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第11章 昼食

サムはエレノアのお腹の派手な音を聞き、必死に笑いを堪えた。しかし、アーチーの冷たく鋭い視線を浴びるやいなや、すぐさま深々とうつむいた。アーチーは再びエレノアへまっすぐ視線を戻した。うつむいたままのエレノアを見つめるその顔は、相変わらず無表情だった。「サム」アーチーは淡々とした声で、秘書を振り返りもせずに命じた。「今すぐ昼食を買って、私の執務室へ届けてくれ」「承知いたしました、社長」サムは素早く応じた。エレノアは目を見開き、勢いよく顔を上げた。照れくささは瞬時に困惑へと変わる。彼女がその指示の意味を噛み砕く間もなく、アーチーの平坦な声が再び響いた。「私の部屋へ来い」アーチーは反論を許さない目つきでエレノアを見つめた。エレノアは息を飲んだ。驚きを隠せない表情でアーチーを見つめる。「な、なぜ私が社長室へ伺わなければならないのでしょうか、リヒター社長?」エレノアの思わず出た質問に、去ろうと背を向けかけたサムが足を止めた。サムは驚いたようにチラリとエレノアを見やり、それからボスの顔を盗み見た。「昼食だ」アーチーは短く返した。その口調はどこまでも冷ややかで平坦だった。エレノアは慌てて首を振り、スーツの裾を強く握りしめた。「結構でございます、リヒター社長。お心遣いありがとうございます。私はこれから社員食堂へ参りますので」エレノアは指先で食堂のある方向を指し示した。彼女は礼儀を保つため、無理にささやかな笑みを浮かべた。他の社員が通りかかる前にこの会話を終わらせようと、小さくお辞儀をする。「それでは、私は食堂へ失礼いたします、リヒター社長、サムさん」エレノアは背を向け、食堂へ向かって早足で歩き出そうとした。しかし、一歩を踏み出した瞬間、力強い手が突如として彼女の腕を掴み引き止めた。エレノアはハッとして、半ば強制的に足を止められた。パニックになりながら振り返ると、アーチーの右手がかたく自分の腕を掴んでいた。エレノアの心臓は激しく波打ち、彼女は不安そうに周囲の廊下を見回した。「リヒター社長、手を放してください……」エレノアは声を震わせ、騒ぎを立てないよう静かに腕を引き抜こうと試みた。「本当に食堂で食べますから。嘘ではありません」アーチーは掴んだ手を緩めなかった。彼は拒絶を許さない強い眼差しでエレノアを射抜いた。「もうすぐ1時半にな
last updateDernière mise à jour : 2026-09-12
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第12章 食欲の欠落

エレノアは膝の上で両手を強く握りしめた。膝をぴったりと揃え、全身をガチガチに強張らせる。ダークトーンで統一された広大な社長室の中にいるというだけで、息が詰まるほどの緊張感に包まれていた。体を動かすことどころか、普通に呼吸をすることすらエレノアには難しく思えた。部屋の隅にある大きな執務デスクへと、気まずそうに視線を送る。そこではアーチーが威厳ある椅子に静かに腰掛け、指先を休めることなく重要書類のページをめくっていた。まるでソファに座るエレノアの存在など、まったく気にしていないかのように。室内の息苦しい空気がいよいよ耐えがたくなり、エレノアはついに意を決して声をかけた。「……リヒター社長」アーチーは応じなかった。目の前の書類から視線すら外そうとしない。エレノアは生唾を飲み込み、急速に干からびていく喉を整えようと試みた。「その……もしお昼ご飯が届きましたら、私のデスクへ持って帰って食べてもよろしいでしょうか? ここに留まるのは、少々恐縮してしまいまして」返ってきたのは、やはり沈黙だった。アーチーは黙まり決め込んでおり、エレノアをいっそう気まずくさせた。彼女は慌ててうつむき、この頑固な男の指示に逆らおうとした自分の愚かさを心の中で呪った。コンコン!ドアを叩く音が、静まり返った室内の緊張を破った。重厚な木製のドアが開き、中身の詰まった紙袋を手にしたサムが入ってきた。温かい料理の香りがふわりと広がる。サムは食事を渡すため、アーチーの執務デスクへ向かおうとした。しかし、2歩ほど踏み出したところで、アーチーが極めてかすかに首を振るのが見えた。