雪が舞っていた。「ロホ!もう少しで町だよー!」
前を飛ぶ小さなドラゴンがくるくると宙を回る。だが、その羽ばたきも少し重たそうだった。ロホと呼ばれた女性は 「……飛ばなくていい。疲れるから歩きなさい、ファド」 「えー、でも、空のほうが見通し良いんだもん」 「おまえの羽、濡れてる。羽風で雪を巻き込んでるよ。歩く方が賢明」 「……はーい……」 不服そうにファドと呼ばれたドラゴンがロホの肩に乗った。流麗な白い鬣を持つ馬は鼻をふん、と鳴らして雪を蹴る。細い道を縫うように進むぺガスの背中で、ロホは空を見上げた。空は白く、どこまでも遠かった。
銀髪は腰まで伸び、今日は気まぐれに編み込んである。翠の瞳の奥に炎のような静けさを宿し、ロホは雪を踏みしめていた。左に剣、右に小剣、太ももにはナイフ。背には弓。フードを被り皮鎧とローブを重ね、常に“戦い”と“日常”の狭間にいる魔法戦士。 その隣を、翼を小刻みに揺らしながら飛ぶのはドラゴンの子供・ファド。中型犬ほどの体躯で、おしゃべりといたずらが大好きな旅の相棒。 そして、ロホの背に静かに寄り添うのは、流麗な白い鬣を持つ馬――ぺガス。言葉は話さないが、その瞳と言動で十分すぎるほど意志が伝わる、誇り高き旅の仲間。 「私がその人に出会ったのは、その町に入ってすぐのことです」その町の名前は「カイレ」。 雪と霧に包まれる、小さな谷間の町だった。
町の宿屋は古びていたが、火の温もりがあった。
「……いらっしゃいませ。雪の旅、お疲れ様でした」 出迎えたのは、まだ十にも満たない少女だった。母親は病気らしく、代わりに受付をしているのだという。名をティレといった。 「お客様申し訳ございませんが、お馬のほうはご自身で小屋につないでいただけますでしょうか、一人しかいないので・・・」 ロホは頷きペガスを馬小屋に連れていき、まぐさもたっぷり与えた。 「宿、空いてる?後お風呂も・・・」 ロホの問いに、ティレはこくりと頷く。 「一番奥の部屋です。……あの……ローブ、濡れてます」 「ありがとう。でも乾かすから、大丈夫」 ファドはストーブの前で大の字になって伸びていた。 「天国ぅ……」 「……こいつ、火があるといつもこうなるんだよね」「……ふぅ……」
宿の共同浴場に音を立てず湯に沈む、湯殿にはロホしかおらず足を伸ばし、腕を伸ばして伸びをする。 湯気が舞い、ローブを脱いだロホの背があらわになる。 背筋はすらりと伸び、傷跡ひとつないように見えるが、その皮膚の奥には深い年月が刻まれている。 静かな湯音だけが、時を刻む。 ファドとぺガスは厩舎とストーブの近くでくつろぎ中。 今夜は誰にも邪魔されない── 湯から上がると、ティレが洗濯したローブをすでに干してくれていた。 気が利くどころではない。彼女の働きぶりは、大人顔負けだ。 「……ありがとう。早かったね」 「火のそばに干したから……あと、あったかいごはん、作ったんです。お口に合うかわからないけど……」 テーブルの上に並べられていたのは、この町の地のもの尽くしの料理だった。 • 雪下人参と鹿のシチュー • 干し魚の炙りに、山菜の酢漬け • 粟と蕎麦の雑炊風の一品 • そして、何より目を引いたのは── 「これは……?」 「ヤマリンドウのジャムを、麦粉のパンに……寒い時期にだけとれる、ちょっと甘酸っぱいの。お母さんのレシピで……」 ロホは、無言で一口。 「……」 咀嚼し、味を噛みしめる。 「──やさしい味だ」 ティレの顔がぱっと明るくなる。 「本当? 本当に? よかったぁ……!」 「お母さんの味、なんだね」 「うん。お母さん、あんまり起きられないけど、レシピだけはたくさん残してくれてて……。あたし、それを覚えようと思って」 ロホは、ふと視線を落とす。 誰もいないはずの食卓で、誰かの存在が残っている──そんな温もりに包まれていた。 「……おいしかったよ。ちゃんと、“届いた”。この料理」 「……へへへ……!」 ティレの頬は赤らみ、少し涙がにじんでいた。その後ロホは一人、町の外れに足を運んだ。
