All Chapters of 元夫が復縁を迫る頃、私は御曹司と再婚し妊娠していた : Chapter 51 - Chapter 60

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第51話

朱里の瞳に後ろめたさが一瞬よぎった。彼女は演壇から降りると、時彦の腕にすがりつき、いかにも哀れみを誘うような態度を作った。「時彦、あの女は私を陥れようとしてるの。私がお姉ちゃんにそんなことするわけないじゃない」沙綾は男の冷酷な視線と真っ向からぶつかった。頭の切れる彼のことだ、あの親子を裏で手引きしたのが自分であることなど、とうに見抜いているだろう。だが、知られたところでどうということもない。昨日の午後、沙綾はあの親子を説得するために話し合いをしたのだ。あの親子とて沙綾にそこまでの恨みがあるわけではないのだから、わざわざ彼女の退職を脅迫のネタにして、補償金をふいにするわけがない。粘り強く問い詰めた末、母親の口からようやく真実を聞き出した。あの親子に接触してきたのは朱里だったのだ。沙綾はその企みを逆手にとり、朱里が福祉振興会に入り込む道を断ち切った。自分が捨てたものを誰が拾おうと構わないが、朱里だけは絶対に許さない。時彦は視線を外し、朱里の手にそっと触れてなだめた。「この二人を連れ出せ」警備員がすぐさま駆けつけ、親子を引きずり出した。二人がどれだけ抵抗しても無駄だった。だが、沙綾が求めていた効果はすでに十分に発揮されていた。議長は不快げに朱里を一瞥した。時彦の手前、露骨に怒りをあらわにすることはなかったが、その態度はすでに冷え切っていた。「それでは、投票を始めましょう」この騒ぎの直後とあって、朱里のスピーチ中、役員たちは皆一様に険しい顔をしていた。今日ばかりは時彦が後ろ盾として付き添っていても、誰一人として忖度しようとはしなかった。候補者のスピーチが終わり、議長が声をかけた。「それでは、投票を開始します」沙綾が手を挙げると、役員のほぼ半数がそれに続き、副会長に票を投じた。「ちょっと待って、お姉ちゃんに投票する資格なんてあるの?」朱里が納得いかない様子で声を荒らげた。議長は眉をひそめた。「奥様は前会長として、次期会長を選出する権利を当然お持ちです。それどころか、二票の投票権を有していらっしゃいます」「解任されたのに、どうしてそんな資格があるのよ?」朱里はふんぞり返って尋ねた。「奥様が解任されたなど誰が言いましたか?」議長は怪訝そうな顔をした。「今日の選挙は、奥様が別の道へ進まれるために自ら
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第52話

細い腰を彼に片手で掴まれ、長身が覆いかぶさるように迫ると、冷たい全面ガラス張りの窓に押し付けられた。眼下に広がるのは、底の見えない人ごみだ。足元から冷気が這い上がり、たまらず足の力が抜けそうになりながらも、彼のシャツの襟をギュッと掴み、思わず声を震わせた。「離して」だが、時彦は動じることなく、大きな手で彼女の細い指を掴み上げた。「よくも朱里を罠にはめ、会長の座をよそ者に渡してくれたな」腰に回した男の手が、怒りをぶつけるように乱暴に力を込める。否応なく、沙綾を自分にぴったりと密着させた。彼から放たれる冷気を感じ取り、まるで深淵に突き落とされたかのように、心の底から震え上がった。時彦はすぐそばまで顔を寄せ、冷たい息を彼女の耳元に吹きかけた。「それが高橋の妻としてのやり方か?」胸が激しく痛んだ。詩織に挑発されて母が心臓発作を起こしたことも、剛と結託した詩織に重大事故の濡れ衣を着せられたことも、薬を盛られかけたことも、事故の被害者を買収した朱里に陥れられたことも。時彦の目には、そのすべてがただの「誤解」の一言で片付けられてしまう。それなのに、目には目を、歯には歯をで、あの親子の口から真実を言わせただけで、時彦はこうして責め立ててくる。私が高所恐怖症だと知っているくせに……沙綾は負けじと時彦を睨み返した。二人の距離はあまりにも近く、男の瞳の奥で燃える怒りがはっきりと見えた。それは朱里のための怒りだった。心が千切れるように痛み、感情がコントロールを失うのを必死で抑えようと、沙綾は唇を強く噛んだ。三月の雨がしとしとと窓ガラスを叩き、背中から染み込んでくる冷気に、心まで震え上がる。これまでの無数の出来事が脳裏をよぎる。彼の優しさ、無視、冷酷、そして裏切り……それらが走馬灯のように蘇ってくる。突然、男の息遣いがさらに迫ってくる。お互いのまつ毛が触れ合う。その漆黒の瞳に、臆病で脆い自分自身の姿が映っているのを見た瞬間、沙綾は弾かれたように彼の両肩を押しのけようとした。しかし時彦は退くどころか、さらに踏み込み、その唇を塞いだ。まるで罰を与えるような強引な口づけだった。男の下半身の熱と強張りが伝わってくる。一体、私のことを何だと思っているの?辱めるためだけの道具?それとも欲を発散するための存在なの?耐え
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第53話

