梅が咲くころ、私はもう振り返らなかった의 모든 챕터: 챕터 11 - 챕터 20

21 챕터

第11話

浩輔は、魂が抜けたように重い足取りで、仮住まいの賃貸マンションに戻った。かつての家に比べれば、ここはぬくもりのかけらもない、がらんどうの冷たい箱だった。引っ越すときは、これは一時的なものだと思っていた。いずれあの家へ戻るのだと。けれど、家が売られたという決定的な事実が、彼に思い知らせた。自分と千夜子は、本当に離婚したのだ。かつての家には戻れない。そこにいた人の姿も、もうどこにも見当たらない。浩輔には、大学で千夜子を待ち伏せするしか手がなかった。翌日、仕事のあとに彼女の研究室を訪ねると、意外にも紗和の姿もあった。千夜子は冷ややかに彼を一瞥しただけで、黙々と帰り支度を始めた。ペンを置くなり、前日のいざこざなど悪い夢だったかのように、紗和は浩輔のそばへ愛想よく寄ってきた。「ねえ、行こー?ご飯は激辛ラーメンにしましょうよ」浩輔は表情を変えずに、紗和から半歩ほど離れた。言葉は紗和に向けながら、目はずっと千夜子を捉えている。「先に行っていてくれ。千夜子に話がある」紗和の笑顔が不自然に固まった。唇を噛み、しばらくしてやっと絞り出す。「……学食で待ってる」気にしていないふうを装って出ていったが、扉の外の壁の陰に身を潜め、ふたりの会話に聞き耳を立てた。部屋が、しんと静まる。浩輔は軽く咳払いをして千夜子へ歩み寄ったが、彼女は嫌悪もあらわに1歩退いた。口まで出かかっていた気遣いの言葉は、その拒絶の1歩に遮られ、彼の喉の奥へ呑み込まれた。ようやく開いた口からは、責めるような言葉がこぼれた。「……どうして、あの家を売った?」扉の外で聞いていた紗和は、その責めるような口調に口元をゆるめ、ようやく安心して立ち去った。千夜子はひどく冷ややかに彼を見た。「あの家には、あなたが暮らした痕跡があったから。1秒だっていたくなかったのよ」その表情はどこまでも真剣で、かつて怒った浩輔がぶつけてきた売り言葉とは、まるで違っていた。あのころは、腹立ちまぎれの言葉だった。今のは、紛れもない本心だ。言い終えると、千夜子はもう話す気もなく、彼の脇をすり抜けて出ていこうとする。すると浩輔が、ふいに言った。「……まだ紗和を指導してくれて、ありがとう」千夜子は淡々と答えた。「どれだけ大変でも、約束したことは
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第12話

浩輔の「やり直そう」という叫びは、静まり返った廊下に虚しく響いただけで、彼女には少しも届かなかった。千夜子は一度も振り向かなかった。浩輔はその場に立ち尽くす。さっき絞り出した勇気は呆気なく霧散し、あとには際限のない気まずさと、自分自身への疑念だけが残った。彼女が朝枝礼司(あさえだ れいじ)と肩を並べて去っていく。お似合いすぎるその光景は、浩輔にひとつの残酷な事実を突きつけていた。自分は、彼女の世界から完全に締め出されたのだ。ふらふらと部屋に戻ると、スマホの画面は、紗和からの不在着信と催促のメッセージで埋め尽くされていた。疲れ切って折り返すと、電話はほとんど一瞬でつながった。「もう!学食で3時間も待ったのよ!」紗和の声は怒気を帯びていたが、すぐに甘ったるい声に変わった。「……もういいわ。ご飯、食べた?何か買っていくね」浩輔は住所を告げ、スマホをほうり出して、ソファに深く身を沈めた。目を閉じても、脳裏に浮かぶのは、千夜子の毅然とした後ろ姿と、礼司が彼女を見つめる優しい眼差しばかりだった。紗和はすぐに着いた。真っ赤なラー油が浮いた激辛ラーメンを提げて、慣れた手つきでテーブルに広げていく。「あなたのために、わざわざ買ってきたのよ」浩輔は目に刺さるような赤を見て、反射的に胃が痙攣した。「腹は減ってない。自分で食べろ」紗和はそれ以上勧めず、勝手に食べはじめた。満足そうなため息まで漏らしている。食べ終え、げっぷをしながら近寄ってきた紗和に対し、浩輔はすでに、うとうとするほど眠気に襲われていた。「浩輔ってば」甘ったるい声には、露骨なご機嫌取りがにじんでいた。「私、ちょっと困ってることがあって……千夜子さんに出された文献レビュー、難しすぎて、全然わからないの。あの人、絶対わざとよ。私を修了させないで、あなたに恥をかかせたいのよ」浩輔は不快げに眉間を押さえた。「そんなの基本中の基本だろ。わからないなら、自分で勉強しろ」「勉強しても、できないんだもん……」紗和は彼の腕をつかんで甘えるように揺さぶる。「浩輔って一番すごいでしょ。助けて、お願いだから、ね?」ひどい疲れのせいか、さっさと帰らせたかったからか、浩輔は結局、黙ってパソコンを開いた。次第にひどくなる胃の不快感をこらえ、
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第13話