雪の積もる丘に、木の十字架が並んでいた。 「墓地……?」 「この町、三年前に疫病で多くの人を失ったの」 声がして振り返ると、ティレがいた。手には小さなランタンを持っている。 「私のお父さんも、兄さんも、ここに……。それ以来、お母さんも体が弱くなっちゃって」 「……」 ロホは黙って雪の地面を見つめた。 「でも、お姉さんは旅をしてるんだよね? いいなぁ。私もいつか、外の世界を見てみたいなぁ」 「それは簡単なことじゃない」 「わかってる。……でも、今の毎日が変わらないまま終わっちゃうのも、ちょっと、怖い」 ロホは空を見上げた。 雪の夜空には、ひときわ強く光る星が一つあった。 「ティレ、空を見なさい」 「うん」 「人は上を向ける。どんなに足元が泥だらけでも、どんなに涙で顔がぐしゃぐしゃでも、上を見ることはできる。だから、歩ける」 ロホはそう言って、ティレの頭をそっと撫でた。宿の奥の部屋に、ぱちぱちと薪の爆ぜる音が静かに響いていた。
ストーブのそばで、ファドが丸くなって眠っている。 ベッドに横たわるティレの母は、浅く弱々しい息をしていた。 ロホはその隣に膝をつき、そっと手を額に当てた。 ……体は冷えている。だが、それは病の根だ。 彼女の魔法では――治せない。 ティレは毛布の中から顔を覗かせ、ぽつりと聞いた。 「……もし、お母さんが死んだら……あたし、どうなるのかな……」 ロホは答えなかった。 言葉を選ぶ時間は、残されていなかった。 ただ暖炉の火を見つめ、その小さな炎のゆらぎに、意志を込めた。 夜が明けた。 ロホは早朝の誰もいない台所で、ゆっくりと膝をつくと、土間の中心に手をかざした。 そこに、小さな火の種を生み出した。 拳ほどの大きさの、ゆらめく“炎の種”。 触れても熱くない。だが、確かに温かい。 風にも消えず、薪が尽きても灯り続ける、小さな命の光。 それは元素操作による“火”の魔法。 けれど、それは攻撃でも、照明でもない。 「これは……灯(ひ)だ」 そうロホは心の中でつぶやく。 “誰かの命が消えぬように”と、願いを込めた魔法。 ロホはそれだけを残し、部屋を出た。 支度を終え、ペガスの鞍に手をかける。 「ロホさん、行っちゃうの……?」 小さな声に振り返ると、ティレが玄関でじっと見つめていた。 「……お母さん、まだ苦しそうだよ……でも、昨日より……少し、あったかい気がするの、あとこれお弁当です。ヤマリンドウのジャムを麦粉のパンに挟んだサンドイッチ」 ロホは優しく頷き、こう告げた。 「寒さには負けない。そう願えば」 そう言って、ロホは再び旅立った。 歩き出すその背に、ティレは小さく手を振る。 「ありがとう……ロホさん!」 雪はまだ降っていた。 けれど、その町には、小さな光が灯っていた。ぺガスの蹄が、凍った地面を静かに打つ。
ロホは口の中で、かすかに呟いた。 「……願わくば、この町に次の春が来るように」 「ゆっくりでもかまいません、前に」 町を離れる白い影は、雪の丘を超え、また歩き出した。雪が深くなる山道の中腹。