エレノアが座るソファの方を指し示す、目立たない合図だった。サムは即座に意図を理解し、足取りを変えた。彼は温かい微笑みを浮かべてエレノアに歩み寄る。「昼食です、エレノアさん。どうぞ」エレノアは両手で慌てて紙袋を受け取った。「ありがとうございます、サムさん。お手数をおかけしました」「滅相もございません」サムは誠実に答えた。ボスの様子をチラリと伺うと、エレノアに向かってささやいた。「実は、リヒター社長もスケジュールが詰まっていて、昼から何も口にされていないのです。よろしければ、一緒に食事に誘ってみてはいかがですか?」エレノアは小さく息を呑み、信じられない様子でサムを見つめた。そしてアーチーのデスクへ視線を走
last updateDernière mise à jour : 2026-09-12
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第13章 アビゲイルの懲罰

エレノアは最後の一口を慌ただしく飲み込んだ。弁当箱とゴミを素早く紙袋に片付けると、深々と息を吐き出す。「では、自分の部署へ戻ります、社長」エレノアは先に退室の挨拶をした。アーチーが小さく頷くのを確認すると、胸を撫でおろし、急いで彼の執務室を後にした。ずっと威圧感に晒されていた空間から一歩外へ出ると、エレノアの胸に一気に安堵感が広がった。すぐさまエレベーターに乗り込み、自身の所属する企画部がある5階へと向かう。5階に到着すると、残された仕事を片付けるため、廊下を通って自席のキュービクルへと向かった。しかし、パーテーションの角を曲がった直後、進行方向を塞ぐように立つ人物の姿が目に入り、エレノアの足はピタリと止まった。アビゲイルがそこに立っていた。胸の前で腕を組み、射抜くような鋭い視線を投げかけている。「いい度胸ね、エレノア。休暇明けの初日から、堂々と仕事をサボるなんて」アビゲイルの声は冷たく、刺々しかった。周囲の静寂を破るには十分な声量だった。エレノアは驚きで目を見開いた。「サボる? めっそうもございません、アビゲイル主任。そんなのではありません」アビゲイルは一歩踏み出し、エレノアを頭からつま先まで嘲笑うように見下ろした。「そんなんじゃない? じゃあどういうこと? 説明してみなさいよ」エレノアは唾を飲み込み、困惑と焦りに包まれた。社長室に引き留められていたなどと口が裂けても言えない。何としても別の理由で納得してもらう必要があった。「私は……サボっていたわけではありません。下の階のアーカイブ室に書類を整理して提出した後、少し遅めの昼食をとっていただけです」その答えを聞いたアビゲイルの目に、激しい蔑みが浮かんだ。(階下であんな光景を見せておいて、よくもまあ抜け抜けと嘘がつけるものだわ)アビゲイルは心の中で吐き捨て、冷ややかな視線を浴びせる。アビゲイルは左手を上げ、右の手首に巻かれた腕時計の文字盤を、これ見よがしに指先でトントンと叩いた。「『少し遅めの昼食』、ですって? 今何時だと思っているの、エレノア? 昼休憩の時間はとうに過ぎているわ。定められた時間外に私用で業務時間を潰すこと、それを世間では『サボり』と言うのよ」アビゲイルは身を乗り出し、エレノアを詰め寄るように見つめた。「他に言い訳はあるかしら? 一体どこで誰と何をしていたから
last updateDernière mise à jour : 2026-09-12
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第14章 曖昧な境界線

エレノアは何度目になるか分からない雑巾の絞り直しをしていた。目の前にあるプラスチックのバケツには、すっかり濁った石鹸水がたまっている。何時間もかけてトイレの床を磨き上げ、企画部の隅々まで掃除機をかけ続けたせいで、背中と両腕には激しい痛みが走っていた。彼女は大きなガラス窓の外へ目をやった。街の空はすっかり暗闇に包まれ、高層ビルの群れが点滅させる明かりだけが残されている。企画部のブースエリアも、すでに静まり返っていた。アビゲイルを含むすべてのスタッフは、夕方5時の定刻に帰宅している。意図的に消されずに残された廊下の薄暗い灯りの下には、ただエレノアひとりだけが取り残されていた。