沙綾はこみ上げてくる悲しみを押し殺し、優しく謝罪した。「ごめんなさい」陣が沙綾の顔に向ける視線には冷ややかな色が浮かび、その胸は微かに上下していた。決して良いとは言えない口調で口を開く。「沙綾さん……」陣が何を言おうとしているのか察しがついた。ただでさえ胸中が晴れないうえに、ずっと誤解され続けているのだ。沙綾もついむきになって言い返す。「誤解しないでください。私、あなたに特別な気持ちなんて一切ありませんから!」途端に彼から放たれる空気が冷たく沈み込み、沙綾は思わずビクッとした。少し怯えたような声になる。「本当です。信じてください」陣は彼女を軽く一瞥すると、背を向けて歩き出した。どうやら全く信じていないらしい。その時、鼓膜を劈くようなクラクションの音が轟き、一台のスポーツカーが猛スピードで彼に向かって突っ込んできた。「氷室さん、危ない!」沙綾は恐怖に駆られて飛び出し、彼を突き飛ばそうとした。しかし、陣が本能的に身をかわしたため、沙綾はそのまま車の方へ飛び込む形になってしまった。全身の血が凍りつき、恐怖が四肢の隅々まで広がっていく。絶望に支配された瞬間、細い腰に大きな手が伸びてきて、そのまま温かい胸の中に引き込まれた。驚いて顔を上げ、底知れぬ漆黒の瞳と視線がぶつかった。恐怖で息を乱した。無謀な飛び出しにかっとなったドライバーの怒声を浴びながら、硬直していた思考が徐々に現実へと引き戻される。陣に強く抱きしめられていることに気づいた瞬間、微かなシダーウッドの香りが鼻先をかすめる。彼の胸の奥で波打つ激しい鼓動を聞きながら、沙綾は慌ててその腕を押し返し、掠れた声を出す。「ひ、氷室さん……」次の瞬間、体は男の手から解放された。沙綾は一歩後ずさる。まだ恐怖が抜けきらないまま、少し気まずそうに胸元を押さえた。「心臓が止まるかと思いました。次からは無理な横断はやめてくださいね。怪我はありませんか」「俺はただ、車を待っていただけだ」ちょうどその時、礼司が運転する黒のベントレーがゆっくりと到着した。沙綾は陣の冷ややかな視線を浴びて、気まずさで顔を赤くして弁解しようとしたが、彼は全く聞く耳を持たず、颯爽と背を向けて車に乗り込んでしまった。愛想の良い礼司だけが、沙綾に傘を手渡してくれた。沙綾は走り去る黒のベント
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第54話