白の景色の中に、ほんのわずか――“動いたもの”があった。 ロホはすぐに気配を察知し、低く告げた。 「……ファド、上」 「わっ、見つけた!? うわああっ、矢ッ!」 叫びと同時に、崖の上から飛び出してくる影。 毛皮に身を包んだ伏兵たちが、雪を蹴立てて襲いかかってくる。 「白い雪に白い服って、目立たないからって……こっちは馬がいるんだぞバーカ!」 ファドが吠え、ロホの頭上を跳ねるように飛びながら視線を釘付けにする。 ぺガスは、ロホの背に身を寄せるように滑らかに身を翻し、その巨体で斜面を塞いだ。 彼女は剣を抜いた。左手に握られた剣が、低く唸る。 ――一瞬の静寂。 そこから、雪が跳ね上がるようにして、戦が始まった。ロホの剣が、迫る山賊の刃を受ける。
反対の手には短剣――敵の腹を横に切り裂き、流れるように続く。 飛んできた投げ矢を、懐から取り出した短剣で受け流し、逆手にそのまま投擲。 短く鋭い音を立てて、敵の肩を貫く。 戦場に無駄はない。動きの一つ一つが、積み上げた修羅場の記憶だった。一方――ファド
おいおいおい! なんでオレが“囮”!? いやまぁ確かに飛べるし、炎もちょっと出せるし、可愛いし強いけど…… って、うわあっ!? また来た!何人いるんだよこの山! ファドはぐんと地を蹴り、斜面に咆哮を響かせた。 その小さな咆哮が、木々に積もった雪を揺らす。 ずしん――という音と共に、小規模な雪崩が起こる。 見たか!? これが“力学の応用”ってやつだよ!さすがドラゴン、頭いい~! ……って、噛みついたら「やめなさい」って怒るくせに、今は褒めてよ、ロホ!剣戟と咆哮のわずか数分――
戦闘は、短く、しかし鋭く、終わった。 血に染まる雪を踏み越え、ロホは最後の敵の前に立つ。 剣を収めず、静かに言った。 「人の弱みに付け込んで生きるな」 言葉よりも、瞳が全てを語っていた。 剣を鞘に戻すと、ぺガスが鼻を鳴らし、ふんと前足で雪を強く踏みしめた。 ロホは小声で呟く。 「朽ち果てなさい、誰にも知られずに」 白の静寂が、再び支配する。次に進むとき、またあの言葉が頭に浮かぶ。
「倒すだけじゃダメ。全員、仕留めないと」 それは冷酷ではない。 それが“誰かを守る側”としての、ロホの覚悟。全員仕留めなければ次の犠牲者が出るだけ。 そして、ファドの声が聞こえてきた。 「なあロホ……今日のオレ、けっこう頑張ったよね? ご褒美って、あるの?」 ロホは笑わない。けれど、その無言のまなざしには、“ご褒美以上”の信頼がこもっていた。 雪の中に、血の跡だけが残っていた。 白は静かに赤を包み、やがてその痕跡さえ、風に消えていく。 ぺガスは前足で雪をならし、ファドは木の陰でぶるぶると体を揺すっていた。 だが、ロホだけは動かず、山賊たちが崖を転げ落ちた方向を、ずっと見つめていた。 誰もが沈黙していた。 だから、ロホは自分の心の声に――耳を傾けた。ロホが崖下を見下ろすと、雪の斜面にはわずかながら、赤と黒の影が散らばっていた。
「……下に降りる」 ファドとペガスを待機させ、ロホは慎重に斜面を降りていく。 崖下のくぼみに、粗末な天幕がひとつ――山賊たちの仮設の野営地だった。 中には、干し肉と酒瓶、そして…くたびれた絵本が一冊だけ、炭袋の横に置かれていた。 ロホは、ふと立ち止まり、それを手に取る。 表紙は剥がれ、ページは濡れてふやけている。 だが中には、幼い筆致でなぐり書きされた言葉が、かろうじて残っていた。 「父ちゃん、帰ってきたらまたこれよんでね」 「あかりをけさないでね」 「さむくないようにしてね」 ロホの指先が、ほんの一瞬、止まった。 そして、そっとその本を天幕の中に戻す。 「……そう」 雪の音だけが、辺りを包んでいた。 「“誰かの父”だったかもしれないのね」 声は出さず、ただ心の中で告げる。 剣を握るということは、誰かの何かを奪うこと。 そしてそれは、己の命をも刻むこと。 やむを得ず奪うことを選んだのか安易に選んだのかはロホには分からない。 ロホは、雪をかぶせるようにして天幕を覆い、ひとつ深く息を吐いた。ぺガスが静かに寄ってくる。