エレノアは深々と息を吐き出し、身体を蝕む疲労感を追い払おうと試みた。早く帰宅して身体を休めたい一心で、彼女は再びモップの柄を握り直し、廊下の最後の列を拭き上げようと決意を新たにした。一方その頃。リヒター・コンパニービルの最上階では。アーチーが役員専用エレベーターを降り、メインロビーエリアへと足を進めていた。グレーのジャケットは左腕に引っ掛け、役員とのマラソン会議を終えて息苦しくなったネクタイの結び目を右手に緩めている。アーチーは無人となった受付デスクの近くで足を止めた。左手首を上げ、巻かれた銀色の腕時計に視線を落とす。針は8時15分を過ぎていた。アーチーの眉間に微かな皺が寄る。残業はせず、家で一緒に夕食をとるよう頼んできた今朝の母親の言葉が脳裏をよぎった。しかし、彼の心を騒がせていたのは別の事実だった。夕方5時からビルの前で待機させていた送迎車から、「エレノア様がまだ5階から降りてこられない」という報告が入っていたのだ。「エレノアがまだ降りてきていないというのは確かだな?」アーチーは自邸の運転手を鋭い眼差しで見つめ、確認した。「左様でございます、社長。先ほどからずっと待機しておりますが、一向にお姿を現されません」アーチーの眉間の皺が深くなった。彼は背を向け、再びエレベーターへと乗り込むと「5」のボタンを強く押し込んだ。エレベーターはゆっくりと下降し、目的の階へと到達する。ドアが開くと、静寂と薄暗い空気がアーチーを迎え入れた。高級な革靴の足音が、人気のない廊下に響き渡る。ブースの仕切りに沿って歩いていたアーチーの目に、女子トイレ近くの廊下の隅で、モップを
last updateDernière mise à jour : 2026-09-13
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第15章 温かい家

役員専用エレベーターの中の静寂はひどく重苦しく、地下駐車場へ向かって下降する機械の静かな駆動音だけが響いていた。エレノアは背後の隅で固くなり、アーチーの背中から放たれる威圧感あふれるオーラから身を守る盾にするかのように、通勤バッグを強く抱きしめていた。アーチーは彼女の前に仁王立ちし、一度も振り返ることなくまっすぐエレベーターの扉を見つめている。役員専用の駐車エリアで扉が開くと、アーチーが真っ先に足を踏み出した。彼の歩幅は広く、テンポも一定だったため、エレノアは置いていかれまいと、後ろを半ば小走りでついていくしかなかった。高級感のある黒のセダンが、静かにエンジンを響かせて待機していた。主人の接近を目にしたアーチーの専属運転手が慌てて車から降り、後部座席のドアを開けた。彼はロビー前ではなく、指示通りここで待機していたのだった。アーチーは開いたドアのすぐ脇で立ち止まると、振り返ってエレノアに向き合った。「乗れ」と短く命じる。エレノアは一瞬ためらった。「リヒター社長、私は自分でタクシーを拾って帰りますので——」「乗るんだ、エレノア。二度同じことを言わせるな」アーチーが言葉を遮った。その声は氷のように冷たかったが、反論を許さない絶対的な重みを含んでいた。この男と議論を重ねることは、すでに擦り切れきった自分の時間と体力を浪費するだけだとエレノアは悟った。彼女はうつむいたまま、シダーウッドと高級レザーの香りが漂う車内へと乗り込んだ。アーチーが続いて乗り込み、後部座席の反対側に腰掛けた。二人の間には十分な距離が保たれていた。薄暗くなり始めた街の道路を突き進む道中、アーチーの口から言葉が発せられることは一度もなかった。彼はただ無表情のまま窓の外を眺めているか、時折スマートフォンでいくつかのメールを確認しているだけだった。彼の冷淡な態度は、今夜エレノアを連れ帰るという決断が決して甘い優しさから出たものではなく、効率的な時間管理と契約上の義務に過ぎないのだと告げているようだった。エレノア自身も、重くなった頭を車の窓ガラスに預けることしかできなかった。疲労と、夕食を抜いたことによる胃の疼きが重なり、車体の規則正しい微振動に誘われて、彼女はゆるやかに瞼を閉じた。夜の9時を回った頃。車はついにリヒター家の豪華な邸宅の門をくぐった。車が車寄せに静かに停
last updateDernière mise à jour : 2026-09-13
