LOGIN「真尋、来週水曜から三日間、急遽出張が入ったわ」
夜の食卓で、缶ビールを傾けながら直樹が思わせぶりにドヤ顔を作った。 「俺クラスの営業になるとさ、上の役員から直接指名がかかるわけ。まあ、頼りにされるのも大変だけどな? 帰りは遅くなるどころか、三日間まるまる家を空けるから」 (三日間——!) 胸の中で、ずっと待ち望んでいたアラームがカチリと音を立てて鳴り響いた。 独自ルートでの情報でも「出張」という名の温泉旅行が計画されていると書かれていた。嘘をつく時に彼が必ずやる、人差し指で鼻の頭を擦る癖までいつも通りだ。 「まあ、急な出張なんて大変ね。おうちのことは気にしないで、お仕事に集中してきて頂戴」 私は顔に完璧な「おしとやかな妻」の微笑みを張り付け、甲々しい声で応じた。 「おう、頼むわ。お前は家で呑気に過ごせて気楽でいいよな。飯の心配もしなくていいんだからさ」 自分の優越感と嘘の成功に酔いしれている直樹は、私の微笑みの奥にある冷たい光に欠片も気づいていない。 来週の月曜から水曜までの三日間。土日にかかるから五日間の可能性もある。 ついに、私が水面下で仕込んできたすべての仕掛けを一気に爆発させる「Xデー」の日程が確定したのだ。 ◇ そして迎えた、出張当日の朝。 大きめのボストンバッグを肩にかけ、鼻歌まじりに玄関へ向かう直樹の背中に、私はとびきり甘い声をかけた。 「行ってらっしゃい、あなた。お仕事、頑張ってきてね」 「おう、行ってくる。せいぜい家の中を綺麗に片付けておけよ」 カチャリとドアが閉まり、ガレージからレクサスが走り去る音が遠のいていく。 その瞬間、私の顔から「妻」の仮面が完全に剥がれ落ちた。 「……よし。それじゃあ、始めましょうか」 スマホを取り出し、あらかじめ手配しておいた出張買取のリサイクルショップと赤帽へ一斉に「作業開始」の連絡を入れる。これまで秘密裏に進めていた脱出計画が、怒涛の勢いで動き出した。 一時間後。我が家の前に大型トラックと赤帽の軽トラが横付けされた。 作業員たちが手際よく、リビングの六十インチの大型テレビ、三ドアの大型冷蔵庫、革張りソファー、ローテーブル、ドラム式洗濯機、寝室の大きなタンスや食器棚を次々と搬出していく。 これらはすべて、かつて直樹が「俺の見栄えに合うものを揃えてやる」とドヤ顔で指定してきた家具や家電だ。けれど、購入時にクレジットカードを切り、代金を全額支払ったのは私自身。名義も所有権も私にある。 私の金で買ったものを、この家に残していく理由なんて一ミリもない。 新しく契約した隠れ家は、身軽な一人暮らし用のワンルームだ。こんな大型の冷蔵庫やドラム式洗濯機を持ち込んでも、サイズが大きすぎて入るはずがない。けれど、だからといって私が買い揃えた家具や家電を、直樹が我が物顔で使い続けるなんて想像するだけで虫酸が走る。 新居で使う予定なんてなくてもいい。二束三文の査定額で叩き売られようが構わないのだ。直樹が「自分の甲斐性」だと思い込んでいた所有物を、この家から根こそぎ引き揚げてやることが何より重要なのだから。 押し入れの奥に隠していたダンボール十数箱と、私の最小限の私物が赤帽の軽トラへと積み込まれていく。 「奥さん、これで全部ですね。なんかちょこっとだけ荷物残ってますけど、大丈夫ですか? 一緒に運べますよ?」 「いえ、あれはあのままで」 「了解でーす」 作業員の男性が、拍子抜けしたような顔で空っぽになったリビングを見渡した。 壁に飾っていた写真も、私の衣類も、家具も家電も——私という人間がこの家に存在していた痕跡のすべてが綺麗さっぱり消え去り、そこには冷たい床と壁だけが残されていた。 「ええ、ありがとうございます。完璧です」 作業員を見送り、誰もいなくなった静寂の空間に一人立つ。 