バタイユの翻訳を選ぶ際に注目すべきは、彼の破壊的な思想を日本語の文脈にどう落とし込むかだ。『太陽肛門』のある翻訳版は、肉体の不可能性を語る詩的な箇所が、ほぼ韻を踏んだようなリズムで訳されていて驚いた。訳文そのものがバタイユ的な『過剰』を体現しようとする意気込みを感じる。
『マダム・エドワarda』の翻訳比較をしたことがあるが、性的な
情景の描写スタイルが版によって全く異なる。あるのは克明で医学的、別のはあえてぼかすことで逆に不穏さを増幅させていた。バタイユの文学は翻訳者の解釈がダイレクトに現れる格好の例で、どちらが正解というより、異なる解釈を楽しむものだと思う。
最近出た『内的体験』の翻訳は、従来の難解さを残しつつ、随所に現代哲学の用語解説が入る
親切設計。バタイユ初心者にも入りやすい構成になっている。