ファドが、不安げにロホの顔を覗き込む。 「……大丈夫、ロホ?」 ロホは首を振り、ただ短く告げた。 「行こう。“あの町”の上空に、まだ火は灯っているから」 ふたりと一頭は、再び北へと進み出す。 木々の間から、薄日が差し込む。 雪にわずかに反射して、まるで“灯”のように見えた。 ファドが、そっと聞く。 「ねぇロホ……“火”ってさ、どこまで届くの?」 ロホは答えず、ただ歩き続けた。 けれどその背中には、確かに“消えない灯”が揺れていた。ティレは、目を覚ました。
朝の光が差し込む部屋。 静かに燃える薪ストーブ。 そして、ロホが残した“灯”の魔法が、まだ淡くゆらめいていた。 「……あったかい」 枕元の母が、微かに咳をして、唇を動かした。 「……ティレ……、ありがとう……あたたかいわね……」 その声を聞いた瞬間、ティレの目に、涙が浮かんだ。 そして彼女は小さく、つぶやいた。 「ロホさん……あなたは、神様じゃなくて、火のひと」 そう言って、胸元のペンダントに触れる。 そこには、小さなヤマリンドウの花びらが一片、押し花にしてあった。ロホはそっと、剣の柄に指を沿わせた。
「わたしが憎むのは、剣を抜かせる“状況”そのもの。欲望や暴力よりも、“無関心”が生む凍てついた社会のほう」 そして、小さく呟く。 「……少し、歩こう」 その言葉で、ファドがぴょこっと顔を上げた。 ぺガスが雪を蹴り、ロホの傍へ歩み寄る。 白に染まる山道は、まだ続いている。 だが、そこにはもう、誰の足跡もなかった。 ロホはまた、歩き出す。 その背に残った静けさは、 誰かの祈りのように、雪の中に溶けていった。雪山を越えたその先に、また別の町が見えてくる。
ロホはふと、昨夜のティレの言葉を思い出す。 「迷宮都市に行きたい」 「……叶えばいい」とある東方の交易都市。路地裏に小さく店を構える、異国の武具職人のもとへ、ロホは偶然、足を踏み入れた。壁に並ぶのは、異国の武器たち。見慣れない細身の剣、湾曲した刃、短く美しい脇差し。その中で──ひときわ静かに、しかし不思議な存在感を放つ一本があった。白鞘に収められた、一本の──刀。ロホは、その刀に近づく。指先をそっと鞘に添え、静かに引き抜くと──細身で、美しくわずかに反った刃が、月光を受けて淡く輝いた。すう、と息を呑む。刃が鳴った。わずかに、まるで歌うように、空気を震わせた。ロホは、その瞬間、心のどこかで確信した。「──これは、“生きる”ための刃だ。」豪奢でもない。威圧でもない。ただ、一振り、一閃のなかに、生きるか死ぬかの覚悟だけが込められていた。ファドがそっと囁く。「ロホ……それ、好きなんだね。」ロホは、目を細めたまま答える。「……この刃は、無駄がない。 “必要なもの”だけを、研ぎ澄ました形。」彼女の声は、いつになく、優しかった。店主が、にこりと笑う。「それは、東の国で“刀”と呼ばれるものです。切る突く叩くが全て出来る命を断ち、命を守るためだけに、形を磨いた武器。」「一本を持った者は、何百の兵にも劣らぬと──そんなふうにも言われます。」ロホは、静かに刀を鞘に戻し、礼をして返した。そして、ぽつりと呟いた。「……いつか、これを手にする日が来るかしら。」ファドが笑う。「ロホが持ったら、また無敵になっちゃうね!」