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翻訳という作業の核心は、原文の持つリズムと意味のどちらを優先するかという選択に尽きると考える。'源氏物語'の古語表現は、助動詞や係助詞、終助詞といった“意味を担う粒”が多層に積み重なっているため、単純に語を置き換えるだけでは同じ効果を出せない。たとえば「あはれ」「いとをかし」などの感嘆語は、直訳すると語彙の意味を伝えられても、場の余韻や登場人物の感受性は失われがちだ。
そこで私はまずテクストを層に分ける。語彙の意味層、文法的役割、語感(響きや儀礼性)という三つを意識して、それぞれに対する戦略を練る。文法層は現代語の言い換えで補い、語感は現代語における近似表現や文体的トーンで再現する。係助詞や終助詞は脚注で補完したり、本文に微妙な語句を挿入して意味を透かすこともある。
注釈や訳註を充実させるのは、私にとって必須だ。読者の読みやすさを損なわずに古語の香りを残すため、原文の一部を括弧で残したり、章ごとに解説をつける。比較対象として'枕草子'の記述技法を参照すると、随想的で断片的な表現の扱い方が見えてくる——それが『源氏物語』の情緒訳を作る際のヒントになる。
読者の世代差を越えるための工夫をいつも試す。『源氏物語』の『桐壺』は語り始めの章で、古語の語調がそのまま物語全体の基調を作る。私は若い読者にも受け入れられる語彙選びを意識して、直訳と意訳の中間を狙って訳している。若い読者向けに古めかしさを極端に取り除くことは避け、物語の雅さや微妙な敬意は残す。
具体的には、難解な助詞や古語は現代語の簡潔な表現に置き換えつつ、重要な語やフレーズはそのまま生かしてリズムを確保する。翻訳の声色を一定に保ちながら読者が自然に情感を追えるようにするのが私の目標で、これは『古今和歌集』の現代語訳を手がけるときの経験がヒントになっている。
比喩や詩的表現をどう手触りよく現代語にするかが鍵だと考える。『源氏物語』の『蜻蛉』に出てくる風景描写や花のたとえは、古語の語彙が持つ象徴性を現代語に置き換えるだけでは色褪せてしまう。私はできるだけ具体的で視覚に訴える語を選びつつ、原文の余白を残すようにしている。
また、語注や訳注の量も非常に重要だ。専門的な注を書きすぎると読み物としての流れを断ち、注が少なすぎると読者は背景を見失う。そこで私は注は最小限に留め、本文に小さな仕掛けを入れて意味を伝える方法を好む。比喩をそのまま現代語に置いたときの違和感をテストし、何度か書き直して自然な表現を見つけるのが日課だ。
言語のレイヤーを分解すると、具体的な作業手順が見えてくる。'源氏物語'に出てくる古語は、語尾変化や助動詞の連鎖、そして係り結びのような文法仕掛けで意味を形成している。私はまず現代語の語順と助詞に整理し、次に残すべき古語的ニュアンスを選ぶ。すべてを現代語で平坦に訳すと物語の奥行きが消える一方で、過度に古語を残すと読者が途方に暮れてしまう。
助動詞の翻訳は典型的な悩みどころだ。たとえば未然形に結ぶ「む/むず」を現代語の「〜だろう」「〜べきだ」と訳すか、文脈で判断して訳語を変えるか。私は文脈優先で変化をつけることが多い。和歌や詠嘆表現については、現代語の詩的語彙を使って別段落で訳すか、原文を併記して訳注で補う方法を併用する。詩歌の形式をどう扱うかはターゲット読者次第で、学術書向けには語注を厚く、一般向けには意訳寄りに振ることが多い。
比較のために視野を広げてみると、古典全体の訳し方には代表的な選択肢が見える。'万葉集'の直截で原初的な語感と比べると、'源氏物語'は洗練された婉曲表現が多いので、訳し手は語感の微妙な揺れをどう残すかで腕の見せ所が決まる。
