LOGIN出張初日の午前中。大型トラックと赤帽の軽トラが去った後も、私の「お片付け」は終わらない。
次に向かったのはガレージだ。そこには、直樹が自分のステータスだと誇り、ドヤ顔で乗り回していたピカピカのレクサスが鎮座している。 (自分の甲斐性で買った気になっていたみたいだけど……残念ね) この車の購入資金を出したのは全額私であり、車検証の所有者欄に刻まれているのも私の名前だ。直樹は「俺レベルの男が乗る車だ」と威張っていたけれど、彼が払っていたのは精々ガソリン代くらいのものだった。 あらかじめ手配しておいた中古車買取業者に立ち会ってもらい、書類に捺印する。業者のスタッフが手際よく車体をキャリアカーへ積み込んでいくのを見送り、私は査定額が振り込まれる口座を確認した。自分が日常の足として使っていた軽自動車だけを残し、直樹の自慢の種はあっという間にドナドナされていった。 そして、仕上げの作業に入る。 スマートフォンを取り出し、電力会社、ガス会社、水道局へと順番に電話をかけた。 「本日をもって、契約を解約させてください。本日の夕方にはすべての供給を停止してください」 世帯主の名義はすべて私だ。支払っていたのも私の口座から。だから、解約手続きに直樹の同意なんて一切必要ない。 家具も、家電も、車も引き揚げた。そして、生活に必要な水も光も熱も、すべてこの家から断ち切った。 夕方、作業の立ち会いを終えた私は、何一つ残っていない静かなリビングの中央に立った。踏みしめるフローリングの冷たさが、なんだかとても心地よい。 バッグから、綺麗に折りたたまれた緑色の用紙を取り出す。 必要事項と私の署名・捺印をあらかじめ済ませておいた離婚届だ。それを、暗くなりかけたリビングの床の真ん中に、ぽつんと置いて置く。 カチャリと玄関の鍵を閉め、私は一度も振り返ることなく、軽自動車のエンジンをかけて新居のアパートへと走り出した。 ◇ 三日後の夜十時すぎ。 「はぁ〜、マジで疲れたわ……」 出張という名の不倫旅行から帰ってきた直樹は、甘い余韻と旅の疲労に浸りながら、我が家の玄関ドアを開けた。 「おい真尋、帰ったぞ。喉乾いたから冷えたビール出せ。それと風呂沸い……」 言いかけた言葉が、喉の奥で引きつるように止まった。 いつもなら自動で点灯する玄関のセンサードリンクの灯りが、点かない。 玄関ホールは、ねっとりとした不気味な暗闇に包まれていた。 「……あ? なんだ、停電か?」 不機嫌そうに毒づきながら、直樹は壁のスイッチを何度かパチパチと押し込んだ。しかし、天井の照明が点灯する気配は一切ない。 溜め息をつき、スマートフォンのライトを照らしながら、ネクタイを緩めてリビングのドアを開けた。 「おい真尋! 真尋ってば! 暗いだろ、何やって……」 スマートフォンの白い光が部屋の奥を照らし出した瞬間、直樹の動きが完全に固まった。 「……は?」 目の前に広がっていたのは、見慣れたリビングではなかった。 六十インチの大型テレビがない。 ふかふかの革張りソファーも、ローテーブルも、観葉植物も、壁の飾り棚すら存在しない。 ただただ、どこまでもだだっ広い、冷たいフローリングの床と壁が広がっているだけだった。 「な……なんだこれ……泥棒……!?」 パニックを起こした直樹は、慌ててキッチンへと駆け寄った。 だが、そこにあったはずの三ドアの大型冷蔵庫も、電子レンジも、炊飯器も綺麗さっぱり消えている。 驚いて洗面所に駆け込めば、ドラム式洗濯機の姿すらない。喉の渇きを覚え、慌てて蛇口をひねったが、シューという空しい音が響くだけで水一滴すら出てこなかった。 「水が出ない……!? 電気も……何なんだよこれ!!」 自分の声が、誰もいない空っぽの部屋に虚しく響き渡る。 恐怖に顔を歪ませた直樹は、すがるように外のガレージへと走った。 しかし、いつもそこにあるはずの愛車・レクサスの姿はどこにもなく、代わりにそこにあったのは、冷たいコンクリートの空間だけだった。 