面白いのは、映画が原作の
へりくつを“見せる”方向に変換することが多い点だ。小説では登場人物の内的弁明や論理の
綻びが語りや内省を通してじわじわと伝わることが多いけれど、映画は時間が限られているから、そのへりくつを瞬間的な場面や象徴的な台詞、表情で圧縮する傾向がある。私の観察では、これは二つの効果を生む。一つは説得力が強まり、観客に即時的な感情的インパクトを与えること。もう一つは、原作が持っていた微妙な疑念や徐々に露呈する自己欺瞞が単純化されてしまいがちなことだ。
たとえば'告白'のような作品だと、原作のへりくつは複数の語り手の内面で展開され、読み手は細かい矛盾を拾いながら真相に迫る楽しさを得る。一方で映画版はその構造を視覚的な演出や演技の強さで置き換え、へりくつそのものを“劇的な瞬間”に凝縮することで物語のテンポを保つ。だから原作の読み手は、論理の積み重ねが消えてしまったように感じることがある。
結局のところ、映画化はへりくつを可視化し、観客の理解を早める代わりに、原作のもつじわじわとした説得の過程を切り捨てることがある。どちらが良いかは作品と目的次第だと私は思う。