三日後、浮気相手と甘い時間を過ごし、浮かれ足で帰ってきた直樹がこの玄関を開けた時、一体どんな顔をするのだろう。 電気もガスも水道も止まり、家具ひとつない暗闇の廃墟で、彼は立ち尽くすに違いない。自分が乗り回しているレクサスも、住んでいるはずの家も、最初から自分のものではなかったと思い知らされるのだ。 (ふふっ……あははっ!) 込み上げてくるおかしさに、ついに耐えきれなくなった。 誰もいない空っぽの部屋に、私の冷ややかな笑い声がどこまでも高く響き渡っていった。かつて掃除や洗濯を完璧にこなしていた私に向かって、「主婦は気楽でいいよな」「世の中の厳しさが分かっていない」とモラハラ発言を繰り返していた元夫の直樹。現在直樹とその母親が住んでいる家は、私が祖母から相続したものだ。そこに直樹が居座っていた。このままにしていたら当然のようにずっと住み続けてしまう。 私としても思い出ができてしまったので、取り返してももう住めない。建物も古くなっていたし、思い切って取り壊して売ってしまうことにした。 そして、取り壊し当日の朝。 元の我が家の前に到着した私は、思わず呆れ果ててしまった。 今日が家の解体日だというのに、直樹と義母は家の中から荷物の運び出しすらしていなかったのだ。 私が脱出した際、私名義の家具や家電はすべて引き揚げて売却したため、家の中は完全にもぬけの殻だったはずだ。けれど、そのままでは生活ができないからと、彼らは義母の乏しい老後の貯蓄を取り崩し、一人暮らし用の小さな冷蔵庫や洗濯機、電子レンジなどの最低限の家電を買い揃えていたらしい。 だが、勝てるはずもない案件で弁護士費用を無駄に使ってしまったため、義母の貯金はすでに底をついていた。引っ越し業者を頼むお金も、次に住む物件の契約資金すら残っていなかったのだ。 やがて、重々しいエンジン音を響かせて、大型の重機が現場に運び込まれてきた。 現場に立つ私の姿を見つけるやいなや、直樹と義母は「チャンスだ」とばかりに目を血走らせ、私の前に立ちはだかった。 「真尋! 頼むから工事を止めてくれ!」 何を言っているのか。もう、業者さんも来ているのに止まるわけがない。 「俺たちを笑いに来たのか! 家がなくなったら本当に住むところがなくなるんだぞ!」 私はある意味、笑いに来たのかもしれない。別に来なくても解体作業は業者さんがやってくれる。目の前で泣き言を言う直樹の言葉を浴びながら、私は口元が緩んでいかもしれない。
現在直樹とその母親が住んでいる家は、私が祖母から相続したものだ。そこに直樹が居座っていた。このままにしていたら当然のようにずっと住み続けてしまう。私としても思い出ができてしまったので、取り返してももう住めない。建物も古くなっていたし、思い切って取り壊して売ってしまうことにした。そして、取り壊し当日の朝。 元の我が家の前に到着した私は、思わず呆れ果ててしまった。 今日が家の解体日だというのに、直樹と義母は家の中から荷物の運び出しすらしていなかったのだ。 私が脱出した際、私名義の家具や家電はすべて引き揚げて売却したため、家の中は完全にもぬけの殻だったはずだ。けれど、そのままでは生活ができないからと、彼らは義母の乏しい老後の貯蓄を取り崩し、一人暮らし用の小さな冷蔵庫や洗濯機、電子レンジなどの最低限の家電を買い揃えていたらしい。 だが、勝てるはずもない案件で弁護士費用を無駄に使ってしまったため、義母の貯金はすでに底をついていた。引っ越し業者を頼むお金も、次に住む物件の契約資金すら残っていなかったのだ。 やがて、重々しいエンジン音を響かせて、大型の重機が現場に運び込まれてきた。 現場に立つ私の姿を見つけるやいなや、直樹と義母は「チャンスだ」とばかりに目を血走らせ、私の前に立ちはだかった。 「真尋! 頼むから工事を止めてくれ!」 何を言っているのか。もう、業者さんも来ているのに止まるわけがない。