「俺の車……俺のレクサスは!? 真尋! お前どこにいるんだよ!!」 狂ったように家の中を走り回り、スマートフォンのライトで暗闇を照らし出す直樹。 その時、光の輪が、リビングの中央にぽつんと残された一枚の紙を捉えた。 おそるおそる近寄り、スマートフォンをかざしてその紙を見下ろす。 緑色の枠線。 上部に躍る大きな文字——『離婚届』。 真尋の署名がなされたその紙の横には、彼女の綺麗な字で、短いメッセージが書き添えられていた。 『ご希望通り、家の中を綺麗にお片付けしておきました。私の物も、私が買った物も、私の痕跡もすべて。どうぞ、そのまま一人で綺麗になった家でお過ごしください』 「な……んだよ……これ……」 膝から崩れ落ち、暗闇の中でがたがたと震え出す直樹。 電気も水も通らないガランとしたもぬけの殻の中で、彼は自分がどれほど絶望的な落とし穴に落ちたのか、まだその全貌すら理解できていなかった。かつて掃除や洗濯を完璧にこなしていた私に向かって、「主婦は気楽でいいよな」「世の中の厳しさが分かっていない」とモラハラ発言を繰り返していた元夫の直樹。現在直樹とその母親が住んでいる家は、私が祖母から相続したものだ。そこに直樹が居座っていた。このままにしていたら当然のようにずっと住み続けてしまう。 私としても思い出ができてしまったので、取り返してももう住めない。建物も古くなっていたし、思い切って取り壊して売ってしまうことにした。 そして、取り壊し当日の朝。 元の我が家の前に到着した私は、思わず呆れ果ててしまった。 今日が家の解体日だというのに、直樹と義母は家の中から荷物の運び出しすらしていなかったのだ。 私が脱出した際、私名義の家具や家電はすべて引き揚げて売却したため、家の中は完全にもぬけの殻だったはずだ。けれど、そのままでは生活ができないからと、彼らは義母の乏しい老後の貯蓄を取り崩し、一人暮らし用の小さな冷蔵庫や洗濯機、電子レンジなどの最低限の家電を買い揃えていたらしい。 だが、勝てるはずもない案件で弁護士費用を無駄に使ってしまったため、義母の貯金はすでに底をついていた。引っ越し業者を頼むお金も、次に住む物件の契約資金すら残っていなかったのだ。 やがて、重々しいエンジン音を響かせて、大型の重機が現場に運び込まれてきた。 現場に立つ私の姿を見つけるやいなや、直樹と義母は「チャンスだ」とばかりに目を血走らせ、私の前に立ちはだかった。 「真尋! 頼むから工事を止めてくれ!」 何を言っているのか。もう、業者さんも来ているのに止まるわけがない。 「俺たちを笑いに来たのか! 家がなくなったら本当に住むところがなくなるんだぞ!」 私はある意味、笑いに来たのかもしれない。別に来なくても解体作業は業者さんがやってくれる。目の前で泣き言を言う直樹の言葉を浴びながら、私は口元が緩んでいかもしれない。
現在直樹とその母親が住んでいる家は、私が祖母から相続したものだ。そこに直樹が居座っていた。このままにしていたら当然のようにずっと住み続けてしまう。私としても思い出ができてしまったので、取り返してももう住めない。建物も古くなっていたし、思い切って取り壊して売ってしまうことにした。そして、取り壊し当日の朝。 元の我が家の前に到着した私は、思わず呆れ果ててしまった。 今日が家の解体日だというのに、直樹と義母は家の中から荷物の運び出しすらしていなかったのだ。 私が脱出した際、私名義の家具や家電はすべて引き揚げて売却したため、家の中は完全にもぬけの殻だったはずだ。けれど、そのままでは生活ができないからと、彼らは義母の乏しい老後の貯蓄を取り崩し、一人暮らし用の小さな冷蔵庫や洗濯機、電子レンジなどの最低限の家電を買い揃えていたらしい。 だが、勝てるはずもない案件で弁護士費用を無駄に使ってしまったため、義母の貯金はすでに底をついていた。引っ越し業者を頼むお金も、次に住む物件の契約資金すら残っていなかったのだ。 やがて、重々しいエンジン音を響かせて、大型の重機が現場に運び込まれてきた。 