翻訳の現場で何度も気づいたことがある。言葉そのものを移す作業が、登場人物の人格や物語の重心をひっそりとずらしてしまう瞬間があるのだ。
翻訳で
侮蔑語や
貶し表現を和らげたり強めたりすると、登場人物同士の力関係が変わる。たとえば英語で露骨に聞こえる侮蔑を日本語で婉曲に訳すと、元の発言者が持っていた威圧感や悪意が薄れてしまう。一方で、元のテキストにためらいなく使われている言葉を過度に強調すると、読者に不自然な印象を与えてしまう。私が翻訳を読む側として最も敏感に反応するのは、キャラクターの一貫性が保たれていないと感じるときだ。性格のぶれは作品への没入を妨げる。
具体例を挙げると、作品の背景にある差別や社会的コンテクストが翻訳によって希薄化することがある。たとえば'ハリー・ポッター'シリーズに出てくる差別用語の扱いは、原語では意図的に鋭く書かれている場面がある。これを和らげると、作中で描こうとしている偏見の根深さが伝わりにくくなる。また別の方向では、村上春樹の作品のように内面描写や微妙な侮蔑が情緒的な効果を持つ場合、訳語の選択一つで感情の機微が失われることがある。そうしたときには、直訳だけでは伝わらない「話者の態度」や「聞き手に与える不快感」まで意識して訳語を探す必要がある。
解決策としては、語彙選択の基準を明確にし、同一人物の用語を作品全体で統一すること、そして可能なら訳注や訳者あとがきを使って文脈を補強することが有効だと私は考えている。翻訳は単なる語の置き換えではなく、発話の力をどう再現するかという作業だ。だからこそ、貶し表現を扱うときには用法の心理的重みを常に考慮に入れるべきだと思う。