沙綾は驚愕し、目の前に突き出されたナイフの刃を素手で握りしめた。血が滴り落ちるのに伴って痛みが広がっていく。彼女は朱里の凶暴な瞳と視線を合わせた。「あなた、狂ったの?」まさか朱里が、凶器を振り回して人を傷つけるほど性根が腐っていたとは!朱里は高笑いした。「ええ、狂ったわ。むしろ遅すぎたくらいよ!居場所も愛する男もあんたに奪われたあの時に、狂ってしまえばよかったのよ!時彦とは幼馴染で、大人になったら結婚しようねって誓い合っていたのに!あんたはもう遠藤家を出て、二度とお父さんを認めないと誓って、あの女と一緒に遠くへ行ったくせに、どうして今更戻ってきて、私から時彦を奪ったりしたの?」朱里は話せば話すほど興奮し、ナイフを握る手を震わせた。その瞳の奥には、陰湿な光と狂喜が入り混じっていた。「あんたのその顔をめちゃくちゃにしてやるわ。二度と彼を誘惑できないようにね。その顔が台無しになれば、時彦だってあんたに目もくれないわ!」朱里が激昂している隙を突き、沙綾は足を上げて彼女の腹に蹴りを入れた。痛みに声を上げた朱里は、床に倒れ込んだ。沙綾がホッと息をついたのも束の間、突然、下から伸びてきた手に服を強く引っ張られた。不意を突かれた沙綾は、朱里に巻き込まれるようにして反転して倒れ込み、相手の上にのしかかる形になった。朱里の手に握られた、血に飢えたような冷たい刃が、沙綾の目めがけて振り下ろされる。鋭利な刃が皮膚を切り裂き、鮮血が視界を赤く染め上げる瞬間、悲鳴が診察室いっぱいに響き渡った。ドアが押し開かれ、慌ただしい足音と共に、恐怖に満ちた息を呑む音が重なって聞こえてきた。「沙綾さん……!」涼子の怯えた声が遠くから近づいてくる。沙綾がゆっくりと振り返り、涼子の驚愕する視線とぶつかった。「私は、大丈夫……」「きゃああっ!助けて!私の顔が――」朱里はナイフから手を離し、血に染まった自分の顔を両手で覆って、惨劇のような悲鳴を上げる。倒れ込む瞬間、沙綾は思い切りナイフの向きをねじ曲げていた。刃は平らな状態で朱里の顔に押し付けられ、そのまま彼女の肌を切り裂いていたのだ。涼子は急いで看護師に指示を出した。「早く警察を呼んできなさい!こっちへ来て手伝って!」医療スタッフが駆け込んできた。涼子に抱え起こされなが
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第55話

「でたらめ言わないで!お姉ちゃんが私の上に馬乗りになっていたことは、どうして言わないの?」すかさず反論する朱里に、涼子は黙り込んだ。高橋グループの社長、その社長夫人、そして遠藤家の令嬢。この三人の愛憎劇に、一介の心理カウンセラーが口出しできるはずもない。客観的な立場から真実を口にできただけでも、十分立派だった。沙綾は穏やかな視線を涼子に送ると、時彦の方を向き、彼の次の言葉を待った。「まずは病院へ行って傷の手当てをするのが先だ」時彦は事態を揉み消そうとしていた。「駄目よ。もうすぐ警察が来るわ。きちんと調べがついてからにして」沙綾が一歩も譲らないのを見て、時彦は眉間を微かに寄せ、不機嫌そうな声で涼子に尋ねた。「通報したのか?」沙綾は立ち上がり、涼子を庇うように前に出た。「私が通報したのよ」「姉妹の骨肉の争いが世間に知れ渡って、何か良いことでもあるのか?」時彦の視線は冷ややかだった。「お前は高橋家の妻として、わきまえるべき分別があるはずだ。電話して通報を取り消せ」「通報は取り消さない。朱里を連れて行くことも許さない!今日のことは絶対に白黒つけるわ」沙綾は痛みを堪えながら、時彦の腕を強く掴むと、朱里が彼のもう片方の腕をさらにきつく抱きしめた。「時彦、顔がすごく痛いの。跡が残っちゃうのかな。お願い、早く病院に連れてって」泣きつくような声だった。時彦は沙綾の手のひらから腕を引き抜くと、朱里の腕にそっと手を置き、優しい声でなだめる。「今すぐ病院へ連れて行くからな」手の傷の痛みとともに、沙綾の心もずきずきと痛んだ。間もなく警察が到着した。双方の事情聴取を終えると、警察官が口を開いた。「この件は、できれば穏便に済ませるのが一番ですよ」「じゃあ、お姉ちゃんを訴えるのはやめてあげる」朱里は時彦に向かって媚びるように言った。「奥様は、どうなさいますか?」沙綾は警察官に向かって言った。「この診察室には録音があります。それを確認していただけますか」「録音ですか?」警察官は天井をぐるりと見渡した。「監視カメラのことですか?見当たりませんでしたが」「結城先生、説明していただけますか」涼子は周囲の視線を浴びながら一歩前に出た。「私たち心理カウンセラーは、患者さんの診察を行う際、その後の
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第56話