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第16章 満たされたクローゼット

大きな食堂には、ただ静寂が漂っていた。カトラリーがポーセリンのディナー皿に触れる微かな音だけが響いている。エレノアはゆっくりと料理を噛みしめていたが、その視線はどうしても目の前に腰掛ける男から離せなかった。アーチーは整然とした動作で皿の上のロースト肉を切り分け、二口ほど口に運ぶと、すぐにナイフとフォークを皿の端へ揃えて置いた。彼は椅子に背を預け、グラスのお冷やを手に取ると、ほんの少しだけ口を湿らせた。それだけだった。彼の皿には、まだ大半の料理が残されている。エレノアの眉間に微かな皺が寄る。昼間覚えたあの違和感が、再び胸の奥から這い上がってきた。この家の料理人が振るう腕前は確かなもので、運ばれてくる料理はどれも実に美味しかった。しかし、なぜアーチーはいつも二口ほどで箸を止めてしまうのだろうか。エレノアはそっとスプーンを置き、意を決して声をかけた。「……リヒター社長。申し訳ありません、お口に合いませんでしたか?」アーチーはすぐには答えず、ただ淡々とした視線をエレノアに向けた。その無言の圧力に、エレノアは思わず手にしていたフォークとナイフを強く握りしめた。(余計な質問をするべきではなかった……)彼女は己の浅はかさを恥じた。「早く食べ終えなさい」アーチーは冷ややかに告げた。低く抑えられた声には、それ以上の追求を許さない響きがあった。エレノアは小さく息を呑んだ。目の前の男が踏み込まれるのを嫌がっていることを察し、彼女はおとなしく指示に従う道を選んだ。一日中体力を削られ続けた身として、これ以上余計な波風を立てたくはなかったため、黙々と食事を続けた。気まずい夕食を終えると。エレノアはすぐさま自室へと戻り、アーチーは反対側の廊下の突き当りにある書斎へと向かった。エレノアはその隙を利用して、身づくろいを済ませることにした。シャワーの温かい湯あみが、アビゲイルからの懲罰によって強張っていた背中のコリを少し解きほぐしてくれた。入浴を終え、髪を乾かすと、着替えを取るためにウォークインクローゼットへと足を踏み入れた。しかし、昨夜アーチーから「君の分だ」と指示された右側の大きなタンスの引き戸を開けた瞬間、エレノアはその場に凍りついた。言葉を失い、ただ目を見張る。大きなクローゼットの中は、もはや空っぽではなかった。そこには、何着ものオフィス用
last updateDernière mise à jour : 2026-09-13
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第17章 増していく好奇心

カーテンの隙間から差し込む朝の光が、エレノアの深い眠りを覚ました。彼女はまばたきを繰り返し、大きな抱き枕で仕切られたベッドの反対側へ目をやった。空っぽだった。アーチーはすでにそこにはいなかった。シーツに残された微かなシワだけが、男が早くに起き出したことを物語っている。彼がどこにいるのか分からず、エレノアは急いでベッドを抜け出し、身づくろいをするためにバスルームへと向かった。しばらくして。シャワーを浴び終えたエレノアは、ウォークインクローゼットへと歩を進めた。クローゼットのいちばん端に置かれた、自分の着古したブラウスに手を伸ばそうとする。しかし、昨夜のアーチーの表情が頭をよぎり、エレノアの動作がピタリと止まった。またあの威圧的な冷ややかな視線を浴びせられるくらいならと、エレノアはついに手を滑らせた。整然と掛けられた新品の仕事着の中から、生成り色のサテンブラウスとモカ色のハイウエストのスラックスという組み合わせを選び取る。鏡の前に立ち、姿を映してみる。いつもの安価な服とはまるで違う、しなやかで高級感あふれる生地の肌触りに、どこか居心地の悪さを覚えた。しかし、アーチーの威圧的な態度を避けるためなら、おとなしく彼のルールに従っておくのが最善策だった。身支度を整え、ウォークインクローゼットから足を踏み出す。すると、部屋に戻ってきたアーチーと鉢合わせた。彼はトレーニングを終えたばかりのようだった。ノースリーブのグレーのTシャツは汗で微かに湿り、逞しい肩の筋肉のラインをくっきりと浮き彫りにしている。