「俺たちを笑いに来たのか! 家がなくなったら本当に住むところがなくなるんだぞ!」私はある意味、笑いに来たのかもしれない。別に来なくても解体作業は業者さんがやってくれる。目の前で泣き言を言う直樹の言葉を浴びながら、私は口元が緩んでいかもしれない。 開口一番、自分たちの身勝手な都合と一方的な希望だけをまくし立てる元夫。 隣に立つ義母も、これまでの嫁いびりやモラハラをなかったことにしようと、必死に醜い言い訳を並べ立てる。 「そうよ真尋さん! 私はね、あなたが可愛かったからこそ佐伯家のやり方を教
数日後、直樹はあろうことか自前の弁護士を引き連れて、再びこちらの弁護士事務所へと乗り込んできた。前回あんなに惨敗したというのに、隣に味方の弁護士を従えているせいか、その表情には隠しきれないドヤ顔が浮かんでいる。(弁護士を連れて相手の事務所に乗り込むなんて、着手金だけでも二〇万から三〇万……こんな勝てる見込みのない無謀な案件なら、下手したら五〇万近く請求されているはずだけど……どこからそんなお金を?)不審に思ってスマートフォンを確認すると、ブロックを解除していた義母から頭の痛くなるような長文メッセージが届いていた。『弁護士先生にたっぷりお金を払ったわ! あなたから「慰謝料」と「養育費」と「遺産分配」を根こそぎぶんどってもらうんだから! 覚悟しなさい!』メッセージを読みながら、私は思わず天を仰いだ。 私が何をしたから「慰謝料」が発生するというのか。子どももいないのに「養育費」とは一体誰を育てる費用なのか。直樹の「養育費」とでも言いたいのだろうか。「遺産分配」に至っては冗談としか思えない。誰が死んだというのだ。まさか私? 勝手に殺さないでほしいのだが、仮に今私が死んだとしても、すでに他人である直樹の手には一円だって渡らない。こんな常識も言葉の意味も知らない連中に「佐伯家の味を覚えていない」「掃除の仕方が間違っている」と威張り散らされていたのかと思うと、怒りを通り越して惨めさと哀れみが込み上げてくる。対面に座った相手の弁護士が、咳払いを一つして高圧的に書類を叩いた。「朝比奈真尋様。我が依頼人は、あなたが小説執筆で得た多額の収益につ
弁護士事務所の重厚な応接室。 対面に座る直樹は、怒りと焦りで顔を真っ赤にし、テーブルを叩く勢いで身を乗り出してきた。「俺には金がないんだよ! お前が通帳も金も全部持って行ったからだ! これは違法だろ! 生活費を返せ!」まじめな顔をして叫ぶ元夫を前に、私はピクリとも動かず、ただ冷ややかな視線を向ける。弁護士さんからの事前の指示通り、私は一言も発しない。私が直接言葉を交わす価値など、この男にはないのだ。私のかたわらに座る担当弁護士が、静かに眼鏡の奥の目を光らせ、書類に目を落としたまま淡々と口を開いた。「佐伯直樹様。生活費とおっしゃいますが、あなたの給料はずっと手取り十万円ほどですね。保険会社に入社された初年度だけ、月給三十五万円という時期が一年間ほどあったようですが……直樹様がご覧になった通帳は、すべて朝比奈真尋様の口座となります」「は……? じゃあ、俺の年収は百二十万円くらいしかないってことかよ!?」「そうなりますね」「おかしいだろ! 真尋はただの主婦だぞ! 家事だってやってたのに、そんなに収入があるはずがない!」直樹の支離滅裂な叫びに、弁護士はフッと小さく口角を上げた。「朝比奈様は書籍を何冊も出版されているプロの小説家です。佐伯様の『労働収入』とは違い、著作権に伴う『権利収入』ですので、労働時間と収益は比例しません。朝比奈様ご個人の年収は、年間で一千万円を超えております」「む、難しいこ