時彦は眉をひそめた。たとえ彼女の目的に不純なものがあったとしても、結婚してからはずっと聞き分けの良い、従順な妻であろうと努力してきたはずなのに、最近は反抗してばかりいる。紀行の顔を思い出すと、胸の奥が少しもやもやした。「俺がお前の庇護者にならなくて、他の誰がなるというんだ」沙綾は一言も発しなかった。かつて彼を愛していた自分のことを思うと、あまりにも不憫で、鼻の奥がツンと痛んだ。「病院へ行かないなら、勝手にしろ」彼はこれ以上探る気力をなくし、朱里を連れて外へ歩き出した。朱里は彼の腕にすがりつき、甘えるように言った。「顔がすごく痛いよ……」「まともなこともせずに、刃物で遊んでいたのか」彼の声には責めるような響きがあったが、今さら責めたところで何になるというのか。「もう二度としないから。お願い、無視しないで。私、お姉ちゃんとふざけてただけなのに、お姉ちゃんが本気になって、私の顔を切ったんだよ。お姉ちゃんも怪我したけど、私の方が酷いじゃない。もう十分反省してるから、もう怒らないで」「次やったら、そのまま海外に放り込むぞ」時彦の声は冷たく沈んでいた。だが、その警告を聞いても、沙綾の心にはもう何の感情も湧かなかった。時彦がそんなことをするはずがないと、分かりきっていたからだ。朱里がどれほど悪いことをしようと、彼はいつも彼女を庇うだけなのだ。「わかってるわ、もうしないから」朱里の媚びるような声を聞いて、沙綾は視線を逸らした。涼子は律からの電話を受け、録音データの提出を固く禁じられてしまった。警察も立件する術がなく、引き揚げるしかなかった。涼子は深く申し訳なさそうに頭を下げた。「沙綾さん、お力になれず申し訳ありません」沙綾はそれが涼子のせいではないと分かっていた。ただの雇われの心理カウンセラーである彼女に、どうすることもできないのだ。あと三日。三日経てば、時彦との婚姻関係は完全に解消される。その時、あいつはもう二度と夫気取りで、自分を傷つける人間を庇うことなどできなくなるのだ。「お気になさらないでください。それより、睡眠薬を少し処方していただけませんか」「かまいませんが、薬はどうしても体に負担がかかります。できるだけ量を控えるようにしてくださいね」「ええ、分かっています」クリニックを出て
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第57話

自分は強いから、誰の支えも慰めも必要ないと思っていた。しかし今、紀行からの気遣いの言葉を聞いた瞬間、沙綾の頬を涙がとめどなく伝い落ちた。沙綾は目を閉じ、ティッシュを一枚引き抜いて顔に当てた。「先輩、あとでそっちに行くよ」手と顔の傷の手当てをしなければならない。「分かった。病院の入り口で待っているよ」「ええ」車を走らせて病院に到着すると、紀行がすぐに駆け寄ってきた。どれくらい待っていたのだろうか。「その手と顔、どうしたんだ」彼は緊張した面持ちで尋ねた。事の顛末を聞き終えると、紀行の瞳の奥に静かな怒りが燃え上がった。「時彦の奴、あまりにもふざけすぎている!」沙綾は思わず低い声で彼を宥めた。「もうすぐ彼とは離婚する。そうすれば、すべて終わることだから。先輩、傷の手当てをし直すのに、付き合ってもらえない?」「特に顔の傷は、形成外科の先生にしっかり診てもらおう。女の子の顔に傷跡が残ったら大変だ」微かに微笑むと、紀行が一瞬だけハッとしたように固まった。きっと、泣きはらした自分の顔がよほど酷い有様なのだろう。「先にちょっとお手洗いへ行って、顔を洗ってくるね」紀行は優しい声で言った。「ああ、行っておいで。俺は救急外来で受付を済ませておくから」「はい」誰かに気にかけてもらえるというのは、いつだって心地よいものだ。女子トイレに入ると、水が出ないことに気がついた。夜の病棟は静まり返っており、一階のトイレとなればなおさら人目は少ないだろうと考え、彼女はぐるりと回って男子トイレへと足を踏み入れた。中に入った途端、個室のドアが押し開かれ、背筋のピンと伸びた長身の男が中から出てきた。その静まり返った視線とぶつかり、沙綾は慌てて外へ出ようとしたが、彼に呼び止められてしまった。「沙綾さん?」その口調はひどく冷ややかだった。「氷室さん、奇遇ですね」沙綾は振り返って愛想笑いを浮かべた。陣は陰鬱な顔つきのまま、微かな嘲りを込めて言った。「奇遇、だと?」「顔を洗いたかったんです。隣の女子トイレの水が出なかったからこちらに来ただけで、決してあなたの後をつけてきたわけじゃありません。信じていただけますか」沙綾の顔に向ける男の視線は、さらに氷のように冷たくなった。どうやら、微塵も信じていないらしい。
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第58話