アーチーの黒い瞳がまっすぐに動き、クローゼットのドアの脇で固まっているエレノアを捉えた。「おはようございます、リヒター社長」エレノアはフォーマルに挨拶し、反射的に小さく頭を下げた。アーチーはすぐには答えなかった。部屋の中央に佇み、無表情な瞳でエレノアを頭からつま先まで解読不能な視線で見つめている。次の瞬間、彼の唇の端がごく微かに上がり、注意深く観察していなければ見落としてしまうほど微小な笑みが浮かんだ。「その服、似合っている」アーチーは深く抑えられた声で短く告げた。エレノアの返答を待つことなく、彼はバスルームへと歩き去った。エレノアは一瞬呆然と立ち尽くし、それから自分の身にまとった衣服に視線を落とした。安堵の微笑みが彼女の唇にそっと広が
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第18章 親友

エレノアが振り返ると、財務部に所属する親友のベラが、バス停の方から半ば小走りで駆け寄ってくるのが見えた。親友の姿を目にし、エレノアの顔にぱっと明るい笑顔が浮かんだ。「エレノア! ようやく捕まえたわ」歩道でエレノアと並んだベラは、少し息を弾ませながら言った。「おはよう、ベラ。あなたも今着いたの?」エレノアが親しく尋ねる。ベラは頷くと、すぐさま探るような視線をエレノアに向けた。「ちょっと、どこに行っていたのよ? 昨日の昼休み、食堂でずっと探していたのにいなかったじゃない。チャットの返信も全然くれないし」エレノアは小さくため息をつき、昨日の疲労困憊した出来事を思い返して少し肩を落とした。「それどころじゃなかったのよ、ベラ。昨日は本当に怒涛の一日だったの」ベラは驚いて眉をひそめた。「それどころじゃなかった? どうして? 企画部の仕事が急に山積みになったの?」エレノアはチラリとベラを見やり、口元に苦笑いを浮かべた。「昨日何があったか話しても、絶対に信じてくれないわよ」「何があったのよ? 言ってみて、エレノアの言うことなら何でも信じるわ」ベラは興味津々に、エレノアの腕を突つきながら説明を求めた。エレノアの心は一瞬揺れ動いた。胸の中に溜まった重荷をすべて吐き出し、アーチーとの秘密の契約結婚のことや、昨日の昼に社長室へ閉じ込められていたことを話してしまいたい衝動に駆られた。しかし、社内ではこの秘密を徹底的に守るとアーチーと交わした厳しい誓約を思い出し、エレノアは思い直さざるを得なかった。「仕事とは直接関係ないのよ、ベラ」エレノアは嘘をつき、話を逸らそうとした。「ただ……アビゲイル主任が昨日から急におかしくなってね。まるで私を丸呑みにしそうなほど凄まじいオーラを出しているの」ベラは困惑して首をかしげた。「おかしいってどういうこと? あなたに何かしたの?」「理由は分からないの。でも昨日、朝からずっと私に難癖をつけてきて」エレノアは低く呟きながら、ビルのロビーへと足を進めた。「朝一番で、先週すでにデジタル化が終わっている古い報告書の原本を整理させられて。それから昼には、企画部のフロア全体と社員トイレのモップがけを一人でやるよう命じられたのよ」ロビーのフラッパーゲートの手前で、ベラの足がピタリと止まった。顔を衝撃で強張らせる。「はあ!? フロア全体のモッ
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第19章 餌と報酬

エレノアはアビゲイルの数メートル手前で足を止めた。喉を鳴らして生唾を飲み込み、今朝の主任の醸し出す威圧感に気おされそうになりながらも、できる限り平静を装う。「おはようございます、アビゲイル主任」エレノアは職場の礼儀を守り、声を低く抑えて挨拶した。アビゲイルは応じなかった。組み合わされていた腕を解くと、ゆっくりと歩み寄る。「結構ね。今朝は1分の遅刻もないわ、エレノア。昨日みたいな致命的なミスは二度と繰り返さないことね」「はい。二度といたしません」エレノアは素直に答えた。「ちょうどいいわ。今日、内部監査チームが過去2クォーター分の企画部の予算報告書を全件チェックすることになったの。システム上のデジタルデータと、すべての紙資料を再照合してもらうわ」アビゲイルは淡々と言い放つと、書類のコード番号がズラリと並んだ1枚のリストを突きつけた。