ロホも、少しだけ、肩を揺らして笑った。刀はまだ、彼女の手にはない。だが。心の奥深く、一本の刃が、静かに根を下ろした。それは、冬の終わりを告げる冷たい風が吹く頃だった。ロホは、東の山中、人里離れた小さな庵を訪れた。庵には、世にも名高い刀匠が住んでいるという。ただし、彼は気に入った者にしか刀を打たない。それも、金や名誉には一切動かないと噂されていた。戸を叩くと、中から現れたのは、白髪の老人だった。だがその目は、鋼のように研ぎ澄まされ、一瞬で人の芯を見抜く光を宿していた。老人は、ロホをじっと見つめると、ふっと笑った。「……ねぇさん。あんた、相当修羅場をくぐってきたね。」「しかも──やむを得ず、な。」ロホは、一瞬、身構えかけた。この世界において、ここまで深く、自分の“傷”を見抜い
緩やかな丘陵を越えた先。風に乗って甘い香りが漂う村に、ロホとファド、ぺガスはたどり着いた。小さな市では、袋詰めの胡桃(くるみ)が山のように積まれている。村人たちは誇らしげに言った。「ここは胡桃の名産地なんだよ!」ファドは、丸い殻を手に取り、くるくると転がしながら首をかしげた。「ねぇロホ、これ、どうやって食べるの?」ロホも、胡桃を手に取ってしばし観察した。すると、近くの村人が笑いながら教えてくれる。「ハンマーか割り器で叩いて割るんだ。 硬いから気をつけてな!」ロホは小さく頷き、懐から──なにも取り出さず。そのまま、胡桃を片手に挟み込むと。ぐしゃり。乾いた音とともに、胡桃は粉々に割れた。中から見事な実だけが、ころんと掌に残る。「……」村人たち、凍りつく。一人、また一人、顔を見合わせ、誰からともなく囁く。「……今、素手で割ったよね……?」「しかも、潰したってレベルじゃない……」「あの人、何者……」ファドは一瞬驚いたが、すぐに嬉しそうに声をあげた。「さすがロホー! すごーい!! もうオレにもやってやって!」ロホは少し首を傾げ、ファドにも胡桃を一個手渡した。そして──また、ぐしゃり。今度は音すら軽く、胡桃は割れた。ファドは両手で大事そうに胡桃の実を受け取った。村人たちは、ぽかんと口を開けたままだった。ロホは気にも留めず、普通に胡桃の実を頬張りながら言った。「香ばしくて、美味しいわね。」ファドもにこにこしながら頷く。「うん!ナッツってこんなに美味しいんだね!」ロホはふと思い、村人たちに問いかけた。「もしかして、……この方法、推奨されない?」村人たちは全力で首を振った。「無理です無理です普通の人は絶対無理です!!!!」その夜、村の広場では小さなお祭りが開かれた。胡桃の殻割り大会──ただし「素手部門」は廃止となった。だが、村の子供たちは、「銀髪のお姉さんみたいに強くなりたい!」と、張り切って胡桃割りの練習を始めたという。そして、誰もが噂するようになった。「あの旅人は──胡桃よりも、強い。」
町外れの、石畳の市場。賑やかに人が行き交う中、ロホとファドは、屋台の一つに腰を下ろしていた。香ばしい香りの立つ鉄板。手際よく焼き上げられる野菜と肉。旅の疲れを癒すには、これ以上ないご馳走だった。ふと、通りに面した道を、立派な馬車が通り過ぎた。金の縁取り、立派な紋章。馬車の窓から顔を出した男が、屋台の主に向かって軽く手を振る。「やぁ、元気か!」屋台の主は、鉄板を返す手を止めずに、にかっと笑って返した。「よぉ、相変わらず派手なこった!」馬車は、ひときわきらびやかに、市場の奥へと走り去っていった。ファドが、ぽかんと口を開けた。「ねぇロホ、今の人だあれ?」ロホは水を飲みながら、屋台の主に目を向けた。主は、豪快に笑った。「あれか? あれは俺の弟だ。 