「きゃあ……」沙綾は驚いて悲鳴を上げた。すると、腰の背側に男の腕が回り、そのまま彼の腕の中にふわりと抱き留められた。陣は片手を彼女の背後の壁につき、もう片方の手で彼女の腰を抱き寄せながら、眉をひそめて沙綾を見下ろした。沙綾はコアラのように両手で彼のシャツの襟をきつく掴んでいた。耳元で「ビリッ」と音がした。重みに耐えきれず、ボタンが二つ弾け飛び、その奥から引き締まった薄い筋肉が露わになった。沙綾は驚愕し、迫りくる男の端正な顔を見つめた。微かに熱を帯びた息が顔にかかる。底知れぬ漆黒の瞳には、薄っすらと怒りが滲んでいた。男はゆっくりと、沙綾を覆い隠すように近づいてくる。心臓がドクンと跳ねた。陣の額には青筋が浮かび、その色気のある唇が、有無を言わさぬ迫力で彼女の耳元へと迫った。「俺をからかって、面白いか?」底冷えするような声が耳に流れ込み、その冷気が沙綾の心まで染み渡っていくかのようだった。沙綾は思わず身震いし、両手で陣の襟元を直すと、彼を突き飛ばしてトイレから逃げ出した。「か、からかってなんか……いません……」という言い訳だけが、その場に虚しく残された。「どうして男子トイレから出てきたんだ?」紀行は沙綾の慌てふためく様子を見て、何かに怯えているようだと感じ、思わず男子トイレの方へ視線を向けた。「ううん、女子トイレの水が出なかったの。先輩、早く行きましょう」沙綾はまだ息を乱しながら言った。陣が追いかけてくるのではないかと気が気でなかった。本当にわざとやったわけではないが、もうどう説明しても分かってもらえない気がする。形成外科の診察室前。「佐藤先生の予約を取っているのですが」「佐藤先生は本日の予約がいっぱいです。別の先生に変更なさいますか」受付の看護師が言った。紀行は予約票と見比べながら言った。「予約は取れているはずですが。もう一度確認してもらえませんか」看護師は二人の身なりが良いのを見て、特に面倒くさがる様子もなく答えた。「VIPの患者様がいらっしゃったんです。明日までお待ちいただくか、それとももっと良い先生をご紹介しましょうか」「先輩、別の先生でも構わないよ」看護師を困らせたくなかったのでそう口を開くと、紀行もそれに同意した。しかし、診察室の中から突然、聞き覚えのある声
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第59話