浩輔は、胃を刺すような激痛で目を覚ました。もがくように身を起こすと、すっかり日は高く、スマホには同僚からの不在着信がいくつも残っていた。届いていたメッセージを見て、彼はようやく思い出す。今日は全学教職員大会の日だ。不調をこらえて講堂へ駆けつけ、顔を上げた瞬間、舞台の中央に立つ千夜子の姿が目に飛び込んできた。優秀教員の代表として、堂々と登壇しているところだった。スポットライトの下、背筋はまっすぐに伸び、声は明瞭で落ち着いている。学界の重鎮や学内の教職員、学生たちに向けて、従来の常識を覆すほどの研究成果を理路整然と披露していた。割れんばかりの拍手。光の中心に立つ彼女は自信に満ちて悠然とし、誰もが目を離せないほど美しく輝いていた。浩輔は呆然と見つめていた。胸の奥に、我がことのような誇らしさが場違いに芽生え、次の瞬間、もっと深い真っ暗な悔恨に飲み込まれる。このかけがえのない宝石を、かつては手にしていたのに。自らの手で曇らせ、容赦なく投げ捨てたのだ。発表が終わっても、拍手はまったく鳴りやまない。千夜子はそれが少し静まるのを待ち、落ち着いた眼差しをまっすぐ正面のカメラへ向けて、ゆっくりと口を開いた。「本日は、研究のご報告に加えて、私的なことをひとつ、皆さまにお伝えしたいと思います。今朝、裁判所から通知がありました。父は傷害罪で、正式に収監されました。そして、父をそこへ送ったのは、この私です」客席が、一瞬でどよめきとざわめきに包まれる。「冷酷だとお思いになる方もいらっしゃるでしょう。ですが、こうお伝えしたらどうでしょうか。私は幼いころから、父の暴力の影の下で暮らしてきました。少しでも父の期待に沿えなければ、殴られ、蹴られました。努力の末にようやくそこから抜け出し、大学教員になった今も、変わりませんでした。浮気をした夫と離婚したという理由で、父は大学の正門前で、公然と私に暴力を振るったのです。偽りだらけのあの結婚生活へ、私を無理やり引き戻すためだけに。父にとって、女の離婚は人生最大の失敗なのです」力強い声が、講堂の隅々にまで届いた。「けれど、私はこう申し上げたい。離婚は決して失敗ではありません。愛されない檻に閉じ込められ、自分を見失うこと。それこそが人生の失敗なのです。だから私は、やり直すことを恐れませ
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第14話