古語の感触を残すことを重視する翻訳もある。特に情緒や人間関係の微妙な距離感が重要な箇所では、私は現代語に単純置換するよりも、古語を程よく残して注を付けるやり方を選ぶことが多い。語尾の古語風味、例えば「む」「けり」「べし」といった要素を一部残すだけで文体の揺らぎが再現され、登場人物の内面が伝わる場合がある。
それでも読みやすさは損ないたくないので、旧仮名遣いや句読点の打ち方でリズムを調整したり、人物の台詞だけ少し口語に寄せるなどの工夫をすることもある。和歌はしばしば別扱いにして、行立てを活かした直訳と現代語訳の両方を併記することが多い。そうすることで、原文の音韻や行間の余白を読者も体感できるようになる。
翻訳には「原像をなるべく残す派」と「読者の本文体験を優先する派」がいて、私は状況に応じて舵を切る。舞台化や映像化を想定した訳では言い換えを大胆に行うし、学術的注釈が目的なら原語に忠実に添う。どの道を選んでも、最終的には読者が人物の心情や物語の抑揚を感じ取れるかを基準にしている。
言葉の選び方が作品の温度を左右する瞬間を思い浮かべると、翻訳は科学というよりは手仕事に近く感じられる。『源氏物語』の『葵』のような政治的緊張が背景にある場面では、古語の格式や敬語表現をどう現代に置き換えるかで登場人物の社会的距離感が決まる。私は翻訳で人物同士の距離を意識して、それぞれの話しぶりに固さや柔らかさの差をつける。
敬語表現については、現代語の敬語に直すだけでなく、言い回しの選択で昔の「含み」を表現することを心がける。例えば原文の婉曲表現は、そのままシンプルな現代語にすると意味が強すぎるので、語尾を曖昧にしたり、説明的な一文を挟んだりしてバランスをとる。余談だが、『伊勢物語』の短い挿話を訳した経験が、短いが意味深い一文の扱い方を磨くのに役立った。
古語のリズムや音感に取り組むとき、まず最初に読む人の耳を想像することにしている。『源氏物語』の『夕顔』にある
呪詛めいた言い回しや敬語の揺れは、単語を現代語に置き換えただけでは伝わらない。だから私は、語彙を現代的にしても語尾や文末の余韻を残す表現を選ぶ。
具体的には、古語特有の曖昧さを現代語の穏やかな曖昧さへと移す作業を好む。直訳的な選択は学術的には正確でも、物語の情感を殺すことがある。逆に意訳ばかりだと作者の言葉選びの妙が消えるため、私は注を使って語の背景を補足することが多い。なお、ここでの注は読者の読書体験を妨げないように短くするのがコツだと考えている。これは『竹取物語』の古い語法を現代語に写すときにも役立つ手法だった。
表現の曖昧さや敬語の層をどう扱うかについては、いつも複数案を試して比較する手法を取っている。『源氏物語』の章ごとに登場人物の話し方を細かく色分けして、古語のニュアンスを現代語のトーンで再現しようと努める。私はまず厳密な意味翻訳を書き、それを読みやすさ重視の訳にしてから二つを擦り合わせる。
また、語注はページの流れを断ち切らないように短めにし、必要な文化的補足だけを入れる。語感や季節感を補うための一行程度の脚注は有効だと考えていて、過去に『徒然草』を読む際に身につけた注の簡潔さがここでも生きている。最終的には、読者の心に残る一節になるかどうかを基準に訳を選んで終える。
翻訳の現場でよく議論になるのは、原文の音や間(ま)をどこまで残すかという点だ。
古語には助詞や動詞の形が今と違うことで生まれる独特のテンポがあって、『源氏物語』の『若紫』のような章ではその余韻が物語の陰影を作っている。私は訳すとき、単に語を置き換えるのではなく、そのリズムを現代語の文章リズムにどう落とし込むかを最優先にする。意味を損なわない範囲で改行や句読点、文の長短で原文の呼吸を表現することが多い。
また、万葉集や平安時代の和歌への知識も参照して、古い比喩や季語の感覚を補うようにしている。直訳しすぎると堅くなり、意訳しすぎると原文の微妙な階調が消える。だから私は、章ごとに翻訳の「濃度」を変え、読み手が人物の繊細な情動を感じ取れるように工夫している。