「どんなに些細な数値のズレでも、すべて手書きで記録すること。作業が完了するまで、デスクを離れることは一切許可しないわ。分かったわね?」エレノアは紙に記載されたリストに目を落とした。膨大な量であり、極めて高い集中力と精密さが求められる作業だった。時間と体力を著しく消耗するタスクであることは明白だった。しかし、これは事務職の業務範囲として筋の通った内容であり、エレノアに断る口実はなかった。「承知いたしました。ただちに作業に取りかかります」朝8時。エレノアはPC画面と積み上がった書類の山に向かって、完全に没頭し始めた。周りの様子を気にする余裕すらなく、数値の列を一行ずつ精査し、データを比較して重要なポイントを淡々と記録していく。山積みのタスクに追われ、スマートフォンに目をやる暇も、ましてやデスクを離れようという発想すら浮かばない。彼女は昼休憩の時間が訪れるまで、完全に作業に没頭し続けた。エレノアが部署の書類の山に忙殺されている頃、アビゲイルはすでにリヒター・コンパニーのビルを後にしていた。彼女は車を走らせ、オフィス街からほど近い高級ビジネス街にある、プライベート感を重視した隠れ家レストランへと向かった。予約されていたVIPルームのドアが給仕によって開けられると、アビゲイルの顔にパッと大きな笑みが広がった。洗練された内装の室内の奥で、グレタ・リンデマンが優雅にカモミールティーを嗜んでいた。「ごきげんよう
last updateDernière mise à jour : 2026-09-13
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第20章 隠された気遣い

リヒター・コンパニービルの最上階。サムはノックをした後、社長執務室へと足を踏み入れた。アーチーが座る大きな執務デスクへと近づき、軽く頭を下げる。「リヒター社長」サムが静かに呼びかけた。「エレノアさんに関するご報告がございます」アーチーはモニターから視線を外さなかったが、キーボードを叩く指の動きを止めた。「言え」「先ほど5階のスタッフから情報を得たのですが、エレノアさんは自席のキュービクルに留まったままで、昼食にまったく出ておられないようです」サムが淀みない口調で報告する。アーチーは作業を完全に停止させた。椅子の背もたれに体を預けると、冷ややかな瞳でサムを見つめた。「企画部の仕事は、スタッフが昼食をとる時間すら省かなければならないほど山積みになっているのか?」「部署全体のスタッフというわけではございません、社長」サムは声を少し落として答えた。「エレノアさんだけです」アーチーの表情は相変わらず無感情を保っていたが、その黒い瞳の奥で一瞬だけ驚きの色が走った。彼は数秒間沈黙したのち、再び淡々とした声で命じた。「今すぐ、彼女の部署へ食事を届けてくれ」サムは上司の隠しきれていない気遣いに気づき、必死で口元のニヤけを噛み殺した。職場という公式な仮面を被りながらも、これほど頑固な男が妻の体調を気にかけている様子がおかしく、微笑ましく思えたのだ。しかしサムは、その場から一向に動こうとしない自分に対し、アーチーが圧迫感のある視線を向けていることに気づいていなかった。「何をまだ突っ立っている、サム?」アーチーが低く、重みのある声で詰問する。サムはハッとして笑みを消し去った。「あ、いえ! 直ちに手配してまいります」急いでお辞儀をすると、ボスの堪忍袋の緒が切れる前に素早く身を翻して部屋を辞した。一方、企画部のフロアでは、書類が擦れる音だけがエレノアの唯一の話し相手となっていた。突然、お腹の奥からかすかな音が響く。エレノアは深く息を吐きだし、空腹で疼き始めたお腹をそっと手で押さえた。手首の腕時計に視線を落とす。昼休憩に入ってからすでに30分近くが経過していたが、アビゲイルから指示された紙資料の監査作業はまだ半分しか終わっていなかった。エレノアは到底デスクを離れるわけにはいかなかった。余計なトラブルを引き起こしたり、昨日のようにアビゲイルに付け入る隙を与
last updateDernière mise à jour : 2026-09-13
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