大会が終わるやいなや、浩輔は弾かれたように席を立ち、千夜子の姿を目で追った。人混みをかき分け、焦る足取りで追いかける。けれど、あと一歩のところで間に合わなかった。彼の目の前で、千夜子は黒塗りの高級車に乗り込み、スモークガラスがゆっくりと上がり、彼女の姿を完全に遮った。礼司の車だった。浩輔はすぐさま自分の車に駆け戻り、エンジンを唸らせて後を追った。見失うまいと執拗に張りついていくと、車はやがて、落ち着いた佇まいの会員制レストランの前で停まった。案の定、店に入ろうとした彼は、エントランスのスタッフに押しとどめられた。「恐れ入ります。当店は完全会員制となっております」「人を探しているんだ。島川……いや、尾坂千夜子が中にいる」浩輔の声は急いていた。視線は店の扉に釘づけになっている。「申し訳ございません。事前のご予約か会員さまのご紹介がなければ、ご入店をお断りしております」スタッフは頑として一歩も譲らなかった。押し問答の途中、浩輔はふと顔を横に向けた。店の大きな窓ガラス越しに、窓辺のふたりがすぐ目に入る。千夜子と礼司が向かい合って座っていた。テーブルには洗練された食器とワインが並び、暖かな黄色の照明が彼女を包み、やわらかな輪郭を描き出している。彼女は口の端をわずかに上げ、礼司の話に楽しそうに耳を傾けていた。眼差しには淡い笑みが宿っている。この5年、一度も見たことのない、肩の力の抜けた穏やかな表情だった。浩輔は、心臓を鷲掴みにされたようだった。こらえきれず、スタッフを押しのけて強引に押し入ろうとする。だが1歩踏み出したところで、屈強な店員が数人すぐさま取り囲み、彼の行く手をぴたりと塞いだ。騒ぎは店内にも届いた。千夜子がゆっくりと顔を向け、人垣越しに彼と視線を交わす。その目には驚きも、揺らぎも、感情のかけらすらなかった。窓の外の何でもない景色を見るような目だった。そして瞬く間に、何でもないふうに目を戻し、礼司との話を続けた。浩輔はその場に固まった。胸がひどく苦しく、痛む。両脇を抱えられて外へ連れ出されそうになったそのとき、ポケットのスマホが鳴った。画面に表示された【紗和】の名前。彼は考えもせず、そのまま切った。だが電話は執拗な催促のように、何度も何度も鳴り続ける。浩輔はとうとう苛立ちながら
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第15話

次に目を覚ましたとき、浩輔は病院のベッドに横たわっていた。白々とした天井が視界に入る。病室は、自分の呼吸音が聞こえるほど静まり返っていた。そばには誰もいない。紗和の姿は、とうに消えていた。胃は絞られるように痛み続け、昨夜の愚かさをひっきりなしに思い出させる。そこへ医師が診察に入ってきて、淡々と告げた。「急性アルコール中毒に加え、胃潰瘍も急激に悪化しています。非常に危険な状態でしたので、数日入院して経過を見ましょう。その間、お酒は絶対に駄目です」「誰が……誰が運んでくれたんですか」目覚めたばかりの掠れ声で尋ね、無意識に、がらんとした病室を見回す。「通りかかった方が119番して、救急車で運ばれてきました」医師はカルテに目を落としながら、何気なく答えた。「到着時はおひとりで、ご家族の付き添いは見かけませんでしたね」そこで少し間を置き、何かを思い出したように付け加える。「ただ、前回の入院のときは、物静かな綺麗な女性がずっと動き回って、細やかに看てくださっていましたよ。今回はお見えにならないんですか?」浩輔の胸が大きく震えた。「前回……それは、本当に彼女でしたか?もうひとりの、その……派手な感じの女性ではなく?」医師は眉を寄せて一瞬記憶をたどり、首を振った。「来るなり騒々しかった方のことですか?いえ、違います。前回の救命処置の間、ずっとそばで見守っていらしたのは、あの物静かな女性でした。漏れがあってはいけないと、病歴やアレルギーについても詳しく説明してくださって。あなたの容態が落ち着いてから、派手な方が現れて、しばらくして帰られましたね」医師は浩輔をちらりと見た。その目には、いささか腑に落ちないという色があった。「あの物静かな女性は、アレルギーのあるお薬がないかわざわざ確認され、食事の注意点も何度も念を押しておられました。とてもしっかりされた方です。どうして勘違いなさったんです?」そう言い残すと、医師は首を振りながら病室を出ていった。浩輔はひとりベッドに横たわり、医師の言葉を頭のなかで何度も反芻した。最初から最後まで、自分はまんまと蚊帳の外に置かれていたのだ。紗和は口では世話をすると言いながら、実のところ、彼のために心を砕いたことなど一度もなかった。一方の千夜子は、黙ってす
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第16話