周囲の人々が後ろ指を指して囁く中、男の冷たい息遣いが沙綾の顔をかすめた。その漆黒の瞳には暗い怒りの炎が渦巻いている。時彦は冷淡な声で言った。「いい加減にしろ。少しは自分の体面を保ってくれないか。自分がどういう立場か忘れるな」体面?彼が朱里を連れて堂々と歩いている時点で、自分の体面などとうにズタズタに引き裂かれている。立場……汐見市トップの名門の奥様という立場?そんなもの、もう未練はなかった。沙綾の口元に苦々しい笑みが浮かんだ。鼻で軽く笑い飛ばし、朱里へと視線を移す。「不満なら、別の人に代えればいいじゃない。ちょうどそこへ収まるのを心待ちにしている人がいることだし」その言葉を聞いて、朱里は瞳の奥に歓喜の色を隠しきれなかったが、時彦と沙綾の顔色を窺い、必死に平静を装って言った。「お姉ちゃん、私と時彦は何もないわ。時彦は私を妹として可愛がってくれているだけ。どうして私にまで嫉妬するの」誰かが二人の正体に気づいた。「もしかして高橋社長と、奥様?」「あのスキャンダル、本当に事実だったのね」「しっ、声が大きいわよ」人々は余計なトラブルに巻き込まれるのを恐れ、少しずつ散っていった。沙綾は唇を真一文字に結び、時彦をじっと見つめた。その心の内を見透かそうとしたが、時彦の漆黒の瞳の奥には、薄情な色が浮かんでいるだけだった。沙綾は皮肉げに言い放った。「朱里にはエメラルドのネックレスを贈り、私にはエメラルドのブレスレットを贈る。朱里を福祉振興会の会長に担ぎ上げ、私を解任してすげ替えようと企む。朱里が私の祖母の形見を壊し、私の顔に傷をつけても、たった一言『事故だ』で済ませる。高橋さん、お願いだから私のことも妻ではなく、妹として扱ってくれないかしら」沙綾の声は完全に冷え切っていた。その言葉はなぜか時彦を沈黙させた。時彦の瞳は暗く沈み、まるで嵐が吹き荒れる前触れのようだった。だが、今の沙綾にもう恐れはなかった。時彦の手を振り払って言い放つ。「出て行って。邪魔をしないで」佐藤が絶妙なタイミングで口を挟んだ。「高橋さん、奥様の予約なのですから、先に奥様を診察させてください。遠藤さんが痛がっているのは、もしかすると麻酔が足りていないのかもしれません。追加で一本打ちましょう」「時彦!顔、もう痛くないわ。早
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第60話

沙綾は、時彦が容赦なく背を向け、向かいの診察室へ入って他の女のそばへ行くのを見つめながら、心が一気に冷え切っていくのを感じた。この忌まわしい縁は自分から始まったのだと思うと、言葉にできないほど酸鼻な思いがこみ上げてくる。先に想いを伝え、先に好きになったのは自分なのだ。だが、それもあと三日ですべて終わる。「沙綾、大丈夫か」紀行の声に、沙綾はハッと我に返った。彼女は顔を上げ、瞳に浮かんだ涙を必死に押し殺した。「大丈夫。先輩、別の先生に診てもらいましょう」「ああ」手と顔の傷の手当てを終えて外へ出ると、時彦と朱里の姿はすでになかった。「先輩、私はこれで帰る。今夜はおじさんにも迷惑をかけたわ。どうかよろしく伝えて」「もうすぐ家族になるんだ、そんなに水臭くしないでくれ。車の運転はできそうか?」「大丈夫よ」沙綾は彼に別れを告げ、地下駐車場へと向かった。少し離れた場所で、時彦が朱里を庇うようにして車に乗せているのが見えたが、沙綾は視線を逸らし、車を出発させた。朧月レジデンスに戻ると、テーブルには恵子からのメモが貼ってあり、ご飯とおかずを温めて食べるようにと書かれていた。だが、動く気力さえ湧かず、そのまま料理に箸を伸ばした。今日のサバの味噌煮は、なんだか妙な味がした。苦くて、そしてひどく渋い。その時、スマートフォンが鳴った。画面に目を落とすと、奈々からバーで撮られた動画が送られてきていた。動画の中では、時彦と律がカウンターに座って酒を飲んでおり、朱里が小鳥のように身を寄せて彼の腕に抱きついていた。周囲にいる時彦の友人たちは、顔色一つ変えていない。時彦が二股をかけていることなど、とうの昔に受け入れているようだった。沙綾は力なく苦笑した。防水手袋をつけて簡単に洗面を済ませると、睡眠薬を二錠飲んでベッドに潜り込んだ。同じ頃、バーでは、朱里が席を外して化粧室へ向かっていた。「時彦、お前は朱里を甘やかしすぎだ。あの録音を聞いたけど……あいつはただのイカレた女だぜ。刃物で沙綾さんを襲うなんてどうかしてる。今度は何をしでかすか分かったもんじゃない。なあ、時彦。遠藤グループって、そこまで重要なものなのか」時彦は苦い酒を一口舐めただけで、何も答えなかった。「沙綾さん、ここ数日ずっと離婚騒ぎを起こしてるじゃないか
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