歌詞で『
蹲る』を採り入れると、身体の縮み込みがそのまま心情の縮図になるという感覚が生まれる。僕はよく、叫びではなく沈黙を描く場面でこの語を使うことが多い。蹲るは物理的に身を低くする動作だが、言葉にするときは「屈服」や「収束」、「自己修復」といった層を重ねられるからだ。
例えば次のような一節を考えることができる。
「街灯が溶ける隅で僕は蹲る 言葉を集めて夜を繕う」
「折れた傘の下で彼女は蹲る 雨粒が鼓膜を叩くたび記憶が蘇る」
どちらも蹲るを中心に据え、周囲の描写を補助線として引くことで感情の深さを出している。僕は特に、蹲る直後の小さな動作(息を吐く、手を握る、顔を上げる)を続けて描くと、聴き手に再生の兆しを示せると感じる。
韻やリズムを整える際は、蹲るを一拍目に持ってきて重さを担わせるか、語尾に置いて余韻を残すかで印象が変わる。たとえばサビで同じ語を繰り返すと、単なる
悲壮感ではなく回復への執着が生まれる。自分の中では、蹲るは静かな戦いのメタファーとして強力だと納得している。