一方その頃、電話を切ったばかりの千夜子は、レストランの席で、いつもと変わらぬ静かな表情のまま食事を続けていた。向かいに座る礼司が、気遣うように尋ねる。「何かあった?」千夜子はゆっくりとナイフとフォークを置き、礼司の目をまっすぐに見据えて、改まった口調で言った。「今のは、元夫のお母様からの電話。元夫が入院したそうよ。礼司さん、この前の全学教職員大会に、あなたもいたわよね。私の家庭のことも、失敗した結婚のことも、聞いたはずよ。私には、こじれた家族関係があって、今も何かと関わりの続く元夫がいる。それでもまだ、私と関わり続けるつもり?」礼司は背筋を伸ばし、表情を真剣に引き締めた。「千夜子、それを僕に話すのは、僕に諦めさせるためなのか?」意図をずばりと言い当てられ、千夜子は一瞬、返す言葉を失った。礼司は続ける。「実は、ずっと言いたかったことがあるんだ。差し出がましいかと思って、言えずにいた。せっかくの機会だから、今日は全部、言わせてくれ。僕も子どものころから、君と同じで、型にはめられて育った。何ごとも完璧であれと求められて、少しでも失敗すれば、殴られこそしないものの、冷たく突き放された。そうやって、ずっとひとりで完璧な仮面を被り続けてきた。留学先で、君に出会うまでは。ひと目で惹かれた。君のなかに、自分と同じ匂いを感じたからだ。世界のどこかにいる、もうひとりの自分のような。すぐにでも口説こうと決めたのに、すでに婚約者がいると知った。僕には、人の婚約に割って入るような真似はできなかった。だから、それ以上は近づかなかった」千夜子の表情が、かすかに揺れた。そんなに早くから、礼司が自分を見ていたとは思いもしなかった。彼女がさえぎらないのを見て、礼司はさらに続けた。「それからも、どれだけ大勢の人の中にいても、心が動く相手には二度と出会えなかった。学長に声をかけられて、話の流れで君の名前が出て、初めて楓川大学にいると知ったんだ。そのとき、君が結婚していることも知っていた。それでも、もう一度会いたかった。変わってしまっただろうか。それとも、あのとき心を奪われた人のままだろうか。それを確かめたくて、僕はここへ来た。再会して、わかった。君は少しも変わっていない。今も輝いていて、今も、目を離せなくなるほど惹かれ
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第17話

病院での日々は、スローモーションのように、空虚で、どこまでも長く感じられた。浩輔はもう自分から千夜子に連絡することはなかった。それでいて、何かに取り憑かれたように、彼女のSNSの画面を何度も何度も更新していた。この5年、ほとんど更新が途絶えていた彼女のアカウントは、今や日常の色鮮やかな写真であふれていた。そしてついに、最新の投稿が現れた。1枚の写真だった。背景は満開の梅の木。細かな花びらが雪のようにふたりの肩に降りかかっている。千夜子と礼司が並んで立っていた。近すぎず遠すぎないその距離感には、言葉にしがたい親密な空気が漂っていた。添えられた言葉は、たった2文字だった。【新章】写真のなかの千夜子は、眉も目もすっかり和らぎ、唇に淡い笑みを浮かべていた。かつて彼に向けていた抑えた笑みとは違う。瞳の奥から溢れ出す、本物の、生き生きとした笑みだった。浩輔が一度も見たことのない寛いだ表情であり、自分が一度も引き出せなかった、眩しいほどの明るさだった。コメント欄はすでに賑わい、祝福と驚きの声で埋め尽くされている。礼司に【待ち続けた甲斐がありましたね】と祝いの言葉を送る者もいれば、ふたりを【研究では良き相棒、プライベートでもお似合いのふたり、まさに理想のカップル】と手放しで讃える者もいた。ひとつひとつの「いいね」も、「おめでとう」のひと言も、無数の細い針となって、浩輔の目の奥に突き刺さった。彼はスマホを力強く握りしめた。指の関節が白くなるほどに。胃の差し込みが、また襲ってきた。今度は痛みが胸の奥まで広がり、息もできないほど締めつけてくる。もう、後悔している。その後悔は暗い波のように、すべてを呑み込み、骨の髄を齧るような痛みを連れてきた。どうしてあれほど愚かだったのか。紗和のあの大げさで作り物めいた「生き生きとした魅力」を、どうして宝物のように大事に抱え込んでしまったのか。そしてどうして、千夜子という、静かで奥ゆかしい、本物の真珠のような人を、取るに足らない偽物と見誤り、自らの手で捨ててしまったのか。「まだ間に合う……あのふたりは始まったばかりだ。まだ決まったわけじゃない」浩輔はうわ言のようにつぶやいた。そんな空虚な言葉で、ざわめく心をなだめようとした。それでも指先の震えは止まらず、胸の底に渦巻く焦りを隠
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第18話