現場に立つ私の姿を見つけるやいなや、直樹と義母は「チャンスだ」とばかりに目を血走らせ、私の前に立ちはだかった。 「真尋! 頼むから工事を止めてくれ!」 何を言っているのか。もう、業者さんも来ているのに止まるわけがない。「俺たちを笑いに来たのか! 家がなくなったら本当に住むところがなくなるんだぞ!」私はある意味、笑いに来たのかもしれない。別に来なくても解体作業は業者さんがやってくれる。目の前で泣き言を言う直樹の言葉を浴びながら、私は口元が緩んでいかもしれない。 開口一番、自分たちの身勝手な都合と一方的な希望だけをまくし立てる元夫。 隣に立つ義母も、これまでの嫁いびりやモラハラをなかったことにしようと、必死に醜い言い訳を並べ立てる。 「そうよ真尋さん! 私はね、あなたが可愛かったからこそ佐伯家のやり方を教
数日後、直樹はあろうことか自前の弁護士を引き連れて、再びこちらの弁護士事務所へと乗り込んできた。前回あんなに惨敗したというのに、隣に味方の弁護士を従えているせいか、その表情には隠しきれないドヤ顔が浮かんでいる。(弁護士を連れて相手の事務所に乗り込むなんて、着手金だけでも二〇万から三〇万……こんな勝てる見込みのない無謀な案件なら、下手したら五〇万近く請求されているはずだけど……どこからそんなお金を?)不審に思ってスマートフォンを確認すると、ブロックを解除していた義母から頭の痛くなるような長文メッセージが届いていた。『弁護士先生にたっぷりお金を払ったわ! あなたから「慰謝料」と「養育費」と「遺産分配」を根こそぎぶんどってもらうんだから! 覚悟しなさい!』メッセージを読みながら、私は思わず天を仰いだ。 私が何をしたから「慰謝料」が発生するというのか。子どももいないのに「養育費」とは一体誰を育てる費用なのか。直樹の「養育費」とでも言いたいのだろうか。「遺産分配」に至っては冗談としか思えない。誰が死んだというのだ。まさか私? 勝手に殺さないでほしいのだが、仮に今私が死んだとしても、すでに他人である直樹の手には一円だって渡らない。こんな常識も言葉の意味も知らない連中に「佐伯家の味を覚えていない」「掃除の仕方が間違っている」と威張り散らされていたのかと思うと、怒りを通り越して惨めさと哀れみが込み上げてくる。対面に座った相手の弁護士が、咳払いを一つして高圧的に書類を叩いた。「朝比奈真尋様。我が依頼人は、あなたが小説執筆で得た多額の収益につ
弁護士事務所の重厚な応接室。 対面に座る直樹は、怒りと焦りで顔を真っ赤にし、テーブルを叩く勢いで身を乗り出してきた。「俺には金がないんだよ! お前が通帳も金も全部持って行ったからだ! これは違法だろ! 生活費を返せ!」まじめな顔をして叫ぶ元夫を前に、私はピクリとも動かず、ただ冷ややかな視線を向ける。弁護士さんからの事前の指示通り、私は一言も発しない。私が直接言葉を交わす価値など、この男にはないのだ。私のかたわらに座る担当弁護士が、静かに眼鏡の奥の目を光らせ、書類に目を落としたまま淡々と口を開いた。「佐伯直樹様。生活費とおっしゃいますが、あなたの給料はずっと手取り十万円ほどですね。保険会社に入社された初年度だけ、月給三十五万円という時期が一年間ほどあったようですが……直樹様がご覧になった通帳は、すべて朝比奈真尋様の口座となります」「は……? じゃあ、俺の年収は百二十万円くらいしかないってことかよ!?」「そうなりますね」「おかしいだろ! 真尋はただの主婦だぞ! 家事だってやってたのに、そんなに収入があるはずがない!」直樹の支離滅裂な叫びに、弁護士はフッと小さく口角を上げた。「朝比奈様は書籍を何冊も出版されているプロの小説家です。佐伯様の『労働収入』とは違い、著作権に伴う『権利収入』ですので、労働時間と収益は比例しません。朝比奈様ご個人の年収は、年間で一千万円を超えております」「む、難しいこ