この町一番の大店の主さ。」ファドはさらに目を丸くする。「ええっ!? 兄弟なのに、こんなに違うの!?」屋台の主は、肉をひっくり返しながら、飄々と答えた。「あいつは昔から味オンチでね。 商売はうまいけど、食べ物の良し悪しはさっぱりだ。」肩をすくめながら、でもどこか、嬉しそうだった。食事を終え、礼を言って屋台を後にしたロホ。しばらく歩いても、彼女は珍しく、ずっと微笑みを絶やさなかった。ファドが不思議そうに尋ねる。「ロホ、どうしたの?そんなにニコニコして。」ロホは、街の喧騒を眺めながら答えた。「……自分の仕事に、誇りを持つ人は、素晴らしいわ。」その声は、焚火にくべた小枝のように、静かで、けれどあたたかかった。それは剣でも、魔法でもない。歩き続けることでもない。ただ一皿の料理を、一杯の水を、に人に届けること。それを、何より誇りに思う者がいる。ロホは、その事実に、の底から嬉しくなったのだった。
静かな町の広場。夕暮れの光が、赤く石畳を染めるなか。一人の学生風の若者が、旅人──ロホの前に立った。若者は、震える声で問いかけた。「ロホさん……ひとつ、教えてください。」ロホは、焚火に薪をくべながら、小さく顎を動かして促した。若者は、拳をぎゅっと握りしめたまま続けた。「一人を殺せば……殺人の罪に問われます。 でも、戦場で百人を殺せば英雄になる。 ──この違いは、なんなのでしょうか?」しばらく、沈黙。火が、ぱち、と爆ぜた。ロホは、ゆっくりと薪を押し込みながら言った。「……違いはないわ。」若者は、目を見開いた。ロホは、火を見つめたまま、続けた。「たった一人だろうと、百人だろうと。 命を奪えば、本来は、同じだけの重さを背負う。」「違いがあるとすれば── それを『称える者』がいるかどうかだけ。」ロホは、そっと掌を火にかざした。「戦いを命じた者、戦いを支えた者、彼らが、“都合よく”、英雄をつくる。」「でも、命を奪った事実そのものは、何も変わらない。」若者は、唇を噛んだ。ロホは、今度はその瞳を、静かに見据えた。「だから──」「殺した者が英雄と呼ばれたとき、その者自身が、己に問いかけなければならない。」「『私は、本当に誇れるのか』と。」若者は、言葉を失った。ロホは、立ち上がり、旅支度を整えながら付け加えた。「……称賛は、風と同じ。 吹けば形を変える。 消えることもある。」「でも、自分が奪った命だけは、永遠に、自分だけが覚えている。」だからこそ──英雄も、罪人も、本当は同じ孤独を抱えている。それがロホの、この長い旅路で得た答えだった。ロホは最後に、こう結んだ。「人は、世界の声よりも、自分の心に問いかけて歩かなきゃいけないの。」「そうしないと、たとえ旗を立てても、どこにも辿りつけない。」焚火の火が、ふうっと揺れた。ロホは、振り返らずに、また一歩を踏み出した。若者は、その小さな後ろ姿を、ただじっと見つめていた。胸の奥で、何かが静かに燃え続けていた。
小さな宿の、湯殿。湯気のなか、ロホは静かに、背を流していた。ぺガスは厩に、ファドは部屋で丸まっている。今この時間、彼女は一人きりだった。──そんな油断を突くように、闇が、湯殿に忍び寄った。男たちが、無音で扉を押し開ける。下賤な欲望を、醜く湛えた目。だが。ロホは、湯に映るわずかな影の揺れで、全てを察知していた。次の瞬間──湯に浸かったまま、彼女の指先が、髪をまとめていた簪を引き抜く。それは、細く鋭い、手裏剣だった。月光をはじくように放たれた刃が、先頭の男の喉を裂く。湯殿に、鈍い音と血飛沫が散る。裸のまま、ロホは湯から立ち上がった。無駄な動きは、一切ない。