翌日、浩輔はひどく念入りに身支度を整えた。かつて千夜子が褒めてくれたシャツを選び、彼女が嫌いではなかったはずのウッド系の香水をまとう。鏡のなかの男は今も端整だったが、眉にも目元にも陰りが差し、拭い去れない病の影と深い疲労の色が濃く滲んでいた。浩輔は早めに千夜子の研究室を訪れた。彼女は机に向かい、静かに集中した横顔を見せている。「千夜子」そっと呼びかけた。千夜子が顔を上げる。彼だと認めても、眼差しは微塵も揺れなかった。どうでもいい家具でも見るような目だった。「大学の用事でしたら、手続きどおりに予約を。個人的な用事なら」彼女は一拍置いた。「話す気はないわ」浩輔の喉が締めつけられる。1歩、前へ出た。「どうして……どうしても、あの家を売らなければならなかったんだ?」千夜子はかすかに眉をひそめ、背を椅子に預けてすっと距離を取った。「あそこには、あなたの痕跡ばかりだったから」平淡な口調は、取るに足らない事実を述べるようだった。「汚らわしくて」「汚らわしい」という言葉が、鋭い刃となって、浩輔の胸に深く突き刺さった。離婚のとき、彼自身が口にした、後先を考えない残酷な言葉を思い出す。それが今、報いのように、もっと徹底した形で返ってきた。彼は無意識に自分の匂いを嗅いだ。紗和がいつもつけている、あの甘ったるい苺の香りが頭をよぎる。顔から血の気が引き、慌てて上着を脱いで脇へ放った。「お前が嫌なら、もう使わない。どんな香りが好きなんだ?俺は何だって変える……」「浩輔」千夜子が冷たくさえぎった。その眼差しには、あからさまな嫌悪と苛立ちが浮かんでいた。「言葉が通じないの?私たちには、大学の業務以外で関わる理由が一切ないわ。帰りなさい」追い払う言葉は、迷いなく明瞭だった。浩輔はうろたえ、慌てて言い募る。「紗和だ!紗和のことで来たんだ……お前が修了させてくれないと言っていて……」千夜子は椅子の背にもたれ、両手を組んだ。完全な防御と、拒絶の構えだった。「彼女の学業については、指導教員としての責任を果たした。だけど、無断欠席に剽窃まである。論文の内容も到底、審査に出せるものではない。今日、正式に報告書を出すわ。修了を認めるべきではないと進言するつもり。私自身の評価に響いたとしてもね」彼
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第19話

