自分のベッドで、二人が肌を重ね合わせている光景を見てしまうのが怖か
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第48話

沙綾は、時彦の恐ろしいほど暗い瞳と視線がぶつかった。彼は激しい怒りを燃やしながら恵子を睨みつけていた。沙綾に薬が盛られたと知り、激怒しているのだ。恵子は慌てて弁解した。「旦那様、奥様、薬なんて入れておりません。このコーンスープは、一時間近くかけてじっくり煮込んだんですよ……」その声には、せっかくのコーンスープが台無しになったことへの、わずかな未練が滲んでいた。「でたらめ言わないで!」鼓膜を突くような朱里の叫び声が響いた。時彦が目を伏せて朱里を見下ろすと、彼女は目に涙を浮かべ、いかにも可哀想な様子で訴えかけた。「この人が私に濡れ衣を着せようとしてるの。私がお姉ちゃんを陥れるわけないじゃない。お母さんだって、絶対にそんなことするはずないわ」時彦は穏やかな声で宥めた。「安心しなさい。君がやっていないのなら、誰も君に濡れ衣を着せることなどできない」「旦那様、ここに証拠がございます」恵子がポケットからスマートフォンを取り出し、淡々と告げた。「今日の午後、詩織さんとお会いした際、録音しておいたのです」朱里は顔から血の気を引かせ、猛然と恵子に飛びかかったが、彼女はすでに再生ボタンを押し、スマートフォンを頭上に高く掲げていた。「2000万円と言えば、あなたの一生分の給料に相当するわ。この薬をあの女に飲ませるだけでいいのよ……」「詩織さん、これは何の薬ですか。死んだりしませんよね?私、そんな恐ろしいことできません」「死にはしないわ。ただの……」「ただの、何ですか?はっきり教えてくださらないと、引き受けられません」「あの女を妊娠できなくさせる薬よ。安心しなさい」間違いなく、詩織の声だった。朱里は恐怖に顔を歪め、恐る恐る時彦を振り返った。「と……時彦、これはお母さんの声じゃ……」「旦那様、奥様、写真も撮ってあります」恵子がスマートフォンの画面を操作して写真を見せた。そこには、サングラスをかけた詩織が、粉薬の入った包みをテーブルに置く瞬間がしっかりと写っていた。朱里はその場にへたり込んだが、それでも諦めきれずに食い下がった。「時彦、この女が私を陥れようとしてるのよ。音声なんていくらでも偽造できるし、写真だってお母さんが渡したのが薬とは限らないじゃない……」時彦は暗い目を向け、惨めな顔をした朱里を少しの間見つめた
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第49話

「それでも妻は妻だ。沙綾に手を出すということは、俺に盾突くことだということを、詩織さんにもご理解いただきたい。これらの証拠は、俺が預かっておこう」露骨な脅しに、詩織は恐怖のあまり口をつぐんだ。時彦は電話を切ると、床にひれ伏して涙に暮れる朱里に目を向けた。氷のように冷たかったその視線に、ゆっくりと温もりが滲み出る。「時彦、ごめんなさい……お姉ちゃん、家出しちゃったのかな……」朱里は時彦と詩織の電話のやり取りを聞いて、恐怖で全身を震わせていた。しかし、時彦に責められなかったことで、ほっとしたように安堵の息をついた。一方、時彦の内心では冷ややかに笑った。家出?復讐のためにあれほど苦労して自分に近づいた女が。まだ復讐も果たしていないのに、あいつが自分を手放すはずがない。それでも、去り際の沙綾が見せた、心の底から失望しきった目を思い出すと、時彦の胸は何かに強く掴まれたように痛んだ。だが、その胸の奥の疼きは、すぐに彼によって振り払われた。自分を利用した女のことなど、気にかけるはずがない。彼は冷ややかな声で言った。「放っておきなさい」どうせ病院以外に、行く当てなどあるはずもないのだから。---沙綾は恵子を連れて朧月レジデンスに到着し、地下駐車場からエレベーターで上階へ向かった。彼女は恵子に説明した。「仕事の時間や内容は以前と同じよ。私が家で食事をする時は事前に伝えるし、帰らない日は早めに上がってちょうだい。ただ、母が最近入院したから、毎日弁当を作って病院へ届けてほしいの」「ええ、もちろん構いませんよ、小林さん」恵子は答えた。小林さん?沙綾はふふっと笑った。本当に義理堅い人だね。「それにしても2000万円よ。少しも心が揺らがなかったの?」「たかが2000万円で私のプライドを買おうだなんて、ずいぶん見くびられたものです。それに、私は高橋さんのように、見る目がないわけではありませんから」恵子は少し誇らしげに胸を張った。沙綾は目を伏せてわずかに瞳を曇らせたが、すぐに笑顔を作った。「着いたわ。1202室よ。パスワードは私の誕生日になっているから、後であなたの指紋も登録しておくわね」二人がエレベーターを降りると、思いがけず正面から歩いてきた男性とぶつかりそうになった。あわや彼の胸に飛び込みそうになった沙綾は、
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第50話

夜が更けても、沙綾は眠れなかった。夢の中の光景を思い出す。あの時、あんなにも多くの人が助けてくれていたのだ。礼司のことを思い出し、そこから陣のズボンのことを思い出した。沙綾は乾燥機からズボンを取り出し、アイロンをかけて紙袋に入れると、さらに家の中を隅々まで掃除した。感覚が麻痺するほど疲れ切ってしまえば、余計なことを考える時間もなくなるからだ。夜が明けると、シャワーを浴びて全身の疲労を洗い流した。家を出ようとした時、心理カウンセラーから電話がかかってきた。月に一度の診察の時期だ。もうすぐ出国を控えているうえ、最近は悪夢を見ることも多いため、彼女自身もカウンセラーと少し話がしたいと思っていた。午後にでも足を運ぶつもりだ。ドアを開けると、向かいのドアも開いた。陣は昨日、沙綾が買ったスーツを着ていた。体にぴったりとフィットした仕立てが彼の長身を際立たせ、ひときわ美しく見せている。とてもよく似合っていたが、沙綾はもう迂闊に褒めることはできず、ただ歩み寄って言った。「氷室さん、これ、あなたのズボンです。綺麗に洗っておきました」陣は無表情のまま、それを受け取った。二人は一緒にエレベーターに乗り込んだ。地下駐車場で、礼司が正面から歩いてきた。「社長、家庭の事情で半日ほどお休みをいただきたいのですが。タクシーを呼ばれますか?それとも……沙綾さん……」礼司の視線がこちらに向けられた。昨夜の夢や、礼司の親切な人柄を思い出し、沙綾は快く申し出た。「私が氷室さんをお送りしましょうか。氷室グループは高橋グループからも近いですし」「ありがとうございます、沙綾さん」礼司は恭しく陣を助手席へと案内した。陣が不機嫌そうに顔を曇らせているのには、沙綾もすっかり慣れていた。沙綾は車を走らせた。車内で陣は目を固く閉じており、その表情には微かな不快感が滲んでいた。信号待ちの際、沙綾は少し緊張しながら横を向き、彼の端正な顔を軽く見上げて尋ねた。「氷室さん、顔色が優れませんが、どこかお加減でも悪いのですか」陣は薄い唇をわずかに開き、冷気を帯びた声で言った。「少し、ゆっくり走ってくれ」「はい」陣の辛そうな様子を見ていると、なぜか沙綾の胸の奥まで苦しくなり、慌てて車のスピードを落とした。その胸の苦しさは、彼を目的地で降ろした後も消える
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