倒れた男の短剣を拾い上げると、まるで舞うように──次の男たちを、容赦なく仕留めていった。恐怖に駆られて逃げようとした最後の男の腕を折り、ロホは、冷ややかに問う。「誰の命令?」男は泣き叫びながら、一人の貴族の名を吐いた。それを聞き終えると、ロホは淡々ととどめを刺した。湯を払い、装備を整え、濡れた髪を乱れたまま、ロホは階下へと降りた。そこで彼女が見たのは──宿屋の家族が、無惨に横たわる光景だった。小さな子供も、老婆も、全て。ただ、貴族の「証拠隠滅」という理由で。ロホは、しばらく無言だった。ただ、剣を握る手が、静かに震えていた。それは怒りではない。悲しみでもない。──「理」。世界の歪みを正す、冷たく、確かな意志。その夜、月も雲に隠れた。ロホは、闇に紛れて、件の貴族の館へと向かった。警備を掻い潜ることも、正面から切り伏せることも、ロホにとっては、些細なことだった。館に踏み込み、恐慌する者たちを次々に制圧していく。そして。館の玉座で、震える貴族を見据え、ロホは静かに剣を構えた。一切の言葉も、赦しもない。「あなたは、自分で撒いたものを、刈り取るのよ。」ただ一閃。刃が閃き、館に沈黙が訪れた。夜が明けるころ。ロホは、町の外れに立ち、静かに一礼した。この土地の無念に、哀悼を捧げるために。そしてまた、誰にも知られずに──歩き出した。
ある日のこと。ロホは、旅の途中で立ち寄った町で、一人の若き書生に呼び止められた。痩せた手に筆を持ち、額には知識への飢えと苦悩が滲んでいた。書生は、ためらいがちに尋ねた。「ロホ様……教えてください。 武器を作る者は、効率よく殺すために励みます。 鎧を作る者は、武器を防ぐために励みます。 ならば、武器を作る者は悪人で、鎧を作る者は善人なのでしょうか?」ロホはしばらく何も言わず、近くの湧き水を手ですくい、掌からこぼした。そして、静かに言った。「……水に、善悪はないわ」書生は目を瞬かせた。ロホは続ける。「水は、喉を潤すことも、命を救うこともできる。 でも、流れを誤れば、村を飲み込んでしまう」「武器も、鎧も、同じよ。 それをどう使うかを決めるのは──手にした人間」書生は苦しそうに俯いた。「でも……武器を作った者は、その責任を負うべきではないのですか?」ロホは優しく、しかし厳しく答えた。「責任は、背負うべきよ。 でも、“善い武器”も、“悪い鎧”も、本当は存在しないの」「作った者が祈るのは、それが“誰かを守るために使われますように”──ただそれだけ」ロホは小さな木片を拾い、指で弾いた。「弓を作ったときも、私はそう祈った。 それが、誰かを傷つけるために使われるとは、祈らなかった」「でも──人は、祈り通りには生きられないものなのよ」書生は、ただ黙ってその言葉を聞き、そして深く、深く頭を下げた。ロホは最後に、そっと言った。「あなたが作るものが、誰かの命を守るものでありますように」そしてまた、静かに歩き出した。書生が、深く頭を下げたまま、しばらく動かなかった。やがて、手にしていた古びた筆と木片を胸に抱きしめ、ぎこちなく、でも確かな足取りで町の奥へと歩いていく。ロホはそれを、黙って見送っていた。肩の上、ファドがちょこんと座り直し、くいっとロホの耳元に顔を寄せる。「……ああいうの、ロホは好きなんでしょ?」小さなからかいの声。だけど、どこか、嬉しそうでもあった。ロホは、ふっと目を細める。「……好きよ。」素直に答えるその声は、どこまでも静かだった。ファドは得意げにしっぽをぴんっと立てた。「やっぱりなぁ~! ロホ、なんだかんだで“頑張る人”に甘いもん!」ロホは、わずかに肩をすくめた。「甘いんじゃないわ。ただ