脱出から少し時が流れ、私は新居のアパートで穏やかで平和な日々を送っていた。自分のペースで仕事をこなし、誰の機嫌を伺うこともない静かな時間。そろそろ、あの家では本当の「地獄」の幕が上がっている頃だろう。直樹の勤める保険代理店は、入社一年目こそ高い固定給が保証されているが、二年目からは完全歩合制へと移行する給与体系をとっている。だから、彼の給料はすでに激減しているはずだ。そもそも、直樹は一度だって年収一千万円に到達したことなどない。それなのに、なぜ彼が「俺は年収一千万円だ」とドヤ顔で語っていたのかといえば——そこには呆れるほど愚かな勘違いがあった。かつて私が自分の会社の口座と収支を確認していた際、「これなら年収一千万円に行くペースね」と呟いたことがあったのだ。私の仕事や収入を「主婦の気休め」「遊び」とバカにしていた直樹は、その言葉をあろうことか『俺の稼ぎで我が家の年収が一千万円に行く』のだと脳内変換し、自分が一千万円プレイヤーになったと錯覚したのである。他人の稼ぎを自分の手柄と思い込み、胸を張っていたのだから、おめでたいにも程がある。実際のところ、完全歩合制になった今の彼の給料は、手取りで約十万円程度まで落ち込んでいるはずだった。そこに転がり込んできた義母の年金が月々約七万円。二人合わせた世帯収入は月十七万円程度だ。無駄遣いをやめて節約すれば二人で細々と暮らしていくことは可能かもしれないが、あの直樹に「生活レベルを落とす」なんて芸当ができるわけがなかった。今までの癖で電気は四六時中つけっぱなし、暑がりだからとエアコンは設定温度を極限まで下げて二十四時間フル稼働。ドアは開けっ放しで冷気を逃がし、お風呂にもダラダラと長居する。さらに、これまで家事をすべて引き受けていた私が抜けたのだ。義母の作る大雑把で偏った料理に直樹が満足できるはずもなく、洗濯くらいはできても、腰が痛いと言っている義母に広すぎる家全体の掃除が行き届くはずもない。荒れ果てたゴミ屋敷の中で、跳ね上がる電気代と水道代の請求書に頭を抱えている姿が目に浮かぶようだった。
『真尋、俺が悪かった。やり直そう』『君がいないと、この家は冷たいんだ。やっぱり俺には君が必要なんだよ』『一度ゆっくり話し合おう。二人でやり直せるなら、俺は何だってする』スマートフォンの画面に次々と表示されるメッセージに、私は思わず呆れ混じりの溜め息をついた。弁護士からの受任通知が届いたというのに、直樹は未だに事態の深刻さを理解していないらしい。それどころか、あんなに上から目線でモラハラを連発していた男が、今さら急にしおらしくなって「君が必要だ」「やり直そう」などと気持ちの悪い「ロミオメール」を連日送りつけてくるのだ。自分の世話をしてくれるタダの家政婦がいなくなって困り果てたのか、あるいは暗闇の家で寂しさに耐えかねたのか。どちらにせよ、そこに私への本当の愛情や反省など一ミリも存在しない。(……本当に、こんなマザコン男を運命の人だと思い込んで結婚したなんて、私の人生最大の黒歴史だわ)一読して背筋が凍りつくような不快感を覚えた私は、一切の躊躇なく通知を消去し、彼の連絡先を完全にブロックした。自分の愚かな過去を一つずつ清算していく感覚は、驚くほど晴れやかで爽快だった。風の噂……というか、弁護士経由の報告によると、直樹はどこかで知恵をつけてきたらしく、停止していた電気、水道、ガスのライフラインを自分名義で再契約したらしい。 暗闇と猛暑の部屋で義母と途方に暮れるのに耐かねて、慌てて手続きをしたのだろう。「ふふ、別にいいのよ。好きなだけ再契約すれば?」新居のベランダで風に当たりながら、私は冷ややかに呟いた。 どうぞ、どうぞ。電気も水も思う存分使えばいい。本当の「地獄」がやってくるのは、これからなのだから。◇そして、脱出から一ヶ月が過ぎた頃。直樹は自宅で、あるいは銀行のATM前で、狂ったように頭を抱えて叫んでいるはずだ。「なんだよこれ……!? 金がまったくないじゃないか! 全部持っていったのかよ!?」そう、彼は今頃