数秒間、空気が凍りついた。次の瞬間、紗和は狂ったように駆け込んできて、浩輔の腕をつかんだ。爪が腕に食い込むほどの力で、声は裏返るほど甲高い。「浩輔!今、何て言ったの!?救いようがないって何よ!?規則どおりにするってどういうことよ!?私の修了証は!?約束してくれたじゃない!」腕を激しく揺さぶりながら、詰問の眼差しを突き刺してくる。浩輔は力任せに振りほどいた。眉の間には、あらわな煩わしさが浮かんでいる。「自分の実力がどの程度か、わかっていないのか!論文のデータは不備だらけ、論文審査の準備もめちゃくちゃだ。それでよく学位をよこせと言えるな!修了?その態度とその能力で、修了を口にする資格があるのか?楓川大学の学生になれただけでも、とんでもない幸運だったんだぞ!もう俺を煩わせるな。これ以上、お前の面倒を見る余裕はない!」「じゃあ仕事を見つけてよ!まともな仕事を!」紗和は執拗に食い下がり、1歩踏み出してまた掴みかかろうとする。「私に言い寄ってきたときは、そんな言い方じゃなかったでしょう!今さら知らん顔で済ませるつもり?そうはいかないわよ!」浩輔は1歩下がり、完全に取り繕うのをやめた。冷たく、容赦のない眼差しだった。「紗和、はっきりさせておく。俺とお前は、とっくに何の関係もない。あのとき手を貸したのは、昔の情があったからだ。その情も尽きた。もうまとわりつくな。誰かにたかりたいなら、元の旦那のところへ行け。もっとも、刑務所に入ってでもお前から逃げたかったという気持ちは、今なら痛いほど理解できるがな!お前みたいな理不尽な女と、誰が一生連れ添いたいと思う?」そのひと言が、紗和を完全に打ち砕いた。全身を震わせ、その目は懇願からたちまち憎悪の色に変わる。傍らに静かに立つ千夜子を睨みつけ、それから浩輔へ視線を戻すと、突然、甲高く笑い出した。「ハ……ハハハハ!いいわ!上等じゃない!浩輔、いい度胸ね!覚えてなさい、後悔しても知らないから!」ふたりをひと睨みすると、彼女は踵を返し、研究室を飛び出していった。浩輔はかまう気もなく、すぐ千夜子へ向き直る。「千夜子、あいつのでまかせを真に受けないでくれ。俺とあいつは、とっくに……」千夜子はすでにコートと鞄を手に取り、そのまま戸口へ歩いていた。浩輔は慌てて後を追う。
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第20話

動画は瞬く間に拡散された。「学界の恥」「不倫教授」といった言葉とともに浩輔の名はキャンパスを飛び出し、ネット上でおもちゃにされ、大炎上した。学長室の空気は、恐ろしいほど重く沈んでいた。「島川教授!」学長は印刷したネットのコメントの束を、机に激しく叩きつけた。「見なさい!大学の名誉が、君のせいで台無しですよ!この前、私は何と言いました!?停職!今すぐ停職です!この騒ぎが収まってから、ほかのことは考えますけど!帰って、しっかり反省しなさい!」「学長、私の担当している重点プロジェクトが、今まさに正念場で……」「プロジェクト?」学長は怒りのあまり笑い出した。「今になってプロジェクトを思い出しますかね?あの羽成紗和とふしだらに遊んでいたときは、考えもしなかったのですか!今さら誰が君にプロジェクトを任せるというのです!?今まで教職を続けられていたのも、お父上への配慮があってのことだ!出ていきなさい!」浩輔は灰色の顔で事務棟を出た。スマホが鳴る。紗和からだった。麻痺したように、彼は電話に出た。「浩輔、私からの贈り物、気に入ったかしら?」紗和の声は、ひどく晴れ晴れとしていた。「手元には、もっと見どころのある場面があるのよ。身の破滅を迎えて、大学をクビになりたくなかったら、おとなしく私が修了できるようになんとかしてちょうだい。そうでなければ、全国の皆さんに、島川先生の情熱的なお姿を鑑賞してもらってもいいのよ」浩輔はしばらく黙り込み、それからひどく掠れた声で言った。「紗和。お前は俺を愛したことがあったのか。ほんの一瞬でも」受話口の向こうで、甲高い笑い声が弾けた。「フフフ……ハハハ!愛?あなたいくつよ?中学生じゃないんだから。あんなのただの遊びよ。まさか自分が私の初恋だとでも思ってたの?あなたと付き合ってた頃には、彼氏なんてもう十数人も取り替えてたわ!あなたを宝物みたいに扱ってたのは、千夜子っていうあの馬鹿だけ。あなたはもう使い道がないの。私を修了さえさせてくれれば、これで最後にしてあげる。それと、言っておくけど。私が終わるなら、あなたがいちばん愛してる千夜子さんだって……無事では済まさないわよ」電話は切れた。浩輔はスマホを握りしめ、初冬の寒いキャンパスに立ち尽くした。すべてが、ふ
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