古典のテクストを細部から追うと、単に「嫌いだ」「うんざりだ」という日常語以上の層が顔を出すことが多い。評論家はまず文脈依存性を重視していて、語が置かれた場面、語り手の位置、そして読者の想定される反応を手がかりに〈厭〉の意味幅を読み解く。例えば『源氏物語』では、登場人物の微妙な心変わりや季節描写と結びついて〈厭〉が示されることがあり、それは単なる嫌悪ではなく、無常観や世間の虚しさに対する感受性を示すことがあると論じられている。
文体的な分析も重要だ。古典では語の位置や助詞との組み合わせ、修辞的反復が意味を変化させるので、「
厭う」と書かれても、それが台詞の演技性なのか、語り手のメタ的コメントなのかで解釈は分かれる。評論家は音読したときのリズムや漢字の字面が読者に与える響きにも注目して、言葉が引き起こす情動の層を積み上げていく。
経験的には、私はこうした多層的な見方を通じて古典の〈厭〉が生々しい個人的感情と社会的な表現様式のあいだにある緊張を可視化していると感じている。結局、評論家の解釈は単語の辞書的意味に戻るだけではなく、その語が開く物語的、倫理的、そして音声的な諸可能性を探る作業なのだと思う。