脱出から少し時が流れ、私は新居のアパートで穏やかで平和な日々を送っていた。自分のペースで仕事をこなし、誰の機嫌を伺うこともない静かな時間。そろそろ、あの家では本当の「地獄」の幕が上がっている頃だろう。直樹の勤める保険代理店は、入社一年目こそ高い固定給が保証されているが、二年目からは完全歩合制へと移行する給与体系をとっている。だから、彼の給料はすでに激減しているはずだ。そもそも、直樹は一度だって年収一千万円に到達したことなどない。それなのに、なぜ彼が「俺は年収一千万円だ」とドヤ顔で語っていたのかといえば——そこには呆れるほど愚かな勘違いがあった。かつて私が自分の会社の口座と収支を確認していた際、「これなら年収一千万円に行くペースね」と呟いたことがあったのだ。私の仕事や収入を「主婦の気休め」「遊び」とバカにしていた直樹は、その言葉をあろうことか『俺の稼ぎで我が家の年収が一千万円に行く』のだと脳内変換し、自分が一千万円プレイヤーになったと錯覚したのである。他人の稼ぎを自分の手柄と思い込み、胸を張っていたのだから、おめでたいにも程がある。実際のところ、完全歩合制になった今の彼の給料は、手取りで約十万円程度まで落ち込んでいるはずだった。そこに転がり込んできた義母の年金が月々約七万円。二人合わせた世帯収入は月十七万円程度だ。無駄遣いをやめて節約すれば二人で細々と暮らしていくことは可能かもしれないが、あの直樹に「生活レベルを落とす」なんて芸当ができるわけがなかった。今までの癖で電気は四六時中つけっぱなし、暑がりだからとエアコンは設定温度を極限まで下げて二十四時間フル稼働。ドアは開けっ放しで冷気を逃がし、お風呂にもダラダラと長居する。さらに、これまで家事をすべて引き受けていた私が抜けたのだ。義母の作る大雑把で偏った料理に直樹が満足できるはずもなく、洗濯くらいはできても、腰が痛いと言っている義母に広すぎる家全体の掃除が行き届くはずもない。荒れ果てたゴミ屋敷の中で、跳ね上がる電気代と水道代の請求書に頭を抱えている姿が目に浮かぶようだった。
『真尋、俺が悪かった。やり直そう』『君がいないと、この家は冷たいんだ。やっぱり俺には君が必要なんだよ』『一度ゆっくり話し合おう。二人でやり直せるなら、俺は何だってする』スマートフォンの画面に次々と表示されるメッセージに、私は思わず呆れ混じりの溜め息をついた。弁護士からの受任通知が届いたというのに、直樹は未だに事態の深刻さを理解していないらしい。それどころか、あんなに上から目線でモラハラを連発していた男が、今さら急にしおらしくなって「君が必要だ」「やり直そう」などと気持ちの悪い「ロミオメール」を連日送りつけてくるのだ。自分の世話をしてくれるタダの家政婦がいなくなって困り果てたのか、あるいは暗闇の家で寂しさに耐えかねたのか。どちらにせよ、そこに私への本当の愛情や反省など一ミリも存在しない。(……本当に、こんなマザコン男を運命の人だと思い込んで結婚したなんて、私の人生最大の黒歴史だわ)一読して背筋が凍りつくような不快感を覚えた私は、一切の躊躇なく通知を消去し、彼の連絡先を完全にブロックした。自分の愚かな過去を一つずつ清算していく感覚は、驚くほど晴れやかで爽快だった。風の噂……というか、弁護士経由の報告によると、直樹はどこかで知恵をつけてきたらしく、停止していた電気、水道、ガスのライフラインを自分名義で再契約したらしい。 暗闇と猛暑の部屋で義母と途方に暮れるのに耐かねて、慌てて手続きをしたのだろう。「ふふ、別にいいのよ。好きなだけ再契約すれば?」新居のベランダで風に当たりながら、私は冷ややかに呟いた。 どうぞ、どうぞ。電気も水も思う存分使えばいい。本当の「地獄」がやってくるのは、これからなのだから。◇そして、脱出から一ヶ月が過ぎた頃。直樹は自宅で、あるいは銀行のATM前で、狂ったように頭を抱えて叫んでいるはずだ。「なんだよこれ……!? 金がまったくないじゃないか! 全部持っていったのかよ!?」そう、彼は今頃







