言葉ひとつで空気は変わる。現代の作家が『鬼籍』という語を比喩的に使うとき、単に「死んだ」という意味以上の層が生まれるのをよく感じます。私は、この単語が持つ古風で宗教性のある匂いを利用して、物語の重みや時間の経過、あるいは記憶の消滅を示すために使われる場面が多いと思っています。
葬送の正式な響きを残しつつ、対象を「歴史の簿冊に加えられた存在」として扱うことで、読者に静かな終局感を与える効果があるのです。
たとえば追悼文や回顧録のような比較的フォーマルなテキストでは、実際の訃報を表すために用いられることがまだ多い一方で、創作や評論ではもっと自由に転用されます。作者が古い慣習や失われた文化を
嘆く場面で「昭和のあの風景は鬼籍に入った」と書けば、単なる“消えた”では済まない歴史性や不可逆性が感じられますし、フィクションではキャラクターや一つの街、あるいは時代そのものを「鬼籍入り」させることで物語全体に哀愁や諦念を付与できます。私自身、小説やエッセイでこの単語が出てくると、その箇所だけ時間軸がぐっと遠くなったように感じることが多いです。
最近は比喩の幅も広がっていて、文化論やテクノロジー批評の文脈で「サービスが鬼籍に入る」「あの制度は事実上鬼籍に入った」など、死ではなく“機能停止”や“記憶からの抹消”を意味する使われ方も見られます。こうした用法はユーモアや皮肉を帯びることが多く、若い書き手が意図的に古語を持ち出して現代的な対象に当てはめることで、新旧の語感のギャップを楽しんでいる印象があります。ただし、実際の人の死を軽んじるような文脈で安易に使うと不快感を招くこともあるので、語感と場面の整合性には敏感にならざるを得ません。
結局のところ、『鬼籍』は力強い比喩装置です。形式張った重々しさを演出したいとき、あるいは「終わった」という事実を時間的・文化的に遠ざけて表現したいとき、作家はあえてこの語を選びます。私はそうした使い分けを見るたびに、言葉の選び方一つで読後感が変わる面白さを再認識します。