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5・強引すぎる依頼

Author: 泉南佳那
last update Last Updated: 2025-06-22 13:02:26

むしろ、もう少し話していたかった。

そう、本音を言えば……

幻のようにあっという間にわたしの目の前から消え失せてしまった、美しい瞳のあの人に、もう一度会ってみたかった。

「美紀さん、ありがとうございます。でも大丈夫です。自分で何とかします」

「でも……」

「ご心配には及びません。みなさん、ごめんなさい。わたしのせいでお騒がせしてしまって」

「そんな、文乃ちゃんは何も悪くないわよ。あのへんな男が勝手なことを言っただけで」

美紀さんはまだ納得がいっていないようだった。

「あたしには、そんな悪い人には見えませんでしたよ。なかなかのハンサムさんだったしねえ」

のんびりした声でそう言ったのは待子さんだ。

「それに、文乃ちゃん。素敵じゃない、モデルなんて。おやりなさいよ。あなた、とっても綺麗なお嬢さんなんだから」

「待子さん、無理ですよ。わたし、そんな、モデルなんてやったこともないし」

「人生、何事もチャレンジですよ」

待子さんと話していると、この世の中に悩みなんてない、不可能なことも何もない、という気がしてくる。

翔太さんから時計を返してもらい、ハンカチで包んでバックのなかにしまった。

まだ心臓がどきどきしている。

こんなことが自分の身に起こるなんて、一時間前、いやほんの10分前にも想像していなかった。
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  • たとえ、この恋が罪だとしても   8・秘めたる想い・重ねる嘘

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  • たとえ、この恋が罪だとしても   8・秘めたる想い・重ねる嘘

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  • たとえ、この恋が罪だとしても   7・満天の星空の下

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